多くは,東北地方の曲がり屋に出ると言われている.曲がり屋とは,母屋と馬屋とを L 字型につないだ構造の屋敷である.L 字の形をしていることにより,馬の様子が母屋から見られるような構造になっている。そのような屋敷の奥屋敷に座敷童子は出るという.
座敷童子が出ることで知られているのが,金田一温泉にある緑風荘である.今現在は,茅葺き屋根とはなっていない.これは,現代の消防法の関連で茅葺きのまま改装できなかったことが原因らしい.
建家としての歴史は古いが,旅館となったのは,戦後まもなくであるから,一族の歴史から見れば,ごくごく最近といえよう.
緑風荘の奥座敷が "槐の間" である.この部屋が座敷童子が出るとされる部屋である.一歩入れば,多くの人形などに驚かされる.これらは,主にはこの部屋に泊まり,その後の自分の幸運を "座敷童子のお陰" と考え,そのお礼として,座敷童子のために供えられたものである.
旅館になる前から,奥座敷は大事な客を泊める部屋とされてきた.他の曲がり屋でもそうかどうかは不明だが,五日市氏の説明によれば,先祖よりその奥座敷には一族の者は寝てはならない,ということになっているらしい.したがって,"この部屋には本当に座敷童子は出るのか ?" という質問には,"出る という話しはよく聞きます." という答えになる.
座敷童子が現れるのは,夜明け直前の頃と言われる.したがって,季節によってその時刻は異なることになる.下の写真にあるように,部屋の隅に小さな掛け軸がある.ここから現れることが多いらしい.襖の向こう側にある廊下でも目撃されることもあるらしい.
現代の当主五日市氏の先祖は興国 2 年(1341 年)、南北朝時代、南朝方の遺臣が流れきて、この地に住み着いたとの伝説がある。南朝に加担し、破れた一族は、東へ東へと逃れ、この地に逃れてきた。その一族には、二人の男児があった。座敷童子の正体は,この二人のうち、病死した兄の方ではないかと言われているようである。
その兄の名を亀麿という.当時六歳であった.現代の六歳児よりも小さいであろう.しかし,十五歳で元服を迎える時代での六歳.しかも有力者の一族の長兄である.現代の六歳の子供よりも,もっと大人びた子供であったかもしれない.見た目は幼いが,その心の中は大人びた子供かも知れない.下の写真はその亀麿をまつった亀麿神社である.
インターネットで調べると,その先祖とは,万里小路 (までのこうじ) 藤原藤房とある.北畠親房,万里小路宣房,吉田定房らは,「後の三房」と言われ,後醍醐天皇の忠実な家臣とされる.万里小路藤房は,この宣房の子である.
ところが,この藤房は,後醍醐天皇による大内裏造営のための増税に反対し,何度も諫言したが,聞き入れられないため政界より引退してしまう.父親の宣房にしても,足利尊氏が入京した頃,出家してしまう.宣房,藤房親子は,武家と言うより,公家出身の優秀な官僚タイプであり,武士ではなかった.さらには,藤房が出家した当時は,未だ南北朝とはなってはいなかった.確かに,後醍醐天皇は後の南朝となる人ではある.もちろん,一度出家をした身ではあるが,地方よりかつての主人のその凋落ぶり嘆いたことは,十分に考えられる.
さらには,自ら出家したとは言え,元は後醍醐天皇の有能な家臣である.尊氏などの武士により命を狙われる可能性はあった.尊氏に味方する勢力は,関東を中心とする武士軍団,西国の赤松氏,九州などでも尊氏自身が味方を募っている.唯一これに対抗できる勢力は "奥州武士軍団" である.奥州藤原氏が頼朝によって滅ぼされて以来,同じ武士でも関東の武士団に対し快く思っていなかったようである.
太平記では,後醍醐天皇やその忠臣達が怨霊として暴れまくっている.それらと比較して,南朝に同情を寄せる東北の地でひっそりと語り継がれる亀麿のいかに穏やかなことか.
やはり,座敷童子の正体は,万里小路藤房の一族の者ではなかった.
吉村達也氏の「金田一温泉殺人事件」によれば,後醍醐天皇に仕えていたが,当時は名字は何もなかったらしい.そして南朝方として実際に戦を交えたらしい.まず最初に落ち延びたのが,現在の東京の五日市.この土地を名字としたらしい.しかしながら,この土地は関東武士の勢力範囲内.そこで,今の金田一集落へ落ちのびたと言うことらしい.