帰還

最終更新日 1999.9.5
"思い出は常に過去形で語られる"

---おじさんの愚痴は常に「最近の若い者は」で始まる


初日

 ノートパソコンとヒゲ剃りを鞄に詰めて出発。時刻は午前6時、電車はガラガラと思いきや、大きな荷物を抱えた方々でギッシリである。そう、世の中はお盆一色、民族大移動が始まっているのだ。こういう行事にだけは関わらないで生きてきたつもりだったが、諸般の事情で今年だけは避けられない。ああ、憂鬱な一週間の始まりだ。

 品川駅で京浜急行に乗り換えて羽田へ。モノレールを使っていた頃は運賃の高さと車両の狭さにムカついたものだが、これでずいぶん楽になった。座れないのは相変わらずだが、到着が早くストレスは少ない。運賃も少しだけ安いが、これはまだまだ競争の余地が残されているだろう。あの距離であの値段は人の足元を見ているとしか思えない。もっとも、日本は移動コストが極端に高い国であり、彼らだけを責めるわけにはいかない。いつかタダにしますと言っておいて反古にしたわけでもないし。そんな苛立ちや帰郷することの憂鬱さを、楽しいフライトを想像して追いやっていると、あっという間に羽田に到着。スターバックスを尻目にエスカレータを上り、予約しておいた搭乗券をゲット。楽勝。あとは手荷物検査を受けて、と見渡すと長蛇の列が。なんっだぁ、あの列は!もしかして空港内でラルクのコンサートや田中麗奈の握手会でもやっているのか。ああああ、そうか。例の事件で検査が厳しくなっているのか。はぁ。うんざりしながらも、ぐっとこらえて列の最後尾へ並ぶ。すると前のほうから、柔道三段といった風情の制服女性が呪いの言葉を唱えながら巡回している。何か尋ねようものなら投げ飛ばされそうだ。マジで怖い。目を合わせないようにして列に並び、財布とカギを鞄に押し込みゲートを通過する。延々歩かされて機内へ。ふう。

 客を立ったまま待たせているのだから、若手のお笑い芸人でも呼んでネタをやらせればいいのに、などと呑気なことを考えていると、客室乗務員が救命胴衣の説明を始める。私の大好きな瞬間だ。「このように紐を強く引きます」。誰かを突き飛ばすかのように手を開き、両手を前に伸ばす客室乗務員。くるぞくるぞ。次だ。「膨らみが足りない場合は、」。ぷはははは。救命胴衣の使い方で私が下を向いて笑ってしまうのがここである。乗務員は胴衣から生えている2本のチューブを持ち、右を向いてぷぅ。左を向いてぷぅ。ぎゃはははは。いつも思うのだが、これをちゃんと見ている人はほとんどいない。なぜなんだろう。みんな、使えるの?膨らみが足りないときでも大丈夫?見ようぜ。おもしろいんだから。 しっかりとイヤなオヤジを堪能した後は、眠るだけである。なにしろ昨日は2時間しか寝ていないので限界は近い。「ポーン」。シートベルト着用サインが消えた。外す外さないは自己責任でといったアナウンスが流れるやいなや、立ち上がる客が数名。やれやれ。この便はドゴール空港に向かうワケじゃない。たかだか1時間強のフライトである。トイレくらい済ませておけよ。ウトウト。「ビールはいかがですか。おつまみが付いて500円でございます」。車内販売ならぬ機内販売が始まる。うう、頼むから寝かせてくれ。まだ午前7時だぞ。酒を飲むヤツなんているか!とおもったら斜め向かいのオヤジが頼んでいる。その前のオヤジも。ええい、どいつもこいつも。と、床に目をやると、フライトアテンダント(しつこい?)が、ガニ股で歩いているのに気が付く。というか、爪先を外側に向け、すいっすいっと動かしながら、しかし上体は揺れることなく歩いているのだ。おお、まるで白鳥の水掻きのような技。ぷぷぷ。再びオヤジに戻る私。

そんなこんなで旅客機は無事に着陸。我が故郷は、ここからが長いのだ。ぐずぐずしてはいられない。バス乗り場へ急がねば。

二日目

 20年以上元気に動作していた電子レンジが壊れたため、午後一番に街の電気屋に出発。昨夜は久々に熱帯夜から解放され体調は万全だ。バスに揺られること30分、巨大スーパーに併設された家電量販店に到着。集客効果があるといわれる黄色を基調とした下品な店に入り、「とにかくご飯が温められれば良い」というリクエストに最適な機種を物色する。店内は客が少ないせいか強烈に寒く、新品の電化製品特有の匂いが充満している。おそらく50歳は越えていると思われる暇そうな店員をつかまえて簡単な質問(コレとアレはドコが違うのといったレベル)をするが、まったく要領を得ない。社員教育はしない方針の店らしい。まあ店員をいじめる趣味はないし時間がもったいない。木製の台の下に積まれたカタログを熟読し、ボタンの数が少なくて蒸気センサーの付いたやつを頼み、さっさと店を出る。

 見上げると、文字どおり真夏の太陽が照りつけていた。東京と違って空気がきれいなせいもあり、直射日光は殺人的に厳しい。ただ、車の数が少ないせいか肌に排ガスが粘りつくような暑さではない。湿度が低いのも救いだ。さあ次の巡礼地は法務局である。ちょっとした相談事がある。バスなら5分だが、意を決して徒歩で向かうことにする。距離は2キロほど。なんとかなるだろう。すっかり変わってしまった町並み、潰れてしまった小さな百貨店、意味もなく広い道路を歩きながら、子供の頃の記憶を呼び戻す。昔遊んだ山がなくなっているのは知っていたが、区画整理で商店街が丸ごと無くなっているのには驚いた。すかさず頭の中の地図を書きかえる。

 田舎では高層ビルが少ない。せいぜい5階建てがいいところで、普通は2階建て。したがって日陰が少なく、1分も歩けば汗だくになる。いつもなら、ここで喫茶店にでも入ってアイスコーヒーを頼み、上野動物園の白熊のようにじっとしているところだが、今年の私は違っていた。それほど苦ではないのである。夏バテもしていないし体調も良い。何が違うのだろう。食生活は猫並みで、いわゆる健康食品にハマっているわけでもない。生活時間も昼夜逆転があたりまえ。朝日を見ながら眠ることだって珍しくない。ここ数年はクーラーをつけないようにしているが、そのせいとも思えない。そういえば今年は取れたての玉ねぎを大量に貰ったので、一時期パクパク食べていたのだが、そのせいだろうか。帰宅後に、同じく帰省中の姉にそんな話をしたところ痛恨の一撃をくらう。「それは、あなたがおじいちゃんになったからよ」

三日目

 坊主がお経を唱えにやってきた。若い。何やら有り難い話を聞かされた後、家族共々玄関まで見送る。「あら、この前と車が違うんですね」と母。「ええ、あれは妻の車なんです」坊主は懐からライターのようなプラスチック片を取り出して、浅黒く日焼けした指で押す。カチリと車のロックが解除された。なるほど。キーレスエントリーですか。坊主といえば、医者や弁護士と並んで他人の不幸を飯の種にしている人種だ。そして、その自浄努力は社会的地位や収入に反比例していることは改めて言うまでもない。彼らに共通しているのは、信教や言論の自由だの人命だのという絶対的な価値観を声高に主張する点である。彼らはこの価値観を錦の御旗のように振りかざして己の利益を守っているが、その義務を果たしているとは思えない。そもそも、こうした職業は一般人の規範となるほど高い倫理観を身に付けたものに許されているわけで、だからこそ社会的な信用が与えられるのだ。尊敬できる人が「信仰の自由」を主張するからこそ賛同するのであって、初めに権利ありき、ではない。少なくとも、あなたの話で母の心の痛みは癒されなかった。私もあなたを尊敬していない。あなたの仕事はなんですか?カルトやセクトが流行るのはなぜですか?そんな意地悪な質問をぶつけてみたくなる。ウインカーが点滅し、埃を上げながら車は去っていった。「あの坊さん、ずいぶん日に焼けたみたいね」「少し太ったんじゃないの」「若いからね」母と姉が軽口を飛ばす。玄関を閉めて鍵をかけ、坊主のために付けていたクーラーを切って窓を開ける。相変わらずの快晴だ。散歩がてらに線香でもあげに行くか。

四日目

 トイレのドアノブを修理した後で、居間の天井にある蛍光燈のグローランプを交換する。次に、接客用の座布団を二階の押し入れに運び、ベランダに出てアンテナの向きを直す。空は快晴。今日も暑くなりそうだ。海が近いせいか、かすかに潮の香りがただよう。塩分が多いため手すりの腐食も随分進んでいる。そのうち取り替えることになるだろう。階下に降りて、近所のコンビニで買った西瓜を家族で食べる。しゃくしゃくした食感は久しぶりである。今日は灯篭流しとかいう行事に参加しなくてはならない。どういう催しなのか判然としないが、とにかく黒いネクタイをしめて数珠を持って公民館へ行けという。姉は西瓜に塩をかけながらほおばっているが、私は塩なんてかけない。

 指定された時刻に姉と共に向かうと、広場には盆踊りのやぐらが組まれていた。人影はまばらだ。屋内は30畳ほどの広さでクーラーなどはない。正面には花やお供え物が飾られ、その右には3メートルほどの模型の船が置かれている。左の壁沿いには20個ほどの灯篭が並べられ、ロウソクやライターが雑然と積んであった。受付と思われる場所で記名をしてから「何時からですか」と尋ねると、なんと開始は一時間後の午後八時。やられた。自動販売機すら見当たらない公民館で、ひぐらしの声を聞きながら待つのも粋ではあるが、やぶ蚊の攻撃は避けられない。早々に立ち去り、少し離れたコンビニに避難する。しばらく涼んだ後、防虫スプレーを購入して再び公民館へ。あたりはすっかり暗くなり、文字通りたそがれ状態で侘しささえ漂う。懐中電灯を持っていて良かった。

 公民館は一変していた。提灯には明かりが灯され、熱気にあふれている。屋内は浴衣やTシャツ姿の人であふれ、やぐらの周囲では昔話に花が咲いている。主賓であるはずの我々が屋外で戸惑っていると、坊主の読経が始まってしまった。たしか我が家は浄土真宗だったハズだが、この坊主の宗派は違うようだ。それにしても、この騒々しさは何だろう。みると男たちは酒盛りを始めている。その横では露出度高めの女性を発情期の男性が取り囲み、しきりに気を引いている。まさか、ここで始めるつもりじゃないだろうな。婆さんたちは、起きているのか寝ているのか口をモグモグさせている。坊主が誰も聞いていないお経を読み終えると、集団はゾロゾロとやぐらの周りに移動し、いきなり盆踊りが始まった。マイクの声が耳をつんざく。太鼓の音が腹に響く。係員と思しき人を捕まえて、灯篭流しはいつ始まるんですかぁ、と聞くと午後11時半からだという。なるほどそういう事か。坊主の読経は盆踊りの余興。灯篭流しはトリ。メインは盆踊りだったのだ。礼服姿など見かけないわけである。このまま待っていても難聴になるだけなので、姉と共に出直すことにする。

 帰りは久しぶりに川沿いの道を歩いてみた。かつては水棲動物の宝庫で、夜中に歩くと道沿いにサワガニがカサカサと逃げる音が聞こえ恐かったのを覚えている。道路は車に引き潰された蟹で一杯だった。ホタルやタガメなど珍しくもない。しかし、それも今は昔。水害で床上浸水が起きた年に河川改修工事が始まり、日本お得意の三面張りコンクリ工法によって彼らは死滅した。もとはといえば、山の上を切り開いて宅地を造成したため保水能力が落ち、川が処理できる量を超えた雨水が流れ込んだために起きた水害である。皆、そんなことは百も承知なのだ。しかし宅地を山に戻すことは出来ないし、防災計画を立てずに放置するわけにもいかない。今なら、もう少し環境に優しい工法も存在するのだが、当時としては最善だったのだろう。私は、世界一の武器輸出国で他国には劣化ウラン弾まで平気で使うくせに、ジュゴンを守りましょうなんて甘ったるいことを言っている連中は大嫌いだが、この川に関しては残念な気持ちで一杯になる。カニや虫が、あまりにありふれていたため、それを失うことの悲しみが分からなかったのだ。この過ちを繰り返してほしくないと思う一方で、繰り返すのもまた人間なのだと少し悲観的になる。でも日本人なら何とかなるのではないか。ボランティアとか住民運動とかいう進歩的で民主的な金持ちの趣味ではなく、地道な技術改良と本物のプロたちが川を復活させてくれるのではないか。日本にはそうした魂が息づいているはずだ。私がこの地の土に帰す前に、なんとか間に合ってくれると嬉しいのだが。

帰還日

 予定時刻をすでに10分経過している。バスはまだ来ない。一時間に一本しか出ていないのにこれである。念のためにバス停の時刻表を確かめていたら、一覧の左上に「Zikoku.xls」というファイル名が印刷されているのに気が付く。嗚呼。やはりMSからは逃れられぬ宿命なのか。さらに遅れること5分。ガラガラのバスが到着。車内はまるで冷凍庫のようだ。このバスで駅まで行き、そこで長距離バスに乗り換えなければならない。実は飛行機の切符が取れないため、帰りは新幹線を使うことにしたのだ。バスに2時間、電車に5時間。何だかんだで10時間以上の旅である。気が遠くなりそうだが、途中で休憩しながらのんびり帰るつもりだ。東海道新幹線を使うのは久しぶりである。危険と噂される岡山周辺も通ってみたい。これが最後になるかもしれないではないか。

 荒涼とした山岳地帯を抜けると、高速バスは広島市内に到着した。この街には一年ほど住んでいたことがある。そういえば、あのお好み焼き屋はどうなったのだろう。そのお店で私はヘラの使い方をマスターしたのだ。店の広さは10畳ほど。看板が出ていなければ小さな工場といった風情で、中央に長方形の大きな鉄板が置いてある。50歳ぐらいのおばちゃんが一人で切り盛りしていた。店内はいつも混雑していて、おばちゃんは鉄板の空きスペースが出来るたびに生地をクレープ状に広げ、キャベツを乗せ、あちらをひっくり返してはこちらをギュッと押すという作業を延々繰り返していた。客も慣れたもので、空いたところに座っては「そば玉」とつぶやき、巧みにヘラを使ってアツアツを口に運びお金を払って去っていく。最初にこの店を訪れた時、箸がないことに驚いたものだ。そう、広島ではヘラだけでお好み焼きを食べるのが普通である。切り分け、すくい、口に運ぶ。大阪でも同じだが、決定的に異なるは厚さだ。広島風お好み焼きは、生地を薄く延ばしてキャベツを山盛りに乗せ、別に炒めておいたヤキソバの上にひっくり返し、ぎゅうぎゅう押し付けてから焼き上げる独特なものである。厚さは2センチから3センチ以上で、切るのもヘラに乗せるのも大変だ。おばちゃんは、そんな私のために箸とお皿を出してくれた。しかし結果は惨澹たるものである。鉄板の上はヤキソバやキャベツの切れ端が散乱し、ソースはこげ、隣の客は二回以上入れ替わっている。「敗北」そんな言葉が頭を過ぎる。でもおばちゃんは嫌な顔一つせず「またおいで」と言ってくれたのだ。その日から、この店に通い続ける日々が始まる。隣の客の技を盗み、ヘラの持ち方を直し、垂直に均等に力を加えるというコツを会得し、ソースが焦げないように生地を動かしたり、最後に鉄板をキレイにしておくという礼儀も覚えた。一ヶ月ほどしたある日、いつものように席につくと、これまたいつものようにおばちゃんは箸と皿を出してくれたが、それを断り「今日はヘラだけで」と答えた。その時のおばちゃんの顔は今でも忘れられない。ニヤリと笑い、黙って「ソバいか天入り」を焼き始めてくれた。これで私もルーキーを卒業だなとひとりごちた瞬間である。

 そんな思い出の地も、今はゆっくり遊んでまわる余裕はない。あの店はまだあるんだろうか。ちょっと遠出をしてみるか、なんて誘惑に駆られるが時間がないことは明白だ。早く新大阪までたどり着かなければ東京へは帰れない。後ろ髪を引かれる思いで広島を後にし、こだま号で新大阪へ向かう。東京直通便の車内は、まるで百羅漢が並んでいるかのような込み具合だったが、各停ならガラガラである。新大阪までたどり着けば、あとはどうにでもなるのだ。あと少し。あと5時間ほどで、熱帯夜と人込みと排気ガスで充満した、見栄っ張りの住む巨大な田舎、東京だ。あのゴミゴミした街が、今は愛しくてたまらない。 
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