Stardock の OS/2 史

By

Brad Wardell


(訳注:これは http://www.stardock.com/stardock/articles/article_sdos2.html にある "Stardock's OS/2 history" の私訳です。 というかけっこう意訳です。 しかも無断翻訳。 訳文の正確性についてはまったく保証外ですので、納得いかない方はとりあえず原文にあたってみてください)

この週末、二階にあった私の仕事部屋から地下の新しい「研究室」に荷物を移すため、妻と私は「資料」を箱詰めにしていた。 見つけたもののいくつかに私は驚いたのだが、そんなものを持っていたのをずっと忘れてしまっていたからだ。 腕時計に財布、高級ペン、置き時計といった、IBMからのもろもろの贈呈品。 あれからいろいろあったのだと私は思わずにいられなかった。

すべての企業には、設立過程と目的についての独自のストーリーがある。 ほとんどのテクノロジー企業はこんにち、ベンチャーキャピタルから出資を受け、一攫千金を夢見て市場に飛び込んでいくようである。 創業者はふつう、彼らがうまくいくと考えるなにものかを見、資本を得てそれを追求する。 Stardock の歴史はまさに二部――OS/2 Stardock と Windows Stardock にわけられる。 なぜなら二者の間で多くのものが変わったためであり、この小文では OS/2 Stardock のことを語ることにする。


Stardock 製品年表


1993-1994 : はじまりは…

OS/2 Stardock は1993年に生を受けた。 私は大学生で、電気工学の学位を取ろうとしていた。 極めて慎ましやかな出自であり、学費を払うのはかなり難事だった。 そのために私は当時、三つの仕事をこなしていた。 ひとつめの仕事は、電気工学過程での実験指導員および臨時代用教官。 二つめの仕事は、地学科で教授の助手として、そこでは実のところ科のマック研を管理させられていた。 最後の仕事は、パーソナルコンピュータをパーツから組み立てることだった。 この仕事が "Stardock Systems" の管轄下にあった( "Stardock SYSTEMS" という社名のいわれは、そういう訳である)。 このPCは OS/2 がプリイントールされていた(私は物置に走っていき、OS/2 2.1 を引っ張り出して、マシンにイントールするのだった)。

人々が OS/2 狂について語るとき、私は多くの点で最大級の OS/2 狂だった。 大部分の熱中屋はただ大口を叩くだけだったが、私の入れ込みようはその域を遠く超えていた。 私は21歳のナイーブさで、ひとりの力で「OS戦争」に新局面を作り出せると信じていた。 1993年6月、OS/2 がゲームのよいプラットフォームたりえるかという Usenet の comp.os.os2.advocacy 上で起こった論争、そして comp.sys.ibm.pc.games.strategic での友人たちとの話のあと、私はゲームを書こうと決めた。 どれぐらいキツかったかって?  やりもしないうちは何でもできそうな気がするもので、すぐさま大量の仕事があることを思い知った。 私は "Teach Yourself C in 21 days" と "OS/2 2.0 PM programming" という本を買った。 それ以上の経済的余裕がなかったため、私の作ったゲーム、Galactic Civilizations、その中にあるすべてがこの二冊でまかなわれたのだった。

一例をお目にかけよう――GalCiv on OS/2 では、個々の宇宙船は実のところ SS_ICON スタイルの普通のウィンドウである。 それで、あなたがこのゲーム中で船を動かすとき、私はたんに WinSetWindowsPos を使って船を X,Y の座標に動かしている。 それそのものとしての「グラフィック」はまるで存在せず、すべてアイコンが動き回っているだけ。 それというのも、先の2冊以上のものに手が出せず、そしてそれらの本がグラフィックプログラミングをカバーしておらず、アイコンとウィンドウ移動だけだったからなのだ。

次の年いっぱい、授業と講師、そしてその外の仕事の合間をぬって、私は Galactic Civilizations を書き上げた。 私は Gabriel Vizzard というIBMマンの目に留まったのだが、彼も私のように、DOS/Windows を押しのけて OS/2 が主流OSとなることを夢みていた。 彼は、私を手助けしてくれる多くのIBMの人々と私との間の橋渡しをしてくれた。 彼らは C/Set++ のような「本物の」プログラミングツールを提供し(GC 1.0 はほとんど GNU でやった。フリーだったので)、多くの異なった人々に私を紹介した。 それらの人々のうち何人かは、我が社の歴史の一助となってくれた。 のちにはIBMを去り、Serenity という自分の会社を始めることになる Bob St. John のような人々は、「実社会」がどのように動いているのかを教示してくれる上で非常に重要だった。 接点のすべてが上首尾だったわけではなく、私が受けたレッスンのいくつかは非常に高くつくことになった。

たとえば、Galantic Civilizations の「販売」を打診してきたかの会社は、そういったことについて実際の経験も全くない人物が始めたものだと明らかになり、本格的な販売能力もなかったのであり、そういったことが GalCiv の一件で露見したのだった。 もちろん、彼が「まともな会社」だというふりをすることを私がとやかく言えはしない。 IBM幹部とのとある会合で、私は寄宿舎の自室に座り、「GalCiv は、目下製作中にある唯一の OS/2 ゲームなんでしょうか?」と訊ねた。 IBM側の人物が答えた「ああ、別のゲームはありますが、それは大学生の坊やみたいな奴が作っているんですよ、はっはっは、それで私どもとしては、その件についてあまり信を置かないようにしているのですよ…」 「あははは、ええ、大学生の奴らですね、信用できませんね…」

(その学生ゲーム、OS/2 用フライトシミュレータはまったく完成しなかったので、この場合は彼らが正しかったのだが)

95年初めの CeBIT に展示された OS/2 for PowerPC。 一度も陽の目を見なかった OS/2 プロダクトに、OS/2 の独立ソフトウェアベンダー (ISV) がどれほどの精根と時間を注ぎ込んだか、今の OS/2 ユーザのほとんどにはまったく想像もつかない。

1995 : OS/2、その高みに到る…

GalCiv/2 1.0 のなし崩しは有意義な教訓となり、OS/2 ソフトを開発するだけでなく販売するため動機となった。 もし、じゅうぶんな品質の OS/2 ソフトウェアがありさえすれば、そのソフトが OS/2 の「立場」に変革をもたらすような、本格的な営業販売がなされると私は信じていた。 我々の「販売業者」は印税をまったく支払わなかったのだが(長い話だ、と言っておけば、GalCiv 1.0 を「販売」する人物に対して私と妻が言った、あまり親和的とはいえない言葉を語るに十分である)、ふたつのことが我々を救った。 ひとつめは、Shipyards という一本15ドルの GalCiv 追加パッケージが何千部も売れたこと。 これは次の製品である OS/2 Essential への十分な資金となった。 ふたつめの出来事は、IBM が GalCiv を元にした Star Emperor を IBM Funpak にライセンスし、投資のための少なからぬ資本ができたことである。

こういったことすべてが、ちょうど起こるべきときに起きた。 私は、やはり OS/2 狂である Kurt Westerfeld と友達になっており、そのころ彼は KWQ/2 という強力な Fidonet 用ニュースリーダをリリースしていた。 彼は WPS(ワークプレースシェル)開発のエキスパートになっていた。 我々は共に、OS/2 のオブジェクト指向シェルが OS/2 の「キラーアプリ」であるとの見解に立った。 もし我々がしかるべきプログラムで OS/2 シェルの力を用いれば、多くの人々が OS/2 に乗り換えるだろう。 1995年秋、Star Emperor で得た資本を使い、Object Desktop を出荷した。 これはその後ずっと、最もポピュラーな OS/2 プロダクトのひとつになった。 多くの人々にとって、Object Desktop なしに OS/2 を使うことは耐えがたいことだったのだ。 それは OS/2 に欠けていたピースを完全に埋めるものであり、OS/2 にできることの明解なデモンストレーションとなった。

その年の暮れ、我々は Galactic Civilizations の権利を取り戻し、Galactic Civilizations 2 という続編として、我々自身の手で販売した。 このふたつのプログラムが、Stardock の OS/2 売り上げのほぼ大部分と言えるだろう。

これらの製品の成功を受け、よい OS/2 ソフトをもっと獲得して梱包すべく、我々は探索を開始した。 Avarice や Trials of Battle、Process Commander、PMINews といったサードパーティ製ソフトや、その他いろいろのプログラムを販売した。 我々も OD Professional や PlusPak、Entrepreneur といったもの、そしてほかにも OS/2 ソフトを開発し続けた。 全部で1ダース以上の OS/2 製品が作り出された。

1996 : 終わりの始まり――擁護の限界

1996年が始まり、いまだ若い企業であり、金と己惚れの詰まった Stardock は、OS/2 が絶好調だと考えていた。 このとき IBM で何が起こっていたのか、我々は知る由もなかった。 IBM は Workplace OS というプロジェクト(後に OS/2 for PowerPC と呼ばれる)に取り組んでいた。 このプロジェクトは何年もかかり、しかもほとんど結果が出せずにいた。 もし OS/2 for PowerPC が1995年秋の Comdex までに完成していなければ、PSP(訳注:パーソナルソフトウェアプロダクト、とか何とか…要は小売向けソフトということだと思うのですが、どうなんだろ)はおしまいだと IBM 最高幹部は通告を発していた。 彼らはそれを作らず、OS/2 の命運は決した。 しかし我々がそれを知るのは少し後のことである(私がこう打ち込んでいるときさえ、これを認めないユーザがごまんといる。私自身、1998年に至るまで認めなかった)。

1996年初頭、私と CDS、そして Indelible Blue にいる友人という、発言力があり、成功した OS/2 ISV の3社が集い、「32ビット同盟」を結成した。 我々はいくつかの OS/2 ISV をとりまとめ、OS/2 の全面広告を出すための宣伝費を共同出資した。 小売/卸の面では、OS/2 ソフトの小売を促進すべく、Blue Orchards という新会社を通して "Warpware" というようなものを組織した。 不幸なことに、1996年中頃までにはすでに OS/2 の SOHO 市場が微々たるものとなり、ほとんどの小売 OS/2 ソフトは死に絶えた。 わずかばかりのものが(Partition Magic、GalCiv、ObjectDesktop、Back Again/2、Performance Plus、それから System Commander)成功し、いっぽうそれ以外はごくわずかな本数しか売れず、数ある要因の中でもとりわけそのことが、Blueware(いくつかの OS/2 ISV、なにより Stardock に多額の借金)を破産へと導いた。

32ビット同盟の告知

(広告をスキャンしたバージョンを探してみる気なら、そちらのほうがずっといい)

べつの告知

これは痛い教訓だった――擁護の限界である。 思い入れをビジネスの判断基調に置いてはならないのだ。 狂信者によって設立され、狂信者を雇い入れた企業は、OS/2 の市場現実をなかなか認めなかった。 しかしこのエピソードが、事態は我々の思ったようなバラ色のものではまるでないことを肝に銘じさせた。 我々は依然として、「ああ、高すぎたからダメだったんだ」とか「そんなに出来がよくなかっただけだよ」とか何とかお決まりの否認を続けていた。 しかし我々はつまるところ、自分たちが信じてきたほど多数の OS/2 ユーザがいないことに思い至りつつあった。 たとえば、1996年の OS/2 Magazine には3万人未満の購読者しかいなかった(献本含む)。 推定1400万ユーザを抱える市場のなかで、これが統計的に有望な一例でないことは明白だ。

ぎりぎりのところでこの教訓に助けられ、次のメジャーゲームである Entrepreneur を、OS/2 限定ではなく Windows と OS/2 の両方にするという方針を固めた。

1996年の終わりまでは、IBM が関与している限り OS/2 がまだ続くことは「事情通」の人々とって明白なことだった。 Warp 4 は「まあこんなとこで、我々はここからおさらばさせてもらって、全部 JAVA で作ったら皆さんのところに後で出しておきますよ」といえるだけのリリースではなかった。

1997-1998 : OS/2 市場の黄昏

1997年は我々にとって散々な年だったが、それというのも、前年の秋に出た Windows NT 4.0 に OS/2 ユーザが切り替え、OS/2 ソフトの売り上げが激減したためである。

事態の光明が全く見えない1998年、Entrepreneur が世に出ると、何もかもが変った。 Entrepreneur、その Windows 版は至極うまくいき、Object Desktop for Windows を完成させる時間を稼いだ。 1998年中頃、我ながら思いもよらぬことだったが、私は OS/2 Warp 4 から Windows NT に切り替えた。

OS の切り替え(バージョン番号のではなく、まったくの新 OS への)というのはなかな劇的だ。 私が最初に実感したのは、1998年までに OS/2 がどれほど遅れをとってしまったのかということである。 仕事上でより広範にコンピュータ利用する際、OS/2 をこんにち採用し続けることがどれほどの損失かということに、ほとんどの OS/2 ユーザはまったく思い至らない。 典型的な反応は「あんなのは必要ない」あるいは「こういう機能は Windows にはどうやってもできないから」だが現実は大違いなのだ。 たとえば私はリビングのカウチの上で、自分のラップトップで、まったくケーブルもつなげずにこの文章を打ち込んでいる。 Intel Anypoint のおかげで私はずっとインターネット上にいるのだ。 この種のことを OS/2 では行えないし(非常に高価なワイヤレス LAN をセットアップしなければ)、可能になるようなこともおよそないだろう。 OS/2 を人々が使うとき、プラグアンドプレイから基本的なソフトウェアサポートに至る多くのことが今やお手上げなのである。 多くの専門家がすでにいた地点に「追いつく」ため、私は何ヶ月もかけたのだった。 Windows NT が、かつて我々が考えていたように「ぶくぶくの豚」や「バグ持ち」でもないことも私は学んだ(とはいえ Win9x は確かにクズだったが)。

Warpstock'98 の後、私は OS/2 に再び打ち込んだ。 OS/2 を利用する、活気に満ちたコミュニティがまだあったのだ。 「普通の」人々がどんどん他の OS に移っていったにもかわらず、落伍者の増加にともない、OS/2 ユーザは、世の不公平さを愚痴りつつも自発的に何か前向きなことをしない、不満気な辛口ユーザの一団めいたものになった。 しかし私は思った、ここが狙い目である。 いまだ OS/2 をメインに据える人々も十分にいたし、つい最近 Windows に切り替えたうちには、OS/2 が巻き返して一番になりうる望みがまた出てきたら戻ってくるような人々が十分にいたのだ。

もし IBM が店で買える別バージョンの OS/2 を作りさえしてくれたなら、OS/2 はお手頃な別の選択肢として生き残ることもできた。 しかし時は過ぎ去った。 日ごとに OS/2 のユーザは諦め、流されていった。 我々は大胆なプランを持って、IBM に接近した――もしそちらが OS/2 クライアントのもうひとつ別の販売形態をやるご予定がないのでしたら、私どもがそれをやりましょう。 次のサーバ版 OS/2 を頂いて、サーバ部分を取り外して、もっと自由にクライアント機能を更新させるための Stardock Development Network を設置しましょう。 護持が主な理由であり、まともな事業判断は二の次だった。 クライアントをやってもひどく儲かりはしないだろうが、我々が十分な数のユーザを OS/2 に引き戻せたなら、新規ユーザに売りこめる、いまだ卓越した技術力を誇示する1ダース以上の OS/2 製品が我々にはあった。 クライアントの枠を超え、追加ソフトウェアの売り上げからも利益を生み出すのだ。 これぞ擁護と事業判断の完璧な融合――「もし」我々がそれを1999年終わり以前に表に出せたなら。

我々の計画に含まれていたもの:

1) 新しいインストーラ

2) Stardock.net インスタントメッセージング(OS/2 ユーザが参加でき、同様にオンライン参加している OS/2 ユーザを探す)

3) Stardock.net インスタントウェブ(Apache をバンドルすることで Stardock.net と一体化し、ユーザが個々の JAVA ベース仮想デスクトップをセットアップして Stardock.net に載せることができた。これにより OS/2 コミュニティはより簡単に意志疎通ができた)

4) SCUA '98 拡張 UI(フォルダ UI としてのナビゲーション・バー、プロパティダイアログの拡張、柔軟性に富む UI スキン、WinOS2 と OS/2 に同じ見た目を持たせる統合化)

5) Warp 2000 インテグレーションで、ユーザは warp2000.com に行って、使えるハードウェアとソフトウェアをその場で判定し、リクエストに応じてソフトウェアを置く。 Tim Sipples が提唱した SmartCredits 構想とも連携する。 (ソフトウェア、助力、もしくは OS/2 ソフトウェア、サービス、あるいはその他、Web スペースの割引に使えるクレジットをその都度もらえるようなあらゆるものを送ってきた OS/2 ユーザ内での通貨形態。 これが考案されたのは、OS/2 ユーザが IBM や Stardock、あるいは何か他の存在に依存せず、自分たちで助け合うための動機を後押しするためである)

特徴的なこととして、デフォルトインストールは Warp 4 よりもかなり軽くなるはずだった。 その心は、本当に高速で小さい、融通の利く OS を作るということ。 だから OpenDoc や一部の外部マルチメディアといった、使われもせずにディスク領域と RAM をふさいでしまうようなものは、デフォルトでオフにしておくつもりだった。

1999-2000 : 市場はコミュニティへ

妥当な OS の計画について、IBM とのことは順調に、しかし緩慢に運んだ。 ライセンスされる OS/2 V5 クライアントの製品番号がないことが問題だった。 提案されたのは、Warp V4 を使い、これをライセンスして、それに我々の「腕を振るう」という方法である。 これに同意した場合、我々は1999年にクライアントを手にすることになるが、そんなことをする奴は OS/2 コミュニティで少なからぬ抵抗に遭うだろうと我々は信じていたし、いまでもそう信じている(えっ?! FP6 修正済みの Warp 4 にあなたは150ドル払ってくれるんですか?!)。

我々の要求は、正真正銘掛け値なしに Warp Server for eBusiness (Aurora) をベースにしたクライアントだった。 1999年の春までに、ユーザはじれにじれ、市場は日ごとに衰えていった。 さらに悪いことには、我々の開発チームは何かをし続けておかねばならず、Object Desktop for Windows にますます専心し始めていた。 我々はついに締切を定め、1999年第3四半期の終わり(1999年9月30日)までに契約に漕ぎつけねばならず、さもなければ交渉を打ち切ることにした。

交渉は夏の間も進んでいたが、IBM の経営陣に"Warp 5" クライアントのライセンス用製品番号を作る方針が欠如している、という毎度同じ問題が持ち上がるのだった。 1999年9月の会合の後、IBM はそのような番号をしばらく作れないだろうし、新しい(V5 の)製品版 OS/2 クライアントや製品番号を作る予定もない、という返事が戻ってきた。 OS/2 がいつか復活するというあまたの希望の、これが限界点だった。 ここに至って、OS/2 に何とかしがみついていた残りの OS/2 ユーザの多くが、やはり諦めた。

数ヶ月のうちにはっきりしたのだが、口うるさい OS/2 コミュニティのかなりの部分が、往々にして、マイクロソフト憎しの情、あるいは(こんにちまだアップル II を使っている人々のような)単なる惰性とは違ったところで OS/2 をさわったり使ったりしていたわけではない人々なのだった。 OS/2 を使っていたことに何ら落度はなかったし、今もありはしないというのが私の気持ちだ。 OS/2 は仕事をこなしてきた、それならどうして乗り換えたかって?

不幸なことだが、穏当な人々が去るにつれ、コミュニティの強硬派はますます人目を引き寄せるものとなった。 死にかけ、あるいは沙汰止みのコミュニティの多くには怨嗟と不平の声が満ち溢れがちであり、こと OS/2 においてもやはりそうなった。 突然 Stardock は「裏切者」になったのだが、それは要するに、心中するつもりが我々にはなかったからだ。 心配しなくても、非難する人々は自ら進んで犠牲になりなどしない。 彼らは非現実的なサポートを期待してもいる。 半年から9ヶ月ごとに OS/2 ソフトウェアを更新するだけでは足りず、Windows 版ほどに頻繁にせねばならず、そうでなければ「本物の」OS/2 ソフトウェアベンダーではないのだ。 仮にある企業やソフトウェア作者が、自分たちの OS/2 プログラムを年に一回だけ更新したとすると、それと同程度の間、Windows 用のものを何もリリースしなければオーケーだ。 しかし同じ企業や作者が、OS/2 用にはふたつ、しかし Wjndows 用には4つのものを一年でリリースしたら、OS/2 を「見限った」と彼らは突然非難する。 早くも1998年、Stardock は OS/2 を「見限った」と非難されていたが、それは Win32 ソフトを出し始めていたからであった。


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Object Desktop 2.0 for OS/2



「見限った」とはどういうことか?

Stardock が OS/2 を見限った、という OS/2 コミュニティの世論はは揺るぎないものとなっており、Warpstock 2000 で我々にブースを置いてもらおうと Warpstock が話を持ち掛けてきたとき、交渉がこのように始まったほどだった「あなたがたが OS/2 から撤退したことはわかっています、ですが…」。 これは、Stardock が2000年第1四半期に Object Desktop 2.02 for OS/2 をリリースし、Stellar Frontier for OS/2 を目下開発中であることをないがしろにするものだった。 このような了解も、むしろ我々の力点のかなりが Windows にあったためである。 ユーザによってはそれを極端に受け取り、特に私が、そして Stardock もおおむね「裏切者」であること、そしてこれゆえ我々が叩かれるべきだということの根拠にした。

このことは E3 で身に染みた。 私はゲーム業界では、「同人」ゲームを作ったことでそれなりに名を知られている。 ニュースグループを飛び回り、人々と語り合うのが好きだ。 ニュースグループで集中砲火を浴びたことなど全くなかった。 私はおおむね「OS/2 用のゲームをちょくちょく作っていたゲーム開発者」として知られている。 だが、ニュースグループに投稿するたびほとんど必ず、私が矢面に立たされ、「至らなさ」を公然と、かつ声高に罵られていると知れば、彼らは驚くことだろう。 書き示しようがないものへの「心をなくしてしまった」ということで私は告発され、「被告人」になってしまった。 罪の第一は、我々の立場を明瞭にし、説明しようとしすぎたことである。 どの OS/2 ニュースグループでも、私もしくは Stardock についての言及はたいてい、OS/2 ユーザからの反 Stardock コメントといった部類のものになるのだった。 おぼろな罪といえば、我々が OS/2 のために何もしなかったことでなく、今現在、十分に取り組んでいないということ。 「最近何してるのさ?」

そして堂々巡りだ。 ひとりの OS/2 狂として私は出発したのだった。 OS/2 は私の根拠、聖なる使命だった。 そして私はまた別の価値ある教訓を学んだが、それはできれば他の人に学んでもらいたいものだった。 狂信がすぐさまあなたを虜にする。 多くの狂信者には心からの忠義がほとんどなく、そしてそのことは、あなた自身がもはや狂信者でないことがわかればすぐに、まぎれもない真実となるのだ。 狂信者にとって、あなたは完全に自分たちと共にあるか、でなければ「敵」である。 中間はないのだ。

我々の OS/2 史は、会社にとって楽しい成長の一幕だった。 Windows Stardock は燃え尽きた OS/2 市場と無関係に成長し、社員と顧客にとって、ひどく異なる環境となっている。 私にわかったのは、OS/2 それ自体にではなく、何かコンピュータの使い道を変えるかもしれないようなクールなものを作り出せる発想に、自分が心焦がれていたいうことだ。 これが思うに、私を OS/2 狂にしていたものである。 物事を為す良い道筋を、OS/2 が本質的に示したのだ。

私はいまでも熱中屋だが、OS 狂ではない。 マシンの制御を超える力をユーザに与えることに熱中している。 マシンをどう使わねばならないのか人に指図するのではなく、その人にいちばん合うものを自分で決めるための。 ある意味でより独特であり、ちょうど今熱中しているという点で、より個人的な入れ込みである。

私は OS/2 の日々をすこしも悔まない。 それは素晴らしい時であり、多くの友ができ、多くのことを学んだ。 OS/2 が見せてくれた夢と前途を私は失ったが、その日々が証明していたのは、ちょっとしたやり方で「世の中を変える」ための新しい機会がいくらでもあるということだ。 しかし忘れてはならない、OS、マシン、あるいは何であれ、結局は生きていないものに過度の愛着を持ってはならないのだ。 ソフトウェアがあなたに仕えているであり、その逆ではないのだ ;)

bwardell@stardock.com まで気軽に email を、でなければ、news://news.stardock.com/stardock.os2 で議論するのがもっと良いだろう。

それと、明るい面として、Serenity の Bob St.John は、eComStation という Warp4 ベースのクライアント出荷を IBM に認めさせている。 最新の OS/2 FixPak には多数の Aurora コンポーネントが含まれているので、長期的に OS/2 にとどまるつもりの OS/2 ユーザには eComStation が非常に役立つだろう。 興味がおありなら Web サイトをチェックすれば、より多くのことがわかるだろう。