コンピュータのはじまり |
私は1960年生まれの野菜農家。大根・葱・里芋・ほうれん草を東京とい う大消費地に近い千葉県の北西部で裁培しています。高校を出てから農業 を始めましたが最初は驚く事ばかりでした。同じ品物なのに出荷した大根 の値段が毎日変わる事や日曜日でも仕事があれば畑に行くこと。これじゃ 友達とも遊べない。
そんな毎日を過ごしていましたが、自分には中学からの「コンピュータ の仕事がしたい」という夢がありました。毎日コツコツとプログラミング の勉強をしBASICのプログラムを組み上げていきました。自分の仕事が農業 であることを生かし農家が使って便利と思えるソフトを作ろう!こうして 私は夢を叶える道を歩き始めたのです。
私が最初にコンピュータを知ったのはTVアニメでした。コンピュータ は何でも知っていて、どんな難題でも答えを出してしまう。そんな子供の 頃の憧れがずっとコンピュータにありました。私が農業を始めた頃に感じ た疑問にもきっと答えを出してくれる、そんなコンピュータを作りたい! これが20年ぐらい前のことでした。
まだパソコンという言葉も無かった頃、秋葉原でTTL-ICを買って来てOR やANDのロジック回路などハードウェアの勉強をしました。当時intelから 8080CPUが発表されマイコン・キットが発売されるようになりました。今で もAT互換機を自分で組み立てる人はいると思いますが当時は半田ごてでIC を1個1個ボードに自分の手で半田付けしてコンピュータを組み立てたので す。そんな、いつ完成するとも解らない作業をしなければ動くコンピュー タは手に入らなかったのです。
コンピュータに関する本もそれほど多くはありませんでした。8080 CPU の解説本が私の最初に手に入れた本でした。しかし、それはあまりにも難 しすぎて何も解かりませんでした。でも「コンピュータを作りたい!」そ の強い想いから何度も何度も読み返しました。そして、やっと理解できた 時「ああ、やれば出来るんだ!」そう思ったのです。この「やれば出来る んだ!」が今後の私の人生に大きな自信をくれました。
その後、1983年2月に私はついに最初のコンピュータを手に入れたのです。 農業の疑問を解決するソフトが走り始めた記念すべき1台目のコンピュータ でした。
疑問を解決する力 |
「大根はいつ高く売れるのか?」これが農業を始めて最初の疑問でした。 市場の値段は新聞に載っていましたが、それだけでは1年間の価格変動は解 りませんでした。そこで、私はデータを集めるために新聞の市場だよりを 切り抜いて1ヶ月づつホッチキスでまとめる作業を始めました。コンピュー タを買う2年も前のことでした。取り敢えずグラフ用紙を買ってきて鉛筆で グラフを書いてみましたが、これがなかなか手間のかかる作業で半年分し か出来ませんでした。
その後コンピュータを購入して最初に作ったソフトがこの疑問を解決し てくれました。当時のコンピュータはディスプレイの解像度が低くディス プレイでグラフを表示する事は出来ませんでしたのでプロッタプリンタで グラフ作成しました。プロッタプリンタとは今でも製図用に使われている 「ボールペンを動かして線を引くプリンタ」です。1年目のグラフ、2年目 のグラフ。値段は変わるけど高い時期は同じ。このソフトが完成した時、 私のコンピュータへの自信が少し高くなりました。しかし、1台目のコンピ ュータは漢字を表示する事が出来なかったため1984年11月には2台目のコン ピュータを購入しました。
この頃、私は農業後継者の集団である4Hクラブに入会していました。普 及員さんとも知り合いになり普及所が主催する営農セミナーに参加しまし た。ここで病害虫防除や土壌診断の方法、野菜の生育条件、そして「記録 の大切さ」等を学びました。この頃学んだ事が後のソフト製作に大きな影 響を与えました。
普及所で「記録の大切さ」を教わった私は作業日誌も紙に書いていまし た。次に作ったソフトはこれをコンピュータに記録するための表集計ソフ トでした。ソフトのワークシートやファイル入出力などの基本部分はこの 時期に完成していたのです。現在のソフトが非常に軽く動く事に気づいて 頂けたでしょうか?これはDAO等の既存のデータベースエンジンを使わずに データベースエンジン自体を自作しているからです。昔はCPUが8bitだった ためデータの並べ替え等を普通にプログラミングすると処理に何分もかか るソフトになってしまいます。いかに速いプログラムを組むか?に頭を使 いました。現在のソフトは古めかしく見えるかもしれませんが、この頃の プログラムが現在も生きているからなのです。今ならDAOとActiveXという 便利な機能があるデータベースエンジンを使えばプログラミングも簡単で 見栄えの良いソフトになりますが見栄えよりも速さを追求してしまうのは 私のポリシーかもしまれせん。
紙と鉛筆からコンピュータへ |
最初の頃に作っていたソフトは紙と鉛筆でやっていた事がディスプレイ とキーボードに変わっただけでした。作業日誌でも日付と作業内容と場所 しかなく「5月5日 奥の畑 大根播種」といった事柄をワークシートに記 入していただけでした。今のようにコピー&ペーストという機能はありま せんでしたから毎日キーボードを打ってデータを入力したのです。キーボー ドを打つ事は苦にはなりませんでした。私はプログラマーを目指していた のでコンピュータが無い頃から「将来きっと必要になる」と思い英文タイ プライタを使ってキーボードの練習をしていたからです。不思議な事にプ ログラムを作っていると次から次へとアイディアが生まれてきます。指を 動かす事が良い頭の体操になっていたのでしょうか。
ワークシートに記入した作業日誌は1年間ではかなりの行数になり1年間 の作業内容を把握する事は出来ませんでした。これを1つの画面に表示出来 ないか?次に思い付いたのが作業日誌をビジュアル化することでした。縦 列に「大根・葱・里芋・ほうれん草」等の作物名を表示し横列に日付の目 盛りを表示します。作業日誌の日付から横列の座標を計算し作業内容の作 物名から縦列の座標を計算します。計算された座標に「播種・移植・植付 ・出荷」等の作業別に色分けした線を引きます。この方法で作業日誌をビ ジュアル化することに成功し仕事の忙しい時期と暇な時期が正確に把握で きたのです。把握できれば作付け時期を変更して1年間の作業量を平均化す る事は難しくはありませんでした。それまでの「忙しい時期はメチャクチ ャ忙しく暇な時期は仕事が無い」そんな我が家の営農は家族皆が決まった 日に休みの取れる日曜日の休日に友達とテニスを楽しめる営農へと転身し たのです。
次に作ったのは畑の地図です。これはディスプレイ上に書いた畑の図が 作物の裁培されている時は緑色に塗られ空いている時は黒く塗られるとい うもので、それはちょうど空から畑を見た光景がディスプレイに表示され るプログラムでした。これは畑の場所を作業内容に播種の文字があれば緑 色に塗り出荷の文字があれば黒色に塗ることで実現しました。なかなか面 白いプログラムだったのですが残念ながら現在のソフトには移植されませ んでした。この頃は私も若く「遊び心いっぱい」のソフトだったのです。
その後は農協から「これからは記帳して下さい」と渡された紙の帳簿を コンピュータ化する作業に時間を費やしました。そして普及所には「東葛 飾パソコン研究会」が発足しました。「ついに私の時代がやって来た」と 思った瞬間でした。
ひとつの分岐点 |
東葛飾パソコン研究会が発足してから普及所にもパソコンが導入され沢 山の仲間も出来ました。しかし、そこで驚くべき事実を知る事になりまし た。私が8bitマシンでコツコツとプログラムを組んでいる間に世の中では 16bitのMS-DOSマシンが主流となっていたのです。メモリー容量は10倍に! 表計算ソフトもメーカー製の速いソフトが!動いていました。こんなソフ トがあれば大根の値段なんて簡単にグラフ化出来る。「もう自分でソフト を作る時代は終わったのか?」そんな考えが自分の心を過ぎりました。
しかし、実際に普及所で表計算ソフトを使わせてもらうと、そのソフト の欠点も解りました。確かに速いけれど機能が多い分だけ操作が難しくグ ラフも決まった物しか作る事が出来ない。これでは農業のような専門分野 では利用価値は低いだろう。やはり必要なソフトは自分で作るしかない。 そう思ったのでした。6年間プログラミングの基礎を学んだコンピュータは、 まだまだ使えると思いながらも、これからの主流になるであろうMS-DOSの 動くコンピュータに買い換えました。1990年12月いよいよQuick BASICの世 界へ進みます。
新しいコンピュータになって最初にぶち当たった難題はデータ互換性で した。6年間もの間蓄積したデータが新しいコンピュータでは使えない。物 理的には同じ5インチフロッピーなのにフォーマットが違うため読む事が出 来なかったのです。「どうするか?」この問題が解決しないままにソフト 製作が進みました。そのうち東葛飾パソコン研究会ではBBSでパソコン通信 の提案がありました。「そうか!通信すれば良いんだ」幸いにも2つのコン ピュータには通信ポートがあったのです。これを繋いでデータを送れば良 い。2台のコンピュータで通信ソフトの製作が同時進行しました。通信ポー トの制御は高度技術でなかなか成功しませんでしたが、やっと成功!蓄積 した大根の値段や作業日誌等のデータはこうして現在も生きているのです。 この時習得した通信ポート制御は後のMS-DOS版通信ソフトになり現在のア クセス(メールソフト)へ発展したのでした。
この頃はBBSが全盛でパソコン通信大会(現在の農業情報ネットワーク全 国大会)が毎年土浦で開催されていました。私はそこでNIFTY-SERVEにある 農と食のフォーラムFAGRIを知り「いつかきっとデビューするぞ!」と思っ たのでした。
仲間との出会い |
ソフトウェアはMS-DOS版になり以前より10倍のメモリーが使えることに なりました。これだけのメモリーがあれば何でも出来ます。正月もお盆も 関係なく、ある時間は全部使って私のプログラムは順調にMS-DOS版へ移植 されていきました。ところが、ある日エラーが出ました。「メモリーが足 りません!」なんと10倍あるはずのメモリーを使い切ってしまったのでし た。これには困りました。色々と解決策を探したところプログラムを分割 するという手法を取りました。データベース・エンジンだけを共通化して、 グラフ化するソフト、計算するソフト、印刷するソフト、とプログラムは どんどん細かく分割されていきました。しかし、分割する事で一つの作業 が終わったらまた違うソフトを起動しなければならず、データを何度も読 み込まなければいけないという不都合も生じました。それを解決するため にソフトを素早く切り替えて起動出来るメニューソフトやデータの自動読 込のプロセスなど本来のデータ処理とは違うソフトウェアの構造自体が進 化していったのでした。
この時期にもう一つ重大な事がありました。それはNIFTY-SERVEの農と食 のフォーラムFAGRIに入会した事です。今までは一人でソフトを作って自分 が使えれば、それで良かったのですがFAGRIに発表する事で沢山の人から意 見をもらう事が出来ました。操作性の問題点や実際に使った人からの「あ りがとう」の言葉など会議室での発言が励ましになりました。「みんなの 役に立つソフトを作りたい」一つの方向性が確立した時期でもあります。 Japan Farming Networkerという言葉も会議室で話し合う過程から生まれて きました。FAGRIの仲間と共に作ってきたソフトなのです。ソフト製作は孤 独な作業、でもコンピュータの向こうには皆がいる。皆との出会いがソフ トを成長させるきっかけになったのでした。
畑別作付け表を提案してくれたgunboyさん。肥料計算のマクロを提供し てくれた権太さん。出張のついでとはいえ福井県から家まで自作ソフトを 見に来てくれた、すくらっぷさん。毎年差し入れをくれる葡萄屋のおじさ ん。そして葛南パソコンクラブを紹介してくれた、ごんべさん。東葛飾パ ソコン研究会が普及所主導型であったのに対して葛南パソコンクラブはコ ンピュータを趣味とする人達の集まりで最初はデータベースの勉強会をし ていたようですが現在は会員が自主的に活動内容を検討しコンピュータを 多方面から活用するエキスパート集団へと成長しました。
その後コンピュータはWindowsの時代を迎えました。Visual BASICが発表 され、それに対応すべく1993年12月には4台目のコンピュータを購入しまし た。これが農業ソフト工房の始まりでもあります。
農業統合ソフトへ |
コンピュータはWindowsが主流になりメモリーの限界はなくなりました。 今まで分割していたソフトを一つにまとめた「農業統合ソフト」を作ろう! 私は再び、ある時間は全部使ってDOS版からの移植を始めました。今度は 同じコンピュータで動いていたのでデータの互換性に問題はありませんで した。しかし、Windowsはソフトを表示するサイズが自由に変わるため、そ の表示するプログラムを新たに開発する必要があったのです。結局ほとん どのプログラムを新たに作り直すことになりました。
作業日誌にも新たに使用在庫品名と数量が追加されました。これにより 統合されたソフトは帳簿とのデータをリンクし在庫調査が出来るようになっ たのです。「帳簿で物を買えば在庫が増える、作業日誌で物を使えば在庫 が減る」これで種苗店や肥料店からの注文書が来てもすぐ記入出来るよう になりました。もう一つ天気の項目にも新たなアイディアが生かされまし た。これは1週間以上降水が無いと「雨が降ってないよ〜」と警告するプロ グラムです。露地野菜の場合は極度な乾燥も生育障害になりますので、こ の警告を参考に潅水するようにしました。また、日々の入力を簡素化する ために作業内容を予め登録しておいてマウスで選択するだけで記入出来る ようにしました。
農園管理の年間作付計画もDOS版から改良されました。最初は1ヶ月単位 だったものが1日単位に精度が上がり、Windowsによりマウスが使えるよう になったので操作性も向上しました。このプログラムは縦列に畑の名前を 書き横列に日付の目盛りを引き交差する位置をマウスでドラッグすると裁 培野菜別に色分けすることが出来ます。これで輪作体系を確立し畑に効率 よく作付けする事が出来るようになりました。空いている畑が無くなれば 野菜の出荷数も増え年収も上がります。私も実際に100%の効率を目指した 作付けをやってみました。しかし、それをやると目の回るほど忙しい毎日 をおくる事になります。確かに年収は上がるのですが、ゆとりある農業と は程遠いものになってしまいます。何事も「ほどほど」が良いようです。
その後コンピュータはインターネットの時代を迎えます。膨大な情報の 波が押し寄せたのです。この情報をどう活用するか?ソフトには新たな課 題が出来ました。1996年12月ホームページ作成専用に5台目のコンピュータ を購入し、私はソフトだけでなくホームページ作成も始めました。
ネットワークの時代 |
ここからは将来の展望です。今後はソフトウェアとインターネットが密 接した関係になると思います。プログラムが自分でインターネットに接続 してデータを集めてきて、そのデータを処理することで今までとは違った 新たな可能性が生まれてくると思います。
最初に考えたのは写真付き作業日誌です。文字だけでなく画像を使って ビジュアル化出来れば、もっと直感的に分かり易い作業日誌になると思い ます。デジカメが普及すれば作業中に気づいた事をメモを取るようにデジ カメで画像として記録することが出来るでしょう。その画像を保存・整理 出来るデーターベースがあれば良いわけです。一つの試みとして、このデー タベースをホームページのHTMLで実現する方法があります。今では簡単に 使えるホームページ作成ソフトがありますので誰もが自分のコンピュータ でこれを実現出来ると思います。
作業日誌のデータベースをホームページに作成することにより生まれる メリットもあります。農家が一戸に一台のコンピュータを持ちインターネッ トで接続出来れば全国規模の生産調整が可能になるからです。いつ・どこ で・どれだけの種を蒔いたかが把握出来れば播種日から出荷日をコンピュー タが算出し、さらにその日の出荷総トン数を計算出来るでしょう。そうす れば野菜の価格が暴落する事もなくなると思います。
8bitの時代からインターネットの時代へコンピュータは進化しました。 これからもコンピュータは確実に進化を続けるでしょう。しかし、それを 使うのは私達人間です。私達が有効的な活用方法を考え、いかに使いこな せるようになるか?これが今後の大きな課題だと思います。私は多くの仲 間に囲まれ今を生き、生かされています。私も仲間から学ぶ事が沢山あり 一人じゃなかったからこのソフトが出来たのです。あなたの回りに仲間は いますか?それでは、最後になりましたが御協力頂いた皆様へ感謝をこめ て謝辞とさせて頂きます。