1.出合い
僕はそれまでこの手の魔法少女アニメに偏見を抱いていた。もちろん小さい頃は「魔法使いサリー」は見ていたし、「魔法のマコちゃん」や「魔女っ子チックル」も時々見ていた。でも、あくまでそれは小中学生がテレビをみるだけのことで、特別な思い入れもなく、放送が終わってしまえばほとんど思い出すこともないというレベルのものであった。
ミンキーモモが放映されたときは、僕は大学生になっていた。当時、僕は宇宙戦艦ヤマトに夢中であり、ヤマトファンクラブを主宰してアニメ路線まっしぐらであった。コミケなどで他のグループとの交流もあり、その関係もあっていろいろなアニメを見たりもした。「魔法少女ララベル」などは単に堀江美都子の歌を聞くためだけに見ていた。しかし、当時マイナーに放送されたミンキーモモは知りもせず、放送が中盤にさしかかっているのにも関わらず、その存在すら全く知らなかったのである。
あるとき、会員の一人が教えてくれた。「ミンキーモモって結構面白いよ」。僕は、なんじゃそれは、と思いながら、教えられた時間にテレビを見てみた。そのときは、第21話の「00モモ危機いっぱい」であった。残念ながらその時の作画はあまりきれいでなく、モモというキャラクターにはさほど魅力を感じなかったが、ストーリには大笑いした。また、各所にいろいろなパロディがちりばめられており、「これは子供向けアニメの姿をしているが、実はとんでもないものかもしれないぞ」、とアニメファンの嗅覚が教えてくれた。
続きを楽しみにして見た次の週は、「00モモは勝利の暗号」である。相変わらずふざけたタイトルだなぁと思いながら見ていたが、モモがグルメポッポから秘密メカを出し、シンドブックが「そんなもんあったっけ」と言うと、モモは否定もせずに「なぜかあるのよね」とわざとご都合主義を強調する発言をしたのである。僕はあきれた。「なんという脳天気なアニメじゃ」。でも、これでミンキーモモという作品の波長にようやくシンクロしたのである。こうなってしまっては、ミンキーモモを見逃す訳にはいかない。毎週必死で見ていくにつれどんどん深みにはまっていくことになってしまった。ただ、たまにモモを子供用の魔女っ子ものであると誤解しているスタッフによるつまらない回もあった。しかし、本気になっているメンバーで作った話はすばらしいものだった。
特に年末に放送した42話の「間違いだらけの大作戦」は、予告からして「コナン」のパロディとわかる作りであり、「今年最後の大ギャグをかますつもりだな」と楽しみにしたものである。そして本編は期待以上の作であった。テンポもいいし、内容も面白い。ほとんどずっと笑いまくったあとで、最後に「博士の異常な愛情」のパロディになったときは思わず拍手をしてしまった。また、次の回の「いつか王子さまが」については、それまでと少し作風が違うものの、ストーリー自体の完成度が高く、「スタッフの願望が入っているな」と思いながらもなかなか感動して見ていた。また、この回ぐらいから、兵頭敬の作画の美しさに引かれ、モモというキャラクターそのものをだんだん好きになっていったのである。
僕が見始めた20話前後からはちょうどミンキーモモの黄金期に当たるのだろう。今見直しても、ちょうどスタッフが乗りに乗っており、非常に面白い話が目白押しである。ある意味で、ちょうどいい時期にミンキーモモを見始めたのかもしれない。しかし、僕はこの時点ではミンキーモモという作品を誤解していた。単なる脳天気な、マニアに面白い題材を提供してくれる楽しい作品だと思っていたのだ。そう、第45話「魔法の消えた日」と、これに続く46話の「夢のフェナリナーサ」が僕のミンキーモモ観だけでなく、僕の人生観にも重大な衝撃を与えるということを、まだ知らなかったのである。
2.衝撃
第45話については、最初の方を見ている間はこれが特別な回であることを予期させるものはなかった。ピーターおじさんがでてきて、「言葉をしゃべる動物に会える日を待っていた」というセリフを聞いたとき、自分だったらどうかなと思わず考えてしまい、少しそのあとのセリフを聞きのがした記憶がある。僕もそれを待っているような気がする。以前アメリカのドッキリカメラで、馬小屋にいる競争馬に小型スピーカをつけてしゃべっているように見せ、通りかかった人に次のレースの順位を教えてやるというのがあり、何人かがひっかかっていた。僕はこんな手には乗らない。話している馬の目に知性が感じられないからだ。しかし、もし動物が知性の目の光をもって語りかけてきたら、少し恐怖を感じるかも知れないが、おそらく狂喜するであろう。僕も花の中の妖精、話をする動物の存在を理性では否定しながら、その存在を求め続けているのだ。
ペンダントが撃たれたとき、状況の急展開に驚いた。モモの「いやぁぁぁ」という叫びで心臓が凍る様な気がした。しかし、むしろその後ピーターおじさんが撃たれたときに衝撃を受けた。少しアブノーマルといえないこともないが、とにかく純粋に生きてきたこの心の優しい人が、なぜ、どうせろくでもないことばかりしているこんな連中に撃たれなければならないのだ。現実にはよくある話であるが、だからこそ、モモという物語の中にこういうことが起ったことに衝撃を受けたのである。さらに追い打ちをかけるようにシンドブック達が連れさられ、モモの「どうしてこんなことに・・」というセリフが心に凍みた。なぜモモがこんなつらい思いをしなければならないのかと、怒りがこみあげてきた。実際、魔法を失ったモモは無力なのだ、ただの12才の女の子なのだ、悪という存在に対して抵抗すべき何物も持たないのだ。
その時突然、モモが内蔵しているパワーを発揮したのだ。事件は解決し、急展開のハッピーエンドとなった。しかし、これはあまりに唐突であり、キツネにつままれたようなものである。なんなんだ、と釈然としない思いが残り、モモ自身も笑っているようなよくわからない不自然な表情をしていた。しかし、これは次の46話に続けるために、事件を解決させる首藤剛志のあざとい演出であることに、そのときは気がつかなかったのである。
そして、いよいよ次に46話が始まった。静かな、あたりまえの朝で始まったのだ。いつもと違うのは、ペンダントがないことぐらいである。ペンダントがないことに気づいたモモの、「まぁいいか。」というセリフはモモらしさを大変よく表しており、僕は好きである。モモと同じく楽観主義者の僕でも少しあきれるほどの気楽さだが、あれだけ大切なペンダントを失ったことに対しても気持ちの切り換えをしようとするモモがとてもいじらしく、愛しく感じられた。
話は、そのまましずかに進行して行った。その静かさはそれ以前のモモの話と異質のものであり、変だなと感じさせるのに充分なものであった。そして、王さまがセリフとして「きょうはやたら静かだば」と言った瞬間、何かあると直感した。すでにモモという作品にシンクロしていた僕は、番組中で言葉として演出効果を説明したとき、それは何かを目的としてわざと行っているのだということを理解していたからである。しかし、それは僕の予想をはるかに上回る唐突さでやってきたのである。
「あっ」と思う間もなく、トラックの影がモモの影に重なった瞬間、僕は呆然となった。しかし、心の中ではまだ少し「まさか」と思う気持ちもあった。しかし、その望みを断ち切るかのように、モモの黒枠に入った写真が映されたのである。これに続く映像はここでは説明するにあたらないため、後に示すこととする。とにかく、この瞬間以降、僕は思考停止してしまい、モモの放送が終わってもそのまま茫然としていた。記憶にあるのは、TVのリモコンに偶然あたったのか、その後NHK教育の音楽番組がかかっており、バッハのG線上のアリアが流れてきたのが、あまりにもその時の心境にマッチして、涙が流れ続けていたことである。
3.モモという存在
ここまで読んだ人の中には、「架空の人物に対してなにをバカな」と思っている人も多々あるであろう。しかし、そういう人は、映画を見たり小説を読んだりして感動することも否定するのであろうか。
人はドラマや小説により深い感動を受け、涙する。所詮、作りごとの話なのにである。また、新聞で交通事故死の記事を読んでも、それが知っている人でなければ、痛ましいと思いこそすれ、悲しむことはない。片や架空の人物に対して深く感情移入し、片や実際の人間の死に対しても涙の1つも流さないのである。それはなぜであろうか。その理由は、あくまでその人物をどれだけ良く知っているか、どれだけ自分に深く関わっているかの差によるものである。つまり、人は自分にとっての他者の存在というものを、自分との関わりで評価するものであり、実在かそうでないかはその関わりの1つの要素にしか過ぎないのである。
人が他人を認識する際、テレパシーでもない限りその他人の内面、人格といったその人そのものを完全に認識することはできない。その人の行動、発言を拾い集め、自分が感じるその人像をつくりあげ、自分にとってのその人というものを認識するのである。その人を良く知っているというのは、その情報の量が多いというだけで、その人そのものを完全に認識している訳ではない。あくまで、自分から見たその人を認識しているにすぎないのだ。
量子力学の不確定性原理では、観測できないものは存在しないのと等価である、という考え方がある。これは平たく言うと、どうやっても観測できないものは、ないものと考えても差し支えないということである。つまり、他人の認識をするに当たり、他人の心が直接観測できない以上、自分では他人の自我というものは考えても意味がないものなのである。別に、僕は他人の自我の存在を否定したり、軽んじるつもりはない。ただ、自分から見た他人の認識というものは、それが実在の人物であるか架空の人物であるかということによる決定的な差はないということを言っているのである。
つまり、例えて言えば、僕の近所にモモというかわいい女の子が住んでおり、その子はよく遊びに来てくれてとても良く知っている。その子はとても明るく、その子が話すのを聞いているとこちらまで心が暖かくなり、その子の笑顔を見るととても楽しくなってくるのだ。しかし、その子は社会の暗部を見ると共にとても大切にしているペンダントを壊され、直後に事故死したのである。そのような状況でその子の死を深く悲しんだことを嘲笑されるいわれはないし、涙を流したことを恥じるつもりもない。
モモは僕にとって実在の人物と等価であり、まだ当時僕は学生ではあったが、近所の子どころかまるで娘のような存在であったのだ。あれから15年程経ち、今では、実際に娘を持つ父親になったが、今の自分の目で当時の僕の感情を観察して見ても、娘を思う父親の気持ちにかなり近いものがあったと思うのである。
モモの死以後、数日にわたって放心状態となった僕ではあるが、嘆くだけではモモの供養にもならないと思い直し、テレビにでてきたのと同じモモの黒枠モノクロ写真を作って下宿の棚に飾り、毎日挨拶して出かけるようになったのである。
4.モモの死とは
それまでミンキーモモの世界では、人は誰も死んでいない。過去に死んでいたという例は2回あるにしても、物語中では死者はでていない。ミンキナーサに破壊され、爆発したメカの中にいたスルメッチの親分でさえ、その後逃げていくシーンをわざわざ作っているのである。それにもかかわらず、主人公であるモモがなぜ死ななければならなかったのだろう。・・・それは事故後の王さまとの会話の中から読みとることができる。それを少し引用すると、
「夢や希望は自分で持つものでしょ。人からもらうものでも、人にあげるものでもないわ。・・私は私の夢を見たいわ。夢の国の私の夢じゃなくて、本当の私の本当の夢」
すなわち、モモはこれまで自分が行ってきたことを否定し、夢は自分で持つものであると結論づけているのである。これは、首藤剛志がモモの口を借りて視聴者に語りかけている言葉なのである。
もし、ミンキーモモという物語が46話でも他の話と同じように、誰かに夢を取り戻させ、そのことによって最後のハッピーティアがはまってフェナリナーサが降りてきたらどうであっただろうか。めでたしめでたしではあるが、モモによって夢を取り戻した人は物語中のたかだか数十人であり、あくまで物語の中の閉じた世界の話にとどまるものである。これでは、ほかのアニメと同じくミンキーモモもただのテレビの中の物語に過ぎなかったであろう。しかし、このミンキーモモでは最後のハッピーティアが視聴者に委ねられたのである。表面上は生まれ変わったミンキーモモに委ねられたようだが、人間になったモモというのは視聴者の象徴であり、テレビを見ている人が自分で自分の夢を持ちなさいと語られているのである。このことは、46話の後の予告「もしかすると、あなたのそばにモモが、いいえ、あなた自身がモモなのかもしれませんね」というママのセリフによっても語られているのだ。すなわち、モモのセリフ中の「本当の」という言葉は、現実世界のことを指しているのである。
モモは現実世界の人には物語の中から夢を与えることはできないことに気づいたのである。そして、現実世界の人々が自分で夢を持つようにする唯一の方法としてモモが視聴者自身に生まれ変わるためには、死ななければならなかったのである。キリストが全ての人の罪を負って十字架にかけられたように、モモは全ての人に夢を持たせるために死んで行ったのである。言い替えると、人々が夢を無くしているが故にモモは死ななければならなかったのである。
僕はこのことに思い至って、再び大きなショックを受けた。自分自身を振り返っても夢をなくしつつあったことに気がついた。僕自身もモモを死に追いやった一人なのである。これではあまりにモモがあわれでならない。そう、僕自身はモモのためにも夢と希望をしっかりと持って生きて行こう。僕がモモの死のショックから立ち直ったのはこう決心したからである。この決心を持ち続けるために、モモの写真を飾り、毎日挨拶して自分の決心を再認識していたのである。もし、世の中の全ての人の心がこうして夢と希望に溢れるようになれば、本当にこの世の中がフェナリナーサになるであろう。ミンキーモモという物語は、こうして物語の枠を越えて現実世界に干渉してきたのだ。
後に続く、赤ちゃんモモの夢の話についても、大変良くできている。少し裏の事情の説明をするが、「間違いだらけの大作戦」辺りでミンキーモモは放映打ち切りの決定があったようである。このため、この話で一気に2つもハッピーティアがはまったのだ。そして物語を急速に終演に向かわせたとき、こんどは放送延長が決まったのだ。なんということだと狼狽したスタッフが苦肉の策で考えたのが、悪夢と戦う赤ちゃんモモなのであろう。この辺りはさすが首藤剛志というべきである。夢を持って生きていく上での障害、つらさを表現し、世の中の流れに身をまかせてなんとなく生きて行くのではなく、本当の夢を持つということはどういうことなのか、決してそれが楽なものではないということを視聴者に語りかけているのだ。しかし、これら赤ちゃんモモのお話はモモの夢になぞらえてはいるが、あくまでも現実世界への提言であって、ミンキーモモの世界のお話ではないのだ。やはり、夢の国のプリンセスミンキーモモは46話で死んでしまったのである。
5.僕の中のモモ
こうしてモモは僕の心の中に住むようになった。僕はいつもモモと一緒であった。モモファンであることを公言してはばかることがなかったのである。
当時、僕は大学の時も大学院の時も、応援団でもないのに冬場はずっと学生服を着ていた。その服の下にはモモのデチョンパ(モモのペンダントで、中が時計になっている)を首から下げており、ポケットにはモモの本「いつかきっと」がいつも入っていた。同級生から何度も「その格好なんとかならんか」と言われたが、関西近郊でイモの代名詞となっている「阪大ルック」と呼ばれるチェックのワイシャツにジーパンという無個性な格好をしている連中に、ファッションのことを言われても、全然こたえないのである。また、工学部だった我々は実験用のつなぎを持っていたが、その背中に染料で大きくミンキーモモの絵を描いており、その格好でキャンパスをうろついて共通一次に来た受験生のどぎもを抜いたものである。もちろん夕食はモモの再放送の時間に合わせて、その格好で食堂に行き、テレビの一番前に陣取ってモモを見ながら食事をした。後に人から聞いた話では、後ろから見ると、テレビ画面と同じ服を来た奴がテレビにかじりついており、ニュースを見たくても恐ろしくてチャンネルが変えられなかったとのことである。
これだけではない。講義用ノートは手製のモモノートであり、設計製図の時間は、「モモのおべんきょうセット」についていた鉛筆と定規で図面を描き、「パターン認識論」のレポートには、モモの作監別の顔のパターンについて研究した成果を提出して教授をうならせ、「優」をもぎとったのだ。また、研究用の電子顕微鏡にはモモのフィギュアが乗せてあり、モモが解説する大学院受験用の傾向と対策集を作成して、これは今も機械工学科に代々引き継がれている。・・ほかにも挙げればきりがないが、学生時代の僕はモモの世界にどっぷり浸っていたのである。
ある日コミケに行ったときのことである。ふと表紙にモモの絵を描いている同人誌が目に止まった。内心で「おお、同志よ」と思いながら中を開いて仰天した。なんと、モモが服を着ずにひどいポーズをさせられているではないか!僕は呆気にとられた。こんなことをする奴らがいることをそれまで知らなかったのである。体が怒りに震えた。こいつらはミンキーモモから何も学んでいないどころか、モモを落としめるようなことをしているのだ。原始社会でなら生かしておかないところであるが、法治国家の下ではそうもいかない。その本を机に放り投げ、「おまえら変態か」といって睨みつけるのがせいぜいであった。僕に睨まれた彼らは濁った笑いを浮かべるだけであった。
聖書の中に、「女性に対して淫行することを想像しただけで、実際にしたのと同じ罪を犯したことになる」という考えがある。とても高尚な考えだと思う。僕はキリスト教も宗教も嫌いであるが、聖書にはたまにいいことが書いてあると思う。この言葉は、考えた本人は自分自身に対して罪を犯したことになるということを言っているのである。しかし、別に対象の女性自身は何等凌辱されたことにはならない。現実の女性はである。だが、架空の人物は違う。先述のように、架空の人物は本人の心の中に住んでいるのだ。だから、脆く、壊れ易く、本人の考えによってどうにでもなるため、とても大切にしてやらねばならない存在なのである。僕は彼らの中ではモモはそういう存在になってしまっていることに耐えられなかったのである。彼らは自分達自身の罪を犯しただけではなく、モモを実際に落としめたのである。
だから僕は変態のロリコン野郎が嫌いである。モモファンというだけで、奴らと同等の目で見られるのが、とても悲しい。自分がどう評価されるのかは気にならないが、ミンキーモモという作品が奴らのおかげで一部から「その手の作品」と評価されていることが悲しいのである。もう、奴らは奴らの道があるのだろう。勝手に地獄に落ちればいいのだ。
6.結論
僕の中にはいつもモモがいる。モモがいつも僕に道を示してくれる。僕はモモの言う通り、人生で夢を持ち続ける選択をしてきた。夢と言っても、宝くじを買うような他力本願な夢はモモの教えるところではない。自力でつかむ夢のことだ。もちろん時には選択を誤ってしまったこともある。しかし、自分の心が本当の夢にベクトルを合わせている以上、その失敗は肥やしとなるのだ。決して後悔はしない。自分がこの気持ちを持ち続けている限り、いつかフェナリナーサが降りてくる日が来るであろう。
モモは僕にどう生きるべきかを教えてくれたのだ。だから、僕はミンキーモモが好きだ。
結言
ミンキーモモはとても重いテーマを持つ作品であるが、また、とても楽しい作品でもある。僕はミンキーモモという作品をもっと深く見たいと思うと同時に、もっと楽しみたいと思う。ミンキーモモはシャレの世界でもあるのだ。だから、モモファン達と一緒にミンキーモモを楽しめるように、パロディも描くし、楽しくモモについて語りたいのだ。この素晴らしいミンキーモモという作品を、もっと、もっと、多くの人にも楽しんでもらいたいと思うのである。そのことが、フェナリナーサを少しでも早く地球に戻らせることにつながるものと信じている。
謝辞
ミンキーモモという素晴らしい作品を送ってくれた、首藤剛志さん、湯山邦彦さん、芦田豊雄さん、兵藤敬さん、小山茉美さんをはじめ、スタッフの方々に感謝します。
参考文献
別ページに示す。
−以上−
Oct. 2nd 1996