1、開戦から「大西洋の戦い」へ
【1939/9月〜1940/6月】
・ドイツ海軍の潜水艦部隊は、「大部隊による通商破壊戦によって、早期にイギリスを屈伏させる」という戦略目標にもかかわらず、ヒトラーによる予想外の英仏との早期開戦によって第2次大戦をまったくの戦力不足でむかえ(大西洋作戦に常時投入できたのは7隻)る羽目になりました。
その上、やっかいな国際法規問題や、ヒトラーからの厳重な攻撃制限のため(戦局の全面戦争化と共に次々撤廃)、ほとんど連合軍の商船に対して戦果をあげれない日々が続きます。
しかし、本質外の「39.9/17 英空母カレジアス撃沈」「39.10/14英スカパフロー軍港に停泊中の戦艦ロイヤルオークの撃沈」等のイギリス軍艦の撃沈よってUボートは評価されはじめるきっかけをつかむのです。
そして、40.4月〜6月の対ノルウェー戦(で魚雷の欠陥が発生)以後、ドイツ潜水艦隊司令長官カール・デーニツッはUボートを連合軍の大動脈・Uボートの本来の目標、つまり大西洋の船団攻撃へと集中投入できるようになり、これが1940年6月、英首相チャーチルが命名したといわれるバトル・オブ・アトランテック(大西洋の戦い)のはじまりとなるのです。
2、Uボート「黄金期」とエース時代。
【1940/6月〜1941/3月】
・大西洋の戦いは、Uボートの集中使用、フランス(占領による)の港の使用による活動圏の拡大、夜間の水上攻撃によって撃沈された船舶は開戦以来最高に達し(Uボートの損害は微少)Uボートにとってまさに「黄金期」に始まりました。
・この時点のUボート部隊は集団戦術をするにはまだ数不足で、単独活動で独航船を撃沈するエースが多数生まれました。
・しかし、最初はお粗末だった連合軍の護衛能力は、船団制の普及/充実、41年にもなるとヨーロッパでの戦局が一段落つき英本土上陸に備えていた戦力の大西洋への投入・航空援護の改善・新型レーダーの導入によって強化され、41.3月の1週間足らずにU47「プリーン」、U99「クレチュマー」、U100「シュプケ」の3人のエースを立て続けに失うにおいて、エース時代は終りを告げ、集団攻撃による「ウルフパック」が主体戦術になっていくのです。
3、集団戦術とアメリカの影。
【1941/3月〜1941/12月】
・Uボートの集団戦術は、デーニツッが第1次大戦の苦い経験からUボートにとって最良/最適の戦術として考えていたもので、Uボートの数や練度も充実しつつあり、いよいよこの戦術で戦果を拡大しようとしていました
しかし、このデーニツッとUボート部隊に暗い影が2つ落ちていました。
・1つは、Uボートの本質を理解しないヒトラーや国防軍最高司令部によって、41年の夏から年末にかけて多数のUボートが大西洋の船団攻撃から引き抜かれて、集団攻撃を崩され。また、ドイツ潜水艦隊には支援のための直属の航空兵力が無く、空軍の協力もほとんど無しか、役立たず状況だったのです。
・2つ目は、中立の立場でありながら連合軍に有利な政策を打ち出し、Uボートと実質的に戦闘状態に入っている強大なアメリカの影は、攻撃制限を課せられるUボートとデーニツッにとってかなりの重圧でした。
ですが、その「宣戦なき戦い」を行なってきたアメリカと、41.12/9 に戦争状態になり、これはUボートに新たな戦場と可能性をもたらすものになったのです。
4、窮地の連合軍と逆転への鍵。
【1942/1月〜1943/3月】
・いざ参戦したアメリカでしたが、まったく船団護衛体制がなっておらず(当初は灯火管制も行われていなかった)、アメリカ沿岸やカリブ海で少数のUボートしか投入できなかったにもかかわらず大損失をこうむり、Uボートに「第2の黄金期」(1月ー6月)といわしめ、これはその海域に船団制がひかれるまで続きます。
ですがUボート側は、大戦果があがる反面、相変わらず多数のUボートが他戦線に引き抜かれ効果的な使用ができないことや、連合軍が次々新型レーダーを導入してUボートを奇襲するようになり、その防御対策が後手になっている、つまりUボートにとって致命的になりかねない「技術の戦い」で遅れをとっているということがデーニツッを悩ませていました。
・「第2の黄金期」後、戦いは再び北大西洋の船団航路に戻り、敵制空圏下では船団攻撃がかなり困難になったUボートは、敵機の行動圏外(ギヤップ)の海域で作戦をするようになり、激戦が繰り広げられました。
また、連合軍が42.11 月に行なった「トーチ作戦」(北アフリカ上陸作戦。ドイツ側はまったく事前探知できず、大成功に終る)に護衛艦が多数引き抜かれたこともあって、Uボートの損害も増加していましたが、連合軍の損失船舶トン数は恐るべき数字にまで上昇し、年の明けた43年/春になってもこの調子がつづき、このような損失が以後も続けばいかに物量をほこる連合軍といえど人員・士気的に耐えきれるものではなく、今までの連合軍が大西洋に投入した膨大な労力/努力を否定し、もはや連合軍の敗北は必至か?と思わせたのでした・・
5、大西洋の戦いの転換期と終焉。
【1943/3月〜1945/5月】
ですが、突然43.3月を境にUボートは大損害を受け、戦果は激減します。これは、連合軍の長年の努力(護衛空母の投入、船団の大型化、指揮系統の改善、護衛艦の対潜兵器/練度の上昇、等)と従来の防御戦略から攻勢戦略への劇的な転換が相乗効果として吹き出し、Uボート側が必死にかかえていた主導権を一気にもぎとってしまったからでした。
あまりにも急激に戦局が逆転したので、デーニツッは大西洋の状況を把握できず、その損害の多さに5月には一時Uボートを船団航路から撤退させたほどでした。 「Uボートは封殺された」のです。
・しかし、連合軍の膨大な戦力をヨーロッパよりも大西洋ヘの投入を強要していた、デーニツッとUボートはこのまま引き下がるわけにはいきません。
もはや従来のUボートでは戦えないことは明白で、7月には根本的に進化した新型Uボートの具体的な計画が動きだしましたが、実戦投入はかなり先の話で、それまではなんとか今その戦局を耐えぬく必要がありました。それは、Uボート部隊にとって地獄を意味しました。
再び激戦が開始されましたが、Uボートは戦果のわりには大損害を出すようになり、デーニツッはこの破滅的な戦局から希望をみいださんと数々の努力を行ない、8月末には新型魚雷・新型探知機・強化された対空装備を施したUボート戦隊を出撃させましたが、船団攻撃は不成功に終わりました。
・さらに連合軍は、ポルトガルと協定を結び10月にアゾレス諸島を航空基地にしたのでUボートはますます活動範囲を狭められ、11月になるとUボートの劣勢は誰の目にも明らかになり、44年になっても戦局の主導権は完全に連合軍にあり、デーニツッの努力も無情に打ち砕かれる状況が続きました。
新型UBが導入されるまでの橋渡し的「スノーケル装備」を施したUボートもまずまずの能力を示し、地獄の戦場で戦うUボート乗組員にとって最も現実的な希望の光でしたが、万能・無敵ではなく、数不足で戦局を動かせるものではありませんでした。
・こうしてUボートを封殺し、ヨーロッパへの反攻作戦の大前提「大西洋の制海権」を確立した英・米連合軍は6月に北フランス上陸作戦を敢行し、ドイツ打倒の一歩をふみだしたのです。
そして、フランスの港から叩きだされたUボート部隊は、新型Uボートの導入によってあれほど苦労して確保した連合軍の主導権を再び奪い返されるのでは?という不安感をドイツ降伏まで連合軍首脳部にいだかさせつつも、2度と大西洋で大作戦を行なうことなく敗戦を迎えることになるのです。 |