1月21日 幸福の総量
今回は幸福の総量って話しなんですが、なんか宗教じみたタイトルですねぇ。まぁ、悪いこととも思いませんけどね。で、実際に人生に
於いて幸福の際限はあるのだろうか?また、幸福と不幸は人間の一生を考えた場合にバランスを保っているだろうか?と言うことを俺なりに
語ってみようと思います。
まずは幸福と不幸の波について考えたいと思います。一般に「良くないことがいつまでも続かない」とかその逆も言われることがあります
これは誰しも経験していることでしょうね。中には良いことばかりが続くとその後に大きな不幸が来ると思い込んでしてまっている人もいる
くらいです。でも、ここで考えてみると人の幸福とはあくまで自分本位のものであり同じ事象であってもそれを人は幸福であると言い、別の
人は不幸であると言う人もいる訳です。例えば俺は去年結婚しました。とっても幸せな訳ですが、人によっては「結婚は不幸の始まり」と
平気で嘯く人もいる訳です。俺にとっては最上の出来事であるにも関わらず、人は同じ経験をしてもそれを幸福と思わないこともある訳です
金がない事を不幸と思う人がいる一方で本当の金持ちは金があるから変なやつらが取り巻きにいて嫌だ。金なんかいらない。なんて人もいる
かもしれない訳です。これは人の一生の中でも常に変化しているはずです。同じ人が同じことを体験してもその時の状況などで感じ方が違う
訳ですよね。すると幸福も不幸もひとつの事象であり、それを本人がどう感じるかが重要であると言うことになるんだと思います。例えば
最近どうもついてない。良くない事が続くと思っている時に、ほんのちょっと良いことがあるとそれがとても良い事であるように感じる事が
あると思います。それをきっかけに「なんか運が回って来た気がする」なんて言っていると本当に良い事が続くなんて事があります。前述の
波と言う観点で言えば不幸の波から幸福の波に乗り変わった訳ですね。ただ、往々にして自分が不幸だと思っているときにはそういう小さな
きっかけを見失いがちです。自分で不幸を探してしまうのです。嫌なことばかりを思い出して結局は自分で自分を追いつめます。実際に俺は
そういうタイプなので落ち込むと自分で這い上がるのが非常に難しいです。そこで俺の場合は人に助けを求めます。時には友人であることも
ありますし、兄弟であったり、両親であったり...もちろん、今は俺の一番の理解者は妻であるなおこですけどね。きっかけさえ与えて貰えば
後は良い方向に動き出します。人に頼り切ってしまうのは自分を見つけることが出来にくくなりますが、そのきっかけは人に与えて貰っても
良いのではないかと思う訳です。自分が溺れているときに人まで巻き込んでしまっては申し訳ないですよね?だから、助けて貰わないなんて
事をしてると本当に溺れてしまう訳です。折角助けてくれる人がいるならばロープなり浮き輪なりを投げて貰えば良い訳です。それを使って
自力で岸までたどり着くのはやっぱり自分でしないといけない訳です。
で、本題に戻りましょう。この世の事象全てに対してどのように感じるかで幸福、不幸が決まると言う俺の仮説を採用した場合、幸福の
総量というのはその人の人生に於いて経験出来る全ての事柄であると言い換える事が出来ます。精々100年の人生です。その中で無限の
幸福を得るなんて事はあり得ません。体験する事象が有限である以上、幸福の総量はきっとあると思います。でも、幸福は量ではないとも
思います。その質であるべきだと思うのです。自分は不幸だと思ってさらなる不幸を重ねてしまうより、質の高いたったひとつでも良いから
自分で納得の出来る幸福を探し求める事こそが幸福であるのではないと思うわけです。
俺は今、幸せです。もちろん小さな悩みなどはいつでもありますが、自然と時が解決してくれるものもあるでしょう。もちろん自分動く
必要があるときもあると思います。幸せの中にいると不思議と人は不安になり、その幸せを幸せと感じなくなるようです。空気のない所に
いかなければ空気のありがたみが分からないように、自分が幸せであると言うことも考えなければ分からない事かもしれません。だから俺は
自分が幸せであることを自ら考え納得するように普段から訓練しています。訓練なんて言うと大げさですが、小さな事でも感動を忘れずに
人に対する感謝の気持ちと、自分に対する自信さえ失わないようにしていればきっと誰でも出来ます。もう一度言いましょう。俺は今幸せ
です。そしてこれは他人との比較の中で感じる相対的なものではなく、自分の中で理解出来る絶対的なものなのです。