◎ハゲワシと少女の授業 小学校編

  1 はじめに

 とにかく、インパクトの強い写真である。ケビン・カーターという一人のカメラマンが一人の飢餓に苦しむ少女を助けることより写真撮影を優先したという事実、現場であるスーダンの状況、そこから彼の行動の是非を考えさせていくのも十分に意義のあることであろうと思う。

 しかし私は、写真そのものを子どもたちに提示することに決めた。そして写真にまつわるストーリー(世界中から彼に寄せられた非難、そして彼の自殺)には出来るだけ触れないよう心掛けることにした。これは写真以外の情報が、写真そのものを見つめる集中力を薄れさせると考えたためである。

 次に、私はケビン・カーターに浴びせられた「なぜ少女を助けなかったのか」という批判の「助け」るという行為の内容を精査してみた。

 この批判にある「助け」るとは、どういう行為を指すのであろう。考えられることはおそらく次の三点である。

一 ハゲワシを追い払う。

二 その場で食料を与える。

三 食料配給センターまで連れていく。

 しかしこれらで本当に「助ける」ことになるのだろうか。

 右記の三点(のいずれか)をすれば、確かに写真の少女だけは助けることができる。しかしこのような少女は一人だけではない。この写真の少女はスーダンの現状の象徴であって、すべてではないのである。この子だけを「助ける」行為をしても、スーダンの現状は変わらない。ハゲワシを追い払い、なんらかの方法で食料を与えたとしても、それは単なるその場限りの対処療法にすぎないのではないか。写真の少女を単なる個人としてではなく「象徴」としてとらえさせたい。「なぜ助けなかったのか」という素朴な疑問を大切にしながら、もっと別な「助ける」があるということを考えさせたい。私はそう考えた。 学級は五・六年生(複式)十名である。

2 授業の流れ

@ハゲワシは何を狙っているか?

 まず、ハゲワシのイラストを提示した。

「ハゲワシ?」

「ハゲタカかな。」

『よくわかったね。この鳥は、ハゲワシという鳥です。ところで、ハゲワシは、何を食べるか知っていますか?』

 「死んだ動物」という答えが即座に返ってくる。ほとんどの子が、テレビでライオンなどの死骸をついばむ様子を見た経験があるということであった。

 次に、A1サイズに拡大コピーした「ハゲワシと少女」の少女の部分を隠して提示した。

このハゲワシの狙っている獲物は何でしょうか。

 どの子も隠された部分に、動物が死んでいるか又は、死にかけている様子を想像している。 そこで、覆っていた紙をはずすと少女の姿が現われる。

「えーっ!?」という驚きの声が上がった。

「人間だ!」

「病気なの?」

「死んでるの?」

「男の子?女の子?」

 これらの質問に答えて、この子が女の子であること、まだ生きていること、タイトルが「ハゲワシと少女」である ことを知らせた。

「写真撮ってる人がいるんでしょ? その人は助けなかったの?」

とりあえず彼が写真撮影後ハゲワシを追い払い、少女が歩み去るのを確認したことのみを知らせた。あとは授業を終えたとき、少女を助けなかった彼の心情を各自が考えられれば良いと考えたからである。そして、次のように発問した。

もしも、あなたたちがこの場所でこの少女を目の前にしたら、何ができますか。

「食べ物や水をあげる。」

「家族や仲間のところに連れていく。」

「日本へ連れていってあげる。」

 サハリンのコンスタンチン君の治療を思い出しての発言である。

「怖くて逃げ出すと思う。」

 これはこれで、正直な意見であろう。

Aたくさんの「少女たち」のいる国

『この少女を助ける人はいなかったのでしょうか?』

「写真の後ろのほうに、村のようなものが見えるから、きっと仲間に置き去りにされたんじゃないかな。」

「伝染病がはやったんだよ。」

「みんな死んじゃったのかな。」

 ここで、乾いた大地のほうに目を向けさせた。

「日照りが続いて食べ物がなくなったんだ。」

『さっき、アフリカだといったけど、何という国かわかりますか。』

 残念ながら、国名までは出てこなかったので、スーダンであることを教えた。

「戦争やってる国だ。」

「小学生が徴兵された国!」

「内戦なんだよね。」

 以前に、新聞記事について学級で話題になったことを思い出したようである。

『このような少女がたくさんいる国へみなさんを案内します。』

 全員を図書室に連れていった。図書室には、あらかじめB4サイズの同じ写真のカラーコピー二〇枚が、いたるところに貼ってある。どっちを向いても少女の姿が目に入る。

「うわー!」

「いっぱいいる。」

 驚きの声をあげながら、一枚一枚写真を見てまわる。

『こんなにたくさんの少女がいたら、どうやって助けてあげたらいい?』

「全員に食料を配ってあげる・・・?」

『あなたがこの国にいったら、そんなことできますか。一人一人に食料を配ってあげられるかな。』

「できない。」

『全員日本に連れてこられますか。』

「無理だと思う。」

『じゃあ、さっき考えた方法では、あの少女一人は助けられるかもしれないけど、ほかの少女は助けられないね。』

 ここで、みな一様に考え込んでしまった。「助ける」という行為を具体的に考え始めたのである。最初に写真を見たときに感じた「助ける」と、今考え始めている「助ける」には質の違いがある。子どもたちは、写真の少女の持つ象徴の意味を感じたとったのである。

B誰が少女を救えばよいのか?

それでは、誰がどうやって、この少女たちを救えばよいのですか。

「この国の大統領が戦争をやめさせたらいいと思う。」

「日本から、食べ物をいっぱい送ってあげる。」

「病院だとか、この人達の世話をする施設を作ればいい。」

「募金とかすれば、この国にも送られるんだよね。」

 話し合いのあと、教室に戻って自分の考えを原稿用紙に書かせて授業を終えた。考えを文章にまとめる際、『誰が』『どうやって』を明示的に書くように指示しておいた。大別して、三つのパターンに別れた。

○自分、もしくは自分も含めた日本人が、募金や寄付などの援助をする。

○この国の政府が内戦をやめる。そのために、各国首脳が調停に入る。

○子供達の家族や村の仲間が、見捨てないで面倒を見る。

 その他、この写真の少女にこだわり、問題を一般化できないまま、カメラマンが助けるべきだったという意見もあった。

3 授業を終えて

 この授業のあと、スーダンの現状について、もう少しくわしく説明した。

 百万もの人々が飢餓に苦しみ、この村だけでも、毎日一〇〜一五人の子供が死んでいること、食べ物を与えても食べることすらできず、ただ死を待つだけの子が大勢いること、内戦のため他国からの救いが届かないこと、カメラマンも命がけでこの国へやって来たことなどを話した。特に、カメラマンが昨年七月に自殺したという話は、みんな興味深そうに聞いていた。

 次の日、教室でこんな声が聞かれた。

 「先生、ハゲワシの授業はもうやらないの?」

 「また、ああいうのやりたいな」

 「今度は、あのカメラマンが少女を助けたほうがいいかどうかディベートやろうよ」

ケビン・カーターの写真が、子供たちの心に強く印象付けられたことは確かである。