横の物を縦にしろ


 私の名前は「平田真夫」である。ローマ字で書けば「Hirata Masao」、決して「Masao Hirata」ではない。私は日本人なのだから。
 最近、中学校の教科書などでも、日本人の名前の表記は姓が先でも可ということになって来た。どうやら、やっとここまできたようである。我々はインド=ヨーロッパ語族の言語圏内の人の名前を日本語内でいうときに、決して姓の方を先にしたりはしない。だったら、向こうの言語の中で我々の名前を先にする必要はまったくないはずである。
 日本語には、形容動詞とサ変名詞というものがある。これらは非常に便利な品詞で、例えば「ビューティフルだ」とか「トレンディな」とか言えば外国語のすべての形容詞を日本語化出来る。「ランニングする」、「タイプする」なども同様である。ここで重要なのは、例え片仮名言語が氾濫しようとも、この二つを使えば日本語の文法をまったく変えずに外国語を日本語に出来る点だ。確かに昔からの日本語を守ろうとすれば聞き苦しい表現なのだろうが、とりあえず形容動詞の使い形として間違ってはいない。そもそも、片仮名は立派な日本の文字である。英語の「bike」は自転車のことだが、これは「バイク」といったとたんにオートバイのことになる。もちろん「バイク」も「オートバイ」も立派な日本語である。
 これは次のようなことに対応するのかも知れない。「日本料理」とは何か。カレーライスが現在では立派な日本のものであることを考えると、刺身だのてんぷらだのを持ち出しても駄目だろう。ではいっそのこと、こういってしまったらどうだろう。主食をおかずで食べるというスタイルの料理のこと。一般に日本人の食卓は、白米を使ったご飯があり、その横におかずをおく。そして、おかずには何でもありだ。ハンバーグだろうとオムレツだろうと、ご飯と合えばそれで食べられる。日本料理は、その「文法」を壊さずに外国のものを取り入れやすいように、最初から出来ているのである(もちろん、例外は常にある)。
 したがって、少なくとも言語と料理の分野においては、日本の文化はその基本構造を変えずに他国の文化を吸収出来るようになっている。日本人は外国かぶれしやすいと言われるが、そもそも外国かぶれをすること自体が文化的な特徴なのだ、とも考えられるのである。
 ここで、冒頭に書いた姓と名前の順についてである。これはさすがに妙だと思う。例えば日本人の名前が、最初から姓と名前が区別しやすく出来ているのならともかく(「安彦良和」氏の場合をみれば、そうでないのは明らかだ)、どう考えてもこれは語順に頼るしかない。だとすれば、文化の対称性という意味から考えても、日本人の名前は姓を先にすべきである。それが駄目なら、逆に外国人の名前を日本語内に置く時にも、姓を先にしたらいい。ニュートン・アイザックやヘミングウェイ・アーネストの登場だ(作曲家のバルトークは、バルトーク・ベラが正しい。彼はハンガリー人だから。実はこれ、CDや辞典などでは結構ベラ・バルトークと書かれている)。これはどう考えてもおかしな行為だから、冒頭に書いた中学校の教科書云々という話を、私は高く評価するのである。

 さて、ところが最近になって、妙な表記が流行り出した。主にコンピューター雑誌を中心に始まっているのだが、やたらに文章の中にもとの言語の綴りが入るのである。「このファイルは QuickTime for Windows で再生して下さい」。なぜ、「このファイルはクイックタイム・フォー・ウィンドウズで再生して下さい」と書かないのだろう。
 「PTA」や「NTT」のこともあるから、略称はある程度かまわないと思う。「MS−DOS」を今更「エム・エス・ドス」にしろなんてことは言わない。「WINDOWS」ももうしかたないだろう。しかし、せっかく片仮名という便利なものを持っていながら、それをまったく有効に使っていない。なぜこんなことに文句をいうのかというと、日本語本来の姿である「縦書き」の中にこの表記が入ると、恐ろしく違和感があるからだ。
 そう、日本語は基本的に縦書き表記の言語のはずである。先に書いたとおり、我々の言語はかなりの柔軟性を持っているから、横書きの表記ももちろん出来る。しかし、本来の姿は縦書きだ。長く、横書きは看板などの特殊な場合のものだった(だから、右から左への表記を、西洋に合わせて逆向きに変えるのがそう違和感なく出来たのだと思う)。ところが、アルファベットを使う言語は原則として横書きである。おまけに、日本人が主に触れる西洋語である英語は、その単語の発音をアルファベットで完全に表記出来ないときている(「sweat」をいきなり「スウェット」と読める人が何人いるか。「speak」や「zeal」などから考えて、「スウィート」と読むのが当然だろう)。片仮名の使用は、外国語を日本語の中に入れた場合に違和感なく表記する非常に優れた方法なのである。
 あるいはこういう反論があるかも知れない。英語の発音を日本語の文字で完全に表記するのは不可能である。だから、もとの綴りをそのまま書くのだと。
 では、そういう人は英語の中に自分の名前を入れる時に、下のように書くのだろうか。

    My name is 平田真夫. (いや、My name is 真夫平田. と書きかねない、こういう人は)
 もとより、例えヘボン式のローマ字を使おうと、アルファベットで日本語の発音を書くのは不可能である。なぜなら、英語には促音「っ」がないし、「ん」もない。「行った」を「itta」、「安易」を「an-i」と書いたところで、西洋人には正確に発音出来ない。ローマ字と言うのは、なんとかアルファベットでそれらしく書くための便宜に過ぎないのである。片仮名で外来語を書くのと、そう変わらないのだ。
 したがって、この「日本語中のアルファベット」の原因は、もっと別に見出さねばならないことになる。もちろん答は簡単だ。コンピューター(ワープロ)の普及である。
 コンピューターのディスプレイは横書きで表記される。文化的な背景としてコンピューターが西洋で生まれたから――専門的な突っ込みをすれば、テキスト表記用のメモリーアドレスが横に向かって配列しているから――である。それはまあ仕方がない。日本語は横書きでも表記出来るし、アドレスの配列をどちらに合わせるかと言えば、柔軟性がなく横書きしか出来ない西洋に合わせるしかなかろう。ただ、いざという時縦書き表記が出来るようにしておかないと、前述の「日本語中のアルファベット」が頻出する結果になる。そして、もしも縦書きを捨てることになったら、これは一つの言語文化の崩壊である。繰り返すが、日本語は形容動詞とサ変名詞、更に片仮名の使用で、その文法構造を変えることなく外来語を取り入れられるはずなのだ。しかし、もしももとの綴りをそのまま書き出したら、いっそのこと訳さずにそのまま書いてやれ、ともなりかねない。これは大変なことである。
 実はこれはすでに始まっている。C言語の原典「プログラミング言語C」について、よく「Kernighan & Ritchie が書いたこの本は」などと書くが、仮に片仮名で書いたら「カーニガン アンド リッチー」とは書くまい。もちろん、「カーニガンとリッチー」である(実は私は、Kernighan を何と書くべきか自信がない。確かに元の綴りで書けば、こういう点を怠けるのはたやすい)。それをもとの綴りで書くから、自分の表記がずいぶん変なものであることに気がつきもしない。
 日本語を捨てる気ならそれもよかろう。しかし日本人は、この西洋で生まれたコンピューターという機械を、日本語変換システムや表示機能の強化によって、何とか日本語で使えるようにしてきたはずである。だとすれば、「日本語中のアルファベット」という、どう考えても怠慢からやっているとしか思えない表記は、ただちに考え直さなくてはならない。少なくとも、この表記は次のような場合に限るべきである。
  1.  どうしても、もとの綴りを示す必要がある時(例、辞典や論文等)。ただしこの場合も、基本は片仮名として、注釈にするのが望ましい。
  2.  略号(例、NASA)
  3.  原語の引用(当たり前だが、プログラム言語の教科書などは仕方がない)
  4.  いまさら仕方ないもの(例、WINDOWS)。しかしこの場合も、例えばバージョンアップなどの時にはチャンスがある。
 他にもあるかも知れないが、とにかく基本は簡単、必要最小限に抑えると言うことだ。そのためには、コンピューターの縦書き表記が急務である。最近、WINDOWSのワープロなどで縦書き表記が出来るようなものが多くなってきたのはいい傾向だと思う。少なくとも、コンピューターの性能如きが原因で日本語が破壊されるのではたまらない。

宇宙暦28年8月31日)


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