「Fin-ナポレオン.ヒストリカルノート」
ナポレオンをめぐるヒストリカルノートをお届けします。
ゲームの開始時はナポレオンが皇帝になった時期からなのですが、ここではナポレオンの一生を軍事活動を中心に記していきます。
ナポレオンをよく知らなかった方はこれでおおまかな彼の経緯をとらえてください。
【コルシカ島生まれのフランス人】
【トゥーロンと政略抗争の嵐】
【イタリア戦役】
【エジプト遠征】
【アルプスを越えて】
【皇帝ナポレオンの誕生】
【プロイセン戦役】
【スペインの陽炎】
【オーストリア戦役】
【ロシア遠征】
【諸国民の戦い】
【フランス本土の戦い】
【百日天下】
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フランスがコルシカ島の領有を宣言してわずか1年後にナポレオン・ボナパルトはフランス国籍の子として誕生した。
かなり早い時期から軍人を志していたこの少年は、ブリエンヌ陸軍幼年学校を経てパリの陸軍士官学校に入学し異例の早さで卒業する。
砲兵少尉として日々を送るうちにフランス革命が勃発!ナポレオンもコルシカ独立の動きに荷担しようとするが裏目に出て島の英雄パオリ派との抗争に発展してしまう。
パオリ派との抗争はコルシカ島出身ナポレオンをフランス人として目覚めさせていったのである。
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1769.08月-8/15.コルシカ島
1779.04月-ブリエンヌ陸軍幼年学校入学。
1784.10月-パリの陸軍士官学校入学。
1785.09月-砲兵隊に配属。
1789.07月-7/14.フランス革命勃発。
1793.02月-第1次対仏同盟成立。
1793.06月-ボナパルト家、フランス本土に移住。
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フランス革命下にあって冴えない境遇にあったナポレオンは反革命についたトゥーロン港攻略に派遣される。非軍人出身者が多い革命軍の上級将校に悩まされながらもボナパルト少尉は雨の早朝に総攻撃を決行。砦での攻防戦ではナポレオン自身も負傷する混戦であったが、ついにトゥーロンを陥落させたのである。
この勝利でナポレオンは三階級特進し陸軍少将となる。
一躍、国民的英雄となったボナパルト少将であったがテルミドールのクーデターが起こり、以前からロベスピエール派と見られていたため、権限を剥奪され投獄される羽目に陥った。
証拠不十分で釈放され軍職に復帰するが窓際ポストしか与えられず、結局現役将官リストから外され失業者になる始末であった。
そんな時、王党派によるヴァンデミエールの反乱が発生する。ボナパルトは国内軍司令官のバラス側につき得意の大砲を駆使した防御で圧倒的な反乱軍を打ち破り、バラスの危機を救ったのである。
この勝利によって、やがて総裁政府と五百人会議が成立しボナパルトはバラスから国内軍最高司令官の地位を譲り受けるのである。
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1793.12月-トゥーロン港攻略。
1794.07月-テルミドール9日のクーデター(ロベスピエール逮捕・処刑)。
1795.10月-ヴァンデミエールの反乱。国内軍最高司令官に就任。総裁政府の成立。
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イタリア遠征軍司令官に任命されたボナパルト将軍はイタリアに赴任し、質の低下しきっていたイタリア方面軍を立て直すと供に、ミラノを目指して進撃を開始した。
アッダ河畔のロディでオーストリア軍と対峠したフランス軍は渡橋をめぐって膠着状態に陥ったが、突如ボナパルト将軍が自ら突撃を開始!これにつられたフランス軍の突撃にオーストリア軍は浮き足立ち退却していったのである。
カスティリヨーネに進出してきた優勢なオーストリア軍を各個撃破したフランス軍はマントヴァ要塞の包囲を続ける。
バサーノでオーストリア軍を奇襲撃破したが、オーストリア軍はマントヴァの救出を諦めない。
沼沢地のアルコレに陣取ったオーストリア軍に対するフランス軍の正面攻撃はことごとく失敗し、ナポレオン自身も橋を突撃中乗馬を撃たれ河中に転落し一時オーストリア軍の中に取り残されるという有様であった。
膠着状態の戦況であったが正面攻撃に失敗し敗走するマッセナ軍を追ってオーストリア軍がノコノコ出てきた機を逃さず側面攻撃に転じ激戦のすえオーストリア軍を敗走させたのである。
再びマントヴァの救出に出てきたオーストリア軍をマッセナの活躍でリヴォリで撃破し、マントヴァのオーストリア守備隊も遂に投降する。
フランス軍はさらに進撃を続けオーストリアとの和平条約、レオーベン仮条約、後にカンポ・フォルミオ条約をとりつけたのである。
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1796.01月-イタリア遠征軍司令官に任命。
1796.03月-ジョゼフィーヌと結婚。
1796.05月-ロディの戦い。
1796.08月-カスティリヨーネの戦い。
1796.09月-バサーノの戦い。
1796.11月-アルコレの戦い。
1797.01月-リヴォリの戦い。
1797.02月-マントヴァ投降。
1797.04月-レオーベン仮条約締結。
1797.10月-カンポ・フォルミオ条約締結。
1797.12月-パリに凱旋。
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常勝将軍としてパリに凱旋したナポレオンの人気は総裁政府にとって疎ましいものであった。
ボナパルト将軍は「イギリス方面軍」最高司令官に祭り上げられエジプト遠征を決意する。
遠征軍はアレルサンドリアに上陸しシブラキットとピラミッドを望める地点で族長ムラード率いる地元軍を撃破後カイロに入城する。
一方、ネルソン提督率いるイギリス艦隊に攻撃されアレルサンドリア付近に留まっていたフランス艦隊は壊滅してしまう。
ボナパルト将軍はシリア方面に進出をはかるがヤッファの激戦を経るもヤクレを突破できずに、砂漠の厳しい風土や疫病・敵軍に悩まされカイロへの撤退を余儀なくされる。
アブキールにトルコ軍が上陸したがフランス軍は反撃に転じこれを壊滅させたのである。
このようにエジプトで悪戦苦闘しているうちに本国では総裁政府が王党派に圧され、イタリアも再びオーストリアの影響下に落ちている情報が入り、ボナパルト将軍は遠征軍を残して軍事的には何も得るものがないままエジプトを去り帰国する。
残ったクレベール将軍(途中で暗殺される)と2万の兵は以後降伏するまでの丸2年を戦い続けることになるのであった。
パリに着いたボナパルト将軍は無能な総裁政府を見限りクーデターを画策する。
中道派のシェースと手を組み(右派(王党派)や左派(ジャコバン派)では混乱が予想された)、弟のリュシアンやボナパルト将軍に期待する人々に助けられ危なげではあったもののクーデターは成功し臨時執政政府が成立する。
ここにボナパルト将軍から第一執政ナポレオン・ボナパルトが誕生したのである。
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1798.05月-エジプト遠征出発。
1798.06月-マルタ島占領。
1798.07月-シブラキットの戦い。
1798.07月-ピラミッドの戦い、カイロ入城。
1798.08月-アブキールの海戦(フランス艦隊壊滅)。
1798.12月-スエズ占領。
1799.03月-第2次対仏同盟成立。
1799.04月-ヤッファの戦い。
1799.07月-アブキールの陸戦。
1799.08月-エジプトを脱出。
1799.10月-パリに凱旋。
1799.11月-ブリュメール18日のクーデター。
1799.12月-第一執政に就任。
1800.01月-マルタ島の守備隊降伏。
1801.09月-フランスのエジプト遠征軍、イギリス軍に降伏。
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エジプト遠征の間に再びオーストリアの影響下に落ちしまったイタリアを取り戻すため、ボナパルト第一執政はアルプス山脈を5つのルートから越え一気にイタリアへ進撃した。
ジェノヴァでマッセナ将軍(結局、開城するが武装したまま撤兵)を長期包囲していたオット将軍のオーストリア軍をランヌ将軍がモンテベロで撃破し、続くオーストリア主力軍をマレンゴでの最初の劣勢の状況をくつがえし撃破したのであった。
マレンゴでの勝利によってフランスはイタリアの半分を奪回し、ヨーロッパの反フランスの動きを抑制することができた。
更にオーストリアに圧力をかけるためフランス軍はオーストリアに向けて進撃し、ホーエンリンデン会戦でオーストリア軍を敗走させ、リュネヴィル条約をとりつけたのである。
これ以後、皇帝につくまでナポレオンとヨーロッパは微妙に搖れ動く。
フランスとの和平を希望していたロシアのパーヴェル一世が暗殺されアレクサンドル一世が即位。
デンマークへのイギリス艦隊の砲撃。フランスのエジプト遠征軍、イギリス軍に降伏。
戦争が長引いてほしくないイギリスとのアミアン条約。
ロシアとの和平条約。ローマ教皇との政教和約。国民投票による終身執政に。
スイス内紛問題に介入。ロシアと協調してドイツに介入。イギリス、アミアン条約を破棄。
ナポレオン暗殺計画発覚。そして皇帝への国民投票で圧倒的な支持を得たのである。
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1800.05月-アルプス越え(対オーストリア戦争再開)。
1800.06月-モンテベロ会戦。
1800.06月-マレンゴの戦い。
1800.12月-ホーエンリンデン会戦。
1801.02月-リュネヴィル条約締結(オーストリアと講和)。
1801.03月-ロシアのパーヴェル一世暗殺。
1802.03月-イギリスとアミアン条約締結。
1802.08月-終身執政になる。
1803.05月-イギリス、アミアン条約を破棄。
1804.03月-ナポレオン法典発布。
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1804年12月2日。ノートル=ダム寺院において戴冠式が行われた。
フランス皇帝ナポレオン一世の誕生である。
当時のフランスはフランス革命の余波で内外に敵をかかえ、混乱と不安定な状態であった。
ナポレオンとしては内外共に情勢を安定させる必要があったが、イギリスを黒幕とする対フランスの動き(第3次対仏同盟)は活発化し、フランス大陸軍は対オーストリア戦争にと動きだした。
ウルム会戦で勝利し(オーストリアのマック将軍を包囲降伏)たのも束の間、トラファルガー海戦(ネルソン率いるイギリス艦隊に捕捉・攻撃されフランス・スペイン艦隊は壊滅した。以後、強大なイギリス海軍の制海権を脅かす事はできなくなってしまった)報が伝わりナポレオンのイギリス本土侵攻構想は崩れてしまう。
陸での決定的な勝利を求めるナポレオンはアウステルリッツの戦いで、後に戦争芸術と称される見事な采配をふるってオーストリア・ロシア連合軍を打ち破り、オーストリアとの和平状態に入ったのである(プレスブルグ条約)。
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1804.04月-ナポレオン皇帝即位。
1805.08月-第3次対仏同盟。
1805.10月-ウルム会戦。
1805.10月-トラファルガーの海戦。
1805.12月-アウステルリッツの戦い。
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1806年7月、ナポレオンは神聖ローマ帝国を解体させ(神聖ローマ皇帝フランツ二世はただのオーストリア皇帝フランツ一世になる)ライン連邦を形成する。
連邦諸国はナポレオンの息がかかった人間が配され、フランス防衛の外壁の意味があった。
だが、これで面白くないのはプロイセン。さらにナポレオンがプロイセン軽視の政策を行ったことから反フランス気運は高まり、イギリス・ロシアにそそのかされたプロイセンはフランスと交戦状態に入った。
ナポレオンはすぐさま得意の機動戦で、フリードリヒ大王時の栄光と伝統を引きずった時代遅れのプロイセン軍をイエナ・アウエルシュタットで決定的に打ち破り、ベルリンに入城した。
イギリス封じ込め政策、ベルリン勅令(大陸封鎖令)を出したナポレオンは、ポーランドにあるプロイセンの飛地領土に逃げ込みロシアの保護下にいるプロイセン王を捕捉するためポーランドに兵を進めた。
プルトゥスクの戦いを経てアイラウでロシア・プロイセン軍に苦戦を強いられたナポレオンは、東ヨーロッパの厳しい冬の間兵力の回復に務めた。
6月に進撃を再開したナポレオンはフリートラントでロシア軍を決定的に撃破し交戦能力を奪い、ロシア後ろ楯を失ったプロイセン王はフランスとテルジット条約を結び国土の半分を失ったのであった。
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1806.07月-ライン同盟成立(神聖ローマ帝国崩壊)。
1806.10月-イエナ・アウエルシュタットの戦い。
1806.11月-ベルリン勅令(大陸封鎖令)。
1806.12月-プルトゥスクの戦い。
1807.02月-アイラウの戦い。
1807.06月-フリートラント会戦。
1807.07月-テルジットの和約(ワルシャワ大公国設立)。
1807.12月-ミラノ勅令(大陸封鎖令強化)。
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ナポレオンはフランスとイギリスの狭間で搖れ動くスペインを制圧しようと兵を差し向けた。
しかし、スペインの険しい地形・気候やゲリラ戦に苦戦していたフランス軍が、8月に上陸したイギリス軍に撃破されてしまう。予想外の苦戦にナポレオンは自らスペイン遠征へと向かい首都を制圧し、イギリス軍をイベリア半島からたたき出すことに成功する。
だが、スペインでのフランスの苦戦の報は、ヨーロッパ各国の態度に微妙な波紋を投げかけていた。
以後、イギリス軍がポルトガルに再上陸し、不毛の大地でマドリードを取ったり取られたりの泥沼の戦いが続き、フランスの威信を守るために大兵力を釘づけせざるおえないスペインはナポレオンの重大な負担となっていったのである。
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1808.05月-スペインで反仏蜂起(半島戦争始まる)。
1808.06月-スペイン・ブルボン王政廃止(ジョゼフ・ボナパルトが王に)。
1808.11月-ナポレオンのスペイン遠征。
1809.01月-イギリス軍、ポルトガルから脱出。
1809.04月-イギリス軍、ポルトガルに再上陸。
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1809年02月、オーストリアはスペインで苦戦し兵力をとられているフランスに対して開戦を決定した。
ナポレオンのイギリス封じ込め政策「大陸封鎖令」は効果があがらないばかりか、大陸諸国に不評で反フランス感情増徴の一因となっていた。ここでもイギリスは黒幕として大活躍である。
スペインから戻ったナポレオンは迅速に行動し先手をとる。アーベンスベルク、エックミュールでオーストリア軍を撃退し、ウイーンを占領する。
そして、ドナウ河渡河時のアスペルン、エスリンクの戦いでかってない大苦戦を強いられたが、両軍兵力増強後のオーストリア軍カール大公との激戦.ワグラム会戦でオーストリア軍を退却させ和平条約をとりつけたのである。
また、ナポレオンは子供に恵まれない皇后ジョゼフィーヌと離婚を決め、フランス新皇后にオーストリア皇女マリー・ルイズを迎えたのであった。
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1809.02月-オーストリア開戦。
1809.04月-アーベンスベルク、エックミュールの戦い。
1809.05月-アスペルン、エスリンクの戦い。
1809.07月-ワグラム会戦。
1809.10月-シェーンブルンでの和平条約。
1810.04月-オーストリアのマリー・ルイズ。フランス新皇后に。
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「あーおもしろくねー。フランスの成り上がり皇帝がいつまでもでかい顔しやがって。大陸封鎖令だと、ケッ!こっちは農業で商売してんだ!フランスの穀物なんていらねえんだよ、おかげで大赤字じゃねえか。スペインで苦戦しているからざまあみろと思っていたら、オーストリアから姫もらって仲良し子良しだと、あーおもしろくねー。だいたいこのロシアが黙っていると思っていい気になってるんじゃねーか?誰のおかげでそんな好き勝手できると思ってるんだ!ポーランドはロシアの物だぞ、わかってんのか!あーおもしろくねー。文句あるンならかかってこいよ、ホレホレ。スペインに片足突っ込んだてめえにここまで来る余裕があるんならなーケケケケケケケケ」。
これが、当時のロシア皇帝アレクサンドル一世の本音だったといえる。
とにかく、ロシアは大陸封鎖令の破棄や各種外交交渉で必要以上にフランスを刺激し続けたのである。
1812年6月、ついにナポレオンは総勢45万余りのフランス大陸軍と共にロシア遠征へと向かった。
ところが、進撃しても敵の姿はなく、町や橋は破壊され、何も残っていないロシアの焦土作戦が待っており、フランス軍は極度の補給不足に陥り(フランス軍は現地自給が原則でそれが高機動力にもつながっていた)、戦闘以前に兵力は消耗して行ったのである。
スモレンスクではフランス軍の連携ミスでロシア軍を取り逃がす失態が起き、早期にロシア主力軍を撃破して講和に持ち込みたいナポレオンのあせりは募るばかりであった。
ロシア軍の中にも退却続きの焦土作戦に不満の声があがり、ボロデノで両主力軍が激突したが、ここでもナポレオンは決定的勝利を逃してしまう。モスクワに入城したナポレオンはロシアの和議を期待したが、ロシア軍はフランス軍が消耗しきるのをじっと待っていた。
そして、ロシアの過酷な冬が訪れ始めた10月下旬、ついに耐え切れなくなりモスクワからのフランス軍の退却は地獄と化した。
極寒の中でロシア軍の猛烈な追撃を受けフランス軍は溶けるように消耗していき、ロシア遠征はナポレオンに大敗北と大陸軍の崩壊をもたらしたのである。
ナポレオンは一足先にパリに戻り大陸軍の再建を急がねばならなくなった。
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1810.12月-ロシア、大陸封鎖令を破棄。
1812.06月-ロシア遠征始まる。
1812.08月-スモレンスクの戦い。
1812.09月-ボロデノ会戦(モスクワ入城)。
1812.10月-モスクワからフランス軍の退却。
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ロシアでの敗北は、ヨーロッパ諸国の反仏活動を一気に活発化させそうな報であった。
ナポレオンは早急に軍を再建し、文句なしの勝利を得るため1813年4月パリから出撃した。
戦場はドイツに移っており、標的はロシア・プロイセン軍である。
リュッツェンとバウツェンでロシア・プロイセン軍を撃退したナポレオンは、プロイセンからの休戦交渉に応じてしまう。
だが、これはオーストリア外相メテルニヒの罠であった。
連合軍の腹はすでに決まっており、プラハ会議は連合軍が展開する為の時間稼ぎであった。
そして、休戦期限が切れるとプロイセン・ロシア・オーストリア軍は一斉に動きだしたのである。
機動戦で次々連合軍を撃退していくナポレオンだったが、決定的戦果をあげれず戦況はじりじり悪化をたどる。
すでにこの頃のフランス軍は絶頂期のフランス軍ではなく、ロシア遠征の失敗で指揮官や兵の質が低下しており、騎兵(馬)の補充がままならず敵陣突破や追撃戦などの決定力が不足していた(部隊が大損害を出すのは、戦闘で負けバラバラグシャグシャの敗走状態時に騎兵の追撃を受けた時である)。
また、かってフランス軍を支えナポレオンの片腕であった将軍の中には、自分の保身を優先する者や、ナポレオンに反旗を翻す者まで出ているのである。
ナポレオン自身、歳をとり、体力は衰え、持病を患っていた。
連合軍もナポレオンをなめていた昔の連合軍ではなく、対ナポレオン案→ベルナドットプラン(フランス軍で強いのはナポレオンだけなので、ナポレオン本隊との戦闘さえ避ければフランス軍などたいしたことはない、という案。元フランス将軍ベルナドットが考案)を用意し、各国の部隊もかってないほど集中している。
ナポレオン無敵神話は消えつつあった。
ドレスデンで敵を撃破したナポレオンだったが、他の戦場ではフランス軍は次々敗退。
続々増援が到着する連合軍に対し、徐々に消耗していくだけのフランス軍はライプチヒからの撤退を余儀なくされる。
そして、ドイツやスペインでは残されたフランス軍は次々降伏していくのである。
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1813.03月-ドイツ解放戦争始まる。
1813.05月-リュッツェンの戦い。
1813.05月-バウツェンの戦い。
1813.06月-プラハ会議。
1813.08月-ドレスデンの戦い。
1813.10月-ライプチヒの戦い。
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フランス本土に進攻する連合軍。だが、戦場がパリに近付くにつれ戦闘域が狭まり接触されやすくなったナポレオン本隊のすざまじい反撃に次々撃退されていく。しかし、ナポレオンが奮戦連勝している間にパリはろくに抵抗しないまま連合軍に占領されてしまう。
すでにフランス市民や将軍達の間には厭戦感が高まっており、ナポレオンはパリ奪回の進軍をすることなく無条件退位を余儀なくされたのだった。
権力を失ったナポレオンの側に、自ら残ったのはマクドナルド元師と近衛兵達だけであった。
ナポレオンはエルバ島に流される。
ナポレオンなき後のウィーン会議は、各国の思惑が乱れ飛び紛糾していた。
毎夜華やかな舞踏会が繰り広げられるだけで、会議は何も進展しなかった。
フランスに舞い戻った亡命貴族達は革命もナポレオンもなかったかの様に振る舞いはじめ、ルイ18世の政策は評判が悪かった。
人々は、良きナポレオン時世を思い返すようになっていた............................。
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1814.01月-フランス戦役。
1814.03月-連合軍パリ入城。
1814.04月-ナポレオン退位、ブルボン復古王制。
1814.05月-エルバ島流刑。
1814.09月-ウィーン会議(〜15.6月)。
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ルイ18世によるフランス新政府の悪評はエルバ島のナポレオンにも届いていた。
ナポレオンは周到な準備の後エルバ島を脱出。危険と思われたパリへの道のりも衰えぬそのカリスマ性で通過する地の守備隊が次々合流し大軍団となってパリ入城をはたす。
ウィーン会議で内輪もめしていた連合国は復帝したナポレオンに宣戦布告し、進撃を開始した。
総兵力に劣るナポレオンは、まずベルギー方面にいるイギリス・プロイセン軍を撃破し早々に脱落させようという狙いで進撃した。
リニーでプロイセン軍を撃退したものの、カトル・ブラ→ワーテルローのイギリス軍に手間取るナポレオンもフランス軍も全盛時のそれとは違っていた。判断や指揮上のミスが重なりいたずらに兵力と時間を浪費している内に、側面から敗走中のはずのプロイセン軍の来襲を受けフランス軍は一気に崩壊する。
近衛兵に護られてパリに戻ったナポレオンは退位した。
そして、セント.ヘレナ島に流されたナポレオンが三度と皇帝に就くことはなかったのである。
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1815.02月-ナポレオン、エルバ島脱出。
1815.03月-ナポレオン、パリ入城。
1815.06月-ワーテルロー戦い。ナポレオン退位。
1815.10月-セント.ヘレナ島に流刑。
1821.05月-セント.ヘレナ島で永眠(51歳)。
1840.12月-遺骸、パリに戻る。
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■□■□■□■□■ 『ヒストリカルノート』 1997.2.1 □■□■□■□■
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きけがわあきお(亀卦川彰夫)
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『その瞳に、宿したい。- AKP -』 Copyright 1995-1997 AKIO KIKEGAWA