今まで行った中で一番怖いのは,何と言っても花魁淵でしょう.
時は戦国時代,今の山梨県塩山に黒川金山があった.ここには沢山の工夫の他に彼らを慰めるための遊女達も住んでいた.武田勝頼の頃,金山が閉山される折り,この金山の秘密を守るため,権力者達はある一計を案じた.それは花魁達を川の上に吊した踊り舞台の上で舞わせ,その最中に舞台を支えていた綱を切った.哀れ遊女五十五人は急に深くなった淵の中へ.彼女たちの遺体はそれより下流で次々と発見されたという.今では淵に碑が建ち,誰かが花を捧げている.
今からもう十五年も前になるだろうか,夏のある夜,二人の女性が夜道を走っていた.それは帰省のための女二人,気楽な旅になるはずであった.二人がこの寂しい夜道を選んだのは,この時期特有の大渋滞を避けるためであった.
狭い道を適当に喋りながら,車は険しい山道をくねくねと進む.面倒だからと,同じテープをオートリバースにして何度も何度も繰り返して聞いていた.
すると突然,音が途絶えた.
「うん ?」
不審に思った助手席に座っていた女性がデッキをのぞくと,テープがガチャンと飛び出してきた.
「あんた触った ?」
運転している女性に尋ねても
「ううん」
と否定した.変だなぁ.そのあたりは,緑が深く昼でもやや暗いほどである.
いや,何か聞こえる.助手席の女性は耳を澄ました.えっ,嫌だ,そんな.
「ちょっ,ちょっと止めて.」
「何よぉ.」
「いいから止めて,何か聞こえる.」
車は止まった.
「聞こえないよ.」
運転席の女性は少し機嫌を損ねたようだ.
「うん,でもなんか聞こえたのよ.」
「何が.」
うーん,気のせいかなぁ.
そう思った瞬間であった.
"夕焼け~,小焼け~の,赤トンボ~,負われて・・・"
少女の歌声だ.こんな山道でしかもこんな深夜に.
「あんた歌った ?」
運転席の女性の口調も顔色も変わっていた.
「ううん,あんたこそ ?」
相手が歌っていないことは最初から承知していた.
「引き返して,早く !!」
助手席の女性は叫んだ.今度ばかりは車は彼女の指示にすぐに従った.窓の外でどす黒い緑が流れる中で,助手席に座っていた女性はそこに立て看板が立っているのを見た.そこには,それより数百年前,ここで何があったかが刻まれていたのだった。
歴史上、権力者達によってその命を闇に葬られた彼女たちだけではない。人は人を抽象化することによって、人を殺すことができる。戦争などにおけるプロパガンダがその一例で、相手も自分と同じ痛みを感じる人間なんだという想像力を欠如させる。