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Suzugamori Execution Ground

鈴ヶ森刑場

Suzugamori

歴史

江戸時代,いや 30 年までこの辺りは海だった.東海道品川宿近くのこの近くに刑場が設置されたのは,慶安四年 (1651 年) のことであった.四代将軍家綱の頃だった.明治四年 (1871 年) に廃止される,この間約 220 年に約 10 万人が処刑される.

公開刑場

ここで処刑された方々には,歌舞伎などに登場する有名な人々が多い.平井権八,天一坊,八百屋お七,白木屋お駒などがいる.

最初の処刑者は丸橋忠弥とされている.彼は,由比正雪による反乱に荷担した.反乱は密告によって未然に防がれるが,幕府には相当な衝撃だったようだ.忠弥は,実は町奉行によって寝込みを襲われた際に,既に死んでいたが,改めて,ここで磔にされたらしい.

当時,江戸には,お取りつぶしになった各藩の浪人達が大量に流れ込んできていた.特に深川には沢山の浪人がいたようだ.江戸の入り口に,このような公開刑場があったことは,こういう浪人達に対する強い警告があったのではないのだろうか.

なにしろ,元々は支配階級に属した者達である."武士は食わねど高楊枝" 気位ばかり高くて,働こうとしない.さらには,"切り取り強盗は武士の習い" という言葉が現代にも残されている.働かないわ,武器を持ち治安を乱すわ,支配者から見れば最悪の失業者像と言えよう.

公開の死刑というと,現代人 (2002 年現在) にとってピンと来るのは,タリバン政権であろう.サッカー場での公開死刑の映像を信じられぬ思いで見た.徳川による 280 年による統治,武力行使でない形での世界最初の軍縮を行ったことなど,賞賛して余りある.しかし,所詮は武士という軍事階級支配による軍事政権.その野蛮な面は否定できない.

天一坊

ここでは,天一坊に絞って考察してみたい.天一坊の罪は,吉宗公の後落胤を語り,金品を集めた罪による.

七代将軍家継は八歳で死去.当然子はなく,紀伊,尾張,水戸の御三家でもめ,結局紀伊の三男坊吉宗が将軍となる.三十歳の時であった.

元来,吉宗は好色漢だったようだ.十一歳で女中に手をつけ,十六歳には山伏の娘を懐妊させたとある.だが,この時はまだまだ紀伊徳川の三男坊.いずれ,自分が将軍となるとは思ってもおるまい.

夫人は,伏見宮兵部卿貞致親王の姫宮,真宮理子であった.この方は宝永三年 (1706 年) 輿入れし,宝永七年 (1710 年) 二十歳の若さで死去.

以降,吉宗は正妻を迎えていない.

天一坊は吉宗の紀州時代の子供であることを主張したわけだ.これが正当とすると,家重よりも長兄に当たる.

長期政権への先見の明

八代将軍吉宗の跡継ぎは,問題なくば家重である.ところがこの家重は,若くして女と酒に溺れる.それに比して,次男・三男の方が名声が高く,こちらを跡継ぎとした方がよろしかろうという意見が多く聞こえた.これを吉宗は一喝し,長男の家重を跡継ぎとしている.

より優秀なものが跡を継ぐのが最も理想的な一面,誰が最も優秀かどうかは議論が分かれるところである.そのため,吉宗は長男が最も劣っていると知りながら,後生の無用な争いを避けるために,長男を正式な跡継ぎとしたのである.

時の幕府は,天一坊が自らが後落胤と名乗ってから,捕らえるまでに半年を有している.天一坊が自らが後落胤と名乗る何らかの証拠があったらしい.この証拠を覆すまでにこれだけの月日を要した.

即座に否定できない当時の幕府の姿勢を見て,江戸の民は "これは本当に後落胤かも知らない" と思ったかも知れない.家重よりも長兄だとすれば,将来は将軍かも知れない.浪人達はこぞって,この "天一坊" を擁立しようとした.何故なら,無名な内に恩を売っておけば,老中などの役職につけるかも知れない.そうでなくても,仕官できるだけでも嬉しい.

加えて,江戸の商人達にとっても,金品を送っておくだけの価値のある人物と見えたかも知れない.だとすれば,彼にとっては,"後落胤を語った" までは彼自身の罪だが,"金品を受領した" 点はもしかしたら将来,将軍または大名となれる人物に対して商人達が勝手に金品を送ったまでだ.彼に罪はない.

だが一方で,上記のような吉宗の性格,判断を考えるならば,例え天一坊が本当の後落胤であっても抹殺されたであろう.これは,間違いない.何故なら,これを許せば,第二第三の天一坊が現れ,幕府を混乱に落としいられるのを食い止めなければなかないからだ.

井戸

恐らくは,無用な転落を防止するためであろう.しかしながら,何者かが井戸から這い上がることを防止するためにあるようにも見える.

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