光の指 一色真理 この冬はいつになく「光の指」をたくさん見ることができた。 * 意味は分からないのに、突然心の中に浮かんで、消えなくなる言葉 がある。子供のときからぼくはそうした言葉を、一冊のノートに書 きとめ、いつも肌身離さず持ち歩いてきた。 黒い表紙のそのノートを、ぼくはブラックブックと呼んでいる。ブラ ックブックのおもしろいところは、長い歳月の後に、その言葉の意 味に突然出会う場合があることだ。たとえば「光の指」という言葉 がそうだった。 * 真昼なのにどこにも太陽が見当たらない。頬を剃刀でそぐような風 が吹く中を、ぼくは見失った少女のゆくえを求めて、時を忘れて歩 き続けていた。手足がこごえて、もう一歩も進めない そのときだった。行く手をふさいでいた厚い雲のすきまから、突然 何本も太陽の光が降りそそぎ始めたのは。「光の指」。ブラックブッ クの中に十数年も前に書きつけた、意味不明の言葉がふいにぼくの 中でよみがえってきた。 光のおや指は赤レンガの倉庫の壁に、ひとさし指は鉄道の高架橋に、 なか指とくすり指は遠い高層団地に当たっていた。 ぼくはふと思っ た。あの指の下にいる人は、自分に「光の指」が当たっていることを、 はたして知っているだろうか? ぼくは、最後の「光の指」がどこに落ちているのだろうかと、探し てみた。それはどこにも見つからなかったけれど、ブラックブック にそのことを書いて、ノートをしまうと、ようやく一週間ぶりに父 と母の待つ家に戻る決心がついたのだった。 * あれからまた十数年がたって、ぼくはそのことをすっかり忘れてし まっていた。父と母も、ぼくの帰って行った小さな家も既にない。 ただ、ブラックブックだけはまだ、ぼくの鞄にあった。 今年の冬はいつになく、たくさんの「光の指」を見ることができた。 ぼくが再び、心をこごえさせて、道を見失っていたためだろうか? そして、ふいにぼくはあの日のことを思い出したのだった。 分かったのだ。あの日、ぼくがどうしても見つけることのできなか った、光の最後の指、その当たっていた場所が。そうだ。 その指は あのとき、 ぼくの頭上に降りそそいでいたのだ。ちょうど、 ぼくが 開いていたブラックブックの頁の、一つの言葉を指さしていたのだ。 「光の指」。