新訳 悪 の 華
目 次
原書再版の番号 題 名
二 アホウドリ
三 上昇
四 照応
一〇 敵
一二 前世
一四 人と海
一七 美
一九 巨人
二二 異土の薫り
三〇 深処叫喚
三六 バルコニー
四〇 常時同様
五〇 曇り空
五三 旅への誘い
五五 語らい
五六 秋の歌
七四 ひびわれた鐘
一二一 恋人たちの死
拾遺編 四 忘れ河(レテ)
拾遺編 六 宝石
第三版 九 深淵
第三版一三 静思
――――――――――――――――――――――――――――
アホウドリ 二
船乗りしばしば慰みごとに、
生け捕るよ、大きな海鳥、アホウドリを。
うみじ のんき
こいつは海路の呑気な相棒、
ふち
深い淵の上をすべりゆく船につきまとう。……
こいつもひとたび甲板に降りれば、
青空の王者だったのが、ヘマで、ノロマで。
白い大きな翼をダラリと垂らして、
オールのように、左右にひきずる。
ぶ ざま ぐ ず
翼ある旅人、それが何と不様で愚図なこと!
こっけい
さっきまで美しかったのが、醜く、滑稽で!
きせる くちばし
煙管の端で嘴を突っつかれたり、
びっこ
跛の動作で不具の真似をされたりして!
詩人は似ている。この雲上の王子に。──
ゆきき い て あざけ
荒天を往来し、射手を嘲りはするものの、
ばせい
地上に追われて、罵声に囲まれれば、
巨大な翼も、歩く邪魔になるばかり。
上昇 三
こしょう けいこく
高く、湖沼のうえ、渓谷のうえ、
さらに、山、森、海、雲のうえ、
そして太陽をこえて、大気圏をこえて、
はて
恒星たちの天球の涯しをもこえて、
わが精神、おまえ、軽やかに動きゆくもの。
お お
えもいわれぬ男々しい歓びをもって、
波間に笑みを浮かべる泳ぎ手のように、
みお ひ
無限の深みにひとすじの澪を曳くものよ。
あくき
飛び立つがいい、病める悪気を捨てながら、
きよ
行くがいい、至高の空気のさなかで身を浄めに、
み き
そして、飲むがいい、あたかも聖なる神酒のように、
澄みきった空間にみなぎる明るい火を。
けんたい
倦怠、漠たる悲哀、そうした重々しく
かすみ
霞のような存在にのしかかるものを後にして、……
はつらつ
この幸せ、ああ、溌剌たる翼をそなえて、
晴れやかで光ある領域をめざすとは。
おのが思いを、朝のヒバリたちのように、
大空のほうへ飛び上がらせるとは。……
そして、花の言葉、沈黙する万物の言葉を
かけ
やすやすと理解しつつ、人生のうえを翔るとは!
照応 四
・・
自然。──それは、一つの神殿。その柱たちは、
生きて、ときおり、おぼろな言葉をつぶやく。……
そこを通るに、人は、象徴の森をよぎり、
まわりからの親愛な眼差しに見守られる。……
はて
夜のように明るみのように涯しない
暗くて深みある融和のさなかに、
こだま
遠くからまじりあう、長い谺のように、
薫り、色、音、それらたがいに、応えあう。
さわ
薫り。──子供の素肌のように爽やかで、
つのぶえ まきば
角笛のように甘やかで、牧場のように緑なのも。
そしてまた、腐って、豊かで、誇らかで、
無限なほどにも広大に展開して、
りゅうぜんこう あんそくこう じゃこう
龍涎香、安息香、麝香などのように、
こうえつ
精神と感覚の光悦を歌いあげるものも。
敵 一〇
私の青春は、暗黒の嵐にすぎなかった、
こ も
ここかしこ、きららかに、木洩れ日は射したけれど。
いかずち しゅうう
風、雷、驟雨に、荒らされて、……
あか
わが庭に、紅い実はろくに残っていない。
もうすでに私は、湧くべき心の秋に触れた。
すき くわ
とすれば、鋤と鍬を用いて、あらためて
はんらん
耕し直さねばならない。ここ、氾濫して、
うが
水で、墓のごとき大穴を穿たれたところを。
そして、誰が知ろう。私の夢みる新たな花々が、
砂浜のように洗われたこの土壌のなかに、
精気をもたらす神秘な滋養分を見出すかを。
・ は
──おお、苦痛、おお、苦痛! 時が、生を食む。
かじ
そして、われらの心を囓って血を失わせる
・
あのおぼろなる敵が、成長して肥えるのだ!
前世 一二
壮大な柱廊。そこに、私は長らく暮らした。……
ち ぢ かえん
海の太陽の千々の火焔によって染めあげられ、
きつぜん
列立する石柱は、屹然として、厳粛で、
ほら
日暮れ方には、さながら玄武岩の洞であった。
大空の像を揺らしつつ、海のうねりは、
荘重に、神秘的に、織り交ぜるのだった、……
ほうじょう
その豊饒な音楽の、力みなぎる和声を、
そうぼう
わが双眸に映じている落日の色彩に。
そここそ、私が静かに、悦楽に生きたところ。
かいは
青空と、海波と、光輝のさなかで、
香料のしみた裸の奴隷らにかしずかれて。……
しゅろ ひたい あお
彼らに棕櫚の葉で、額を扇がれながら、……
私はそこで、ただ、深めさせられるばかりだった、
自らを悩ませている、胸苦しい秘密を。
人と海 一四
自由なる人間よ、きみは常に海を愛するだろう!
海はきみの鏡だ。きみは見る、おのが魂を、
あの巻いては延びる波の、無限の広がりに。
きみの精神、それもまた劣らず苦い深淵だ。
きみは喜んで、自らの像の、胸のなかに浸り、
それを、眼で、腕で、抱き締める。きみの心は
自己のざわめきを紛らわすこともある、
とどろ
この御しがたい野性の海の、嘆きの轟きのなかに。……
ことずく
きみらは両者ともに、暗くて、言少なだ。
人よ。きみの深遠さの底は、誰も測りえない。
海よ。きみの内なる豊かさは、誰も知りえない。
まも
それほどにも、秘密を護るのに固執して!
そのくせ、きみらは数知れない世紀にわたって、
闘ってきた。憐れみもなしに、悔いもなしに。……
さつりく
かくも、きみら、殺戮と死とを好むとは。
おお、永遠の抗争者、和解なき兄弟よ!
美 一七
無常の者どもよ、我は美しい。石の夢のように!
人々を次から次へと傷つけてしまうこの胸は、
詩人のなかに、あたかも物質のような
寡黙で不滅な愛を吹き込ますために。
不可解なスフィンクスのように、大空に君臨して、
雪の心を、白鳥の白さに結びつけ、
線を移しゆく、物の運動を憎み、
我は決して、泣くことなく、笑うこともなく。
ひ
このうえなく誇らかな碑から借りてきたような
わが壮大なる威厳を前にして、詩人たち、
るこく
尽くしがたい鏤刻の日々を費やそう。
こわく
なぜなら、この従順なる恋人らを蠱惑するため、
我はすべてをより美しくする至純な鏡をもつから。
すなわち、眼を、永遠の輝きの、大きな眼を!
巨人 一九
・・
往時、自然が、たくましい精力によって、
はら
日々、おぞましき子供たちを孕んだ頃に、……
あたうなら、女の巨人のもとに暮らしただろう、
すそ あや
女王の裾にじゃれる妖しい猫のように。
あたうなら、その肉体が、魂とともに花ひらき、
はげしい歓びのうちに巨大化していくのを見ただろう。
そして、彼女の心に秘められた、暗い炎を、
眼にただよう湿った霧から読みとったろう。
豊満な形態の上を気ままにさまよいもしたろう。
ふともも は
太腿のなす広大な斜面を這いのぼったろうし、
また、いくたびか、夏の不健全な太陽の下、
疲れて、野原に身を延ばした彼女の、
その乳房の陰に、心のどかにまどろんだだろう。
あたかも、山裾にある平穏な村のように。
異土の薫り 二二
秋の暑さの夕べ、目を閉ざし、
おまえの熱い乳房に匂いを吸えば、……
見えてこよう。単調な太陽の火の下、
まぶしい、幸福な岸辺のひろがるのが。
たいだ
その怠惰の島には自然のおかげで、
珍稀な樹木と、滋味のある果実と、
や たくま
痩せて逞しい肉体をもつ男と、
感嘆するほど素直な瞳をした女。
おまえの匂いに、魅惑の風土へ誘われて、……
マスト
見れば、そこには、港を埋める帆と柱が、
いずれも海波の疲れをなお負って、……
そして、緑なすタマリンドの薫りは、
空をめぐり、鼻孔をふくらませて、
わが心のうちで、水夫の歌声と混ざりあう。
深処絶叫 三〇
あわ
あなた、私の唯一愛する人、どうか、憐れみを!
お
私の心は、墜ちてしまった、この暗い深淵に。……
なまりいろ いんうつ
鉛色をした地平線の、陰鬱なる世界、
よ わ ぼうとく
夜半には恐怖と冒涜とが漂う世界に!
むつき かけ
六月、熱のない太陽が頭上を翔り、
むつき
あます六月、闇夜が地表を覆うところ。……
ここは極地よりもさらに荒涼とした土地。
──獣はいない、小川、緑草、森林もない!
れいれつ こくはく
氷の太陽の、冷冽な酷薄さと、
カオス
太初の混沌にも似た、無際限の長夜。……
これにまさる恐怖が、人界にあるだろうか?
いや うらや
私には、卑しい動物たちの境遇さえ羨ましい、
たんでき
愚かしい眠りのさなかに耽溺できるなら。……
かくも、時間の糸は、繰られるのも遅々として!
バルコニー 三六
思い出への母よ、恋人中の恋人よ、
おまえこそまさに、あらゆる営み、あらゆる喜び。
あいぶ
いまも思えば、心に、あの愛撫のすばらしさ、
ろばた
炉端でのやすらかさ、夕べの魅力を運び。……
思い出への母よ、恋人中の恋人よ。
たそがれ
炭火に照りつけられていた黄昏のころ、
もや
薔薇色の靄のこもる、バルコニーのあたりで、
かぐ
おまえの香わしい胸! 慕わしいこころ!
不滅のものについて語りあったね、ふたりで。……
たそがれ
炭火に照りつけられていた黄昏のころ。
ぬくい日暮れ、夕陽は何と麗しいか!
空間は深々として、心はみなぎっており、……
もた
恋人中の女王たるおまえに凭れたせいか、
か
私が嗅いだのは、いわば、血の薫り。……
ぬくい日暮れ、夕陽は何と麗しいか!
夜は厚くなった、まるで、石壁のごとく。
のぞ
暗闇のうちに、眼で、眼を、覗きこみ、
おまえの息を呑めば、おお、それは甘い毒!
ふともも
私は、熱い太腿を、わが手のなかに囲み、……
夜は厚くなった、まるで、石壁のごとく。
幸福だった日々を、私は、呼び返そう。
おまえの膝に埋もれつつ、過去に生きることで。……
そ
おまえの、いとしい体と優しい心に添う
そのけだるげな美しさのもとで。
幸福だった日々を、私は、呼び返そう!
あの誓い、あの薫り、あの限りない口づけよ。
よみがえるだろうか、はかりしれぬ奥から、ここに。
あたかも、深い海の底に沈んだ太陽が、
きよ
浄められ、若返り、空へ昇っていくように。
──ああ。誓い、薫り、限りない口づけよ!
常時同様 四〇
「その異様な悲しみは」とあなたは問う。「どこから
いわお
寄せてくるの? 黒い巌に満ちてくる潮のように」
──私たちの心がひとたび収穫を済ませれば、
生きることは苦痛、これは誰もが知る秘密。……
この苦痛。それがあまりに単純で不思議もなく、
誰にも明らかなのは、あなたの歓びと同様。……
せんさく
だから探るのはやめなさい、詮索好きの美女よ、
あなたの声は優しい、けれど黙っていて。……
黙っていて、無知のものよ、いつもはしゃぐ魂よ、
おさな ・
幼げに笑う口元よ! ……生よりもむしろ
・ きずな
死のほうが、精妙な絆で、人を捕らえるものだ。
・・
私の心を、どうかこのまま、偽りのうちに酔わせ、
あなたの美しい瞳に、夢でのように沈ませ、
まつげ
そしてあなたの睫毛の陰に、長らく眠らせて。……
曇り空 五〇
もや
おまえの眼差しには、靄がかかっているようだ。
その神秘的な瞳は(色は、青か、緑か、灰か?)、
そうはく
大空のどんよりとした蒼白さを反映しつつ、
優しくも、夢見がちにも、すげなくも見える。……
ぬく
おまえ。思わせるのは、白い、温い、くすんだ日々。
すなわち、未知の苦悩にかきみだされて
さ あざわら
冴えた神経が、ねぼけた精神を嘲笑い、……
つ
憑かれた心が、涙に暮れる、そんな日々。
おまえ。霧深い季節の太陽に照らされた
あの美しい地平線に似ることもあり、……
曇り空から漏れる光線に燃えたち、
輝きもする、おまえ、湿った景色よ!
おお、危険な女性、魅惑の風土よ!
おまえの雪を、霜をも、私は愛せるだろうか。
そして、氷や剣よりもはるかに鋭利な快楽を
この苛烈な冬から引き出せるだろうか?
旅への誘い 五三
いとし子よ、妹よ、
甘やかに思いみよ、
かしこで、二人で暮らすことを。……
愛しあう、ほがらかに、
愛しあう、死ぬために、
あなたによく似た遠い国で!
薄曇る大空の
うる
潤みある太陽は
わが心へ魅力をふりまく。
神秘的なあなたの
裏切りの眼のように、……
涙を透かして輝かしく。
かしこ、すべては整いと美、
よろこ
栄え、安らい、そして悦び。
歳月で磨かれた
つややかな家具類は
私たちの部屋を飾りたて、……
さ
古い花瓶に挿した
珍らかな花々は、
こはく
琥珀のごとき香りを、立て、……
ゆが
天井の絵の歪み、
奥へ吸い込む鏡、
異国風の壮麗なものまで、
そのすべてが心に
語るだろう、ひそかに、
ふるさと
懐かしい故郷の言葉で。
かしこ、すべては整いと美、
栄え、安らい、そして悦び。
ほら、ごらん、あの運河、
まどろんだ船たちが、
さすらいの心を乗せている。
それらはただあなたの
憧れをみたすため、
はて
世界の涯しからやって来る。……
──沈みゆく太陽は
何もかも染めていく。
運河も、街も、野原も、すべて、
薔薇色と金色に。……
世界は眠りゆく、
暖かな光のただ中で。
かしこ、すべては整いと美、
栄え、安らい、そして悦び。
語らい 五五
あなたは美しい秋の空、明るく薔薇色で!
うしお
けれど、悲しみはわが身へと、潮のように満ちて、
それが引いたあと、残されるのは、唇の上、
ひりつくような、苦い泥土の、思い出だけ。……
生気ないこの胸を、手でさすって、探っても、
無駄だ、そこはすでに不毛の土地だから。
女たちの凶暴な歯と爪に荒らされたあとで。……
探すな、わが心臓を。もう獣どもに食いつくされた。
わが心臓、心の宿り、それは踏みにじられた宮殿、
酒酔い、人殺し、髪つかみあう者どもで。
──あらわな首まわりに香りを漂わせる、……
・ むち
あなた、おお、美よ、魂を打ち据える鞭よ!
望むままに、祭のようにきらめく火の瞳で、
くず かす
獣どもの余した、屑と滓をも、焼きつくせ!
秋の歌 五六
T
やがて私たちは沈むだろう、冷やかな闇に。……
さらば、輝きよ、あまりに短かった夏の日々よ。
いんうつ
耳にはすでに、陰鬱なものが忍び寄せる。
まき
中庭の敷石の上へ落とされた、薪の響きが。
みうち
冬のすべてが私の身内に戻りくる。
おのの
怒り、憎しみ、戦き、恐れ、つらい仕事が。
すると、極北の地獄に燃える太陽のように、
い かたまり
私の心はもはや、赤い凍てついた塊。
まき
ふるえつつ、私は聞いている。落ちた薪が、
断頭台を築くよりもなお鈍く反響するのを。
私の精神は、あたかも砕かれる石塔、
てっつい
そこに鉄槌はたえまなく打ちおろされ。……
この単調な震動に揺すぶられているうちに、
ひつぎ
どこかで棺が、釘に打たれているのかと。……
誰のために? ああ、昨日は夏、今は秋!
この神秘的な物音は門出のように鳴りわたる。
U
きれなが
あなたの切長の眼の、緑の光! 美しい人よ、
私はそれを愛する、けれど今日すべては苦い。
あなたの愛も、あなたの部屋も、その暖炉も、
すべては、あの海に照る太陽に及ばない。
それでも私を愛しておくれ、優しい心よ、
ふそん
母となって、この忘恩の私、不遜な私を。……
恋人よ、妹よ、どうか栄華ある秋の、
あるいは沈む夕陽の、つかのまのなごやかさで。……
つと う
たまゆらの務めだ! 墓が待つ、飢えながら!
ああ、私はただ味わいたい、その光を。……
はげ
あなたの膝に額を埋め、白い烈しい夏を惜しみつつ、
あきずえ
この秋末の、黄色いなごやかな光を!
ひびわれた鐘 七四
悲しくもまた楽しく耳を傾けるのは、冬の夜、
けぶ
震えつつ煙る炎のかたわらで、……
霧のなかに鐘の歌が響くにつれ、
ともに込み上げてくる、遠い過去の面影。……
きょうじん のど
幸福者、あの強靭な喉をもつ鐘は、
はつらつ
老いさらばえても、機敏で、溌剌として、
信心深いその大声を実直にわたらせる。……
いわば、天幕の下、夜警に立つ老兵のように!
きうつ
けれどわが魂はひびわれて……。気鬱なとき、
歌声を、夜の冷気にみなぎらそうとしても、
ああ、しばしばその声は、かすれてしまう。……
うみ しかばね
あたかも、血の湖のほとり、屍の山のもと、
見捨てられた負傷兵の、身動きもならずに、
にぶ あえ
しぼりだす、最後の鈍い喘ぎのように!
恋人たちの死 一二一
その部屋には、ほのかな匂いのこもる寝台と、
墓穴のように深みのある長椅子を置いて、……
そして、飾り棚には、いっそう美しい空の下で
私たちのために開いた、珍らかな花を置こう。
最後の熱を、たがいに競うように費やして、
ハート ほむら
二つの心を、二つの大きな焔とすれば、
それらは双の輝きを映しあうだろう、……
この対の鏡面、私たちの二つの精神のなかに。
神秘的な青色と薔薇色の織りなす夕べ、
せんこう
私たちは、一度限りの閃光を交わすだろう。
むせ
別離を詰め込んだ、長い噎び泣きのように。……
・・
そしていつしか、天使が、扉をなかば開けて、
入室し、せっせと楽しげによみがえらせるだろう。
曇りついた鏡面と、死にはてた炎とを。……
忘れ河(レテ) 拾遺編 四
おいで、この胸に。むごくすげない魂よ、
めひょう
けだかい女豹よ、ものうげな怪獣よ。
うっそう
鬱蒼と茂った、そのたてがみの中に、
私は、震える指を、いつまでも入れていたい。
ペチコート
おまえの匂いのしみた腰下着に、
か
頭を埋めて、悲しく嗅いでみたい。
しお
花の萎れるようにすでに枯れた
わが恋の死骸の、甘くすえた遺香を!
眠りたい、生きるよりもむしろ眠りたい。
死と同じほど甘やかな眠りのなかで、
銅のように磨かれたおまえの美肌に、
口づけを、悔いることなくちりばめよう。
お えつ
嗚咽をやわらげて、呑みくだすには、
ねや
何よりおまえの閨での、あの深み。……
没入の力はおまえの唇のうえに宿り、
・・・
忘れ河はその口づけのなかに流れる。
もはや私は、宿命づけられた者のように、
従おう。わが運命に、こののちは、わが悦楽に。
熱中のゆえにますます刑をかきたてる
忠誠なる殉教者、無実の罪人となって!
うら
そうして、私は怨みをまぎらわすため、
かつて心を入れたことのないおまえの胸の
その先細の乳房の、魅惑の乳首に、
吸おう、忘憂の薬と、毒人参の成分を!
訳者注
忘れ河(Léthé) ──
よみ
ギリシア神話で、黄泉の国に流れる河の一つ。
死者はその水を飲み、生前の記憶を忘れるという。
宝石 拾遺編 六
いとしい人は裸だった、しかも私の心を知って、
身にまとうものはただ、響きあう宝石だけ。……
このきらびやかな装飾によって誇らかに、
古代帝国の、祝祭の夜の、女奴隷のように。……
あざけ
踊りつつ、嘲るような鋭い高音を発すれば、
金属と石で光り輝くこの世界によって、
こうこつ
私は恍惚として、狂おしく愛さずにいられない、
音と明るみの混合してできたものを。……
彼女は横たわり、されるがままに愛され、
寝椅子の上から、ほのかな微笑を差し向ける、……
海のように深く優しい私の愛、
断崖へ寄せるように彼女へ高まるこの愛に。
な めひょう
飼い馴らされた女豹のように、目を据えて、
うつ
夢みるように、虚ろに、姿態をあらためる。……
む く みだ
すると無垢と淫らさが結びつくうちに、
新しい魅力が、この移りかわる身に備わっていく。
もも
腕も、足も、そして、腿も、腰も、
油のようにつややかに、白鳥のようになよやかに、
私の見透かすように澄んだ目の前をよぎった。……
ぶどう
さらに腹も、胸、たわわなる葡萄の房も、
こ
悪の天使よりも媚びつつ、にじりよった。……
か
すると私の魂の安らいは掻き乱され、
騒がしく追い立てられそうだった、かつての
ひと
独り静かに坐しえた水晶の岩頭から。……
そのとき見てとれた情景は、いわば、新たな素描。
少年の上体とアンティオペの腰が接合して、
や
つまり、胴は痩せて、骨盤がきわだって。……
べに うるわ
褐色の頬の上では、紅の色も麗しく!
ともしび
──こうするうちに、灯は、衰え、死んでゆく。
暖炉の火ばかりが室内を照らしていたが、……
ためいき
そこから、燃えたつ溜息が、身を延ばすたび、
こはく いきち
琥珀色をしたその肌が、生血に染まるのだった!
深淵 第三版 九
パスカルは、深淵をひきずって歩いていた。
──ああ! すべて奈落だ──行為も、欲も、夢も、
言葉もが! 垂直に逆立つわが髪の上で、
・・
何度も、恐怖ゆえ、風が過ぎていくのが感じられる。
上でも、下でも、また、深みでも、浅みでも、
静寂が、空間が、ぞっとするほど引き込もうとする。……
じ
そして、夜という地に、神は巧みな手つきで、
描くのだ、悪夢を、何十枚も、休みなしに。
眠るのが怖い。まるで巨大な穴に落ちて、
漠とした不安のなかで、当てもないままのように。……
窓という窓から、いくら見ても、そこには無限だけ。
めまい
そしてわが精神は、たえず眩暈に襲われては、
せんぼう
羨望するのだ。あの無感覚のもの、虚無を。
・ ・・
──ああ、ついに逃れられぬのか、数と存在からは!
静思 第三版 一三
・・・ しず
わが苦しみよ。なごむがいい、鎮まるがいい、
・・ こ
おまえは夕べを請うた、それは下りた、そこに。……
暗く霞んだ大気が、街をすっぽりと包みこみ、
すると、ある者には平和が、ある者には不安が。
いや うごう
無常なる者どもの卑しい烏合の衆が、
・・ むちう
あの非情の刑吏、快楽の、鞭打ちのもとで、
悔いを、奴隷の祭典のさなかに、あさるときに、……
・・・
苦しみよ。手を貸して、さあ、おいで。ここに、
やつらから遠くに。……ごらん、古い衣裳をまとう
・・ てすり もた
死んだ歳月が、大空の手摺に、凭れているし、
・・
笑う後悔が、水の底のほうから、湧いてくるし、
いまわ ・・
今際の太陽が、丸い橋架の下で、眠りゆく。
すそ
そして、東洋までひきずられた死装束の裾のように、
・
お聞き、ほら、お聞き、やさしい夜が迫るのを。
―――――――――――――――――――――――――
[ 付 録 ]
次の詩はボードレールの詩に似ているので、
参考のため、訳出しておく。
作者・出典は不詳である。[原文はフランス語]
マリーン マリー
いとしいあなた
すべてを忘れて
行こう、裸になりながら、……
や
灼かれずに白い
初めての肌で
愛の匂う海辺まで!
波の行く末、
はるかかなたから
空はひそかにささやく。
あなたのそらした
ためらう眼に似て、……
青く澄んだ静けさで。
あなたは私に、厚い神秘と、
薄い、明るい、とらえがたい魅惑。
か
潮気を嗅ぎつつ
まぶた
瞼をふさいで
見えぬ海を感じたら、
いきょう
異郷の岸辺で
言葉を忘れて
夢のなかに生きてみよう、……
何も言うまい、
何も惜しむまい、
ただ耳を澄ませつつ
まどろんでいれば、……
聞こえてくるだろう、
夢を破る潮騒が。
あなたは私に、深い神秘と、
淡い、明るい、抗しがたい魅惑。
濡れた金髪は
砂浜の上で
貝殻にからんでいる。
ああ、見つめてくれ、
小さな瞳に
夏の海を入れながら。……
眠るあなたの
愛のまわりで
青さは広がるだろう、
優しさのように。……
──海はいま匂う、
遠い風に誘われて。……
――――――――――――――――
[問い合わせについて]
このホームページに関して、問い合わせを受けても、
原則として返事は出せない。表紙ページに連絡先を示し
たのは、あくまでも、責任を明らかにするためであり、
問い合わせに答えるためではない。
ただし、返事が不要なら、電子メールを送ることは、
いっこうに差し支えない。とはいえ、単なる感想などは、
送らないでほしい。一方、専門的な意見なら、歓迎する。
(その場合も、返事は期待しないでほしい)
最後の付録に述べた詩については、できれば、フランス語
の原文を掲載したいところだが、しかし、著作権の問題上、
筆者には、その権限がない。ご容赦いただきたい。 また、
この件については、一切の問い合わせを受けない。(筆者の
研究上の問題があるので)
[ ホームページ終了 ]