最終更新日付:1998年11月11日
江戸時代の初期、北海道を舞台にアイヌと和人が全面的に戦争状態になったシャクシャインの戦いついて紹介します。
シャクシャインとは当時のアイヌの総指導者です。当時のアイヌは文字を持たなかったので、全島のアイヌが組織的に行動したことを疑問視する学説もありますが、それは文字文化にすっかり毒されている者の発想で、ユーカラなどの口承文化を見れば、文字はなくても組織的に戦えることがわかります。
同時多発的に和人の商人や役人を襲い、気勢を上げたアイヌ軍約二千は松前に向けて進軍を開始しました。当時のアイヌの総人口は二万人ぐらいと見られることから、総動員と言っていい数字です。
しかし、今の長万部の南にある国縫の丘で待ち伏せした松前藩は、鉄砲で攻撃し、 弓矢しか持たないアイヌ軍は総崩れになり、シャクシャインは命からがら本拠地の静内に敗退しました。
冬になれば、勝ち目のない松前藩は一計を図りました。和睦と称して、シャクシャインを
おびき寄せて、丸腰のシャクシャインを惨殺したのです(毒殺とも言われる)。
指導者を失ったアイヌ軍は降伏し、静内にあったシベチャリの砦は完全に破壊され、
屈辱的な服従を強いられ、シャクシャインの名を語ることも許されませんでした。
その後、アイヌ民族は、民族固有の文化も言葉も「日本人」に奪われ、「滅びゆく」と
いう形容詞が付けられるようになりました。
1997年になって、ようやく旧土人保護法という、その名に反してアイヌ民族を
保護しない、かつ土人という蔑称を使った法律が廃止され、代わりにアイヌ文化振興法が
できましたが、狭義の日本人に比して格段に経済的に困窮した
状態は改められないままです。
(C) 1998 小松敏郎 (KOMATSU Toscirou)