3月21日 気の使い方

今回は時間の無いところで無理やり更新なので、いきなり本題に入ることにします。俺は気の使い方には2つの形があるんじゃないか?と常々思ってるんですよ。ひとつは本当に相手を思いやって気を使うケースと、もうひとつは自己満足のケースですね。まぁ、体系的に細分化すればもっとあるんでしょうが今回はこの2つに限って考えてみようと思います。

まず、相手を思っての気遣いですが、これは家族や友人など身近な人に対して無償で行われるものだと思ってます。その形は色々合って親身に話しを聞く場合もあれば、励ましの言葉をかけることもあるでしょうし、場合によっては側に居るだけでも気遣いになっていたりするものです。その結果相手に良く思って貰えれば良いですが、そうでない場合であっても無償なので本人も相手もお互いに感謝することが多いようです。

それに対して自己満足の気遣いとは、自分で気を使ってやっているという高所から見た悪く言えば高飛車な気遣いです。これは大抵の場合、相手を傷つけます。そして、自分も傷つくことが少なくありません。「俺がこんなに心配してるのに」「お前のためを思って...」多くの場合こういう思いをしている気遣いはお節介なことが多い訳です。で、気遣いされていることに気付くと今度は「俺はこんなに心配かけているのに・・・」とか思ってしまい結局相手を追い込んでいるなんてこともままあるようです。これは上下関係には作用しないようです。例えば部下が上司に向かって「あの仕事を引き受けてやったから...」なんてのも実は高所から見た自己満足の気遣いと言えるでしょうね。

で、結局何が言いたいのかと言えば、気遣いってのは結局相手がどう思っていようと本来構わないものなはずだと思うんですよ。打算的に「これをしてやったのに」とか言うことになると泥沼です。誰に何をしてあげたではなく、自然としている行いが相手に評価されることこそ気遣いだと思うんですよ。

あと思うのが気遣いと遠慮を混同しているケースですね。特に俺はそうなんですがことごとく遠慮しがちです。これが良いか悪いかは議論の分かれるところでしょうから別の機会に回すとして、遠慮していることを自分で気遣っていると勘違いしていることって良くあるんですよね。これも相手にしてみれば迷惑な話しな訳です。まぁ、ありがちなケースとしては出来るだけ丁寧に接しているつもり(遠慮)なのに、それを相手が勝手に格下だと思って偉そうにするときなんかは典型ですね。こっちもカチンと来ますが、まぁ、頭の回転の悪い奴をまともに相手するとこっちの回転を合わせるなんて馬鹿らしいことしないといけないので、放って置きますけどね。自分でも気遣いと遠慮を見事に勘違いしているケースです。俺は性格的に細かいことをゴチャゴチャ言われるのが嫌いです。だから、人にも出来るだけ言わないようにしてます。所詮相手は別人格です。こっちの意図なんてこっちが思ってるほど汲んでなんかくれません。だったら、「そういう考えもあるね。俺は違うけど」って思ってあとは適当に相槌打って自分の意見なんて言いません。こういうところが頑固だって言われるのかもしれませんねぇ。まぁ、俺の短所だとは理解しているんですけどね。