「ヒキヅナ」という漢字

要旨

 JIS X 0213:2000で収録された、2面84区15点(ひきづな:糸部5画)という漢字は、不適切な翻刻から生じた誤字であり、本来、(糸部4画、諸橋大漢和27301、u+25FA3)と翻刻すべき文字と考えられる。

芝居番付の収蔵状況

 JIS X 021310)は”「高瀬川恋(たかせがわこいのひきづな)」/ 文政二京都北・歌舞伎”と典拠を示す。解説(535p)の解説表7にソース一覧があり、そのうちの「33 歌舞伎番附(東京大学国文学研究室)」と「34 歌舞伎外題(飯島満氏)」のどちらかが典拠かと考えられる。
 該当する芝居番付の現物としては、4館に9枚の所在が確認できている。文政2年5月京都北側大芝居のもの。右図には国立音楽大学附属図書館 竹内道敬寄託文庫所蔵のものを示した。
国立国会図書館
請求番号 847-112 芝居番附集第二(戯場聚会譚)26冊目-12点目 1),4)
請求番号 847-115 芝居番附集第五(俳優扮名録)8冊目-58点目 4)
請求番号 847-116 芝居番附集第六(芝居栞)1冊目-16点目 4)
国立音楽大学附属図書館 竹内道敬寄託文庫
請求番号 M5-096(マイクロフィルム)、43-0010 2)
請求番号 M5-096(マイクロフィルム)、43-0011 2)
早稲田大学演劇博物館
請求番号 ロ21-00005-248 3)
請求番号 ロ21-00005-249 3)
請求番号 ロ21-00005-250 3)
東京大学国文学研究室
請求番号 22.6-13-308B 5),6)
 国会図書館蔵のもの以外6枚を閲覧したがすべて同一のものだった。たぶん、9枚すべて同一のものであろう。
 高瀬川は京都にある川。高瀬川の舟を引く「曳き綱」については落語「たちきれ線香」を聞くのが一番理解が早いと思われる。放蕩息子を京都に追放して「高瀬の綱曳き」にさせるというくだりがある(CDでは「米朝落語全集 第2集」(東芝EMI)に収録されている。活字に起こしたもの(『米朝落語全集 第四巻』16))もある)。

翻刻状況

 これらの翻刻状況を調べた。
『歌舞伎絵尽し年表』 1)
高瀬川恋
『Bibliography and index series 16 竹内道敬寄託文庫目録(その四)芝居番付の部』 2)
高瀬川恋
『早稲田大学演劇博物館所蔵特別資料目録3 芝居番付 近世篇(三)』 3)
高瀬川恋
『歌舞伎番付の総合調査とデータベース化の研究報告書 国会図書館蔵上方歌舞伎番付目録 近世篇』 4)
高瀬川恋
『東京大学国文学研究室所蔵 芝居番付目録〈本篇〉』5)
高瀬川恋
 JIS X 0213と同一の翻刻をするのは『東京大学国文学研究室所蔵 芝居番付目録〈本篇〉』5)のみであり、これよりJIS X 0213の典拠は、解説表7のソース一覧の「33 歌舞伎番附(東京大学国文学研究室)」だと考えられる。

翻刻は適切か?

 翻刻は目的によってさまざまになされるものであり、「唯一正しい翻刻」というのはありえない。たとえば、前述の翻刻はすべて「戀」を「恋」で翻刻しているのを見よ。
 しかし、一定の常識はある。たとえば右図の「ひと・はいる」という字の楷書と明朝体での差を見よ。明朝体の字形を楷書と同様の字形にすることは許されない(そのような字形が小学校の教科書用に使われることはあるが、例外である)。まして、そのような字を別字とはできない。
 『寄席文字字典』7)が技を「寄席文字」書体で書く際に「ヒキヅナ」の影印の「支」と同じ字形にする(37,70p)。しかし、明朝体にした場合には「支」の字にする。同様に枝(9,11,37,104p),岐(67p),肢(104p),伎(223p),妓(223p)も同様の部分字形で描く(なお、いわゆる歌舞伎文字(勘亭流)は、草書風の字体になるため、つくりの「支」を寄席文字のような字形にはしない)。
 明朝体以外の書体を、そのままの骨格で明朝体に持ちこみ、のように旁を5画に作るのは不適切だと考えられる。「支」に作るべきである。
 JIS X 021310)の解説の「5.1.2.4 字体についての採否基準」に「c)不安定な字体を避ける。同一の原典からの翻刻字体がまちまちである場合は、翻刻不安定として、それらの複数の翻刻字体すべてを不採用とする。」とある。また「b)他の書体との混同を避ける。筆写体・または別書体(例:隷体)が明朝体と混同されたものは採録しない。」とある。これらの両方もしくは、少なくとも片方には該当するような気もする。あるいは解説のc)にあるような「字体の精選に基づく再提案」があったのであろうか。

字書への収録状況

 は康熙字典(糸部4画)にもあり、諸橋大漢和にもある(親字番号 27301)。諸橋大漢和は『集韻』を引いている。『篇海』は『餘文』を引き同様の注文を付ける[京都大学図書館本の該当ページへのリンク]
 江戸時代に一般に流布していた字書(和玉篇)にも、この字は見える。筆者蔵本より、画像を示した13,14,15)
『四聲字林集韻』13)
『重[侵−イ+金]新増字林玉篇』14)
『増続大廣益會玉篇大全』15)
 いずれも「フ子ノヒキナハ(フネのヒキナワ)」と読みをつけている。
 『増続大廣益會玉篇大全』15)が「紋」に作る。誤記だとは思うが、『Bibliography and index series 16 竹内道敬寄託文庫目録(その四)芝居番付の部』 2)が同じように「紋」で翻刻しているのが、やや気になる。

まとめ

 このような不適切な翻刻字形から生じた「新字」がJIS X 0213:2000に収録されたため、UCSにもu+25FD4として収録された。誤翻刻が世界中に広まったことになる。この(2-84-15)は『東京大学国文学研究室所蔵 芝居番付目録〈本篇〉』5)を電子化する時専用の文字とするのがよいと思われる。
 文字規格には十分な同定情報があることが望ましい。JIS X 0208:199711)の附属書7と同レベルのものが、大漢和辞典に存在しない文字については必須であろう。たとえば、JIS X 0213:2000の1面94区31点(闘の「常用漢字表12)が言う康熙字典字形」)については豊島正之氏の論文8)が有用であるが、一般には流布していないのが惜しまれる。
 「ヒキヅナ」はJIS X 0213の公開レビューには含まれていなかった。このため、規格制定に携わったJCS委員以外は最終案の公開まで目にすることはできなかった。不適切な翻刻字形を規格に収録したのはすべてJCS委員の責任と言える(公開レビューにあれば、文句を言っているはず。「ベンゼン環」は収録を阻止できた)。後知恵になるが、公開レビュー後の文字の追加は避けるべきだったろう。

付記

 この歌舞伎「高瀬川恋」は、1シーズンのみの公演だった模様で、番付以外の資料を見出せなかった。詳しい情報をご存知の方は、ご教授いただけるとありがたい。
 なお、大阪の川柳家 食満南北(けま なんぼく)の歌舞伎に「高瀬川」があるらしいが、時期的に考えても別物だと考えられる。

引用文献

 Webcat書誌データへのリンクを参考として付記した。
1) 『歌舞伎絵尽し年表』,須山章信・土田衞編,桜楓社,昭和63年2月20日初版発行
2) 『Bibliography and index series 16 竹内道敬寄託文庫目録(その四)芝居番付の部』,竹内道敬監修,国立音楽大学附属図書館,1993年3月1日
3) 『早稲田大学演劇博物館所蔵特別資料目録3 芝居番付 近世篇(三)』,早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編,早稲田大学坪内博士記念演劇博物館,1994年4月15日発行
4) 『歌舞伎番付の総合調査とデータベース化の研究報告書 国会図書館蔵上方歌舞伎番付目録 近世篇』,園田学園女子大学 近松研究所,園田学園女子大学 近松研究所,平成5年3月31日刊行
5) 『東京大学国文学研究室所蔵 芝居番付目録〈本篇〉』,池山晃・佐藤知乃編,日本学術振興会,2000年6月30日発行
6) 『東京大学国文学研究室所蔵 芝居番付目録と影印』,池山晃・佐藤知乃編,日本学術振興会,2000年(CD-ROM 2枚組)
7) 『寄席文字字典』,橘右近,グラフィック社,平成13年10月1日復刻版発行
8) 『文字の符号化−新JIS漢字第3・第4水準の開発から見た−』,豊島正之,『京都大学大型計算機センター 第64回研究セミナー報告 東洋学へのコンピュータ利用』3-18p所収
9) 『京都大学大型計算機センター 第64回研究セミナー報告 東洋学へのコンピュータ利用』,京都大学大型計算機センター研究開発部,京都大学大型計算機センター,平成12年3月発行
10) 『7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化拡張漢字集合 JIS X 0213:2000』,日本規格協会,平成12年2月29日 第1刷発行
11) 『7ビット及び8ビットの2バイト情報交換用符号化漢字集合 JIS X 0208:1997』,日本規格協会,平成9年2月28日 第1刷発行
12) 『常用漢字表 現代仮名遣い 外来語の表記(付 人名用漢字)』,大蔵省印刷局編,大蔵省印刷局,平成4年7月6日発行
13) 『四聲字林集韻』,鎌田禎,天保12年3月12刻,著者蔵本
14) 『重[侵−イ+金]新増字林玉篇』,鎌田禎,寛政9年11月,著者蔵本
15) 『増続大廣益會玉篇大全』,毛利貞齋,元禄4年刊,安永9年再刻,著者蔵本
16) 『米朝落語全集 第四巻』,桂米朝,創元社,昭和56年7月10日第1版第1刷発行

履歴

2003年2月15日 公開
2003年2月16日 引用文献の「米朝落語全集」の出版社、『四聲字林集韻』のWebcat書誌データを追加

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