イプシロンのスピードコラム 「無制限一本勝負」

通刊27

さらば!   大仁田厚!!


 1995年5月5日、1人のレスラーがリングを去った。大仁田厚、その人である。 彼は僅か5万円の資金に3万円の借金を足して引いた電話を元にプロレス団体を旗揚  げし、遂には昨年の興行数が新日本プロレスを上回るまで大きな団体に成長させた。  人生の成功者である。しかし彼の人生は挫折の連続でもあった。            私が大仁田厚の名前を知ったのは古い話である。全日本プロレスの渕正信(前世界  ジュニアヘビー級王者)、園田一治(マジックドラゴン=ハル園田、南アフリカへ新  婚旅行を兼ねた遠征へ向かう途中、航空機事故のため死亡)と共に若手三羽烏として  有望な新人として注目されていた。大仁田がメインイベンターとして脚光を浴びるき  っかけは突然訪れた。                               新日本プロレスがマイク・ラーベルNWA副会長、ビンス・マクマホンWWF代表、 トロントのフランク・タニー氏らと謀り新設したNWA世界ジュニアヘビー級インター ナショナル選手権(後のインターナショナル・ジュニアヘビー級王座、現在では廃止  され世界ジュニアヘビー級王座に改編)の王者であったチャボ・ゲレロが、ベルトを  巻いたまま全日本プロレスへ移籍したのだ。当時ジュニアヘビー級王座が全日本プロ  レスに存在しなかったことで、ジャイアント馬場氏はこのベルトに着目した。いくら  ライバルの新日本プロレスが新設した王座とはいえ、ベルトの認定団体はNWA、N  WAに加盟している全日本プロレスがこの王座を取り込む事に問題はない。馬場はシ  ャーロッテにて全日本の若手を王者チャボ・ゲレロにぶつけることにしたが、ここで  2人の若手選手に絞られた。大仁田厚と渕正信。ここで馬場の脳裏に浮かんだ選手は  実は大仁田ではなく渕だった。渕はカールゴッチの元で修行を積んだという全日本プ  ロレスでは極めてめずらしい存在。関節技の神様に手ほどきを受けたテクニシャンで  ある。「彼なら確実に王座を日本へ持ち帰ってくれるだろう」と馬場は期待していた。 しかしこの決定に異を唱える者がいた。テリー・ファンクである。ファンク一家は全  日本プロレス旗揚げ当時から全日本の若手を預かり、コーチをして全米各地のマット  に送り出していた。2人の調子を見たテリーは馬場に「勢いのある大仁田を使うべき」 と進言、馬場も2人を側で見ていたテリーの意見を受け入れて大仁田を挑戦させ、大  仁田も見事にそれに応えてジュニアの王座を全日本マットへ持ち帰ったのだ。      実は大仁田は馬場が一番可愛がった選手だった。入門後は永く馬場の付人をつとめ  たが、大仁田は大失敗を連続させた。馬場のタイツを忘れて試合場へ来た大仁田は外  人の控室からタイツを盗み、それを馬場に履かせて試合をさせたという事件などは有  名である。しかし馬場は大仁田がドシを踏めば踏むほど可愛くなり、また馬場夫妻に  は子供がいなかったこともあり、一度は大仁田を養子にしようと考えたほどである。  そのためか馬場は大仁田に対し多くのチャンスと試練を連続して与えた。王者として  の強さと風格を身につける為に、連続して強豪を挑戦者として大仁田にぶつけた。し  かしそれも長くは続かなかった。                          1983年4月20日・東京体育館、大仁田はチャボ・ゲレロの弟ヘクターを挑戦  者に迎えていた。大仁田は試合が佳境に入る頃に膝を粉砕骨折、レスラーとしての致  命傷を負った。膝は回復する事無く翌年12月2日、大仁田の代わりに同王座へ就い  たマイティ井上に挑戦し敗れ、この試合を最後に全日本プロレスを去ることになって  しまった。                                    リングを去った大仁田は11PM等のTV番組でタレント活動を行ないながら事業  を起こした。飲食店に水道配管。プロレスラーとしての知名度が残っている内は何を  やっても成功していたが、それもなくなると事業も衰退を始め、結局大仁田は一文無  しとなり、工事現場でその日の食費をようやく稼ぐのがやっとという状況になってい  た。                                       大仁田は拾われた。ジャパン女子プロレスのコーチとして。再びプロレスの世界へ  戻ってきた。しかし、歓迎されない帰還だった。当時ジャパン女子プロレスには、グ  ラン浜田(メキシコマット界初の三階級制覇を成し遂げた選手、現在はFULL所属  として新日本プロレス、みちのくプロレスに上がっている。当時は選手生活を中断し  コーチ兼レフェリーとして活動していた)という人がコーチをしていた。また新日本  プロレスの選手や山本小鉄・新日本プロレス学校校長が随時コーチを引き受けていた  こともあり、大仁田の入り込む余地はなかったのだ。                 大仁田を引き込んだのは新間寿氏(前スポーツ平和党幹事長)である。新日本プロ  レスの重役であった新間氏と全日本プロレス出身の大仁田に接点があったことは意外  かも知れないが、2人は何度も接触していた時期があった。大仁田が全日本でジュニ  アの王座にあった頃、新日本プロレスのジュニア戦線には一世を風靡した1人の英雄  が席巻していた。初代タイガーマスクである。大仁田はタイガーマスクにジェラシー  を感じ、事ある毎に挑戦を表明していた。また馬場を何度も説得したり、根回しの為  に当時新日本の営業本部長だった新間氏にも接触したことがあったのだ。その為に境  地に陥った大仁田に、新間氏は救いの手を差し伸べたのだ。ジャパン女子プロレスは  設立から恵まれず、何度も経営者や母体が変遷していた。その中でこの新間氏が最高  顧問に就任していた時期があった。また当時新間氏はプロレス界を追放された立場に  あり、大仁田を発言力を回復するための切り札に使おうと考えていたようだ。      しかし現場での大仁田は浮いていた。事業に失敗した直後という事もあり、人が信  じられない状態にもあったのだろう。そして決定的な事態に直面する。グラン浜田と  の路線対立である。試合に於けるグラン浜田のレフェリングにいちゃもんをつけ、2  人の対立は決定的なものとなった。そして2人はリング上で決着をつける事となる。  新間氏はこの2人の対立を利用して、ジャパン女子プロレスを男女混合団体へ移行さ  せるか、あるいは大仁田と浜田を中心とした新団体旗揚げを模索していた。その中で  実現した女子プロレスのリング上での男同士の闘い。所属選手にもマスコミにも、そ  してファンにも支持を得ることの無い闘いだった。この一戦の失敗を契機に大仁田は  ジャパン女子プロレスを去ることになる。                      このころ、全日本プロレスを解雇された剛竜馬、アポロ菅原、高杉正彦の3人は新  団体旗揚げを宣言し、メインの剛の対戦相手として大仁田に出場を要請。大仁田も快  諾してパイオニア戦士旗揚げ戦に出場、その後は新間氏らによって結成された格闘技  連合という組織で、秘書として働き始めた。。この時に大仁田厚は人生を変える大き  な出来事に遭遇することになる。格闘技連合は当時絶対的に人気の高かった第二次U  WFに対抗するため、正道会館空手の佐竹雅昭(現在はタレントとしても活躍する人  気の空手家、しかし当時は無名の存在だった)に着目し、前田日明への挑戦者として  仕立てていた。そして格闘技連合は大仁田を使者として、佐竹の前田日明に対する挑  戦状を第二次UWFの試合会場へ持参させると発表した。               1988年12月22日、私は大阪府立体育会館にいた。メインのカードは元WW  F王者のボブ・バックランドに高田伸彦が対戦するというビッグカード、またPC−  VAN「熱狂!プロレス通信」が主催する初の観戦オフラインということもあり、我  々は異常に興奮していたのを覚えている。私は大仁田に謝らねばならないことがある。 我々はこの時に「大仁田は来るかな?」 「来てどうするんだ? リタイアしたレス  ラーが来て何になる」と、散々悪口を重ねていたのだ。我々だけでない。当時のUW  F思想全盛時に於て、大仁田厚という存在は物笑いのタネでしかなかったのだ。この  時、我々から見えない控室で1つのドラマがあった。                 大仁田は大阪府立体育会館へ挑戦状を手渡しにやってきた。通用門から中へ入った  大仁田は前田との接見を求めるも、神新二・社長が応対し、そして屈辱的な言葉を大  仁田に浴びせることになる。「大仁田さん、チケット持ってますか??」 この言葉  の裏には「我々はファンからの絶大なる支持を得ている。あんたなんかに用はないん  だ。」というメッセージが込められていた。後に大仁田はこの言葉があったからこそ、 プロレス界でのし上がる事ができたと語っている。言葉を吐いた神社長が後にプロレ  ス界を追われ、会場から追い出された大仁田が大成功をおさめ、前田日明もできなか  った馬場、猪木に匹敵する知名度を得ることになるとは、何たる皮肉なことか!?    大仁田は翌年、格闘技の祭典で対戦した空手家・誠心会館の青柳政司・館長との対  戦を契機に新団体・FMWを旗揚げさせた。大仁田は事ある毎に泣いた。再びプロレ  スができる喜びと、そしてプロレスを去ることで全てを失ってしまった大仁田が生き  ていく為には再びプロレスをすることしか無いということを訴える為に、大仁田は涙  を流した。そしてその様から誰かが大仁田を「涙のカリスマ」と呼ぶようになる。プ  ロレスを続けたい。しかし客の入りは悪い。そこで大仁田はロープの代わりに有刺鉄  線を巻き、自虐的な試合を行なうようになる。仕方がなかった。体格的にも恵まれず、 テクニックも強さもない大仁田がこの世界で生き残るには、これしか方法がなかった  のだ。そしてその究極が爆破マッチ。大仁田は爆弾の壁に飛び込む事で、この分野で  の誰の追随も許さなかった。しかし神は残酷である。折角プロレス界で復活した大仁  田がプロレスを続けることを許さなかった。                     大仁田は誰もがやらない事を率先してやった。大阪大会の客の入りが悪かった責任  を取り、道頓堀のドブの中にまで飛び込んだ。これが悪かった。大仁田には当時既に、 何百針にものぼる傷跡がついていた。既に抗生物質が効きにくい体になってしまって  いたのだ。大仁田の体に住み着いた細菌やウイルスは猛威を奮い、九州巡業中の大仁  田を襲った。ちょっとした風邪から来る扁桃腺炎だったはずが、気管支炎、肺炎、そ  して腎不全、大仁田は生死の境をさまようハメとなった。運よく大仁田は回復し、リ  ングにも復帰した。しかし死にかけたことで大仁田は生きることが何であるかを悟り、 生きてリングを下りることを決意したのだ。                     1995年5月5日、大仁田は川崎球場のリングに立った。最後の試合で弟子であ  るハヤブサに対し、胸いっぱいのプロレスを伝授していた。大仁田は6年間の間に涙  を流すこと、叫ぶことだけでない胸いっぱいのプロレスを立派に身につけていた。そ  してそれを試合を通して、観客に、ハヤブサに、セコンドについた若手達に訴えてい  た。テンカウントも引退式もない最後の試合、でもファンにとって、残された者にと  って大仁田をしのぶには充分すぎる時間がそこにあった。               さらば、涙のカリスマ!! ありがとう。そしてさようなら 大仁田厚!!       「無制限一本勝負 通刊27」     完 Presented by IPUSYRON The Y.Yoshioka.  このMSGは、1995年6月版のTODAY格闘技興業データ付録のコラムを、 あらためて掲載したものです。                        


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