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ロートレックについて

      小松敏郎

はじめに

 私のロートレックの絵との出会いは十二、三歳のころ、当時、東京の営団地下鉄のポスターでロートレックのムーラン・ルージュ:ラ・グーリューのパロディーにしたものがあって、それを鉄道ジャーナルという雑誌の記事で目にしてアカデミックな絵とは全く違うのに衝撃を受けたのであるが、ロートレックという人がいかなる人物であるかは知らないままであった。それが、NHKのラジオフランス語講座の応用編で取り上げられて、思うところがあったので、まとめてみた。

ロートレックが画家となるまで

 アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックは1864年、南仏はアルビで生まれた。ドが入っていることでわかる通り、貴族の出身であり、トゥールーズは南仏の地名である。貴族の子息としてなに不自由なく一族の期待をになって育ったのであるが、思春期の彼に悲劇が襲う。
 14歳と15歳の二回の骨折事故で下半身の成長が止まったのである。上半身はその後も成長したので、なんともアンバランスな容姿となった。彼は上流社会にいたので多数の写真が残されているが、座っている写真が多く、短足であることがわかるような写真は少ない。
 なお、ロートレックは生まれながらに病弱であって、息子の教育のために、ロートレックが8歳のときに一家は南仏からパリに出てきているが、パリの気候が合わなかったようで、2年ほどで南仏に戻っている。その後、ロートレックは家庭教師の元で勉強をしている。
 この障害は当時の地方の貴族が近親結婚を繰り返していたせいだと思われる。ロートレックの父方の祖母と母方の祖母は姉妹であり、つまりロートレックの両親はいとこ同士の結婚であった。ロートレックに弟がいたが幼くして亡くなっており、それも近親結婚のせいだと言われる。
 当時の貴族は乗馬や狩りを好み、ロートレックの父はその典型であった。かわいい宝石(petit bijou)と呼ばれた幼少の頃のロートレックは、よく父に森に連れていかれた。一方、母は読書好きな人で、父母の仲はよいとは言えず、ロートレックの存在がつなぎとめていた。活発な父はパリに滞在することが多く、別居に近い状態が長くあった。
 ロートレックは17歳のときにパリでバカロレア(大学入学資格試験)に失敗する。故郷トゥールーズに戻ってバカロレアを取るのに成功するが、普通に大学進学するのをあきらめて画家になる決意をする。
 既にロートレックは父方の叔父によって絵の手ほどきを受けてパリで賞讃を受けるようになっていた。叔父はアマチュアの画家であったが、その絵の先生はプランストーという画家だった。ロートレック一族と関係の深いこの画家は聾唖者です。当時の貴族の周辺には障害者は普通に存在していて、障害者は生きるために芸術の道を進むのがひとつの決まり事のようになっていたのではないのでしょうか。それゆえ、ロートレックの父は息子が画家の道を進むことを拒否できなかったのでしょう。
 両親の許可を得て再びパリに上京したロートレックの最初の絵の先生は、プランストーの紹介で、ボナという画家でした。今からすれば、1880年ごろのパリの画界は印象派一色だったような感じがするが、そうではなくアカデミックな絵がなおも主流であった。ボナはアカデミックな絵を代表する画家であった。しかし、ボナの画塾は閉鎖されたので、ロートレックは師をコルモンという画家に替えます。コルモンはアカデミックな画家でしたが、ボナよりはずっと親しみやすく画塾生ひとりひとりの個性を大事にする人で、ロートレックはここでゴッホに出会います。しかし、ロートレックはコルモンからも離れて、モンマルトルで独自の世界を展開するようになります。

ロートレックの精神障害

 モンマルトルの酒場を夜な夜な回るようになったロートレックは美術史に残るような名作を次々発表していくことになります。特に当時開発されたばかりの石版画(リトグラフ)でポスターを制作し、それをアートに高めたことは画期的なことです。
 ロートレックは病弱な小人であったが、周りにはいつも陽気で冗談を言うような人であったと記録に残っています。確かに表面的にはそうであったでしょう。私は、今回これらのことを知ってロートレックと日本の作家太宰治との類似性に気付きました。ともに経済的にめぐまれた環境に育ちながら、それに馴染めず、自らを道化として生きたことです。
 自分で自分を演じる外面と内面のギャップが、すぐれた作品を生み出したのは確かなのですが、生身の人間には耐え続けられることではありません。二人とも次第に性愛と薬物に依存するようになっていき、最後にはそれによって命を縮めることになるのです。
 ロートレックが自分が小人であることをどう感じていたかははっきりしません。周囲の人もロートレックが小人であることを全く気にしない人もいるし、あざ笑う人もいるし、一定しません。ロートレックは貴族出身であって、その父はモンマルトルを徘徊するようなやつは貴族ではないと非難したからといって経済的に勘当されるわけでもなく、ロートレックは一生経済的に困るようなことはありませんでした。
 ロートレックはアカデミックな画家ではありませんでしたが、アートには妥協しない人でした。対象となったものを獲物とし、その内面を暴きたてた絵を描きました。お金に困って依頼者にへつらう絵を描かざるをえない画家だとここまで徹底できません。イベット・ギルベールの絵など最たるものです。
 ロートレックは名声を得るのにつれて飲酒がひどくなり、ついに35歳のときに、せんもう症に至り、身を案じた母親の手先によって精神病院に監禁される。自由を奪われたロートレックの落胆は大きく、自分の正常さを証明するために昔し見た光景を絵に描く。しかし、その創作意欲の高さはかえても、絵は全盛期に比べて輝きを失っていることは否めない。
 友人たちの助力で精神病院を抜け出ることに成功したロートレックであるが、一度アルコール依存になったものが、そこから脱するのは容易でなく、ついに彼は自分の死が近いことを知り、かつての友人たちに会い、作りかけの作品は破棄するなり、署名するなりして整理し、最後には母親の元に戻り、1901年9月9日に37年の生涯を終える。死の直前まで絵への情熱を捨てず、冗談をいって明るくふるまおうとした。


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