長久保城の最初の築城主には諸説あり.葛山氏という説もあるし,九州の豪族の一派がこの地に流れ着き築城したという説もある.どれも決定的なものはない.恐らくは当初は小規模なものであったのだろう.箱根を望む最東の城であるこの長久保城に今川氏が力を注ぎ,大規模にしたのも納得がいく.しかし結局は信長の奇襲により,今川は桶狭間にてその命運を途絶えた.
その後,この地は長く北条に支配された.武田氏による何度とない蹂躙にあったものの,この地の民は北条氏の支配に慣れていた.その後,秀吉による小田原城攻めの最前基地となったという噂もあるが,これが例え事実と異なるとしても,当時は長久保城がそれだけの地理的な要因と規模を備えていた名城であったことが窺える.
黄瀬川,長泉町立北中学のそのすぐわきに 牛が淵 と呼ばれる淵がある.わたしは少年の頃より,その名の由来に興味を持っていたが,ようやくけりが着いた.当時は何となく不気味に覚えたが,こうしてその由来を知ってしまうと,何となく違う印象を持ってしまうから不思議である.
北条氏によって長久保城が支配されていた時代.城主の名は 水野治郎右衛門忠祐 といった.この男,武勇だけなく,非常に気さくな男で,地元の民に大変親しまれていたという.この男には,娘がいた.名を 荻姫 といった.目元涼しげな美しい娘で,少々型破りなところもあった.行儀正しく城中にじっとしているのが嫌で,城を抜け出しては黄瀬川に遊びに行っていたらしい.地元の女が川から水を運ぶのを手伝ったり,近所の子供達と一緒に水遊びをしていたらしい.治郎右衛門も大変この娘を可愛がっていた.
この娘が大人に成長して来た頃,長久保城に暗雲が立ちこめ始めた.武田氏の攻勢である.治郎右衛門も準備をしていたのだろうが,武田氏が攻めてくる様子がない.
"この城が墜ちるようでは,他の城も全部墜ちるわい !"
城内では楽観視する声が出てくるほどであった.しかし,この地方では珍しい冬の嵐の日,城内はもちろん,見張りの者達もこんな日は攻めて来るまいと油断していた.
ところが,城の周りでは沢山の者達が暗闇に紛れて動き回っていた.最初の火の手が上がり,治郎右衛門達は慌てたがもう遅かった.すっかり包囲され,北条氏の勢力はうろたえるばかり.荻姫がようやく父の元にたどり着くと,父は既に死に絶えていた.悲しみに暮れる荻姫.ところが治郎右衛門>は遺書を残していた.
その血を,絶えてはならぬ.
気を取り直し,牛車に乗り込み脱出を試みた.しかし,黄瀬川にたどり着いたときには,既に追っ手に迫られていた.覚悟を決めた荻姫.牛車もろとも,淵に身を投げ,あっという間に水の中に消えていったという.時は永禄十二年 (1569年).荻姫 19 歳のことであった.
それ以来,この淵は "牛が淵" と呼ばれるに至った.この淵の水がある程度少なくなると,必ず雨が降って水かさがあがり,人々は 荻姫様が竜の化身となり,俺達のために雨を降らしてくれたに違いない と感謝したと言う.