孤独なプログラマの密かな愉悦1 |
最終更新日 1998.6.7 |
"思い出は常に過去形で語られる"
---おじさんの愚痴は常に「最近の若い者は」で始まる
ごもっとも。たしかに「ぶたさん」は壁や卵で跳ね返るだけの単純な動きしかしません。尻尾も無視してますし。点ではなく面積を持った玉であることを考慮してもたいした動きではないんです、パッと見は。しかし、卵を配置し、「もずもず君」で受け止めてみると、計算では正しくてもゲームとしては気に入らないところがあちこちに出てきました。何というか、「ここのところは、普通はこう動いてほしいけど、ここだけは、こんな感じ。」とか「この角度でここに当たったときは、こんな感じ。でもこっちは別」みたいな、もうむちゃくちゃ主観的で細かく場合分けするしかないような仕様です。で、プログラマ諸氏ならお気づきの通り、こういう変則的な場合分けを多用すると、ふとした部分に予期せぬバグが潜みやすくなり、あちらを直せばこちらで不具合。そちらを直すとあちこちでトラブル。天を仰げばカラスがカァ。やれやれです。
御意。趣味で作っているゲームだし、何事にも程々が大切です。伏線の張りすぎで収拾が付かなくなり、時間切れで独り言モードの最終回になった自己啓発アニメじゃないんですから。しかし、ここにゲームのプログラムの楽しさがあるのも事実。苦労して思い通りの動きに仕上がったときの喜びは、また格別です。
いやいや。ここからが本題。すでにご存じの通り、もずポンのキャラクタは毛利さんの手によるものです。彼等は意外と(失礼!)歴史のある連中で、連載の扉やムービーなどで活躍してます。今回は、私が「あんなポーズやこんなポーズを8パターンで」などと適当に(笑)要求したわけですが、デジタルなデータとして封じ込められた彼等には魂が宿っていました。しかも連中は「ここんとこの動きはこうだよ」と自分から要求してくるのです。「もずもず君」や「じょせふぃーぬ」は私が用意した台本に満足してくれたようで、初期の段階から生々として踊ってくれましたが、「ぶたさん」は気難しかった。無言の圧力ってやつですかね。
自分で絵を描かない私にとって、こうした他人の作ったキャラクタの声が聞こえてくる瞬間が、実は何物にも代え難い喜びだったりします。「なるほど。そうしてほしいワケね」。プログラムは対話にかわり、仕様を考えているのか要求に耳を傾けているのかが曖昧になり、モニタの向こうにいる彼等は勝手に動き始めます。そこは、すべての動きを把握している神の如き存在の私でさえ不可侵な領域。彼等は今も、いろんな人のモニタ上でスチャラカな寸劇を演じているのでしょうか。だれかの休日を台無しにしたり遅刻させたりしながら笑っているのでしょうか。まったく幸せな連中です。