Rayの活動を通じて
(Last Update:05/02/01)
さて、私は「Ray秀作データ集」に魅了され、PC-VAN、NIFTY 両NETで、「新真」(しんしん)というハンドル名でRayに関する活動をしてきたわけですが、ここまで活動して分かったことなどを、率直に書いてみることにします。
パソ通(というよりRay)に染まりきってしまった1人の青年の活動内容です。
1.Rayとの出会い
93年秋、たまたま地元のコンピュータショップの書籍コーナーで手にしたのが「Ray秀作データ集」(通称Ray本1)でした。「これなら結構データもあるようだし、とりあえず買ってみようかな。」って感じでしたね。
ところが、RAY_HIST.DOC等を読んでいくうち、ともゆき氏のパソコン通信に対しての意欲に引かれ、モデムも当時としては意外と安かったので買い、94年1月にPC-VANに入会しました。なぜPC-VANかというと、PC-VAN関連のパンフレットをいくつか持っており、「パソ通するならPC-VANだな」と決めていたからです。果たして先にNIFTY に入会していたらどうなっていたのだろうか。
それまでにもパソ通にはもちろん興味がありましたが、「手続きが面倒そう」「暗い」(!)といった理由でずっと見送ってきました。
IDが届き、何も知らなかった私は、すぐにSIG・SOUND☆CLUB のフォーラム、「Ray広場」に自己紹介文を書いたわけです。(普通はしばらくROMしてから書き込む) 早速智杖氏やみよっ氏などから返事が届き、「あ、あの写真の人だ」(!)などと感動したものです。(^^;
それからBASIC 等で作っていたデータをRayに作り換え、どんどんUPしたというわけです。
2.新天地・NIFTY-Serve
94年5月、私は新天地、NIFTY へも進出することになります。Ray広場にもFGALRAY 関連の書き込みがちらほらあり、雑誌にも1周年OFFのレポートが載るなど、だんだん興味がわいてきました。
5月25日、ついにIDが届き、早速FGALRAY にもアクセスしました。
最初はさすがに操作法など手間取ったものの、「やはりここは盛り上がっているな」と感じました。
すぐに1番会議室へ自己紹介を入れ、前もって準備してあったデータ「旅立ち」を公開しました。それにしても入会初日にデータを公開するという無謀なことをしていたもんだ。(^^;
FGALRAY でも、ともゆき氏、むらせ氏らから早速返事が届きました。
しかし、アクセスしていくうちに、PC-VANとNIFTY とでは規模も盛り上がり方も全く違い、「これじゃPC-VAN側メンバーがかわいそうではないか」「私もNIFTY よりはPC-VAN方が好きだ」と感じ、PC-VANの方を盛り上げようと思い立ったわけです。
まずは相互のデータ転載で交流を図ろうということでした。
3.Rayデータ作成
この間、初UP「コンドルは飛んで行く」を機に、次々とRayデータをUPするという活動も同時に行っていました。感想はそこそこ届くものの、私程度の実力では主力メンバーには今一歩及びませんでした。大体私は耳コピーなどできない。気が付いたら「Ray本2・FGALRAY のすべて」という書籍が発行されていました。当然私のデータは収録されませんでした。(^^;
「当たり前だ」と思いながらも、正直悔しい気持ちも少しありました。そこで心機一転で作ったのはクリオネ氏との合作データ「ルパン三世」でした。
画像が自分の構想とはかなり違っていたものの、ユニークなものに出来上がり(著作権すれすれであったが)、反響も自分のデータとしてはかなりのものとなりました。(原曲が有名すぎて、カウント数だけはFGALRAY を代表するものになってしまった(^^;)
また、同時に「あのフォークをもう一度会」というホームパーティによる一連のデータにも刺激を受け、若いくせに「或る日突然」「結婚しようよ」などのデータもUPしました。
さらに、念願だった86ボードも購入し、兄が持っていた楽譜から入力した「THE LAST RIGHT/THE STAR CLUB」等、いくつかデータも作っていくことになります。
しかし、届いた感想はNIFTY からが大半で、ホームグランドであるPC-VANからはあまりありませんでした。ちょっと複雑な気持ちになりました。
4.NIFTY での挫折
NET間交流の活動に自ら乗り出してから、はじめのうちはメッセージ交換もいくつかあり、けっこう「やりがい」を感じていましたが、残念ながらすぐに下火になってしまいました。
PC-VANの方は、いつの間にか書き込み数が激減し、振り返ってみると誰もいなくなっていたという悲惨な状況になっていました。(^^;
FGALRAY でも「頼むから来てくれ」みたいなことを何度も書いて、迷惑をかけてしまいましたね。考えてみればこの方法は幼稚でしたね。
「現実はなかなか甘くないな(;_;) 」
そうしているうちに、95年4月、ある女性の方(N氏)からメールが届いていました。
「もっと新真さんは自分の楽しいと思える活動をされるべきではないでしょうか? 皆さんの反応を見て、さみしい想いを胸に努力されている新真さんの心がフォーラムよりも心配です。」
このメールにはとても感動しました。
確かに、今までの活動は「本来やりたかったこと」と外れてしまっていたようです。これを機に、活動を休止することになりました。
5.スタッフに参加してみて
しばらくして、PC-VANの方にも転機がやってきました。
95年夏、強力な新メンバーが2人、やってきました。(「Q氏」「J氏」としておきます) 「このままではPC-VAN上でのRayはおしまいでしょう」みたいな書き込みをすると、新メンバーは「いや、もっと盛り上げよう!」ということになって、「よーし、情熱に応えなければ」と、再び頑張ろうと思ったわけです。これを機に、Ray広場の方は書き込みが激増し、盛り上がってきました。
さらにはPC-VAN側で、SIG-OPのみよっ氏に「新真さんのような方がスタッフになっていただけるとありがたいのですが(^^;」と引っ張られる形で、OSLの管理とこれからの運営についての論議と、スタッフ活動にも参加するようになりました。
SIG運営クラブ(NIFTY で言うパティオ)、CLUB_SOUND上での「論議」の方も、やってみるとなかなか面白く、「これは新しい展開が楽しみだな」と期待しながらやっていました。
この勢いで、Ray会報「RayDreamer」のPC-VANコーナー担当、大規模合作データ「PCVD」も手を付けていくことになります。このときが一番充実していましたね。
ところが、過去のSOUND☆CLUB の運営を討議する電子会議室のLOGを見てショックを受けました。SIG-OP交代期に起きた抗争が生々しく残されていました。「パソ通はなんて難しいんだろう、きれい事だけではとてもできないんだな。」と感じました。
私自身の方も、ふとしたすれ違いがきっかけでJ氏と対立してしまいました。J氏も私同様相当頑固で、妥協点はなかなか見いだせないでいました。この間Q氏が活動停止していたのも大きかったです。
さらに論議の雰囲気が悪い方へ向かいました。正直言って、あのときは辛かったですね。そのうえ、みよっ氏がついにSIG-OP辞任を決意し、このときばかりはもう「SOUND☆CLUB はおしまいだな」と思いました。さあどうする!?
6.背水の陣
私はまず、この事を早速ともゆき氏に伝えました。ところが、返ってきたメールをそのままCLUB_SOUNDに掲載してしまいました。ともゆき氏から削除依頼のメールが来たのは言うまでもありませんでした。そこで、ついでにJ氏への「攻撃」の書き込みも一緒に削除することにしました。これで、一応もめ事は解決と言うことになりました。
しかし、SIG-OP交代問題は何とか解決しなければなりません。私自身は、もはやSOUND☆CLUB は「潮時」だと感じたので、規模の大きい他SIGとの合併をし、「発展的解消」がいいかと思っていました。
ここで順当に行けば、私がSIG-OPを引き受けるのが筋なのですが、SIG-OPとしてやっていく自信もなく、また、もめ事の際に「絶対に私は引き受けない」と宣言した以上、引き受けるわけにはいかなかったのです。(^^;
もうこうなったらだめもとで、過去にSIGに参加していた一般会員を対象に「新SIG-OP募集アンケート」を実施することにしました。結果、予想通りSIG-OP就任希望者は1人もいませんでした。しかし、それ以上にショックだったのは一般会員の無関心さでした。アンケートに回答した方々が26名いたのに対し、案内メールを読んでいながら回答を拒否した人が37人もいたのは非常に残念でした。回答した人でも、悲観的な見方をする人が多数でした。もう私はやる気を失いました。
7.ついに…
この間、96年9月に奇跡的なことが起こりました。SOUND☆CLUB のOFFが開催されたのです。監事は、強く「絶対SIGを閉鎖にはさせない」と宣言していたF氏(仮名)、さらにSIG-OPのみよっ氏、私ら6名が大宮に集結しました。
そこで1次会の顔合わせ、2次会のボーリング大会、3次会のマクドナルドでの論議と、その時点ではかなりいい雰囲気となっていました。
結局後にF氏が、「名前だけのSIG-OPならば引き受けてもいい」と名乗り出ました。しかし、就職等のため多忙となり、その点が懸念材料となっていました。
97年7月に久々に復活し、それをきっかけにみよっ氏が事務局にSIG-OP就任を要請したものの、経験不足などのためかSIG-OP就任は却下されてしまったようです。この際、私がJ氏にSIGの閉鎖を強く勧めたことや、「もう一切手は貸せない」というコメントに対しF氏は激怒し、これが基でまたもめ事が起きてしまいました。
また、私はそれに対しコメントを書きましたが、間接的な表現でJ氏を批判した内容となり、それが裏目となりかえって逆効果となり、J氏はSIGを飛び出してしまいました。また、SIG-OPのみよっ氏もそっぽを向いたのか、私のメールをことごとく無視しました。
もう誰が何と言おうとSOUND☆CLUB はおしまいです。まったく、私の4年間をどうしてくれるんだと言いたい。>ALL
ただ、あのとき書いたJ氏に対する暴言は今となっては後悔しています。また、F氏やSIG-OPのみよっ氏、他のCLUB_SOUND参加者に対しても大変申し訳ないことをしてしまったという思いです。自分勝手ではありますが、謝罪したいという気持ちです。もしこのページを見ていたらメールをください。
8.これから
Rayの活動を通じて分かったことは、「作品を披露し合うことは素晴らしい、画期的だ。」ということですね。
95年の「おふらいんまつり」というイベントで、NET仲間が集まってコンサートを開催したり、Rayを披露するということはなかなか素晴らしいことだなと感じたりもしました。
ただ、パソ通特有の「もめ事」も経験してしまったわけです。正直言って疲れました。現在の私の状態ではこのまま続けていってもいい結果は残せないでしょう。今後は一線を退く形になりますが、「ひと味違った活動」で地道にやっていきたいと思います。
私自身、パソコン通信のシステム自体、大きな疑問を感じていました。管理者の負担増大、一般会員の無関心さ、ハンドル名を通じての付き合いとなるなど、果たしてこのままでいいのかなとつくづく思っていました。
PC-VANのサービス終了、JASRAC音楽著作権実験の終了、PC-98そのものも過去のものになり、さらには2005年3月をもって最後の砦とも言えるFGALRAYも終了します。1つの時代は終わりました。
ただ、そこで得られた経験など今後何らかの形で活かせればなと思っています。
新真
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