◎中国の小学校に行った
日本にいるときから行ってみたくてしかたがなかった中国の小学校をとうとう訪れることができた。
ちなみに、わたしの派遣期間中の目標は、「中国の学校で」「中国語で」「日中の関係に関する」授業をすることである。全部は無理としても同時に2つはクリアしたいと思っている。
訪問させていただいたのは日本人学校から車で5分ぐらいのところにあるT小学校である。大連日本人学校小学部はこの学校との交流会を学期に一回ずつ行っている。
当日までT学校がどこにあるのか全然わかっていなかった。しかし、何といつも買い物に行く市場のすぐそばであった。その建物自体は何度も目にしていたのだ。それにしてもそれが小学校だとは今まで気がついていなかった。
中に入ってまず驚いたのは子どもの服装である。セーラー服が制服になっている。といっても日本の女子高生のそれではなく、本当の水兵さんのあの白いセーラー服である。水色の襟には赤いスカーフを巻いている。これは中国共産党の子ども組織の印だそうだ。これは子どものあこがれで、3年生になるとほぼ全員が赤いスカーフを巻くことができるが、2年生、1年生でも成績優秀な子は巻くことができるという。
次に驚いたのが子どもの数の多さである。
一学級に70人前後いる。二人続きの机が縦に9列、横に4列ある。つまり2*9*4=72である。かなり大きい教室だが横も後ろも隙間はない。
教室の後ろの黒板には、どの学年のどの教室にも「香港が返ってくるまであと何日」という書き込みがある。掲示してある子どもが書く習字の題材も「香港回帰」とか「想香港(香港のことを考える)」の字が目立つ。(そういえば北京で見た革命博物館の、香港が帰ってくる7月1日の午前0時までの秒読みカウントダウン時計に、「中国政府 対香港回復行使主権 倒計時 距1997年7月1日」と書かれていた。これは「中国政府が香港に対して主権を行使できるようになるまでの時間は」ということになる。「帰ってくる。良かった良かった」ではないところに注目したい。あくまでも「主権を行使できるようになるまでの時間」をカウントダウンしているわけである。)
そしてもっと驚いたのが子どもの様子である。
2年生(日本と同じで8歳)の教室は自習時間だった。なんと7時間目の授業時間中(一時間は35分授業)である。
ところが全員しーんと静まり、それぞれの課題をやっている。背筋がぴーんと伸び、一人も姿勢が崩れていない。黙々とやっているのである。
日本の子どもとは全く違う。
日本の2年生ともなれば、立って歩く、おしゃべりする、そしてしまいには鬼ごっこを始めるのが普通である。だいたい7時間授業には耐えられないだろう。疲れて眠る子どもも出てくるはずである。
思わず「先生がいないのに、どうしてそんなに立派にできるの?」と聞いてみた。通訳がそのことを子ども達に問いかけると、窓側にいた女の子が一人すっくと手を挙げた。
彼女は「先生がいるときといないときで態度が変わるのはうそつきで、悪い子です。本当のいい子はいつでもしっかりできるのです」と答えた。この答えにも舌を巻いた。教育の力は本当に大きい。
T小学校は全校児童2000人。教員が80人、そのうち9名が男性である。一部教科担任制があるようだ。
廊下に全職員の顔写真がブロマイドのように掲示されている。若い女性が(それも美人揃い)が多いので、思わず見とれてしまった……。
中国では小学校の教員にはあまりなり手がないという。
中学校を卒業すると高校に進むか、師範学校に進むか、それとも働くかの3つの進路がある。成績優秀者は当然高校に進む。学力を高めることが自分の将来を開かせる最も良い道であることを誰もが知っているからだ。
師範学校は専門学校のような位置づけらしい。その師範学校を卒業した者が小学校教員になるわけである。師範学校を出て中学校や高校の教員にはなれない。
◎プレイステーションが死んだ日
待ちに待った荷物が届いた。
わたしは靴を、妻は服を、そして息子はプレイステーションを一番待っていた。わたしの「靴」というのは革靴以外は北海道の冬靴しか持っていなかったためである。あまりの暖かさの中、冬靴を履き続けているのは大変辛かったのだ。
さてプレイステーションである。
夜にさっそく一緒に届いたテレビデオと一緒に接続し、動作を確認してみた。大変きれいに映る。良かったー。壊れていなかったー。すぐにでもやりたがる息子を「明日ちゃんとお勉強したらやっていいよ」と制し、その日はそれで終わった。
次の日、わたしもプレイステーションを楽しみにして学校から帰ってきた。
すると……プレイステーションは……死んでいた……。
聞くところによると、息子は帰ってきてそそくさとお勉強をしたという。もうプレイステーションをやりたくてやりたくてしかたがなかったからだ。さっさとそれを終わらせ、さっそくプレイステーションをやるべくコンセントにつないだ……つないだ……。220Vのコンセントに……。
プレイステーションは白煙を上げて死んでしまった……。大連に発つ前日、東京でも買ったあのゲームCDは何の役にも立たなくなった……。変圧器を通した100Vのコンセントにつなぐことは教えていなかった。息子は日本と同じ感覚でどのコンセントでもいいと思ったのだ。それは当然だ。白煙を上げたプレイステーションの前で、息子は30分間、大泣きしたという。
息子とわたしが日本からの援助物資で今一番ほしいものは、日本の調味料でも泡盛でもなく、プレイステーションである……。中国では売っていない……。
◎遠足
5月16日が春の遠足予定日である。ところがこれまでのピカピカ天気が嘘のように5月11日から雨が降り続き、とても寒い日が続いていた。わたしの自宅は集中暖房のため、もうとっくに暖房期間が終わっている。エアコンを動かしてみたのだが壊れていて、少しも暖かくならない。結局ホテルから電気ストーブを借りて暖をとった。
遠足の二日前の5月14日。
このままでは遠足ができない可能性が大きい。そこで3年生でてるてる坊主を作ることにした。
それもただ作るだけではつまらない。特大てるてる坊主を作ることにした。とはいっても新聞紙を丸め、模造紙を張り合わせた大きな白い紙で包むという簡単な作業である。一時間もしないで完成。てるてる坊主の下には「遠足は晴れ!」と書いた紙をつけた。
さっそく玄関先にぶら下げた。ところで中国にてるてる坊主はあるのだろうかとふと思い中国人職員に聞くと、やはりないとのことである。それに代わるものもないという。ところが日本のてるてる坊主は知っていた。どうしてかと思い聞いてみると、何年か前に中国のテレビでアニメ「一休さん」を放送したのだ。「一休さん」は、てるてる坊主を中国に紹介した最初の番組といえるかもしれない。
遠足当日。
当日は風が強かったもののピカピカお天気。
特大てるてる坊主の面目躍如であった。てるてる坊主を知らなかった民航療養院の服務員さんも「すごいききめだ」と中国語で言っていた(と思う)。
なおこの特大てるてる坊主は、その日の夜のごくろうさん会に文字通り大きな顔で参加し、ちゃんとごくろうさんの御神酒をもらった。
◎保存版 中国語のわからないあなたのためにお教えする、市場で買い物する方法
これで中国語を知らないあなたでも立派に買い物ができます。
◎ケンタッキーフライドチキンは辛い
初めてケンタッキーフライドチキンに入った。こちらでは「肯徳基」と書かれている。正確にいうと「徳」の字は、「心」の上に横棒が一本入った日本にはない漢字である。
カウンタの造りもメニューも日本にあるのと同じである。ただ、当然のことながら全て中国語で書かれている。もちろん英語は通じない。おそらく中国で英語を少しでも理解できる人は、日本でフランス語を少しでも理解できる人よりも少ないだろう。
そんなわけで、あれこれとめんどうな注文はせずにセットメニューの3番を選んだ。チキンフィレサンド、ポテト、コーラのセットである。これで18元(=270円)。
ものすごく込んでいる店内。例によってどこかが空こうものならサッと横入りをして座ろうとして待っている人たち。先日の明の十三陵のことがあるので、わたしも顔面に恐さを漂わせながら空きそうな4席続きの真後ろで待っていた。
やっと空いたそのとき、どこかのおばさんが座席の背をさっとつかんで離さない。こちらも妻がまだ後かたづけもされていない油ぎとぎとのテーブルに自分達のトレーを強引に置く。おばさんが私に何か言っている。おばさんは何か言いながら、抜け目なくもう一つの手で自分のかばんを向かい側の席に置いた。 さあ、戦いが始まる。
おばさん「なんたらかんたら」
わたし 「お前がここに座るってか? 俺たちがずっと待ってたべや」
おばさん「なんたらかんたら(目が三角になっている)」
わたし 「あー? だからずっと待ってたって言ってるべ!」
こういうときに中国語を話そうとしてもだめである(といっても話そうにも話せない)。思いっきり北海道標準語で、ただし語勢は伝わるように話した。ところが一歩も引かないおばさん。いつまでもガンつけ合っていてもしかたがないので、ここは礼儀正しい日本人を発揮し、おばさんに席を譲った。4人掛けのテーブルのそれぞれの座席は、わたしと息子で一つ、妻、おばさん、おばさんのかばんがそれぞれの席を埋めている。
不自由な体勢でフィレサンドを食べ始めた。
辛い!
びっくりした。中華料理はずいぶん辛いものが多い。それでケンタッキーでも中国人の舌に合わせて辛くしてあるのだろう。それにしても心の準備がないときに思いもよらない味がすると、人間、本当にびっくりするものだ。
そうこうしてパクついているとき、妻がさりげない様子でおばさんにこう言った。
「そこ、空かないんですか?」 もちろん日本語である。語勢は穏やかで、しかも指差しつき。おばさんは素直にかばんをどけ、息子が座るのを許した。
「謝謝」 と言うと、照れたように「不用謝(ブーヨンシェ どういたしまして)」と言った。なんだ、いいおばさんなんじゃないか! 明の十三陵でのあの人々から受けた悪印象を引きずっていた自分が恥ずかしくなった。
帰り際に「再見」というと、おばさんはなにやら照れたような顔で「再見」と言ってくれた。
◎團伊玖磨氏が来る
大連日本人学校は昨年11月に校歌ができた。この校歌には大変力が入っており、作詞が「アカシアの大連」という小説で芥川賞を受賞した清岡卓行氏、作曲があの團伊久磨氏である。
さて、その團伊久磨氏が5月28日に大連日本人学校に来ることになった。もちろん校歌を披露しなければならない。音楽担当教師はかなりのプレッシャーを感じているようで、「どうしよう。どうしよう」を繰り返している。
学校では19日から全校児童・生徒の校歌の練習が始まった。
ところでピアノの伴奏も問題である。当然楽譜通りに弾かなければならない。我々がよくやるように、「むずかしいところは簡単な指づかいで」というのはだめである。何といっても作曲した本人が聴くのだから。
外部の人を頼もうか、学校内で何とかしようか全職員でしばらく悩んだ結果、毎日ピアノの前で猛特訓してくれていた幼稚部のY先生が引き受けてくれることになった。それにしても毎日何時間も練習している。全く頭が下がる。