第2部 概要

   【 注記 】
   これは、暫定版です。記述に、未熟・不正確な点があります。
   専門家の方々が、訂正すべき事柄をご教示してくだされば、謹んでお受けします。

 

 はじめに

 進化については、二つのレベルで考察することができる。遺伝子レベルと、塩基レベルだ。
 第1に、遺伝子レベルではどうか? 一つの種のための複数の遺伝子(たとえば人間の遺伝子)は、いかにして種に備わったか、という問題がある。この問題は、ダーウィン説では、「自然淘汰」という概念で説明される。一方、クラス進化論では、「遺伝子の集中」という概念で説明される。(この件については、別の論考で述べた。)
 第2に、塩基レベルではどうか? 遺伝子にある複数の塩基(たとえば血液型を決める遺伝子の塩基)は、いかにして出現したか、という問題がある。この問題は、従来の説では、「突然変異」という概念で説明される。突然変異がランダムに発生し、それらの突然変異がいくつか組み合わさって、たまたまうまく特定の遺伝子になった、というわけだ。いわば「偶然任せ」という説である。しかし、この説には、難点がある。本論では、この難点を指摘し、さらに、この難点を解決するための、新たな原理を提唱する。
( ※ 大局的に言えば、こうだ。クラス進化論は、「自然淘汰」にかわる概念を提出する。本論は、「突然変異」にかわる概念を提出する。)
 

 第1章 現状の展望

 塩基レベルの話は、現状では、どうなっているだろうか? 
 

従来の説

 従来の説では、新たな遺伝子を誕生させるものは、塩基レベルの「突然変異」である。つまり、DNAの複製にあたって、塩基レベルでランダムなエラーが発生して、そのエラーがたまたま好都合な組み合わせになると、新たな遺伝子が誕生する、というわけだ。
 

従来の説の難点

 この従来の説には、難点がある。それは、「確率的にそのようなことはありえない」ということだ。このことは、しばしば指摘される。「それは、まるで、猿がタイプライターをたたいたら、たまたまシェークスピアの作品になった、というようなものだ」と批判されることもある。
 この確率は、ゼロではないが、ゼロ同然である。具体的にどのくらいの値になるかを考察した研究も多い。いずれにせよ、その確率は、とてつもなく小さい。「生命が地球に誕生してからの40億年間に、そのような突然変異が起こることはとうていありえない」という結論になる。
( ※ 少し説明しよう。一つの塩基だけがエラーを起こす確率は、いくらかある。しかし、たくさんある塩基がいっせいに好都合なエラーを起こす確率は、とほうもなく小さい。なお、ここでは、塩基が「一つ、また一つ、また一つ……」というふうに、突然変異を一つずつ起こすことは許されない。なぜなら、そのような突然変異による遺伝子は、中途半端で不完全で不利なものであるから、たとえ生じたとしても、自然淘汰説に従って、絶滅してしまうはずだからだ。有益な遺伝子が登場するためには、必要なすべての塩基がいっぺんに同時に突然変異を起こす必要がある。)
 

静止菌の実験

 従来の説を前提とすると、「新しい遺伝子が生じることはとうていありえない」という結論となる。これは、理論的な結論だ。
 一方、実験的には、どうか? このことを実験した研究者がいる。バリー・G・ホールとジョン・ケアンズである。彼らの実験によると、理論的な結論とは正反対のことが起こった。
 すなわち、増殖が不可能になった菌(静止菌)を用いて、実験をすると、その菌は、通常の菌に比べて、圧倒的に高い頻度で、突然変異が起こるようになったのである。その頻度の増加は、数倍ないし1兆倍にまでなったという。
 ただし、突然変異の頻度が高まった部分は、増殖不可能になった形質に関与する遺伝子の部分だけであった。増殖不可能になった形質とは別の形質(一般形質)については、突然変異の頻度が高まることはなかった。
 

実験の意味

 ケアンズらの実験には、どのような意味があるか? この実験では、突然変異は、ランダムに生じたのではなかった。
 第1に、突然変異は、量的に一定ではなくて、急激に確率が高まることがある。
 第2に、突然変異は、質的に一定ではなくて、ある方向にのみ、選択的に進むことがある。つまり、生存に適する方向だけ、選択的に、突然変異が発生する。
 かくて、ケアンズの実験では、突然変異はランダムに生じるのではない、とわかった。この実験結果は、「ランダムに生じる」と主張する従来の説に矛盾している。
 逆に言えば、従来の説は、実験事実に反している。かくて、従来の説は、実験的に「正しくない」と否定されるわけだ。
( ※ また、理論的にも、先に述べたように否定される。確率がゼロ同然だ、ということ。)
 

実験への解釈1

 では、正しくは、どう認識するべきなのか? そのことを考えるにあたって、事実を見よう。まず、ケアンズらの実験が、事実としてある。これについて、どう解釈するべきか?
 この件では、柴谷篤弘の説(1992年)がある。これを「隠れ遺伝子」説と呼ぶ。その主張の要旨は、次の通り。
「新たに出現した遺伝子は、急激に発生したのではなくて、もともと存在していたのだ。それらは、もともと存在していたが、作動せずに、眠っていた。そして、不利な環境になると、それらの眠っていた遺伝子が目覚めるようになった。それらの遺伝子は、眠りから目覚めただけであり、いきなり誕生したのではない」
 この説は、もっともらしい。しかし、「もともとあった」という説では、進化を説明できない。たとえば、「猿から人間に進化したのは、猿のなかに人間の遺伝子がもともとあったからだ。それらの遺伝子が目覚めただけだ」というふうになってしまう。
 このような説が成立するとしたら、初期のウィルスのなかに人間や恐竜などの多種多様な生物の遺伝子がもともと存在していて、それらの遺伝子が目覚めただけだ、ということになる。しかし、そのようなことは、当然、ありえない。ウィルスの遺伝子全体は、人間の遺伝子全体よりも、はるかに小さいからだ。小さな器には、大きな容量は入りきらない。
 

実験への解釈2

 もう一つ、別の解釈がある。次の通りだ。
「遺伝子はもともと、好都合な方向に突然変異が起こるものなのだ。ランダムな突然変異が発生するのではなく、好都合な方向にだけ急激に突然変異が発生するものなのだ。」
 なるほど、実験事実を見る限りは、そうであるように見える。しかし、だとしても、文字通りの意味でそうであるはずがない。仮に、文字通りの意味でその通りだとしたら、次のことが成立することになる。
「遺伝子には、特殊な知能がある。その特殊な知能を働かせて、個体が生存に適する方向へと、遺伝子はあえて塩基を変化させるのだ」
 つまり、個々の遺伝子が、個体が生存するにはどうすればいいかという未来を予測して、未来に適するように、うまく塩基を変化させる、というわけだ。このような主張は、荒唐無稽と言うしかない。およそ合理的な科学的思考というものを逸脱している。
 たとえば、人が「空を飛べればいいな」と思ったからといって、急に翼が生えてくることはない。同様に、遺伝子が「空を飛べればいいな」と思って、急に塩基を操作して翼の遺伝子を生じさせることはない。こんなことは、当然である。(人間さえも知らないような、あらゆる生物の遺伝子の塩基配列をすべて知っているわけだから、それは「神」の存在を前提しているのと同じである。これでは「進化論」が「創造説」に逆戻りしてしまう。)
 しかし、である。そういう好都合なことは、起こるはずがないにもかかわらず、実際に起こっているように見えるのである。たとえば、「陸上に上がった魚が、足が生えればいいなと思ったから、実際に足が生えた」というようなことが、実際に起こったと見えるのである。
 もちろん、実際には、そんなことはありえない。あくまで、「そう見える」というだけのことだ。とすれば、「そう見える」というような、何らかの隠された真実があったはずだ。その隠された真実を明らかにすることが大切だ。それこそが、「進化とは何か」を解き明かすことだ。
 

 第2章 他の概念

 本論では、この問題を解決するために、新たな原理を提出する。ただし、その前に、準備として、既存のいくつかの概念を、あらかじめ示しておこう。以下では、既存のいくつかの概念について、簡単に解説しておく。これらは、分子生物学で用いられる概念である。(専門家には既知のことばかりである。)
 

偽遺伝子

 遺伝子として働かなくなった塩基の集まりを、「偽遺伝子」と呼ぶ。偽遺伝子は、かつては遺伝子であったらしいのだが、何らかの理由により、遺伝子として機能しなくなったものである。遺伝子が遺伝子として働くためには、何段階もの過程があるが、そのうちのどこかの過程が故障すると、遺伝子としての能力をなくす。
 

中立説

 環境において有利でも不利でもないような突然変異をした遺伝子は、自然淘汰にさらされない。すると、「求心性選択」の力を受けないせいで、突然変異の頻度が非常に高まる。正確に言えば、塩基のエラーが起こりやすくなるのではなくて、塩基のエラーが起こっても淘汰せずに残りやすい。木村資生の「中立説」は、このように主張する。
 そのことの論理的な帰結として、こう結論できる。偽遺伝子は、何の働きもしないのだから、環境において有利でも不利でもない。ゆえに、遺伝子が偽遺伝子になると、突然変異の頻度が非常に高まる。
 

転写因子

 遺伝子というものは、常に作動しているわけではない。何らかのスイッチのようなものによって、オン・オフが切り替わる。ふだんはスイッチがオフになっていて、遺伝子は機能しないが、スイッチがオンになると、遺伝子は機能するようになる。
 このように遺伝子のスイッチとなるものとして、「転写因子」というものがある。(細かく言うと、「基本転写因子」「転写制御因子・転写調節因子」などの用語が使われる。ただし、ここでは詳しい話には立ち入らない。)
 

ホルモン

 ホルモンには、遺伝子のスイッチとなるものがある。たとえば、成長ホルモンや性ホルモンだ。これらが分泌されると、一定の遺伝子が働き出す。チロキシンという変態ホルモンが一例だ。両生類のアホロートルは、このホルモンによって、変態が起こる。このようなホルモンは、転写因子の一つと見なすことができる。
 

ホメオティック遺伝子

 ホメオティック遺伝子と呼ばれる、基礎的な遺伝子がある。これもまた、遺伝子のスイッチに関与しているようだ。つまり、ホメオティック遺伝子が、何らかの転写因子を生成して、一連の遺伝子の発現をコントロールしているらしい。
 

遺伝子の働く時期

 遺伝子が働く時期は、いつか? 通常、「遺伝子は誕生前の段階でのみ働く」と考えられがちだ。しかし実際には、遺伝子は、誕生後の段階でも働いている。たとえば誕生後に、「赤ん坊 → 幼児 → 若者」というふうに成長していく過程では、それぞれの段階で各器官を成長させるために、遺伝子が働いている。
 また、思春期においては、第二次性徴を発現させるために、遺伝子が働いている。たとえば、女の乳房が大きくなったり、男の皮膚がヒゲを生やしたりするようになる。ここでは乳房やヒゲの細胞において、何らかの遺伝子が働いている。
 こういうふうに、誕生前だけでなくて、誕生後にも、遺伝子は働いているのである。そして、遺伝子を働かせるスイッチとなるものが、別にあるわけだ。(前述の通り。第二次性徴で言えば、性ホルモンなど。)
 

両生類のネオテニー

 両生類のアホロートルには、「ネオテニー」(幼形成熟)という現象がある。つまり、その生物は、幼生から成体へという変態をするはずなのだが、変態ホルモンが分泌されないと、いつまでも幼生の形態を保つ。つまり、幼生の形態のまま、成長し続ける。
 ここでは、変態ホルモンが分泌されないのがネオテニーの理由である。だから、外部から変態ホルモンを注射してやると、変態をするようになる。
 

一般のネオテニー

 両生類の場合は、「変態をしない」という形のネオテニーがある。一方、変態をしない哺乳類などでも、別の形で、ネオテニーと呼ばれる現象が想定されている。それは、「幼児期の形態をなるべく維持したまま、成長する」という現象である。
 これもまた、両生類のネオテニーと、原理的には同じであると考えられる。つまり、(変態ホルモンのかわりに)成長ホルモンや性ホルモンが分泌されなくなったせいで、いつまでも幼児期の形態を維持し続けるのである。
 人間で言えば、モンゴロイドは「子供っぽい」と見なされることが多いが、これは、「第二次性徴を発現させる性ホルモンがあまり分泌されないので、子供の状態からあまり変化しない」というふうに解釈できるかもしれない。仮に、性ホルモンがまったく分泌されず、第二次性徴を起こさない個体が誕生したら、その個体は、ネオテニーをしていると見なされるだろう。
 

 第3章 新たな説

 以上の概念を前提とした上で、新たな説を提出しよう。これによって、進化の原理を、塩基レベルでうまく説明できるようになる。
 

原理

 まず、一つの用語を定義しよう。
 誕生前における「個体発生」と、誕生前における「成長」とを、あわせて、「個体形成」と呼ぶことにする。
 すると、個体形成(= 個体発生 + 成長 )においては、遺伝子が働く。この遺伝子の働き方が問題となる。
 通常、遺伝子は、個体形成のどの段階でも、順々に働く。たとえば、初期には胚の分裂などのために働き、さらに、胚を分化させ、骨や手足などの各器官を形成し、それらの各器官を徐々に完成させていく。こうして個体発生が完成すると、個体が誕生する。誕生した個体は、さらに成長して成体になっていくが、その過程でも、遺伝子は働く。
 このことを、図式化しよう。個体形成には、全部で10の段階があると考えて、次の図式で示す。
 
      ■■■■■■■■■■
 
 この10段階のすべてで遺伝子が働くのが、正常の状態である。
 ところが、10段階のうちの8段階までは遺伝子が働くが、そのあとの9〜10段階目が働かなくなる、ということがある。図式化すると、次のようになる。
 
  正常  ■■■■■■■■■■
  異常  ■■■■■■■■
 
 異常の方(後者)では、最後の二つの段階である ■■ が失われている。この異常の方の現象を、「ネオテニー」と呼ぶことにする。
( ※ 従来の用語の「ネオテニー」とは意味が少し異なる。以下では、特に断らない限り、「ネオテニー」という語を、この意味で用いる。)
 

2種類のネオテニー

 ネオテニーには、2種類がある。
 一つは、最後の2つの段階が、成長期の一部分に相当する場合だ。これを「後期型のネオテニー」と呼ぶ。「後期型のネオテニー」の例としては、先のアホロートルの例がある。成長期のうち、変態の時期以降で、遺伝子の働きが停止することになる。その個体は、遺伝子の働きが停止したせいで、変態をしなくなる。すると、幼体の状態を保ったまま、生存し続ける。
 もう一つは、最後の二つの段階( ■■ )が、個体発生期の一部分に相当する場合だ。これを「前期型のネオテニー」と呼ぶ。個体発生のある時期以降で、遺伝子の働きが停止することになる。その個体は、遺伝子の働きが停止したせいで、個体発生が未完成状態のまま、誕生する。(なお、個体発生があまりにも不完全であると、誕生せずに流産となる。その場合は、個体が誕生しないわけだから、存在しないものと見なして、無視してよい。)
 

2種類のネオテニーの意味

 後期型のネオテニーも、前期型のネオテニーも、「遺伝子の働きが途中で停止した」という点では、同様である。ただし、違いもある。
 後期型のネオテニーでは、成体としての形質を失う。すると、幼体としての形質がずっと続く。
 前期型のネオテニーでは、種としての何らかの形質を失う。通常、個体発生の最終段階では、生物の基本に関わるような重要な形質は形成されず、その種に独特の細かな形質だけが形成される。たとえば、肌や羽毛の色素とか、体毛とか、皮膚の角質とか、そういう形質である。そういう細かな形質が失われるわけだ。ただし、程度が大きいと、もっと重要な形質も失われる。
 結局、後期型のネオテニーが起こると、「子供状態が続く」ことになるが、前期型のネオテニーが起こると、「種として不完全な個体が誕生する」ことになる。
( ※ 後期型のネオテニーが、普通の用語としての「ネオテニー」に相当する。逆に言えば、後期型のネオテニーを標準的なネオテニーと見なせば、本論におけるネオテニーは、「広義のネオテニー」と呼んでもいいかもしれない。)
 

ネオテニーと偽遺伝子

 ネオテニーが起こると、最後の二つの段階( ■■ )は働かなくなる。つまり、その段階の遺伝子が偽遺伝子となる。
 偽遺伝子は、突然変異の頻度が非常に高まる。その理由は、先に述べたように、「自然淘汰にさらされなくなったこと」、つまり、「求心性選択の力が働かなくなったこと」である。
 結局、ネオテニーが起こると、遺伝子は働かなくなって偽遺伝子となり、その偽遺伝子において、突然変異の頻度が急激に高まるわけだ。
 

偽遺伝子から遺伝子へ

 偽遺伝子において突然変異の頻度が急激に高まると、偽遺伝子に多様な突然変異体が登場する。すると、それらのなかから、有益な遺伝子が登場することがある。
 具体的に言おう。両生類において、足の遺伝子が出現した。ここでは、いかにして、足の遺伝子が出現したか? 何もないところから、いきなり、足の遺伝子が出現したわけではない。まず、魚のヒレの遺伝子があった。そのヒレの遺伝子が、いったん働かなくなって、偽遺伝子となった。そのヒレの偽遺伝子が、多様な突然変異を起こした。すると、そのなかから、足の遺伝子が出現した。(または、「足とヒレの中間的な器官」の遺伝子が出現した。)
 

従来の説との違い

 従来の説とは、どう違うか? 従来の説では、遺伝子が遺伝子であるまま、
 
   元の遺伝子 → 少し変わった遺伝子 → もっと変わった遺伝子 → ……
 
 という順で、遺伝子が少しずつ変化していくことになる。これは、少しずつ進む連続的な変化である。
 本論の説では、遺伝子がいったん偽遺伝子となるので、
 
  元の遺伝子 → ( 偽遺伝子  → 多様な偽遺伝子 ) → 新しい遺伝子
 
 というふうになる。このうち、カッコ内の部分は、偽遺伝子になっているから、外部には発現しない。発現した器官だけを見れば、「元の遺伝子 → 新しい遺伝子」という変化に応じて、「元の器官 → 新しい器官」という、突発的な大変化が起こったことになる。
 キリンの首で言えば、「短い首の遺伝子」から「長い首の遺伝子」へと、遺伝子が少しずつ連続的に変化していく必要はなく、「短い首の遺伝子」から「長い首の遺伝子」へと突発的に遺伝子が変化していくことになる。途中の段階は、存在しないのではなくて、遺伝子が偽遺伝子となっているせいで、形態が発現しないだけである。
( ※ ただし、「突発的な変化」と言っても、一挙に最初から最後まで飛ぶ必要はない。途中に三つか四つの段階があっても構わない。両生類に至る「ヒレから足へ」という過程では、途中にいくつかの段階があったことが知られている。つまり、ヒレと足の中間的な器官をもつ種があった、と知られている。──だとしても、ここでは、三つか四つぐらいの段階があるだけだ。無数の段階があって、連続的に変化していくわけではない。)
 

ネオテニーの効果

 もう一度、図式で示そう。ネオテニーが起こると、その個体では、個体形成の最後の二つの段階( ■■ )を失う。次の図のように。
 
    旧来の種  ■■■■■■■■■■
    新しい種  ■■■■■■■■
 
 新しい種では、失った段階のところの遺伝子が、偽遺伝子となる。そして、その偽遺伝子が多様な突然変異を起こしたあとで、新たな遺伝子が登場する。つまり、次のようになる。
 
    旧来の種  ■■■■■■■■■■
    新しい種  ■■■■■■■■□
 
 ここでは、新しい種には、 □ というものがある。これは、旧来の種にはない、新たな遺伝子である。
 さて。新しい種では、まだ偽遺伝子があるから、その偽遺伝子がさらに遺伝子になることもある。すると、新しい種では、次のようになる。
 
    旧来の種  ■■■■■■■■■■
    新しい種  ■■■■■■■■□□
 
 新しい種では、 □ が2個になっている。そして、この二つの種を比べると、個体形成の段階の量は、どちらも10段階である。(つまり、同量である。)
 さて。新しい種は、旧来の種とは別の種であるから、まったく別の個体形成をなしてもいいだろう。とすれば、新しい種では、個体形成の段階は、10段階であるかわりに、9段階であることもあるだろうし、11段階であることもあるだろう。つまり、旧来の種よりも少ない遺伝子をもつものもあるだろうし、旧来の種よりも多くの遺伝子をもつものもあるだろう。9段階であるようなものは、たいていは、旧来の種に負けてしまって、絶滅するだろう。一方、11段階であるようなものは、旧来の種に勝つこともあるだろう。すると、そこでは、「進化」が起こったことになる。
 かくて、個体形成の量が11段階であるような、新しい種が誕生したことになる。次のように図示できる。
 
    旧来の種  ■■■■■■■■■■
    新しい種  ■■■■■■■■□□□

 新しい種では、最後の ■■ が新たなものに置き換わっただけでなく、その量が2段階から3段階に増えている。つまり、遺伝子の量が増えている。
( ※ 従来の説では、「塩基レベルの置換が起こる」とだけ考えるから、「進化に応じて遺伝子の量が減る」という現象を説明できない。)
 

ヘッケルの説

 「個体発生は系統発生を繰り返す」という、ヘッケルの有名な説がある。このことは、すぐ上の図式を見ると、納得できる。上の図式にならって示せば、ヘッケルの説は、次の図式のようになる。
 
    旧来の種  ■■■■■■■■■■
    新しい種  ■■■■■■■■■■□
 
 つまり、「個体発生の最後に、新たな段階( □ )が追加されて、新しい種になる」というふうに理解される。要するに、10段階の段階はそのまま残され、そのあとに新たに11段階目が追加されている。
 しかし、この図式は、成立しない。むしろ、先の図式が成立する。つまり、「単純に新たなもの( □ )が追加される」のではなくて、「最後のあたり( ■■ )を失い、かわりに、新たなもの( □□□ )が追加される」というふうになる。そういう認識が正しい。
( ※ 結局、ヘッケルの説は、完全には正しいとは言えないわけだ。このことは、個体発生の事実を観察すれば、すぐにわかる。)
 

進化のやり直し

 ネオテニーと進化は、どういう関係にあるだろうか? いきなり答えを言おう。ネオテニーの意味は、「進化のやり直し」である。
 生物は、進化の過程で、少しずつ新たな遺伝子を獲得してきた。そうして獲得された遺伝子は、個体発生の段階で働く。個体発生の初期段階では、生命としての基本的な部分を形成し、個体発生の最終段階では、種としての独自の部分を形成するようになった。ところが、前期型のネオテニーが起こると、個体発生の最終段階の「種としての独自の部分」が失われてしまう。
 たとえば、魚なら魚としての、その種に独自の形質がある。しかし、前期型のネオテニーが起こると、その独自の形質を失ってしまう。つまり、魚が環境に最適化するために、長い時間をかけてせっかく獲得した形質(ヒレなど)を、失ってしまうのだ。
 しかし、古いものを失うことによって、新たなものを獲得する可能性を得たのだ。そして、そのあと、無数の試行錯誤のすえに、新たなものをまさしく獲得するのだ。
 そして、このことは、「進化のやり直し」に相当する。なぜか? それを説明しよう。
 今、ヒレのない魚を、「原始魚」と呼ぶことにしよう。原始魚は、ヒレがなかった。その後、進化の過程を経て、ヒレの遺伝子を獲得して、ヒレを生やした。ここでは、
 
   原始魚 → 魚
 
 という進化があった。さて。その後、ヒレのかわりに足をもつ両生類が登場した。この両生類は、ヒレの遺伝子を変化させて、足の遺伝子にしたのではない。つまり、次の進化があったのではない。
 
   原始魚 ──→ 魚 ──→ 両生類
 
 では、何があったのか? ヒレの遺伝子を失ったときに、魚であることをやめたのである。つまり、ヒレを失うことで、原始魚の段階に(部分的に)逆戻りしたのである。そして、ヒレのない原始魚の段階から、あらためて、足のある両生類になったのだ。つまり、次の進化があったのだ。

 
   原始魚 ─┬→ 魚
        │
        └→ 両生類
 

 という進化があったのだ。つまり、「魚から両生類に進化した」のではなくて、「原始魚から両生類に進化した」
 ただし、注意しよう。「原始魚から両生類に進化した」としても、いきなりそういう進化が起こったわけではない。その際には、魚の遺伝子(ヒレの遺伝子)を偽遺伝子として利用したのである。この偽遺伝子があったからこそ、「原始魚から両生類に進化した」ということが可能になったのだ。
( ※ 図式で言おう。「原始魚」と「魚」と「両生類」を、「A」と「B」と「C」と書くことにすれば、「A → B → C」というふうになったのではなく、「A → C」というふうになったのでもない。「A → B → A → C」というふうになったのだ。)
 

種の分化の問題

 以上で、ネオテニーによる進化の原理を示した。このことを理解すると、「種の分化」という難問に、見事に答えることができる。
 「種の分化」というのは、従来の進化論では、すこぶる難問であった。たとえば、「哺乳類で、食虫類や齧歯類や有蹄類などは、どのような系統関係にあるのか?」という問題に、うまく答えることができなかった。
 第1に、歴史的に見れば、小型動物である食虫類などから、大型動物である有蹄類などが生じたはずである。つまり、直列的な進化があったはずだ。(ダーウィンの説。)
 第2に、化石的に見れば、ほぼ同様の結論が得られる。つまり、小形で原始的なものから、大型で高度なものへと、時間順に進化していったことがわかる。
 第3に、形態学的に見れば、小形動物も大型動物も、すべて対等な関係にある。つまり、並列的である。
 というわけで、第1・第2と、第3とは、矛盾する。
 第1・第2からすれば、哺乳類は、進化の系統樹に従って、「逆ピラミッド型の構造」をもつはずである。とすれば、それぞれの類は、包含関係のある「入れ子型の構造」をもつはずだ。たとえば、「哺乳類」のなかに下位項目の「食肉類」があり、そのなかに下位項目の「齧歯類」があり、そのなかに下位項目の「キツネ類」があり、そのなかに下位項目の「食肉類」(犬や猫)があり、そのなかに下位項目の「有蹄類」があり、そのなかに下位項目の「霊長類」があり、……というふうに。
 しかし、このような包含関係のある「入れ子型の構造」は、成立しない。「食肉類」「齧歯類」「有蹄類」「霊長類」などは、対等の立場として、「哺乳類」の一員となる。つまり、第3のようになる。
 結局、第1・第2と、第3の、いずれを取っても、うまく説明できない。そこには、根源的な矛盾がある。それが、従来の進化論だった。
 しかし、本論の考え方を取れば、この問題を解決できる。それは、「歴史的には第1・第2であるが、遺伝子的には第3である」ということだ。そして、そのことを説明する原理が、「進化のやり直し」である。
 たとえば、有蹄類は、有蹄類の前の種から、徐々に進化したのではない。有蹄類の前の種が、ネオテニーを起こした。このとき、その種に独特の形質を失ったことで、いったん過去の種の段階(原始的な哺乳類)に戻ったのである。そして、過去の種の段階(原始的な哺乳類)から、あらためて進化をやり直したのだ。
 ここで、進化のやり直しがあったが、それに際しては、いきなり遺伝子を獲得したわけではなくて、有蹄類の前の種に備わっていた遺伝子を、偽遺伝子として利用した。つまり、単なるランダムな突然変異によって、新たな遺伝子を獲得したわけではなくて、もともとあった遺伝子を原型として用いることによって、新たな遺伝子を獲得したわけだ。
 先の図式で言えば、「A → C」という順ではなく、「A → B → A → C」という順で進んだわけだ。それが「進化のやり直し」である。
 このことを、進化の系統樹の図式で示そう。
 従来の考え方では、種の分化とは、一つの点で二つの方向に分かれることだ。形で言えば、 ∨ で示せる。ある一点において ∨ のように分かれ、その先でまた ∨ のように分かれる、……ということが続くわけだ。
 一方、本論の考え方では、(ネオテニーによる)種の分化とは、一つの点からいったん過去に戻って、そこから進化をやり直すことだ。この際、過去に戻ってから、ふたたび元の道をたどるのではなく、今度は別の道をたどることもあるだろう。すると、 ∨ の先で ∨ に分かれるのではなく、 ∨ の根元で ∨ に分かれることになる。こうなると、 ∈ という字を左に90度回転させたような形になる。これは、フォーク形に分かれる系統樹であって、逆ピラミッド形に分かれる系統樹とは異なる。
 かくて、「ネオテニー」という考え方を取ると、「種の分化」をうまく説明できるようになる。つまり、時間的には直列的だが、形質的・遺伝子的には並列的であるということを、うまく説明できるようになる。
 

結語

 ここまで述べたことを、まとめてみよう。
 「ネオテニー」は、進化の原理である。従来の「突然変異と自然淘汰」という考え方は、小進化を説明できたが、大進化を説明できなかった。大進化を説明するには、「ネオテニー」という概念が必要である。
 「ネオテニー」は、「進化のやり直し」を意味する。Aという種からBという種に進化して、そこからさらにCという種に進化するのではない。Bという種になったあと、そこからいったんAという種に(部分的に)逆戻りして、あらためてCという種に進化し直す。ただし、その際、Bという種の偽遺伝子を利用する。AからCへといきなり進化することは不可能であり、Bが途中に介在することが必要である。
 なお、Cの遺伝子が誕生する際には、Bの遺伝子が原型となるのではなく、Bの偽遺伝子が原型となる。ここでは、Bの遺伝子が偽遺伝子になること(遺伝子が遺伝子としての働きをなくすこと)が必要である。その現象が「ネオテニー」である。
 ネオテニーが起こると、遺伝子が偽遺伝子になるので、求心性選択の力を受けなくなり、突然変異の頻度が非常に高まる。このことが、進化の原動力となる。
 進化が起こるためには、突然変異の頻度が非常に高まる必要があるが、その原動力が、ネオテニーなのである。一方、従来の進化論における「自然淘汰」は、突然変異の頻度を下げる効果があるので、進化にはプラスの効果があるどころか、マイナスの効果がある。
 一般に、ネオテニーが起こるためには、自然淘汰の力が弱まっていることが必要である。新しい環境などがそうだ。たとえば、肺魚が浅瀬に進出すると、そこにはライバルがあまりいなくて、自然淘汰(優勝劣敗)の原理が働かなかった。すると、ネオテニーをした個体も、十分に生存できた。ネオテニーをした個体の集団には、偽遺伝子に多様な突然変異が発生した。そういう突然変異をした偽遺伝子のなかから、あるとき突然、有益な遺伝子が出現した。
 ここでは、ヒレの遺伝子が徐々に足の遺伝子に変化していったのではない。ヒレの遺伝子がいったんヒレの偽遺伝子となってから、足の遺伝子になったのだ。つまり、ヒレが足になったのではなくて、ヒレを失ってから足を生やしたのだ。そして、ヒレを失うということは、はるか昔にいた原始魚の段階に戻るということなのである。
 大規模な進化は、「進化のやり直し」という形で起こる。その原理が、「ネオテニー」である。
 

   End.