10月23日 自由って何だろう?
今回もなんか難しいタイトルですね。こうゆう哲学的な問題に対する俺の解釈が面白いんですかね?単なる変わり者の意見ってな
気もしますが、共感を得られる人が一人でもいてくれれば嬉しいですね。
さて、自由というのは実は不便な事だったりするのではないかと思ったりするわけです。のっけから変な書き出しですが、自由と
自分勝手は違うと思うのです。俺の考えとしては自由とは制約が必ず必要であり、その制約を守ることが自由だと思う訳です。
自由と自分勝手を混同してしうと、何をしても許されるという錯覚に繋がります。制約と言う言葉が自由と相反すると言うのならば
責任と置き換えても良いでしょう。自由とは自己責任を取れる事であり、それが出来ない自由は自分勝手と言うことになるでしょう
自己責任が取れるという事は自分が強くなければいけません。これは腕力的にという事ではなく、精神的であったり、環境的な
ものであったりするわけです。例えば子供は自己責任が取れません。だから保護者が必要なのであり、保護者には監督義務がある
訳です。すなわち「子供を自由にさせる」って言葉は本来あり得ない話しだと思う訳です。かと言って俺は子供の人権を侵害しよう
などと思ってはいません。子供に与えられる自由は保護者の監督の中で与えられるものだと思うのです。これは言い換えればその
両親がどれだけ子供のしたことについて責任を取れるかによって違って来ると思う訳です。保護者の強さによって子供の自由は制限
度合いに変化が生じます。この辺りが教育と言うことになるんでしょうね。箸の上げ下げまでうるさく言う教育が良いかどうかは
判断の分かれる所でしょうが、それが両親の度量であるなら仕方ないでしょうね。ようするにうるさく言うという事は自分たちに
かかる責任を小さくするために型にはめることだからです。それは違うと言う意見もあるでしょう。子供の将来を思って言ってると
当人は言うでしょう。子供はその型の中で多かれ少なかれ自由を見出すものですから、なんとも言えないですが、将来のためなんて
言うのは俺に言わせれば言い訳であり、偽善です。かといって責任も取れないのになにも言わないで自分勝手な子供になるのは
論外ということになるので、教育とは自由との戦いであり、難しいものなんだろうなぁ。と思う訳です。
ちと、話しがずれたので一般の自由と言うことについてもう少し掘り下げてみましょう。例えば、自由に出来ると言ってもそれは
法律や慣習、マナーと言った中で保証されるものであり、さらに自己責任が伴わなくてはいけません。よく自由がないなどと言う
事がありますが、自由とは束縛の中で実現する以上、その束縛が強いか弱いかの差こそあれ、自己責任を負える範囲が少ない人には
当然、他人と比較した場合の自由が少なくなる訳です。つまり、自分を鍛えることなく自由だけを求めるのは自分勝手な行為であり
事の善悪、風習、その他人間関係においても問題が山積するという寸法です。責任を他人に求めることは容易いことです。また、
一人で生きていけない事実もあります。責任を分散し、リスクを少なくするにはそれなりの制限が必要だと思うのです。その制限の
なかで自己の能力をフルに発揮することこそが自由を謳歌しているということではないでしょうか?
会社には会社の方針があり、束縛があります。近所付き合い、親戚付き合い、友人との会話に於いさえも約束事やタブーはある
ものなのです。その垣根を取り払うことも必要な時もあるでしょう。でも、それは自己責任が増大する事でもありリスクが相当に
あることも事実です。現体制からの脱却を目指し自由を求めて先人たちは戦争と言う暴力的な手段によって多くの場合壁を破り、
現在に至ります。そのような尊い犠牲の上に現在までの自由が保障されているとすれば、それを壊して新しい秩序を自ら築くことに
その意義をきちんと見出さなくてはいけないはずです。自由になりたい。誰もが思うでしょう。でも、そこは束縛のない世界では
なく、束縛の壁をほんの少し動かしただけの世界かもしれません。今に満足する必要はありません。前を向いて壊すべきところは
壊していかなければなりません。その為には自分をまず鍛えないといけないですよね。それは、知識かもしれませんし、性格かも
しれません。自分を見つめ直してさらに鍛えることで自由という価値観は変化するのでしょう。