まえがき
 
 
 以下では、区体論と数学基礎論との関係について述べる。数学の専門家向けである。
 専門家は、集合論について理解が深いだろう。しかし、それがかえって妨げとなって、区体論を誤解しがちだ。つまり区体論を、集合論の立場から見てしまいがちだ。そうして、「変だな」と感じやすいのである。(先入観があると、色眼鏡で見て、誤解してしまいやすいものだ。)
 そこで、誤解されやすい点について、以下で詳しく解説する。また、理論の応用についても述べる。(実数論など。)
 
   以下は、専門家向けであって、一般の人向けではない。専門家
    以外の人[数学知識のない人]が読むと、話がチンプンカンプンと
    なりそうだ。注意のこと。

 
   数式は、必要なもの以外、あまり用いていない。厳密性を軽視
    するからではなくて、「物事の核心のみを書く」という方針で書く
    からである。
     必要でない数式は、無駄と感じて、私はなるべく省いている。
    読者各自が、適当に数式を補って読むとよさそうだ。
 
 
 1章 ねらい (その1) 数学的空間の構成
 
 区体論のねらいは何か? その第一は、「ひとつの数学的空間を構成すること」だ。
 つまり、「いくつかの公理を提出して、その公理によって数学的空間を出す」ということだ。
 これは、いわば、群の空間を作るのと同様だ。群以外にも、数学的な空間として、さまざまなものが知られているが、そういう数学的空間(公理的空間)と同様である。
 
 さて、このことは、仮表示形の区体論で、厳密に実現されている。このことを理解してほしい。
 確認方法は、二つある。
 ・ 「点がひとつだけある」というモデルを作る。
   そこで区体論のすべての公理が実際に成立することを確認する。
 ・ ブール代数という既存の数学的空間と比較する。
   その公理系を利用して、区体論の数学的空間ができることを確認する。
 
 前者は、誰にでもすぐできるはずだ。
 後者は、表紙ページにリンクを記した「集合論と区体論」の著者が実行している。
 
 ともあれ、こうして、数学的空間が厳密につくれたわけだ。つまり、群の空間を作るのと同様に、ひとつの数学的空間がつくれたわけだ。
 そのことを理解してほしい。それが、そもそも、話の初めである。
 なお、もしそのことが理解できないようであれば、以下のことは、読んでも無駄だから、ここで読むのをやめてほしい。

   ときどき区体論について難癖を付ける人がいる。しかし、区体論の世界
    が「ひとつの数学的空間をなす」ということを理解すれば、そのような難癖
    は無意味だとわかるだろう。「新しい数学的空間をつくる」ということは、
    どんな場合においても、重要である。それなくしては、数学的発展はあり
    えない。
    ま、「群」という数学的空間ができたときにも、それが理解できず、文句を
    言う人はいたから、いつの世でもそういうものなのかもしれないが。
 
 
 2章 ねらい (その2) 素朴集合論の構成
 
 さて、区体論のねらいは、上に述べた通りである。つまり、「公理により数学的空間を構成すること」である。
 では、その数学的空間とは、どのようなものか?
 それは、「素朴集合論に相当する世界」「包含関係を扱う世界」である。
 
 すでに述べたように、区体論の公理系は、数学的空間を定める。
 この公理系は、多くの定理を生むが、どんな定理があるかは、すでにPart2で示した。そこを見ればわかるように、 ∩ や ∪ などの記号を使って、さまざまな定理が示されている。そして、これらの定理の意味することは、素朴集合論の意味する世界と、同じである。逆にいえば、素朴集合論の定理が証明できるように、公理系が定められたわけである。
 
   これらの定理については、証明は記さなかった。いずれも、5行ぐらい
    で済むような、簡単なものばかりである。
    なお、そのうちの一部については、表紙ページにリンクを記してある
    ページで、証明されている。
 
 さて、ここまですでに記したことをまとめてみれば、次のようになる。
 ・ 区体論は、厳密な数学的空間を公理系として定めた。
 ・ そこでは、素朴集合論に相当する定理が証明される。
 
 つまり、区体論は、素朴集合論に相当するような、公理的な数学的空間を示したわけだ。それが、ねらいである。
 「素朴集合論に相当するような、公理的な数学的空間」
 というものは、もちろん、すでにある。ZFがそうだ。そして、ZF以外にはなかったのだ。そこへ、新たに、区体論というものが登場したわけだ。しかも、それは、ZFとは本質的に異質なものなのである。
 同じような世界を扱うのに、本質的に異なる二つの理論がある。とすれば、ここには、数学的な意味があるはずだ。(たとえば、物理学で、量子力学を説明する本質的に異なる二つの理論があるようなものだ。超弦理論[超ひも理論]とか。このように異なる理論が提出されれば、興味深いはずだ。)
 
 そこで、上のことに興味を感じるのであれば、以下のことを読んでほしい。一方、興味を感じない人もいるだろう。
 「集合論だけあれば十分だ、それ以外のものは考える必要もない」
 と。そう思うのであれば、以下のことは読むだけ無駄だから、読まないでほしい。本論の読者となるのは、知的好奇心のある人だけだ。既存の知識を覚えたいだけならば、本論は読んでも無駄である。本論の読者となるのは、自ら考え、自ら真理を探ろうとするような、開拓者魂のある人々だけである。
 ※ 裏話
 ここで、ちょっと、裏話を言おう。特に読む必要はないが。
 「そもそも、なぜ、そのような『集合論以外のもの』をねらったか」
 ということだ。
 その理由は、かなり個人的な話になるが、私の興味からだ。なぜかといえば、集合論というものが、美しくない体系だからである。
 美しいかどうか、というのは、個人的な美的感覚に依拠するから、あまり細かいことを言うつもりはない。ただ、私としては、集合論というものは、美を欠いた体系である、と感じられた。対称性も何もないし、あちこちで歪んでいるし、複雑な公理から簡単な定理を導き出しているし、……などと、およそ、「物事の核心としての真理」たる位置を占められるとは思えなかった。
 アインシュタインの特殊相対論というものがある。これは、その美しさゆえに、正しい理論であることを、私は確信できる。しかし集合論は、そうではない。
 集合論は、「正しいかどうか不明な理論」ではなくて、「間違った理論」である、と感じられた。それほどにも美を欠いていると感じられた。そして、それゆえ、「別の美しい理論があるはずだ」と信じたのである。ここが話の出発点となった。
     ついでにちょっと、駄弁を述べておこう。読む必要は全然ないが。
     以下は、個人的な感想である。
     相対論の本質は何か? 私の考えでは、それは、「対称性」だと思う。
     アインシュタインが相対論を生み出したとき、この理論は、どこから生み出されたか? ただの天才的なヒラメキか? おそらく、違う。私の想像では、それは、「真実は美しい」という信念だと思う。
     この信念を徹底的に突き詰めれば、「対称性」を最優先で取るはずだ。「対称性」とは、つまり、「この宇宙空間において、私と彼とは対称的な存在であること」、つまり、「一方が絶対的な存在ではありえないということ」だ。このことはもちろん、「絶対空間」の否定であり、「相対性」そのものである。この考えを数学的に定式化したものが相対論にほかならない。
     区体論も、いくらか似ている。その根底にあるものは、「真実は美しい」という信念である。この信念を徹底的に突き詰めれば、論理の基本として、反射律・推移律とか、 ∪ と ∩ の対称性などを最優先で取るしかない。そしてまた、すべての要素が平等であるような、フラットな[階型のない]体系を得るしかない。こうして自然に区体論が導き出されるわけだ。
     集合論の信念は、それとはまったく異なる。「理論は強力であることが最優先だ」というものである。その結果、理論の姿は、ツギハギだらけのフランケンシュタインのようなグロテスクなものになってしまったが、そうしたことは気にしないようだ。「どんなに汚くとも、力さえあればいい、力が大事」と信じているわけだ。
     この二つの理論のうち、どちらを取るかは、哲学的ないし人生論的な立場の差によるのかもしれない。どちらを取るかは、その人しだいであろう。
      (で、世間の人はどうかと言えば、……むむむ。まあ、そのですねえ、今のせちがらい世間では、「世の中、金と力がすべて」と信じている人の方が多いようですねえ。最近じゃ、学者も、金もうけが第一らしいし。で、美と真実を信じたアインシュタインはどうかと言えば、やっぱり、金持ちにはなれなかったな。ふむふむ。)
     ……以上、駄弁でした。      (^^);
 
 3章 集合論との差
 
 区体論は、ひとつの数学的空間を提出する。それは、素朴集合論に相当する数学的空間であり、また、ZFとは本質的に異なる数学的空間である。
 「区体論が素朴集合論に相当すること」については、すでに示したとおり、区体論の定理から明らかである。吸収律とか、ド・モルガン則とか、素朴集合論で成立するものはすべて区体論でそっくりそのまま成立する。
 一方で、「区体論は集合論とは本質的に異なる」という事実もある。
 ここで、両者の差を、はっきりと示しておこう。「区体論も、集合論も、どちらも素朴集合論に相当する」のだが、それらの空間の性質はだいぶ違っているからだ。

 ※ 違いが出る理由
   両者に違いが出るのは、なぜか? 
   それは、もちろん、両者で公理系が異なるからだ。
   なぜ公理系が異なるかと言えば、それぞれの元となる思想が異なるからだ。
   その点については、すでに述べた。
   「集合」とは、「多くのものを一つにまとめたもの」である。
   「区体」とは、「多くのもの自体(一つにまとめる前のもの)」である。
   この違いが、以下で述べるような違いを生み出すわけだ。
 

 集合論の空間と、区体論の空間は、次のような際立った差がある。(二点ある)
 
 (1) 閉じた空間
 
 区体論の数学的空間は、閉じた空間である。つまり、空間全体というものがあって、これ自体が区体である。(公理4による)
 一方、集合論では、「空間全体」というものは、集合としては存在しない。そのような集合を仮定すると、矛盾が生じる。そこで、「空間全体」とは何か、が問題となる。しかしそれはいつまでたっても判然としない。そもそも、いつか解決する、という見込みさえない。(区体論の立場から見れば、そんなことは研究するだけ無駄である。答えのない砂漠を探しているようなものだ。間違った出発点からは、間違った結論しか得られないのだ。   cf. 相対論以前の「絶対空間」という概念。
 
 なお、このことに関連して言うと、区体論の世界では、「べき集合公理」というものに相当するものは成立しない。
 「べき集合」というのは、「部分集合を要素としてもつ集合」である。これに相当するものは、区体論の世界では、本質的につくれない。
 区体論の世界では、一般に、アトムの集まりである区体は、それがまたアトムになることはない。(たとえば、二つの異なるアトム a,b の和区体 a∪b は、区体ではあっても、アトムではない。) したがって、「区体をアトムとしてもつ区体」というものは生じない。
 区体論の世界では、単数のものと複数のものは、厳密に区別される。べき集合に相当するようなものを、直積のような形で定義することはできる。(関数によって対応づけして。) しかし、それは、いちいち個別的に定義して作り出すだけだ。公理によって自動的に一挙に作り出されることはない。
 「それでは困らないか?」と思われそうなので、解説しておく。区対論では、複数のアトムの集まりは、(アトムでなく)単に区体として扱うことができる。一方、集合論では、そうは行かない。複数の要素の集まりを扱うには、その集まり自体を一つのものとしてまとめなくては、扱えない。
 
 さて、集合論の世界では、「べき集合公理」によって、濃度がどんどん増殖する。この意味で、濃度に上限はない。つまり、集合論の世界は、「閉じた空間」とは言い難い。
 区体論では、そうではない。「べき集合公理」に相当するものはないし、濃度がどんどん増殖することもない。一定の固定された濃度だけがある。この意味で、「閉じた空間」である。
 もっとも簡単な話では、アトムがひとつだけある(濃度が1である)ような有限の区体空間を作り出せる。ここでは、空間はそれで完結している。このあとどんどん増殖することはない。(濃度が2や3など、他の有限であっても、同様である)
 区体論では、「べき集合公理」に相当するものは、「まだ用意されていない」のではなくて、「あってはならない」として禁止されるのである。(個別につくるだけなら構わないが、例外なく一挙に作ることは禁じられる。)
 
 区体論の空間は、「閉じた空間」である。このことは、集合論とはまったく異なる。この点、注意のこと。

 ※ 集合の集合
    素朴集合論やZFでは「集合の集合」というものを考える。一方、区体論
   では、「集合の集合」に相当するものは、現れない。つまり、「べき集合」
   に限らず、「集合の集合」 に相当するものが一般的に現れないのだ。
    集合論では、複数のものを扱うとき、全体をひとつにまとめて、「単数の
   もの」に変形する。
    区体論では、そういう変形をする必要はない。普通の区体を、そのまま
   で(単数に変形せずに:複数のままで) 扱うことができる。だから「集合の
   集合」に相当するようなものは、特に生じないのだ。
       [なお、「集合の集合」 に相当するものを、直積のような形で、勝手
       に定義することはできる。とはいえ、それは個別の操作でやるだけ
       であって、そういうものが一律に自動的に生じるわけではない。]
    ここで述べたことは、先に本文で述べたことと、かなりダブっている。

 ※ 「集合の集合」の比喩
    集合論では、「集合の集合」というものを考えるわけは、そうしなくては
   対象を扱うことができないからだ。
    たとえ話で示そう。
    いま、「花組」「月組」「雪組」「空組」の四つの学級があったとする。
    それぞれの学級の生徒から、適当に数人ずつ選んで組み合わせて、
   「班」をつくって、校外作業を担当させるとする。
    では、この「班」を考えるとき、どうするか?
    集合論では、各人を単純に集めただけではダメだ。各人を集めた上
   で、「ひとつにまとめる」という操作を経て、新たに「集合」を作る必要が
   ある。たとえば a と b と c という3人の生徒の集まりを考えるなら、
   これらの生徒のほかに、
       {a,b,c}
    という集合を新たに作る必要がある。そのように新たな集合を作り
   出さなくては、これらの生徒たちの集まりを扱えないのだ。
    一方、区体論なら、そうではない。生徒たちの集まりを考える場合、
   生徒たちだけを考えれば十分であって、他のものは作り出す必要は
   ない。区体論では、アトムだけがあれば十分であり、「アトムを集めて
   作ったアトム」のようなものは必要ない。
    上の例では、「生徒の集まり」を考えた。生徒でなく集合についても
   同様である。集合論では、複数の集合の集まりを考えるとき、「集合の
   集合」が必要となる。一方、区体論は、複数のものは複数のまま扱え
   るので、「アトムの集まりのアトム」のようなものは必要ない。
       区体論では a∪b∪c というような和区体もあるが、これは
        別に、新たに作り出されたものではない。もともと最初の区体
        空間 [または定義域] のなかに存在するものである。

 ※ 言語的 単数・複数
    余談だが、言語との関係を述べておくと……

    英語における set は、可算名詞である。
    英語における ward は、集合名詞である。( people などと同様。)
    集合は、複数の要素から構成されても、「 a set 」のように書くが、
   区体は、単数でも複数でも 「 ward 」のように書き、単数形や複数形
   で「 a ward , wards 」のように書くことはない。
    このことは a people, peoples のように書かないのと同様。(ただし
   英語的 ・言語的な例外あり。)
    なお、このことは、「本当はこうすべき」というだけの話だ。 ward を
   可算名詞として扱ったとしても、非難するほどのことはない。


 
 (2) アトム
 
 区体論と集合論は、本質的に異なる。もちろん、それは、公理系が異なるからだ。
 では、区体論の公理のうち、集合論の命題と本質的に異なるのは、どれか?
 ここで、区体論と集合論を比べてみると、区体論にあるいくつかの公理のうち、多くのものは、集合論の公理や定理として見出される。ざっと見ると、公理1〜公理7は、(集合論に限らず)既存のさまざまな数学的空間にもしばしば見出されるものである。
 公理1と公理2は、「反射律、推移律」とも呼ばれる。
 公理3と公理4は、最小の区体(φ )と最大の区体(Ω)の存在を示す。
 公理5と公理6は ∩ と ∪ だが、これらは [ x , y の小さい方と大きい方を示すような] min(x,y) と max(x,y) ふうに解釈することできる。 (束論を参照。)
 さらに、以上に公理7が加わると、この体系はまさしく包含の意味をもつようになる。
 ただし、公理1〜公理7までは、ブール代数などと同様である。実際、公理1〜公理7(公理4を除く)は、集合論にも見出されるから、区体論の独自のものとは言えない。

 区体論の独自性は、公理8にある。この公理によって、ブール代数よりも広く、集合論ふうの意味合いをもつようになるのだ。(ブール代数に公理8を追加した空間を、数学的に構成することは、すでに研究された。それは表紙ページにリンクを記した「集合論と区体論」で示されている。)
 結局、区体論の核心は、公理8にある。ここに注目することが大事である。それ以外の公理1〜公理7は、数学的空間を規定するものとしては、特別なものではない。ありふれたものである。
 
 ※ 公理8の意味
   公理8の意味は、何か? それは、「点」の性質を規定することである。
   点の性質として、
     「これ以上分割できないようなもの」「最小限度のもの」
   という性質を規定するわけだ。(このことは Part1 にも述べた)

    なお、区体論が「包含」の意味をもつようになるには、公理1〜7だけ
   で足りる。

     話が面倒になるが、述べておくと……
     公理1〜7だけが成立する空間のモデルとして、直線上の半開区間
    がある。このなかにある任意の 半開区間 [a,b) を区体と見なして、
    包含を考えればよい。
     この「公理1〜7だけのモデル」では、区体論のかなり多くの定理が
    成立する。たとえば、吸収律、分配法則、結合法則、ド・モルガン則
    などだ。そういうものは、公理8なしで証明できる、というメドが立つ。
     なお、ここに公理8が加わると、区体の幅に最小の単位が生じる。
    (たとえば、1cm 刻みでしか区体の幅を取れない、というふうに。)


 ※ 集合論とアトム概念
    集合論では、アトム概念を導入することは、不可能である。アトム概念
   を導入して、「アトムからなる集合の世界」を構成しようとしても、そんな
   ことは否定される。あらゆる集合は、空集合に還元されてしまうからだ。
   (正則性公理による。)

 ※ 区体論から集合論へ
   区体論から集合論を導き出すことは可能だろうか? 
   ちょっと考えてみると、可能だと思える。アトム a をカッコでくくった
        { a }
   は、集合と同等と見なせそうだ。複数のアトムについても、やはりカッコで
  くくれば、集合と同等のものになりそうだ。
   だから、「区体論 + カッコ」によって集合論を構築できそうだ。
   しかし、実は、そううまくは行かない。なぜか? 
   集合論では正則性公理によって、あらゆる集合は空集合に還元される。
  結局、最終的に残るのは、カッコだけである。つまるところ、集合論とは、
  「物の集まり」を数える理論ではなくて、「カッコの集まり」を数える理論な
  のだ。
   一方、区体論の「アトム」は、「物」に相当する。これは、カッコに還元でき
  ない。「アトム」は、公理8ゆえに、他の何かに還元されることはありえない
  のである。
   というわけで、「区体論 + カッコ」によって集合論を構築する、ということ
  は不可能である。両者は原理的にまったく別の体系である。
   本質的に言えば、区体論は、公理8ゆえに、集合論とは相いれないもの
  となる。公理8は、それほどにも、区体論の独自性を際立たせている。

 p.s. その他
 区体論と集合論との違いとしては、上の (1) (2) がある。
それら以外にも、違いはある。たとえば、
    区体論 …… 物の数を数える体系
    集合論 …… 集合の数を数える体系
 という違いだ。しかし、こうしたことについては、ここでは詳しくは述べない。
 ただ、2章 との関連で、次のように言っておこう。
  (これは別に、読まなくてもいいが。)

     「ZFと区体論は、ともに素朴集合論に相当する理論だ」
     と 2章 で述べた。しかし実を言うと、ここでは、ZFへの評価は、かなり大甘である。ZFは、そんなに立派なものではない。
     なぜか? Part1で述べたことを思い起こしてほしい。ZFは、「集合の包含を扱う理論」であるにすぎず、「の包含を扱う理論」ではない。つまり、数学と歴史学では、対象となる世界が異なるのと同じように、ZFと素朴集合論とでは、対象となる世界が異なる。ZFは、「素朴集合論とは別の世界を扱う理論」であり、「素朴集合論とはまったく別の理論」にすぎない。
     結局、ZFは、「素朴集合論を公理化した理論」とはなっていない。もっとはっきり言えば、ZFは、「素朴集合論の公理化」には失敗した。 (だから、カラスやリンゴの包含関係を扱えない。)
     ZFも区体論も、ともに、素朴集合論の定理と同じ形の定理をもたらすが、対象となる世界が異なる。この意味で、「素朴集合論を公理化した理論」となっているのは、区体論だけである。 (この点でも、差があるわけだ。)

     なお、「物の数」(現実世界の数)を扱えるということは、きわめて重要である。なぜなら、「数」が「集合としての数」(集合論の世界の数)だけに限られるとしたら、「現実の世界の数」を扱えなくなってしまうからだ。
     ZFは、現実世界の数については、何も言えない。なのに、ZFにおける数を、現実世界の数に適用するとしたら、それは、一種の「超数学」である。
     数学というものが、リンゴの数について「1+1=2」ということを四則で示したり、空間やエネルギーの量を微積分で示したり、そういうふうに有益なことを示す学問だとすれば、そういう「数学」を構成するには、ZFと超数学との双方が必要である。
     つまり、ZFは、それ単独では、普通の「数学」を構成することができないのだ。そうするためには、超数学を併用する必要があるのだ。
     「数学は集合論さえあれば、そこで構成できる」という世評があるが、これは、厳密には正しくないわけだ。(ものごとを厳密に表現するのが「数学的」だとしたら、この世評はあまりにも非数学的である。)
     ZFの成果を単純に数学から物理学へと応用するとしたら、それは必要な手続きを省いた、砂上の楼閣のようなものにすぎない。 (ZFの成果は現実世界には適用されないことがあらかじめ前提されているからだ。)
     なお、付記しておけば、区体論には、このような問題はない。アトムとして現実世界のリンゴなどを当てはめたとしても、何ら問題はない。この点は、素朴集合論と同様であり、かつ、ZFとはまったく異なる。
 
 4章 自然数の構成
 
 区体論と集合論は異なる数学的理論であり、それらはともに素朴集合論の世界を構成する。
 そこで、このあとは、数学的世界を構成する段階に入る。
 
 まず、有限の世界では、素朴集合論そのもので足りるだろう。だからいちいち考慮する必要はない。すでに Part1 〜 Part3 で述べたことで十分である。
 
 次に問題となるのは、自然数の構成である。自然数(可算無限)を構成するには、どうするか? 
 
 そもそも理論の形から明らかなように、区体論は、濃度に関する公理を含まない。濃度に関して記述するときは、区体論の世界に、新たに公理を追加する必要がある。
   ※ 集合論は、それだけですべて完結した理論だが、区体論はそうでは
     ない。濃度に関する公理を追加する必要がある。そして、その公理に
     よって規定された数学的空間ができる。
 
 区体論の世界で、自然数を構成するには、区体論に無限公理を追加する。そして、そこでできた数学的世界は、自然数の世界である。

   ※ 無限公理は、どんな形でもいいが、標準的には、ペアノ公理を使う。
      なお、こうしてできた自然数は、「純粋な自然数」である。つまり、
     ペアノ公理だけを満たす。(他の余剰な性質を持たない。)
      一方、集合論による自然数は、「純粋な自然数」ではない。その
     自然数は、次の2条件をともに満たす。
        1∈2∈3∈4∈5∈6∈ ……
        1⊆2⊆3⊆4⊆5⊆6⊆ ……
      この自然数は、「序数」と「基数」の、双方の性質をもつ。このように、
     日常的な直感に反する性質を持つわけだ。 (この性質は、自然数と
     しては必要のない、余剰な性質である。)
      一方、区体論における自然数は、そうではない。「2番目のアトム」
     と「アトムが2個」とは、別々のこととして、区別される。つまり、序数
     と基数が区別されるわけで、日常的な直感に合致する。
     

   ※ ここでできた自然数の空間は、いくつかあっても構わない。空間が
     閉じているから、別々の空間ができても差し支えない。

   ※ 実数の世界は、まだ構成されない。そもそも、自然数の空間には、
     実数は(大きすぎて)入り得ない。ここでも、空間が閉じていて、空間
     はそれぞれ別のものとなる、ということが影響する。
 
 
 5章 仮表示形と正表示形
 
 さて、自然数の構成までは、すでに述べたような手順(区体論とペアノ公理)で十分である。
 そこでは、仮表示形の区体論を用いてもいいし、正表示形の区体論を用いてもいい。たいていの人は、仮表示形の方で理解するだろう。こちらは、述語論理の上に成立しているし、既存の集合論との理解の仕方でも、なじみやすいからだ。
 
 問題は、実数である。
 区体論の世界で実数を構成するには、もはや、仮表示形では済まなくなり、正表示形が必要となる。
 ただ、正表示形を理解するには、すでに述べたことをすっかり理解しておく必要がある。
 つまり、「仮表示形の区体論を使えば、可算無限までの数学を構成できる」ということを、すっかり理解しておく必要がある。もしそのことが理解できないのであれば、以下の記述は、読むだけ無駄なので、ここで読むのをやめてほしい。
 
 正表示形とは何か? 
 正表示形は、本来の(真の姿の)区体論である。それは述語論理を必要としない体系である。(自由変項と命題論理のみによる)
 仮表示形の区体論は、正表示形の区体論を、既存の数学的による表示法(述語論理の表示法)で表示したにすぎない。それはあくまで仮の姿のものである。
 
 また、理論の基盤の順序も異なる。
 集合論は、述語論理の上に成立する体系である。
 仮表示形の区体論もまた、述語論理の上に成立する体系である。
 正表示形の区体論は、述語論理を必要とせず、逆に、正表示形の区体論から、述語論理を生み出す。(述語論理は、正表示形の区体論の上に成立する体系である。)
 
  ※ 注意
   なお、誤解を招くといけないので、次のことを注意しておく。
   「仮表示形を拡張して正表示形にするのではない
   ということだ。
   集合論のやり方では、まず基礎的な体系があって、それを順次拡張して
   いくことで、新しい体系を生み出す。
   しかし、正表示形の区体論は、そうではない。これは仮表示形とは、意味
   的には等価である。
 
  ※ 仮表示形を出した理由
   今までなぜ、仮表示形の区体論を示してきたか? 仮表示形の区体論が、
   仮の姿にすぎないとすれば、仮表示形の区体論を示すのは、無駄ではな
   いか?
    まあ、無駄といえば、無駄である。
    ただ、仮表示形の区体論は、既存の数学を理解した頭には、理解しや
   すい。だから、一般の人々のために、この形を先に示した。
    将来的に、集合論でなく、区体論が普及すれば、仮表示形の区体論は
   省いて、最初から一挙に正表示形に入ってよい。その方がわかりやすい
   ともいえる。 ( ∃,∀ などの限量記号を使わずに済むので。)
 
 
 6章 実数の性質
 
 さて、いよいよ、実数の構成にはいる。ここで必要となる道具は、正表示形の区体論のみである。(仮表示形の区体論は、役立たず。)

 
 (1) 基本方針
 
 実数の構成に当たって、集合論では、どうしたか? まず空集合を提出する。ここがすべての出発点となる。このあと、正則性公理などによって、次々と集合の数を増やしていき、可算個の集合を得ることができる。べき集合公理を利用すれば、2のn乗の濃度の集合を得ることができて、自然数から実数に移ることができる。
 ま、大略では、上のようなものだが、ここでは、「小さなものから大きなものへ」という戦略がある。
 しかるに、区体論では、この戦略は使えない。べき集合公理がないから、「2のn乗の濃度を生み出す」ということはできない。
 では、どうするか? 
 区体論では、逆に、「大きなものから小さなものへ」という戦略を採る。
 つまり、あらかじめ実数濃度の区体を仮定しておいて、そのあと、それを小さく分割していくことで、実数を構成する。
 ここでは、集合論との差として、次の二点に注意するべきである。
  ・ 集合論と違って、「体系の濃度」というものを固定できる。(増殖しない)
    ゆえに、一定の濃度を仮定してもよい。
  ・ 濃度の公理は、もともと含まれていない。
    区体空間にどのような濃度を仮定しても、それは自由である。
    (そのたびに別々の区体空間ができるだけである。)
 
 区体論では、実数の濃度というものは、小さなものから生み出されるのではなくて、あらかじめ仮定される。換言すれば、そのことを公理として導入する。つまり、
 「連続の濃度がある」
 ということを公理として含むような区体空間を想定する。
 (ペアノ公理によって可算無限を導入したのに似ている。)

 
 (2) 分割
 
 区体論では、連続の濃度の存在は、公理として導入される。
 ただ、ここでは、濃度の存在性が言えるだけであり、具体的な体系の性質までは規定されていない。そこで、具体的な性質を調べることにする。
 
 そこで、大切となる概念がある。区体論で実数を構成するときは、「大きいものから小さいものへ」という戦略を採る。そこで、
  「区体を分割する」
 ということが大切となる。
 
 では、分割すると、どうなるか?
 一つの区体をどんどん分割していけば、どんどん小さくなる。もとの区体が無限大であっても、分割すれば、どんどん小さくなる。では、最後には、どうなるか? 
 「最後には無限小になるはずだ」
 というのが、区体論の考え方である。 
 つまり、わかりやすく比較すると、
   ・ 集合論 …… 実数は点
   ・ 区体論 …… 実数は無限小
 となるわけで、集合論の描く数学的世界と、区体論の描く数学的世界は、まったく異なるのだ。
 ここでは荒っぽく述べたが、以下で述べることは、大略、このような線に沿っている。
 
 
 (3) 実数と2分割
 
 区体論では、連続濃度の空間を仮定して、その中で、次々と分割していくことにより、小さなものを構成する。
 直感的に言えば、こうだ。
 まず、直線を取る。これを半分に切る。それぞれの半分を、さらに半分に切る。さらにまた……というふうにする。これをn回繰り返せば、直線を2個(2のn乗個)に分割できる。もちろん、2ではなくて、10でも同様である。(2なら2進法になり、10なら10進法になる。)
 ここで、nを無限大(可算無限)に拡張してみよう。すると、これは、直線を細かく分割して、小数をつくったことに相当する。
 ここではとりあえず2進法で考えると、「右を1、左を0」として
   100101110111……
 というような文字列がたくさんできるわけだ。このような文字列は、二進法の実数全体を示すことができると見なせる。
    ※ たとえば、次の手順で。
      1桁目の「1」か「0」かを、「正」か「負」と見なす。
      2桁目の「1」か「0」かは、絶対値が1未満か、1以上か、の区別。
      3桁目以降を、小数またはその逆数と見なす。
 
 というわけで、次々と分割することで、二進法の実数全体を得ることができるわけだ。つまり、実数直線ができたわけだ。

 
 (4) 実数と無限小
 
 さて、こうしてできた実数は、点なのか、無限小なのか? ……それは、この時点では、まだわからない。
 ただ、直感的には、次のように推測してよいだろう。
 「初めの実数直線は、連続濃度だった。それを1回分割しても、やはり連続濃度である。次にもう1回分割しても、やはり連続濃度である。……こうして何回も続けていけば、何回やっても連続だ。結局、無限回分割しても、それでできる小さな区体は、やはり、連続濃度をもつだろう」
 これはかなり荒っぽい理屈である。しかしまあ、一応の見通しにはなる。そして、この見通しは、ある程度、正しい。つまり、区体論の世界でできる実数は、どれも連続濃度をもつ。つまり、(濃度が1の点ではなくて)無限小である、と考えられる。
  [ 注 ] 少なくとも「有限の幅(空間的ひろがり)をもたない」ことはわかる。
        たとえば、仮に1cmの幅を持つとすれば、それをさらに2分割
        すると、0.5cmの幅になってしまうが、これは、仮定(幅は1cmで
        ある)に反するからだ。
  [ 注 ] 分割する実数直線とは垂直の方向になら、無限小よりも大きな
        幅をもつことは可能。ま、当たり前だし、どうでもいいことだが。

 
 (5) 実数と自然数
 
 ここで注意すべきことがある。
 「実数としての自然数」というものがある。それは、10進法で示すと、
     17.0000000……
 のように、小数点以下がすべて 0 である実数である。
 この数は、連続濃度の空間における自然数である。一方、可算濃度の空間における「17」という自然数もある。この両者は、まったく別のものである。
 可算濃度における「17」は、アトムである。一方、実数としての「17.0000000……」は、無限小である。両者はまったく異なる。1対1の対応を付けることは可能だが、ともかく、本質的に異なる。
 
  ※ 2種類の自然数
    この2種類の自然数は、まったく別のものである。性質が異なると
    いうだけでなく、属する数学的空間が異なる。
    この点、集合論とは異なるので、注意のこと。
    集合論では、一つの数学的な宇宙のなかで、自然数も実数も扱う。
 
  ※ 区体論では、上の両者を別々の空間に属するものとして扱う。それ
    は、空間が閉じているからである。
    集合論では、空間が閉じてはいないので、そうすることは不可能。
 
  ※ 量子力学との関係で言おう。
    量子力学では、「とびとびの値を取る」というふうに言うことがある。
    しかしそれは集合論ふうの言い方である。集合論では、実数の世界と
    自然数の世界は特に区別されないから、実数の上に自然数がとびとび
    に置かれているように見える。
     しかし、区体論では、実数の世界と自然数の世界は区別され、それ
    ぞれの世界にある自然数は異質なものである。可算の世界にある自
    然数は、決して「とびとびの値を取る」わけではない。なぜなら、その
    世界では、中間的な値というものがそもそも存在しないからだ。(実数
    の世界では、中間的な値というものが存在するが。)
 
 
 (6) 実数の決定
 
 さて、実数のうち、あらかじめ小数点以下がすべて定義されているのは、上のような「自然数としての実数」だけである。
 そして、他の自然数以外の一般の実数は、もともと定まっているわけではない。すでに定まっているのは、「自然数としての実数」だけなので、これらから計算によって各桁の数値を決めていく。
 
 たとえば、
     1/3 = 0.33333……
 となることを知るには、
     1.000000……
     3.000000……
 という二つの自然数から定まる。二つの自然数の各桁が定まるに応じて、 1/3 という数の各桁も定まる。
 たとえば、 1/3 の場合は、この数を n桁 まで求めるには、上の二つの「自然数としての実数」について n桁 まで知っておけばよい。(おおざっぱに言って。)
 ただし 1/3 のような分数でなく、他の数の場合は、この関係は異なる。
 一般に、関数 y=f(x) で
  「 y について n 桁まで知るには x について m 桁まで知る必要がある」
 とすると、この n と m の関係は、さまざまである。
 分数の場合は、おおざっぱに
     m=n  
 となるが、一方、もっと複雑な数式で示されることもある。
 
 さて、ここで、勘のいい人ならばすぐに気づくだろうが、この
  「f(x) について n桁 まで知るには x について m桁 まで知る必要がある」
 というのは、解析学における「ε−δ」論法と本質的に同じである。
 ある数の近傍を考えるとき、「ε−δ」論法では区間の幅を狭めていくが、区体論の考え方では、「小数の桁を高めていく」という形で、「指数」ふうに取る。
  
   ※ 「ε−δ」論法と桁による方法
    「ε−δ」論法では、区間の幅を狭めるとき、直接、その区間の幅
    を狭めていく。たとえば、区間の幅を、
       0.1 → 0.01 → 0.001 → ……
    というふうに。
     桁による方法では、同じことを言うのに、(小数点以下の)
       1桁目まで → 2桁目まで → 3桁目まで → ……
    とする、というふうに示して桁を高めていく。
     両者で、形は異なるが、やっていることは同じである。
     ただ、「ε−δ」論法では、区間の幅の取り方は任意であって、
    0.1 と 0.01 の中間的な値も取りうる。しかし、桁による方法で
    は、そうは行かない。逐次、桁を決めるわけだ。「ε−δ」論法ふう
    に言えば、とびとびの値しか取れない。それは当然のことであって、
    「ε−δ」論法では実数のなかの幅を取る(だから実数値を取る)が、
    桁による方法では 1,2,3…… という桁数を取る(だから桁数
    という整数値を取る)からである。この意味で、桁による方法は、物
    理学における「量子化されている」というのに似ている。
     なお、「ε−δ」論法でなく、近傍によって示す記法もあるが、この
    記法は、桁による方法になじみやすい。
 
 
 7章 実数の構成
 
 さて、以上に見てきたのは、おおざっぱで直感的なやり方だった。
 そこでは、2分割というものを示した。そして、そこから帰結される実数というものが、どんなものであるか、その性質をざっと示してきた。
 
 ただ、そこで示したのは、数学的に厳密な方法ではない。2分割というものを実際に無限回実行するにはどうやるか? そのことが、数学的に問題となる。
 そこで、以下では、その具体的な方法を示そう。
 
 
 (1) 準関数
 
 実数を区体論で厳密に定義するには、「準関数」という概念が不可欠である。そして、そのことゆえに、仮表示形の区体論では足りず、正表示形の区体論が必要となる。
 準関数とは何か、については、すでに Part3 で示した。だから、ここでは、特に示さない。
 
  ※ 準関数の本質
   準関数について、その数学的な表現は、すでに Part3 で示した。ただ、
  その考え方の基礎については、若干、説明を加えた方がいいかもしれない。
  そこで、最後の方にある「Q&A」のところで、説明をいくらか加えた。
  準関数について詳しくは、そちらを参照してほしい。
 
 
 (2) 2分割
 
 Part3 では、正表示形の区体論の公理8のところで、準関数を使った。そこに現れる準関数 α を「選択準関数」と呼ぶことにしよう。(このように特別な名前を付けるのは、他の準関数と混乱しないためである。)
 さて、αとは別の準関数 β を導入する。 β は次の性質を持つものとする。
 
   「どんな区体も、βによって、濃度の等しい二つの区体に分割できる」
 
 数学的な式で示せば、次のようになる。(ここでは R は任意の区体)
 
  (i)  β(R) ⊂ R   
        [ 注 ] 公理7を勘案すれば、 R=β(R)∪β^(R)
             ここで ^ は補区体を示す。
  (ii)  R,β(R),β^(R) という三つの区体の濃度はすべて等しい。
 
 任意の区体に対して、このようなことができる準関数 β があるものとする。そうすれば、以後、 区体を順次2分割していくことができる。しかも、それは、限度がない。(自然数無限の範囲内で)何回でも無限に2分割していくことができる。そうして、2分割ができることになる。
 
  ※ β が準関数であること
    この β は、区体の存在性を示す。(公理8では、アトムの存在性
   を示した。)
    このように、存在性を示すだけであるため、準関数を用いる。
    内容的には「関数の存在」というのと、ほぼ同じ。
    詳細については、「Q&A」の準関数の説明を参照。
 
  ※ βによって決まる区体の数
    βは一挙に多数の区体の存在性を示す。それは指数的。(2分割)。
    つまり、一挙に連続個の区体の存在性が示される。逐次的(可算ふう)
   ではない。
 
 
 (3) 無限小
 
 実は、上に述べたやり方 [特に (ii)]は、数学的には厳密ではない。むしろ、いい加減である。実際にそのような操作ができるという保証はない。
   ※ 理由
    ちょうどうまく同じ濃度で分割できる保証はない。
    もしかしたら、分割したとき、一方は連続で、一方は有限になって
    しまうかもしれない。そのような場合は分割が途中でストップして
    しまう。そういう懸念を防護する策が必要。
 
 ただ、今は、そのような問題については、念頭に置かないでよい。
 今は、とりあえず、そのようなことがちゃんとできると仮定した上で、実数というものの性質を見ていくことにする。

 さて、ともかく、そのようにして β による分割ができたとする。
 そして、その回数は、有限のn回ではなく、可算回だとする。
 こうすれば、実数というものはできる。そして、この実数というものは無限小に相当する。こうしたことは先に述べたとおりである。
 
 さて、この無限小というものは、どういう性質を持つだろうか?
 実は、このことが、きわめて重要な問題となる。
 
 
 (4) 無限小と準等号
 
 今、二つの無限小 a,b があったとする。
 ここで、二つの無限小が「同じ実数でである」という場合を考えよう。
 もちろん a と b は、たがいに、あらゆる桁が一致する。(それが「同じ実数である」ということの意味。定義と考えてもよい。)
 しかし、である。 a と b は「同じ実数である」としても、「同じ区体である」という保証はない。たとえば、区体論の包含関係で、
     a ⊂ b    (かつ  a ≠ b )
 となる可能性がある。つまり、一方が他方に(真に)含まれる可能性がある。
 
 このようなことは、集合論ではありえなかった。なぜなら、集合論における実数とは、点であり、「同じ実数」はまったく同一であり、包含関係でも同一であるからだ。
 しかし、区体論では、異なる。区体論の実数は、無限小である。つまり、大きさを持つ。大きさを持つとすれば、包含関係があってもおかしくはない。
 実際、これは、机上の空論ではない。下に述べるような例が考えられる。
※ 桁の決定速度
 今、「桁の決定速度」という概念を導入する。複雑なことは脇にのけておくとして、直感的に言えば、「既存の自然数から一つの実数を決める」際の、数学的手続きの(相対的な)必要量の、逆数である。
 たとえば、有理数は、一定の手続きで、どんどん桁が決まる。割り算を実行すれば、2桁目から3桁目へ移る際の手間も、100桁目から101桁目へ移る際の手間も、同じである。
 一方、円周率 π は、初めの方は比較的簡単な手間で決定できるが、先の方の桁はなかなか決まらない。先の方の桁を決めるには、多大な手間がかかる。
   ( ま、実際に計算するときは、こんな手間は掛けないが、ここでは、
    直感的に、上のようなイメージを描いてほしい。
 ともあれ、桁の決定速度は異なるとしても、最終的には、すべての桁が決まる。その点では、別に、問題ない。ただし、桁を決めていく途中で、速い方は、遅い方よりも、常に先に進んでいる。つまり、速い方(幅が小さい方)の範囲は、遅い方の範囲に含まれる。(たとえば、速い方は3桁目の 0.314 まで決まっているのに、遅い方は2桁目の 0.31 までしか決まっていない。)
 たとえば、 π の具体的な値は、普通、級数で表示される。(マクローリン展開のような形)。 その級数は、収束速度の速いものもあり、遅いものもある。そのような級数の二つを   π および π と記すことにしよう。 π は π よりも収束速度が速いとする。とすると、たとえば π は すでに100桁目まで決まっていたのに、 π は80桁目までしか決まっていない、というようなことが考えられる。この場合、 π の収束半径は 「 10の100乗」 分の1で、 π  の収束半径は 「 10の80乗」 分の1となり、前者は後者に(空間的に)含まれる。このようなことが無限大の桁まで続くことが推測されるので、無限小 π は無限小 π に(空間的に)含まれることが推測される。[厳密に言うには数学的に厳密な検討が必要だが、今、ここでは、イメージ的に理解してほしい。]
( ※ この険については、後日、新たに説明した。 → 該当ページ の後半。)
 
 結局、無限小 a,b が「同じ実数である」としても、「同じ区体である」という保証はないのだ。一方が他方に含まれる可能性があるのだ。
 そこで、この両者を区別することを考える。
 「同じ区体である」ことを示すには、区体論の記法に従って = という記号を用いる。そしてたとえば  a = b  のように記す。
 「同じ実数である」ことを示すには、 = とは別の記号を用いる。できれば = の上側の線を − から 〜 に変えた記号を使いたいところだが、その記号は JISの文字コードにはないので、やむなく ≒ という記号を用いることにする。そしてたとえば、  a ≒ b  のように記す。
 この記号    を「準等号」と呼ぶことにする。(区体論では)
 
 
 (5) 準等号と公理8
 
 準等号というものを導入すると、無限小の「実数としての同一性」を定めることができる。この準等号は、もちろん、通常の同一性を示す。つまり、次のことが成立する。
   (i)   a ≒ a
   (ii)   a ≒ b ⇒ b ≒ a
   (iii)  a ≒ b ∧ b ≒ c ⇒ a ≒ c
 
 しかし、これは当たり前であって、さしたる重要性はもたない。
 準等号においてきわめて重要な点は、次のことである。
 
  「準等号のもとで、無限小は、アトムのごとくふるまう」
 
 もう少し厳密に言えば、
 
  「公理8で、アトムに関する = という記号を、無限小に関する  ≒ という
   記号に置き換えた命題が、実数の世界では公理8なしでも成立する」
 
 具体的に言えば、以下の通り。
 
 実数の成り立ちと、準等号の定義からして、次のことが言える。(証明は簡単。)
 
  「任意の実数 a, b について、次の式が成立する。
      ¬( a∩b )= φ  ⇒ a ≒ b     」
   (つまり、二つの実数が共通部分をもてば、それらは同じ実数である。)
 
 このことから容易に、次のことが導き出せる。
 
  「どの実数 a についても、任意の実数(の集まり) x に対して、
   次の式が成立する。
      x ⊂ a ⇒ x = φ  ∨ x ≒ a     」
 
 この命題に示した式は、まさしく公理8の一部分に当たる。
 しかもまた、実数全体のなかで、どの区間を取っても、その中に実数(つまり上の式の a に相当するもの)が存在することは、すぐにわかる。
 
 というわけで、結局、次のことが言えるわけだ。
 
  「公理8で、アトムを無限小に読み替えて、等号を準等号に置き換えた
   命題が、成立する」
 
 換言すれば、
 
  「無限小を前提すれば、公理8に相当する命題が導き出される。」
 
 そして、そのことが公理8について言えるのであれば、定理についても言えることになる。(公理1〜7については当然、当てはまるからだ。)
 
 結局、その等号を準等号と読み替えて、アトムを無限小と読み替えれば、区体論のあらゆる命題は、そのまま実数の世界で成立するわけだ。公理8なしで。
 これはちょうど、モデル論的に、点を無限小に拡張した場合に似ている。しかも、区体論の場合、ことはモデル論的ではなくて、本質的なのである。

 まとめて言えば、
   ・ 無限小というものは、確実に存在する
   ・ 等号を準等号に読み替えれば、無限小を点のごとく扱える

 というわけだ。これは非常に重要なことである。

  [ 注 ] なお、 φ  に関する部分だけは、 を用いずに を用いる。
        は、無限小( or その集まり)の同一性のみを示すものからだ。
 
 
 (6) 公理9
 
 さらに重要なことがある。
 上のようにして、公理8に相当する命題が導き出せるのであれば、もはや、公理8というものは必要ない、ということだ。これは重要な結論である。
 
 とはいえ、公理8の選択準関数 α は必要としないかわり、先の2分割をするために使った β という準関数は必要となる。
 ただ、 β の定義の仕方は、先に述べた方法とは若干異なる。
 上に述べたとおり、実数の定義にあたっては、公理8は必要ない。すなわち、アトムというものは存在しなくてよい。(無限小さえあれば足りる。実数の空間では。)
 アトムというものがなくてもいいのだから、その世界では、もはや、「1対1」概念に基づく「濃度」という概念は必要ない。
 だから β の定義に当たっては、「二つの同じ濃度の区体に分割する」という条件は必要ない。単に「二つの区体に分割できる」という条件だけでよい。
 ただ、その分割が途中で行き詰まってしまっては、困る。何回でも分割できる必要がある。つまり、次のことだけ言えればよい。
 
 「実数空間のなかの任意の区体は、二つの区体に分割できる」
 
 そして、そのようにするものとして、準関数 β がある。つまり、β のもとで、(空でない)任意の区体 x について、
 
   x = β(x) ∪ β^(x)
   β(x) ≠ φ
   β^(x) ≠ φ
 
 の三つの式が成立するわけだ。 (ここで ^ は補区体を示す。 Part1参照。)
 ここで、β(x) は、逐次的に一つ一つ決まるわけではなくて、たくさんのものが一挙に決まる。しかも、決まるとは言っても、値が定まるわけではなくて、存在性が保証されるだけである。その意味で、この β は、まさしく準関数である。
 
 そこで、上のことを、「公理9」とする。
 
 
 [ 付記 ]
 公理9の意味は、上の通り。ただ、正確な形は、ここではいちいち書くのを省略する。

 ただ、それではあまりにも不親切だから、公理の書き方の一例を示す。
 この公理は「数学的帰納法」の形で表現される。
 あらかじめ空でない区体 Σ を導入する。Σ は以下の性質をもつ。
 (1) Σ を Σ0 と表現する。
 (2) 次の式が成立する準関数 β を規定する。
      Σn = β(Σn+1) ∪ β^(Σn+1)
 (3) 上の式が n=k のときに成立するならば、  n=k+1 のときにも成立する。(帰納法な表現)
 (4) 上の式が n=0 のときに成立する。
 (5) 以上のすべてが成立するような Σ が存在する。(それが公理の結論部。)

 
 (7) 公理9の描く世界
 
 公理9によって、区体論における実数の世界は定まる。それは、無限小としての実数が定まる世界である。
 では、その世界は、直感的に言えば、どんなものか? 

 公理9の世界では、公理8は成立しなくてもよい。成立してもしなくてもどちらでもいいのだが、特に「成立しない」という形で書くこともできる。その例が、上で示した「帰納法的な表現の公理」だ。(この場合は、公理9はかなり強い形で規定される。公理8は成立しなくなる。……のちの研究生以下では、そのような形の公理9が好ましい、とわかった。)
 
 公理9の成立する世界では、公理8は成立しない。つまり、アトムというものが存在しない。
 さて、アトムとは何だったか? 「もはやこれ以上分割できない区体」である。
 そして、そのようなものが存在しないとすれば、どうなるか? もちろん、「どのような区体も、際限なく、いくらでも分割できる」となる。
 
 イメージ的に言えば、次のようになる。
 公理8の成立する世界とは、砂の世界である。たくさんのものがあるように見えるが、細かく見ると、それぞれは一つ一つの粒からできている。まさしく粒という「1個のもの」がある。そうした「1個のもの」の集まりとして、世界は定まる。
 公理8の成立しない世界とは、液体の世界である。ざっと見たところ、砂の集まりと同じように見えるし、砂と同じようにカップですくうこともできる。しかし、砂と違って、そこには「1個のもの」としての粒がない。顕微鏡でいくら細かく見ていっても、粒というものは見出されない。そうしたことが、顕微鏡の倍率をいくら上げても続くのだ。(現実の液体は、原子というものがあるが。)ともあれ、このように、「いくら分割していっても限度がない」ようなものとして、世界は定まる。
 
 このような公理9の成立する世界というものはあるか? ある。それは、われわれの属するこの世界の三次元空間である。空間というものは、原子や分子をもたず、いくらでも小さくできる。
  ※ 「いくらでも小さくできる」を換言すれば……
    「ギリシャ哲学ふうのアトムがない」とか、「最小限のものがない」
    とか、「底なしである」とか、そんなふうに表現することもできる。
 
 集合論の考え方では、この世界の三次元空間は、実数直線で示され、そこにはというものがある、と考えられる。
 区体論の考え方では、この世界の三次元空間は、実数直線で示され、そこには無限小というものがある、と考えられる。点というものは必要ない。われわれが「点」と思い込んでいるものは、実は、無限小にすぎない。
 
 
 (8) 実数と位置数
 
 厳密に言えば、先の方法で示した実数は、普通の数学で言う実数とはいくらか異なる。
 先の方法(2分割)でつくりだした実数は、実数直線に相当する。この実数を「位置数」と呼ぶことにしよう。
 この位置数が、算術(四則演算など)に対応しているという保証はない。
 
 そこで、位置数を算術(四則演算など)に対応させることを考えよう。すると、次の点で問題が生じる。(10進法の表記)
     0.9999999.....
     1.0000000.....
 この二つの数は、算術では、同じ実数(算術数)となる。しかし、位置数としては、明らかに異なる。(両者は、区体として共通部分をもたない[たがいに素である]からだ。)
 
 そこで、算術における等号を、別途定義した方がいいだろう。算術的な等号は、包含の意味の等号(=)や、無限小の一致としての準等号(≒)とは異なるような、別の種類の同一性を示す。
 それは、おおむね、準等号と同じになるが、部分的には(つまり上の例のような場合には)準等号とは異なるものとなる。
 ただ、これは、記号の定義という、単純に技術的な問題にすぎない。本質的な問題ではない。あまり気にすることもないだろう。
 
  ※ 子供の疑問
    次のような子供の疑問が、ときどき言われる。
     「どうして  0.9999999.....  と  1.0000000.....  が同じ
     なんだ。両者は違うぞ! 前者よりも後者は大きいぞ!」
    数学者は、これを説明しようとして、あれこれと言葉を重ねるが、
   なかなか子供には納得してもらえない。
    しかし、実は、子供の疑問は正当なのである。数学者は単に、算術
   における同等性を示したにすぎない。それは、空間的な位置における
   同等性とは違う。そしてこの違いは、区体論によれば、本質的なのだ。
   つまり、子供の直感の方が正しかったわけだ。
 
 
 (9) 1対1概念
 
 1対1という概念は、集合論や現代数学では、最も基本的な概念と見なされている。この概念から、さまざまな超限数などが生み出される。
 しかし、区体論では、1対1概念は基本的な概念ではない。
 区体論の実数世界では、アトムの1対1対応は成立しない。なぜなら、そこでは、アトムというものが、そもそも存在しないからである。存在しないものについて、対応関係を付けることはできない。
 アトムのかわりに、無限小について、1対1対応を考えることはできそうだ。つまり、無限小をアトムのごとく扱って、「拡張された1対1対応」を考えるわけだ。
 しかし、それはもはや、初めの1対1対応とは別のものである。その拡張されたものがどこまで適用可能かは、かなり問題となる。
 成り立ちから言って、「拡張された1対1対応」が適用できる範囲は、2分割がなされる範囲、つまり、連続の濃度までである。それ以上の濃度では、2分割を実行しても到達できない。だから、そこでは、「拡張された1対1対応」は適用できない。かといって、アトムの1対1を考えるにしても、アトムというものが存在するかどうかもわからない。
 区体論の世界では、1対1概念が無条件で成立すると言えるのは、可算までだけだ。連続濃度ではもはや、1対1概念は使えず、「拡張された1対1概念」が使えるだけだ。そして、それ以上の濃度については、何も言えない。
 結局、1対1という概念は、区体論の世界では、基本的な概念ではないのである。(便利な道具ではあるが。)



 
 
 Q&A

 
 [1] 集合論との差 

 「数学を構成すると、集合論と区体論では、どのような差が生じるか?」
 これが疑問となるだろう。これに答えれば、次のように言える。 
 
 可算までは、集合論と区体論との結論に、差はない。
 連続では、少しズレが生じる。実数は、集合論では点だが、区体論では無限小である。(その他、細かな点で差が生じる。)
 連続を越える濃度では、大差が付く。(集合論では、べき集合公理により、大きな濃度が必然的に生じる。区体論では、べき集合公理がないので、そのようなことはない。)

   「素朴集合論でも、連続以上の濃度が必然的に生じるのでは?」
    という疑問を出した人がいた。しかし、それは誤解である。カントール
    などが示したのは、「素朴集合論でも、連続以上の濃度を作ることが
    できる」ということであり、「必然的に作り出される」ということではない。
    もちろん、連続まででやめておくこともできる。一方、集合論では、
    連続まででやめることは不可能である。

 
 [2] デデキントの実数論との関連
 
 デデキントの実数公理で、次のことを言う。
   「切断の箇所で、点は上組か下組か、どちらかに属する。つまり、
    上組と下組の両方とも閉集合となることはない」
 さて、区体論では、分割してできるものは、常に区体である。そして、一本のヒモを切れば、その切れ目には必ず、端が二つできる。この端は、上組の最小値および下組の最大値のように思える。すると、
    「閉区間を分割すると、二つの閉区間になる」
 というふうになるように思える。それは、デデキントの実数公理と矛盾しないか? 
 
 実は、矛盾しない。
 上の考え方はそもそも、直線が点から構成されることを前提としている。しかし区体論の考え方では、そうではなく、直線は無限小から構成される。上の考え方の前提そのものが成り立たない。
 集合論では、「開集合」「閉集合」というものを、幾何学的にとらえる。そこでは「端っこの点が、含まれる/含まれない」というふうにとらえる。
 しかし区体論の考え方では、端っこにあるのは、点ではなく無限小である。無限小の箇所を取り除いても取り除かなくても、幾何学的な性質は変わらない。(いずれにしても、液体状の、伸び縮みする図形である) ただ、幾何学的には変わらなくとも、代数的には端っこのを含むか含まないかは意味がある。そういう形で「開集合」「閉集合」というものを定義することはできる。
 
 こうしたことを突き詰めて考えるのは、ちょっと面倒かもしれない。実は、これは、簡単に話が片付くような問題ではない。なぜなら、すでに述べたように、公理9の成立する空間とは、公理8が成立しない(成立する必要がない)からだ。そこでは、幾何学的な点というものが存在しなくても構わない。となると、通常の数学とはまったく異なるような幾何学的な世界が構成されることになる。
 細かな点をいちいち述べていくと面倒なので、ここでは詳しくは述べないでおく。ただ、本質的に困難な問題があるわけではない。手続きが少々面倒なだけである。面倒をいとわなければ、読者各人が自分で定義してみるとよい。
 (要するに、話が複雑なので、細かな点までいちいち書ききれないが、別に困った問題があるわけではないので、安心してよい、ということ。)
 
  区体論では、実数は無限小である。
   では、その無限小のなかで、端っこの点をとらえることはできるだろう
   か? (そんなものがもしあればだが)
    もちろん、できない。
    集合論の世界では、大きなものを次々と小さくしていけば、いつかは点
   にたどりつけた。区体論の世界では、公理9によって2分割をいくら繰り
   返しても、無限小にたどりつけるだけで、点まではたどりつけない。点に
   たどりつくとしたら、せいぜい、公理8の準関数によって(見えない形で)
   とらえるだけである。
    なお、新たに別の強力な公理(正則性公理ふう?)を追加すれば、点
   をつかむようなこともできるだろう。ただ、そのような公理を追加すること
   は、数学的な興味にはなるだろうが、現実的意味はあまりない。われわ
   れのこの世界を記述するには、そのような公理は不要だからだ。
      …………………………………………
    なお、ついでに言えば、「端っこの点」という概念自体が無意味である。
   分割によって順序化できるのは、無限小についてだけである。そのなか
   に含まれる点については、(無限小のなかで)順序化できない。だから、
   点については、そもそも「端っこ」という概念自体が成立しない。

 
 ※ 無限小 と 数学
   区体論では、実数は無限小である。つまり、幾何学的に、伸び縮みする。
   このことは、解析学における「コンパクト」「完備性」などとも関連しそうだ。
    もちろん、さまざまな微分・積分方法などとも、自然に関連する。無限小
   解析も同様だ。
 
 ※ 超準解析との比較
    超準解析でも、無限小を扱う。では、超準解析の手法と、区体論の手法
   は、どう違うだろうか? 実は、超準解析の方法だと、点から無限小に移る
   ときに、一種の跳躍がある。
    超準解析では、モデル論的な方法で(バーチャルな感じで)、点から無
   限小を構成する。
    しかしそれは、
    「点があれば無限小ができる」
    「点から無限小へ、話を拡張できる」
   というだけの話だ。点なしで、いきなり無限小ができるわけではない。
    一方、区体論では、自然な形で無限小ができる。(しかも、そこでは、
   点が存在しない。[存在しなくてよい])
        *    *    *    *    *
    つまり、まとめて言えば、次のようになる。
      「超準解析では、無限小は不自然に(人工的に)導き出される。
      区体論では、無限小は自然に(必然的に)導き出される。」
    区体論では、「としての実数」は、集合論でのように自然に導き出
   されることはない。だから、そんなもの(点としての実数)は、なくてもい
   いし、また、ない方が好ましい。どうしても導き出したいときのみ、仮想
   的なものとして導き出されるだけだ。
    このあたり、区体論は集合論は、ほぼ逆のような立場にある。
 
 
 [3] 実数の決定性
 
 集合論の世界では、実数の決定性に関する問題[パラドックス?]というものがある。次のようなものだ。
 このことは実は、パラドックスではない。集合論の世界では、当然の事実である。
 しかし、ここには、根本的な問題がある。集合論の世界では、実数とは、存在性は言えても、定義不可能なもの[=決定できないもの・判然としないもの]ばかりなのだ。これはどう考えてもおかしい。 (たとえば、 ∀ の対象がはっきりとしないことになる。)
 
 では、この問題は、区体論では、どうなるか? (カントールのパラドックス、ラッセルのパラドックスは、区体論では発生しなかったが。)
 実は、この問題も、区体論では発生しない。
 区体論では、実数を定義する際、「有理数によって決定する」という方法を取らず、「2分割」という方法を取る。つまり、「下の方から」ではなく、「上の方から」構成する。 この方法は、実数そのものを一つ一つ定義するのではなくて、実数を作り上げる方法を定義する。そこで定義している箇所は、小数の桁の取り方であるが、それは、本質的に言えば、「2分割」のうちの指数部(nの部分)である。そこを逐次的に定義しているわけだ。だから、定義の回数は可算であっても、それによって作り出される実数の総数は2ふうに可算以上(連続)となる。2のものをひとつひとつ個別に構成していくのではなくて、手続きのところが可算となるのだ。というわけで、もちろん、集合論の場合のような問題は生じない。
 
 
 [4] 境界 空間
 
 集合論の世界では、クラスと集合の境がはっきりしない。
 また、境界を無理にはっきりさせようとすれば、体系が数学的に貧弱になってしまう。(そのことはすでにさまざまな研究から明らかにされている。)
 では、区体論ではどうか? 
 
 区体論では、空間の範囲は一定のものとして決まる。それは全空間 Ω である。
 このことは、公理4により決まる。(もし公理4が成立しなければ、集合論同様、体系の範囲は定まらない。)
 
 さて、全空間 Ω は、理論によりひとつ決まるが、そのたびごとに、いちいち別々の空間を作り出すのは面倒である。そこで、あらゆる区体論の空間をすべて含むものとして Ω を定めるのが好都合である。
 そのあと、 Ω のなかの一部分 Ψ に着目すると、 Ψ が「部分空間」になっていることがわかる。つまり、 Ψ のなかにおいて、一つの区体空間を構成できる。( 要するに、 Ω のなかで、 Ω のかわりに Ψ を取れば、その Ψ のなかで、区体空間の公理をすべて満たす、ということ。)
 
 ※ 部分空間の和
   このような部分空間を二つ取れば、その和もまた部分空間をなす。
    つまり、Ψ1 と Ψ2 がともに Ω の部分空間であれば、その和
   である Ψ1∪Ψ2 もまた Ω の部分空間である。
 
 
 [5] すべてはアトムに還元できるか? 
 
 「どのような区体も、数多くのアトムの集まりとして表現できる。要するに、どのような区体を取っても、それは、数多くのアトムだけから構成されているのだ。これは重要な結論である」
 とPart2に記述してあったが、どうやって証明できるか? 
 
 実は、この命題は、完全に真ではない。可算のときのみ、成り立つ。
 可算の場合は、話は簡単である。定理48により、区体からアトムを一つずつ取り出すことができるから、その操作を繰り返すことにより、濃度がゼロになるまでアトムを取り出していけばよい。(証明は簡単。可算ならば、仮定からして、自然数と1対1対応がつくので。)
 
 濃度が連続の場合は、この命題は成り立たない。
 一つずつ取り出すやり方ではアトムを取り尽くすことはできない、ということが、すぐにわかるだろう。(可算個のものを取ることはできても、連続個のものを取ることはできない。)
 しかしそもそも、連続濃度の世界とは、アトムの存在しない(存在が前提されない)世界である。そこでは、アトムというものを考えること自体が無意味である。(無限小は、アトムに準じる性質を持つが、しかしそれはまた別の話となる。)
 
 結局、上の命題は、濃度が可算以下のときのみ成立する、と考えねばならない。
 その意味で、舌足らずな言明ではあった。ただ、区体論というものを初めて考えるときは、アトムというものを前提として考えないと、話が理解しづらい。
 「アトムが存在しなくても構わない世界」
 というものまで考えると、話が進みすぎて、初心者には理解できない。
 上の命題は、あくまで、初歩的な範囲での話だ、と考えてほしい。
 
 
 [6] 準関数の由来
 
 区体論では、「準関数」というものを導入した。
 しかしこれは、かなりわかりにくいかもしれない。これは今までの数学にはないものだからだ。そこで、わかりやすく示してみよう。
 
 公理8の準関数 α は、「選択公理」とほぼ等価である。
 集合論においては、選択公理を用いて、「かくかくの関数が存在する」という言い方をする。
 しかし、「関数」はわかるが、「関数が存在する」とは何か? 「存在する」とはいったいどういうことなのか? 
 この問題が、話の根元となる。
 
 そこで、「存在する」という言葉をめぐって、ある数学者は、次のように言い出す。
  「存在とは何かなんて、数学者の知ったことじゃない。哲学者に任せておけ」
 しかし、ここで言う「存在」とは、哲学用語ではなくて、数学用語である。哲学者に任せるという、無責任な態度は取れない。そこで、せっぱつまって、多くの数学者は、次のように逃げる。
 「存在する、とは、述語倫理学の存在記号の意味のことだ。論理学者に任せておけ」
 と。しかし、数学と論理学は一体なのだから、そのような他人任せの逃げ口上は許されない。そこで、次のように言い出す。
 「それは無定義語だ。だから意味なんか考えなくていい」
 なるほど、それは便利な見解である。形式的に見れば、それで済むかもしれない。
 しかし、よく考えてみよう。述語論理における存在記号は
    ∃X ≡def ¬(∀X)¬
 という形で定義された。この ∀ が無定義語であったわけだ。
 ところが、である。集合論の世界では、「体系全体」というものがはっきりとしない。とすれば、 ∀ で定まる対象もまた、はっきりとしない。たとえば、ゲーデルの不完全性定理に対応するかもしれないような集合が出てきた場合、その集合が ∀ の対象として引っかかるのかどうかはっきりとしない。
    ※ ∀ という記号の意味が曖昧だと、問題だ、という点について
      は、Part2の「カラスは黒い」という話の箇所でも述べた。
 要するに、∀ という記号の意味はきわめてあやふやであり、したがってまた ∃ という記号の意味もまたきわめてあやふやなのだ。
 
 結局、述語論理や集合論の世界では、「存在する」という言葉は、あやふやなものでしかない。それは、「集合論の世界(つまり集合全体)は はっきりと定まる」という幻想の上に成立するものであり、いわば砂上の楼閣のようなものである。
 そんなものは、理論の基礎として採用しがたい。つまり、「存在する」ということは、理論の基礎とならない。当然、「関数が存在する」という言い方も、あやふやで信頼しがたいものとなる。
 
 そこで、区体論の出番となる。
 区体論は、既存の述語論理を捨てる。それが基本である。(上のことからして、曖昧なものを捨てるのは当然だ。)
 既存の述語論理を捨てるとなれば、命題論理と自由変項の上に立つような体系をつくることになる。(それが最も自然である。)
 さて、仮表示形の公理1〜公理7は、自由変項だけで書き直すことが簡単である。(すでに正表示形の区体論として示したとおり。)
 問題は、公理8である。これを自由変項だけで書くには、準関数というものを導入するしかない、というのが、私の考えであった。
 準関数というものを持ち出せば、「関数が存在する」ということを示せる、と考えられた。
 では、準関数とは、何なのか? それは本質的に、どのようなものなのか? 
 
 
 [7] 準関数のモデル
 
 準関数とは何か?
 そのことを理解するには、準関数の性質をあれこれと抽象的に示すよりは、具体的な準関数の例を示した方がわかりやすいだろう。たとえば、「関数とは何か」を知るには、具体的な関数の例(たとえば二次関数)を示すとわかりやすいように。
 そこで、次のような準関数の例を考えるといい。
 
 次の図を見てほしい。
 
 
 
 この図を見ながら、考えよう。
 この図は、次のことを図形的に表現したものだ。
 「袋[=四角い枠]がある。そのなかに、パチンコ玉がいくつか入っている。」
 
 このような状態が、あらかじめ与えられているとする。
 さて、ここで、次の操作を考える。
 
 「袋のなかに手を入れて、いくつかのパチンコ玉を手でつかむ。
  ただし、目を閉じている。」
 
 つまり、目で見ないまま、袋のなかにあるパチンコ玉を手でつかむ、という操作である。
 
 この操作を、何回か行なうとする。
  ・ 1回目には、いくつかのパチンコ玉をつかむ。
  ・ 2回目にも、またいくつかのパチンコ玉をつかむ。
     :           :
     :           :
 
 このように何回かの操作を行なうとする。(いったんつかんだあとは、パチンコ玉を離して、元に戻すものとする。)
 
 さて、それぞれの操作(パチンコ玉をつかむこと)で、つかんでいるパチンコ玉は、もちろん、同じだとは言えない。たとえば、1回目には3個のパチンコ玉をつかみ、2回目にはまた別のパチンコ玉を5個つかむ、……というふうに、それぞれの操作で、やることは別々となるのが普通である。(たまたま同じ操作になることもあるかもしれないが。)
 
 ここで、次のことに留意しよう。
  ・ それぞれの操作で、つかんでいるパチンコ玉は同じものだとは言えない。
  ・ しかし、つかんでいる限りは(つまりその1回の操作をしている間は)、
    つかんでいるパチンコ玉は同じものである。(手からすり抜けて勝手に
    別のパチンコ玉と交替することはない。)
 
 実は、この操作は、準関数のモデルとなっている。
 なぜか? 
 
 すでに Part3 で示したように、関数と準関数の差は、次の点にある。
   ・ a = b なる a について F(a) が 一定の値を取る、というのが関数。
   ・ a = b なる a について F(a) が 一定の値を取らない、というのが準関数。
      (ただし a ≡ b ならば、準関数でも一定の値を取る。)
 
 そこで、次のように考えるとよい。
   ・ 「袋のなかにあるパチンコ玉の集まり」を a と考える。
   ・ 「パチンコ玉をつかむ」という操作でつかんだものを F(a) と考える。
        ( ※ 選択準関数に似ているが、ここでは複数のものをつかんでよい。)
   ・ a = b とは、ある操作の a と、ある操作 b で、袋のなかのパチンコ
     玉の集まりが、包含の意味で同じであることを示す。
   ・ a ≡ b とは、 ある操作の a と、ある操作 b で、袋のなかのパチンコ
     玉の集まりが、包含の意味を越えた強い意味で、同じであることを示す。
     つまり、それぞれのパチンコ玉がまったく同じであることを示す。つまり、
     操作自体がまったく同一の操作であることを示す。
      ( ※ 操作とは、いったんつかみ始めてから、つかみ終えるまでのこと。)
 
 こう見なすと、次のように言える。
   ・ 1回目の袋 a と2回目の袋 b が包含の意味で同じであっても、つかんで
     いるパチンコ玉の集まりは、同じだとは言えない。つまり、
        a = b ⇒ F(a) = F(b)
     は成立しない。
   ・ 同一の操作にある限りは、手中のパチンコ玉は同じである。つまり、
        a ≡ b ⇒ F(a) = F(b)
     は成立する。
 
 まとめて言えば、こうだ。
    「袋のなかのパチンコ玉は、つかむたびに別々のものとなるが、つかんで
     いる限りは同じである」
 
 そして、このようなことを数学的に示すのが、準関数である。 (ちょっとわかりにくいかもしれないが。後述のことを読んだあとで、上のモデルをあらためて考えるとよいかもしれない。)

    ※ つかむパチンコ玉の数を[複数個でなく]1個に限定した場合
      には、選択準関数と同じになるので、わかりやすくなる。

    ※ このモデルの本質は、「目を閉じている」というところにある。
      もし「目を開いたまま」ならば、通常の関数と同じになる。

 
 
 [8] 準関数のモデルの応用
 
 準関数のモデルは、すでに示した。
 では、このようなモデルを考えて、何か意味があるのだろうか? 
 意味はある。たとえば、このモデルによって、「数を数える」という操作をするための最小の条件が提出できる。
 
 今、この袋のなかにあるパチンコ玉の数を数えるとしよう。
 準関数を使えば、ここにあるパチンコ玉の数を数えることができる。
 たとえば、目をつむったまま、袋に左手を入れる。いくつかのパチンコ玉をつかむ。
 つかんだまま、第二の手(右手)を入れて、左手のなかにあるパチンコ玉をいくつかつかむ。すると、左手にはいくつか残り、右手にはいくつか移る。
 それぞれの左手と右手に対して、さらに第三の手、第四の手、……というふうに新たな手を入れて、つかんでいるものを分けていく。
 この操作を何回も繰り返せば、ついには、すべての手にパチンコ玉は1個以下しか残らなくなる。(m個の手には1個あり、n個の手には0個ある。)
 このようにして、パチンコ玉の総数 m を知ることができる。
 
 ここでは、数を数えるための最小の条件しか使っていない、という点に注意してほしい。換言すれば、パチンコ玉の個別の差(それぞれの個性)は必要ない。 〔 それが「目を閉じている」ということ。〕
 
 一方、集合論で考えれば、次のようになるだろう。
 「パチンコ玉がたくさんあったとして、それぞれを
     a, b, c, d, e, ……
  などと名付けることにする。そして 〜 〜 〜」
 というふうに。
 
 しかし、このやり方だと、それぞれのパチンコ玉は、相互に区別される必要がある。一見したところまったく同じように見えるパチンコ玉を、相互に区別するとすれば、ラベルでも貼るしかない。そのような特殊な操作が必要となる。
 一般に、集合論の世界では、集合の要素はたがいに区別される。「区別不可能」などということはありえない。
 しかし、「物の数を数える」という場合には、そのように「個物が相互に区別可能である」という条件は、必要ないのだ。そんな条件はなくても、「物の数を数える」ということは可能なのだ。集合論ふうのやり方では、あることを考えるとき、余計なものまで付随する。そうした考え方は、正確ではない。
 正確でないだけではない。間違っている、とさえ言えることもある。それは、次の場合だ。
  「個物が原理的に、相互に区別不可能である場合」
 このことが前提されていれば、「個物が相互に区別可能である」という条件をつける集合論のやり方は成立しない。
 そして、このようなことがあらかじめ前提される事象は、実際にある。
 モデル的に言えば、先の「パチンコ玉」の集まりがそうだ。パチンコ玉は相互に区別不可能である。
 モデルではなくて現実の世界でも、そういうことがある。それは、量子力学におけるBose 粒子だ。(Fermi粒子と対比されることが多い。)
 Bose 粒子というものは、たがいに区別不可能である。この「区別不可能」ということは、現実のパチンコ玉のように、「目で見た限りではよくわからない」「もしかしたらどこかに微少な差がある」といったものではなくて、「本質的に区別不可能」なものなのだ。その意味で、Bose 粒子にラベルを貼り付けることはできない。
 しかしながら、Bose 粒子について「数を数える」ことはできる。
 もし集合論の考え方を取れば、Bose 粒子は相互に区別不可能なので、集合の要素とはならず、したがって、Bose 粒子について「数を数える」ことはできない。
 しかし区体論の考え方を取れば、Bose 粒子について「つかんでいる限りは同じ」という準関数の考え方を適用できるので、Bose 粒子について「数を数える」ことはできる。
 
 つまり、量子力学を数学的に扱うには、準関数の考え方が不可欠なのだ。「関数」という考え方だけでは足りないのだ。
 準関数というのは、「目では見えないが、存在性はわかる」ということを示すために作り出された概念だ。それは従来の関数にはない概念だ。
 
  ※ Bose 粒子と、パチンコ玉
    Bose 粒子については、パチンコ玉でたとえることができる。
    今、パチンコ玉が、次のように並んでいたとする。
        ○ ○
   この右の玉と左の玉は、見ている限りは、区別可能だ。
   さて、一瞬目を閉じて、また目を開いたとき、
        ○ ○
   と見えたとする。この左の玉は、さっきの左の玉と、同じものか?
   それはわからない。もしかしたら、右と左が、目を閉じている間に、
   入れ替わっているかもしれない。
   こういうことは、それぞれの玉が本質的に区別不可能だから起こる。
   とはいえ、ずっと見ている限り(または「手でつかんでいる限り」)、
   それぞれの玉の同一性は保証できる。
 
 ※ 量子力学における例
   「個々に区別可能であっても、違いを無視すればいい。そうすれば、
   区別不可能と同じことだ」
   と考える人もいるかもしれない。 しかし、その考えは誤りである。
    量子力学における「マックスウェルの悪魔」という例がある。
   個別に粒子を判別すれば、粒子の運動がわかる、というものだ。
   二つのスリットを抜ける光を観測するとき、「マックスウェルの悪魔」
   によって個別に判別できたときとできないときとで、光の投影の
   分布が異なる。
    つまり、個別に判別できるものであるか、そうでないかが、現実の
  事象に影響する。 「頭で無視すればいい」というものではないのだ。
    結局、量子のように個々に区別不可能なものは、まさしくそのよう
   なものとして(本質的にそのようなものとして)扱う必要がある。
    「便宜的に違いを無視する」といった、表層的な方法では、事実を
   正しく認識できないのだ。
 
 
 [9] 定義記号の射影モデル
 
 準関数に関して、すでに例を述べた。ただ、そこにおける「≡」という記号の意味がわかりにくいかもしれない。それは「=」という等号記号とどう異なるのか、と。「等号よりも強い同一性とは、何なのか」と。
 そこで、このことについて、モデルを用いて説明しよう。
 
 等号記号(=)は、すでに述べたとおり、包含の意味で定義される。(Part2における等号の定義を参照。)
 つまり、区体 A と区体 B が、包含の意味で同じであるとき、それらは等号記号で結ばれるわけだ。
 
 ここで、次の式を考える。
    A ≡ B ⇒ A = B
 この式は、成立する。しかし、その逆は成立しない。
 
 ここに ≡ の本質がある。このような性質を持つものを、モデルとして考えるとよい。
 具体的なモデルとしては、「図形とその射影」というものがある。
 
 たとえば、漢字の「二」という文字の図形がある。この図形は、2次元の世界では二つの並行する線からなる。さて、この図形が x - y 平面の y 座標に落とす影は、「 : 」のような1次元図形となる。
 
 同様に、「〒」というような2次元図形がある。この図形が y 座標に落とす影は、「i」のような1次元図形となる。
 
 ここで今、次のように考えるとよい。
    「区体論の世界とは、上記の一次元座標の世界のようなものであり、
    区体とは、そこに落とされた射影のようなものである」
 と。
 つまり、元となるようなものがあって、それが区体論の世界に投じる射影が、区体であるわけだ。
 
 もう少しわかりやすく言おう。
 現実世界のものは、さまざまな面がある。たとえば、人間は、生きて、呼吸して、活動をするものである。しかし、そのようなさまざまな面を一切無視して、ただ「人間の包含」というものだけを考えることがある。たとえば、
  「さくら組の生徒は、次のように区別できます。
      男/女
      A型/B型/AB型/O型
      出席者/欠席者
   など。そして、各グループについて包含を示すと……」
 というふうに。
 ここでは、人間のさまざまな面を無視して、単に包含だけを考えているわけだ。ここでは、人間は ○ のような図形で示すことさえできる。
 
 数学者は、「包含だけを考えていればいい」と考えがちだ。しかしそれはいびつな考え方である。人間というものは、 ○ のような図形で示すこともできるが、その際には、さまざまな面が切り捨てられている。そのことに気づくべきだ。 ○ のような図形の背後に、さまざまなものが隠れている、と気づくべきだ。
 等号(=)は、単に、包含関係での同一性を示すにすぎない。たとえば、山田太郎という人物の同一性を、包含の面からのみ見れば、「同じ人間だ」でおしまいとなる。しかし現実の山田太郎は、たとえ包含の面では同じだと見なされても、刻々と変化していくものである。今の山田太郎は、一年前の山田太郎とは異なる。その事実は、包含の面からはとらえきれない。
 現実世界の物体は、包含だけではとらえきれない面があるのだ。そのことを理解するべきだ。
 
 さて、である。
 では、「≡」という記号は、いったい何を意味するか? 
 それは、包含の範囲よりも広い範囲の同一性である。
 
 では、それは、何か? 
 実は、それは、包含の意味を越える同一性であれば、何でもよい。
 しかし、通常、物事は記号で示される。だから通常、その同一性は、「記号の意味」としての同一性である、と考えてよい。
 
 結局、その同一性は、「定義」という意味の同一性と、実質的に同じである。
    A ≡ B
 という式の示すことは、A と B が、記号として異なるものであっていても、記号の意味は同じになる、ということだ。
 例を示そう。A と B はアルファベットとして別々の記号である。一方、上に書いたいくつかの A という文字は、それぞれ別の文字である(別の位置に置かれている)が、どれも同一の A という記号である。ここには「記号としての同一性」が見て取れる。
 「記号の同一性」とか、「記号の意味の同一性」とかは、以上では記述が不足かもしれない。しかし、詳しく述べると、哲学的な大変な話になってしまう。それは記号学ふうの哲学的世界の話である。そこでは「言葉とは何か?」というような大問題も話題となる。……このように話が大変になるので、ここでは詳しくは記さない。今のところは、直感的にざっと理解しておくだけでいい。

 
 [10] 準関数はどうやって作るか? 
 
 準関数を作るには、それなりの手続きが必要である。
 Part3で示した正表示形の区体論では、アトムを決める準関数 α というものが公理8で登場した。これは、公理8によって導入された準関数である。
 また、先の方では、区体を分割するための準関数 β というものが公理9で登場した。これは、公理9よって導入された準関数である。
 いずれにおいても、準関数は公理によって導入された。
 
 α という準関数は、準関数としては、ただ一つあるだけである。定義域において A がさまざまな値を取るにつれて、値域で α(A) がさまざまな値を取る。それだけのことだ。
 
 β という準関数についても、話は同様である。これもまた、準関数としては一つのものであるが、その値は、さまざまな値を取る。
 
 なお、準関数というものは、いくらでも作り出すことができる。たとえば、
 
    ζ(A,B)≡def α(A)∪α(B)
 
 と定義すれば、この ζ は、これもまた準関数である。(準関数の定義に当てはまるからだ。)
 
 
 [11] 選択公理の位置
 
 準関数に関連して、選択公理について考えよう。
 公理8の準関数は、「選択準関数」と呼ばれるが、その意味するところは、選択関数とほぼ等価である。
 では、選択公理(に相当するもの)は、区体論では、どのような意味をもつか? 
 
 すでに示したとおり、公理8の選択準関数が存在するのは、アトムの存在する世界のみである。
 公理9の世界、つまり、実数の世界では、無限小さえ存在すればよく、アトムが存在する必要はない。つまり、公理8は成立してもしなくても、どちらでもいいわけであるが、ただし、「無駄なものは不要」との立場に立てば、公理8は成立しないものと見なしてよい。
 となると、実数の世界では、公理8は成立せず、従ってまた、選択準関数が存在しないわけで、選択公理(に相当するもの)も成立しない。
 
 簡単に言えば、こうだ。
 「区体論による数学の世界では、
    ・自然数の範囲では、選択公理は成立する。
    ・実数の範囲では、選択公理は成立しない。(というか、無意味である。)
  となる。」
 
 これはいわゆる「可算選択公理」というものと、ほぼ等価である。
 通常の数学を構成するのに「可算選択公理が必要だ」ということは、しばしば言われる。
 一方で、「選択公理の適用範囲を可算以下に絞る」というのは、集合論による数学からは自然な形で導き出すことはできない。(そんなことをするのはあまりに御都合主義に思える。)
 しかるに、区体論では、そのことが自然な形で導き出されるわけだ。
 
 もう少しはっきり言えば、こうなる。
 「選択公理の適用範囲を可算以下に絞ってもよい」
 のではなくて、
 「選択公理の適用範囲を可算以下に絞るべきである」
 というふうに結論できるわけだ。そのように強く主張するわけだ。
    ただし、(あまり自然ではないが)公理8と公理9の双方が
     成立する世界、というのも考えられる。そういう世界では、
     選択公理は実数の範囲(連続濃度)でも成立する。
     なお、公理8の成立しない世界では、濃度というものが通常
     の意味合いをもたないことに注意せよ。 cf. 先の「1対1」
 
 さて、一方で、次のことは言える。
 「選択公理で選択される対象を、点から無限小に拡張した命題は、成立する」
 
 つまり、公理9の成立する世界では、点を選択することはできないとしても、無限小を選択することはできるわけだ。
 このように拡張された意味での選択公理は成立する。
 したがって、既存の数学においても、実数の範囲では、「選択公理は成立する」と言ってよいわけだ。(そこでは、実数は、点ではなくて、無限小であるものとする。そのことが条件である。)
 
 ただし、このような「拡張された選択公理」が成立するのも、実数の濃度までである。それより大きな濃度(そういうものがあると仮定した場合だが)においては、「拡張された選択公理」も成立しない(成立すると言えない)。なぜなら、2分割で決定できるのは、実数の濃度までであるからだ。
 
 結局、集合論における「選択公理」(どんな濃度でも選択関数が存在することを主張する)は、区体論では、一般的には成立しない。選択公理(に相当するもの)は、
 
  ・自然数の範囲では、完全に成立する。
  ・実数の範囲では、拡張された形でのみ成立する。
  ・それより大きな濃度の数では、成立すると言えない。 (体系外)
 
 というわけだ。これが結論となる。

 ただ、追記しておこう。
   「実数よりも大きな濃度では、選択公理が成立するとは言えない」
 のは、公理8の力自体が弱いからではなくて、そのような空間がいまだ未定義だからである。
 もしそのような空間が定義されたら? (たとえば特殊な公理を導入して。) ── その場合は、公理8の力で、「選択公理は成立する」と言えそうだ。とはいえ、これは仮定の話であるから、今はまだはっきりとしたことは言えない。
 
 ※ 整列可能定理について
   整列可能定理についても、話は同様である。
    ・ 自然数の範囲では、整列可能。
    ・ 実数の範囲では、実数(無限小)は、整列可能だが、無限小のなかの
     点については、整列可能と言えない。
    ・ 実数より大きな濃度の数では、整列可能性は[まだ]言えない。
     (整列可能性があると矛盾する、というわけではないが、整列可能性
     を示すには、新たに特殊な公理によって、実数より大きな濃度があら
     かじめ導入されていることが前提となる。話はそれから。)

 
 
 [12] 述語論理の構成
 
 区体論は、述語論理を必要としない。
 ただ、述語論理をまったく使えないわけではない。述語論理は、区体論の基盤となるわけではなくて、その逆である。つまり、区体論から、述語論理が導き出される。
 その手順を、以下に示そう。(核心のみ示す。細部は省略。)
 
 まず、命題論理と自由変項からなる、正表示形の区体論が成立しているものとする。ここでは、公理8が成立するものとする。
 
 あと、導き出せばいいのは、 ∃ および ∀ という記号の意味である。
 
 (i) ∃ 記号
 
 ∃ という記号は、公理8から、簡単に導き出せる。そのことはすでに Part3 の § 3−5 で示しておいた。ここで再度記せば、次のようになる。
     (∃a)a@A ≡def A≠φ 
 これは ∃ という記号の定義である。
 これと、準関数 α を用いた公理8の
        A≠φ  ⇔ α(A)@A
 という式をあわせて、次の式が得られる。
     (∃a)a@A ⇔ α(A)@A       
 
 (ii) ∀ 記号
 
 ∀ という記号は、 ∃ という記号から、次の定義によって与えられる。
        (∃X) ≡def ¬(∀X)¬
 これは単純な定義である。
 
 
 さて、以上で、原理的な話はおしまいである。
 しかし、これだけ示しても、ちんぷんかんぷんかもしれない。そこで、このあとどのように操作すればいいか、見本を示そう。
 
 述語論理が区体論から導き出されるのを示すには、述語論理の公理系が区体論から証明されることを示せばよい。
 ただ、述語論理の公理系といっても、いろいろある。どれも等価ではあるが、とりあえずは、ラッセルの公理系のようなものを取ることとしよう。
 この公理系にある ∀ という記号のある箇所を証明すればよい。(他の箇所は命題論理と同じ形。これらは命題を区体に直すことで、正表示形の区体論から容易に導き出される。)
 
 今、述語論理の公理として、
     (∀x)(x) ⇒ (y)
 という論理命題があったとする。[ここで (x) は x に関する命題]
 この式は、区体論では
     (∀x)x@p  ⇒ y@p
 というふうに書き直される。[ここで p は (x) に対応する区体]
       このことを詳しく示すには、分出公理が必要である。
        しかし、あまり重要ではなく、直感的に理解してよい。
        とにかく、このことが、話の前提となる。
       上の式の右辺では、 y はアトムに限られる。アトム以外の
        区体である y については、成立しない。注意のこと。また、
        左辺でも、 ∃ や ∀ のあとに来るのは、アトムに限られる。
 
 
 さて、上のように書き直された区体論の命題を、区体論のなかで証明すればいいわけだ。その証明は、次の通り。
 
   [証明]
 こうして、証明は終わった。かくして、述語論理の公理系は区体論から証明された。
  [ 注 ] ここでは、「全空間」というものが扱える、ということを
       利用している。「真」が全空間に相当し、「偽」が φ
       に対応している、という点に注意するとよい。
 
 
 さて、注意すべきことがある。
 述語論理学のさまざまな命題は、区体論の命題に書き直せるが、まったく同じではない、ということだ。
 区体論では、 ∀ や ∃ の次に置かれるもの(個体変項:上の例では x )は、アトムに限られる。そこに集合のようなものが置かれることはない。もちろん、(複数のアトムの集まりであるところの)区体がそこに置かれることもない。つまり、(アトムでない)普通の区体は、 ∀ や ∃ で扱うことはできない。
 
 通常の述語論理の命題を、区体論に直すときは、次のような手続きを取る。
  ・アトムでない区体について「任意の」としたいときは、「自由変項」と
   して扱う。
  ・アトムでない区体について「存在する」と示したいときは、「x⊂Ω」
   のように書けば足りる。
  ・公理5、6、7の関数で示されるものは、その形で、存在性が示せる。
   (例 : 「和区体」の存在性が、正表示形の公理6の関数から示せる。)

 ただ、ここでもうちょっと、補足しておこう。
 「アトムに限られる」と上で述べたが、ここで排除したものは、複数のアトムからなるような区体である。
 一方、公理9の成立する世界では、無限小というものがある。これは、公理9と準等号のもとで、アトムと同様にふるまう。だから、上で「アトムだけ」と述べた言明は、無限小を排除することを意味しているわけではない。その点、注意のこと。
 述語論理の ∀ や ∃ といった記号の箇所で(アトムのかわりに)無限小を扱うには、それなりの手続きが必要である。その手続きは、すでに述べたことを応用すればよく、特別に難しいことはない。
 ただ、アトムと無限小が混在するような命題では、話が複雑となる。これは、特殊な場合の話となるが、一応、研究課題となるだろう。(現在は詳細不明。)
   
  【 付記 】
  以上では、話が不十分と思えるかもしれない。
  しかし、ここでは、話の基本ないし骨格を示しただけにすぎない。
  区体論から述語論理を構成することを、具体的に示すには、もちろん、
  多大な手間がかかる。そうした細かな手続きをここにすべて記すことは
  できない。上述の骨格だけで、理解してほしい。
  細かな点の証明などは、普通に事務的にやれば、簡単にできるだろう。
  ただ、未解決の点も多いので、研究課題となりそうだ。
 
 
 [13] 不完全性定理
 
 ゲーデルの不完全性定理がある。これは、区体論では、どういう位置を占めるだろうか? 
 ここで、ゲーデルの不完全性定理の意味を、あらかじめ正しく理解しておく必要がある。
 
 ゲーデルの不完全性定理は、通常、次のように誤解されている。
 「自然数論を含むあらゆる公理的体系は、その体系の無矛盾性を、体系内で証明することができない」
 
 これは誤解である。ここでは、重要な前提が省かれている。正しくは、次の通り。
 「述語論理の上に成立して自然数論を含むあらゆる公理的体系は、その体系の無矛盾性を、体系内で証明することができない」
 
 つまり、ゲーデルの不完全性定理が成立する公理的体系は、述語論理の上に成立するようなものだけである。述語論理の上に成立するのではない公理的体系は、ゲーデルの不完全性定理の言及の外にある。
 そして、(正表示形の)区体論は、述語論理の上に成立するのではない。(命題論理と自由変項の上に成立する。) したがって、区体論は、ゲーデルの不完全性定理の外にある。
 
 もう少しはっきり言うと、正表示形の区体論は、完全である。
  ・自由変項だけからなる公理系は完全性の証明がたやすい。
  ・述語論理の上に成り立つ公理系で、ある種の条件を満たすものは、完全
   であることが証明されており、仮表示形の区体論は、その条件を満たす。
 
 以上のことがすでに数学基礎論でわかっている。話は専門的なるので、ここでは細かなことは示さない。詳しい事情を知りたければ、専門論文を読んだりするといいだろう。
 なお、次の問題がある。興味があれば、研究してみるとよいだろう。
 
   [ 問題 ]
    ゲーデルの理論で示した「決定不可能な命題」のゲーデル数は、
    区体論ではどのように扱われるか?
 
 このことはまだわかっていない。詳しく研究すると、「区体論から構成される述語論理」の細かな性質が浮かび上がりそうだ。
 すでに述べたとおり、「区体論から構成される述語論理」は、既存の述語論理とは、いくらか異なる。(たとえば ∃ ,∀ という記号のあとにはアトムしか置けない。……
 こうした点が、何らかの影響を及ぼすだろう。ひょっとしたら、 のことが影響して、ゲーデル数を作ることができないかもしれない。
 私の予想では、「区体論の述語論理では、体系自体についての命題は作れない。そのせいで、上記のゲーデル数も作れない」となりそうな気がする。ただ、現時点では、詳細は不明。

  ※ ZFとの対比
    ZFと比べると、どう言えるか? それは、次のことだ。
     「ZFでは、(ゲーデルの不完全性定理により)決定不可能な命題
     が体系内でひとりでに生じる。(その意味でZFは不完全である)。
     しかし、区体論では、(ゲーデルの不完全性定理の外にあるので)
     決定不可能な命題が体系内でひとりでに生じることはない。(そ
     して完全である)」
    ということだ。

  ※ 不完全性定理の位置
    区体論は完全である。では、ゲーデルの不完全性定理の位置は、
   区体論では、本質的には、どうなるのか?
    それはまだはっきりとしたことは言えない。ただ、私の予想では、次
   のようになりそうな気がする。
    「(既存の)述語論理というものは、体系全体が閉じていない。その
    せいで、体系自体について言及するような、自己言及型の命題が
    まぎれこむ。こうして、決定不可能な命題が生じる。結局、[決定
    不可能な命題がまぎれこまないような]完全な体系を築きたけれ
    ば、(既存の)述語論理を捨てるしかない。」
   ……そういうことだと思う。

    区体論が完全なのは、体系が閉じているからである。そこから導き
   出される述語論理(区体論の述語論理)は、上述のような(既存の)
   述語論理とは異なる。そしてそこでは、ゲーデルの不完全性定理は
   成立しないわけだ。 (決定不可能な命題がまぎれこまない。)
    ゲーデルの不完全性定理の意味は、(既存の)述語論理のいい
   加減さを、あばきだしたことにあるのだろう。
      (一部の人は、不完全性定理の意味を、「自然数論を厳密に
       は使えないことだ」、と思っているが、それは勘違いだろう。
       ペアノ公理の空間だけならば、別に問題ないのだから。)

  ※ 述語論理のいい加減さ
    そもそも、(既存の)述語論理というものは、「すべて」というものが
   わかっていない(つまり、体系全体が規定されていない)くせに、
    「すべての……について」
   などという言い方を許している。そういうふうに根本的にいい加減な
   理論なのだ。(たとえて言えば、有理数と無理数の区別がわかって
   いまま、「すべての有理数について」と述べるようなものだ。) こう
   いういい加減な理論からは、おかしな結論が導き出されたとしても、
   当然のことであって、何の不思議もないのだろう。

  ※ 無矛盾性の証明について
    ちょっと追記しておくと。……
    「体系が無矛盾であること」
    を、体系内で証明できたとしても、その証明には何の意味もない。
    その証明は、体系が矛盾している可能性を、排除できない。なぜ
    なら、体系が矛盾していれば、その証明自体が無意味だからだ。
    結局、体系の無矛盾性の証明には、体系外のものを用いなくては
    ならない。これは、ゲーデルの結論にかかわらず、当然のことだ。
    [……この件、いちいち述べるまでもなく、よく知られた話。]

 
 [14] 連続体仮設
 
 連続体仮設は、区体論では、どう解釈されるだろうか? 
 実は、これは簡単だ。すでにいろいろと述べたことからもわかるだろうが、あらためて記せば、次のように言える。
 
 (i) 一般連続体仮設
 実数より大きな濃度の区体は、(ひとりでには)作られない。だから、実数より大きな濃度に言及する一般連続体仮設は、それ自体がそもそも無意味である。(連続体仮設だけ考えれば足りる。)
 
  ※ 実数より大きな濃度は、作ろうと思えば、作れなくもない。しかし
    そのためには、新たな特別な公理が必要である。その空間は、ま
    だ未定義なわけであるから、その空間がどういう性質を持つかは、
    定義しだい(公理しだい)である。まだできていない空間について
    考えるのは、無意味。


 (ii) 連続体仮設
 実数は無限小であり、そこにはアトムは存在しない(と考えてよい)。したがって、アトム同士の1対1を関連づけること自体が無意味である。ただし、アトムと無限小の1対1を考えることはできる。そのような「拡張された1対1概念」を使えば、たぶん、連続体仮設について、既存の数学と同じ結論を得るだろう。しかし詳細は不明である。

  ※ ここではもはや、1対1という概念そのものが揺らいでいる。
    先に述べた「1対1」の箇所を参照。

  ※ 中間濃度と「NP完全」
   話が飛躍するが、興味深い話がある。特に読む必要はないが。
   連続体仮設に関連して、
    「中間濃度とは、どのようなものか?」
   を考えたとしよう。もちろん、コーエンの成果を見てもいいが、それと
  は別に、ちょっと考えてみる。
   先に、 [3] 実数の決定性 のところでは、次のように述べた。
     「定義できる実数の総数はたかだか可算でしかない。」
   ここで言う「定義できる実数」とは、別の言葉で言えば、
     「桁の決定速度が速いもの」
   である。ここには、自然数すべてが含まれる。また、有理数すべても
  含まれる。無理数のうち、多項式で決まるものも含まれる。(たとえば、
  円周率 π や、自然対数の基底 e など)。
   では、ここに含まれないものとは、どのようなものか? これが興味
  深い。
   もちろん、これは、上のうちには含まれないものだから、
     「桁の決定速度が遅いもの」
   である。ここには、ある種の無理数が含まれる。では、いったい、どの
  ような無理数が? もちろん、多項式では決まらないようなものだ。
   ここで、勘のいい読者なら気づくだろうが、これは「NP完全」と関連す
  る。
   「NP完全」 とは、多項式時間では決まらないような問題だ。 (シラミ
  つぶしで調べるしか解決できそうにない問題。例として、「巡回セールス
  マン」問題が有名。)
   さて、「時間」というのを、「手続きのステップ数」と理解すれば、「多項
  式では決まらない数」と、「多項式時間では決まらない問題」というのは、
  ほぼ同じことである(または似ている)と見なせそうだ。
   というわけで、こんなふうに、話は「NP完全」と関連しているわけだ。
   このあたり、まだはっきりしたことは言えないが、とにかく、連続体仮設
  をめぐって考えると、興味深い事柄が出てくるわけだ。

   なお、「桁の決定速度」については、先に述べた。
   この概念は、よく知られているように、計算機数学では、非常に重要な
  概念である。ただ、区体論でも、この概念は、大きな意味をもつ。という
  わけで、計算機数学にとって、区体論は、なじみがいい。
   (「桁の決定速度」は、集合論では、あまり意味がない。集合論と区体
    論では、実数の決め方に、 根本的な差がある。)


 
 [15] 無限小と幾何学
 
 無限小というものは、点とは異なる。特に、幾何学的には、はっきり異なるはずだ。では、どう異なるなるのか? 
 このことは、まだ厳密に検証したわけではない。ただ、一応、次のように推測できる。

 集合論の「点」や、区体論の「アトム」は、点である。これは、伸び縮みすることはない。
 しかし、無限小というものは伸び縮み可能である。とすれば、無限小を引き延ばして、無限大にすることも可能だろう。(位相幾何学ふうに)
 たとえば、直線だ。集合論の直線は、幅の大きさが「点」と同じなので、幅は伸び縮みしない。区体論の直線は、幅の大きさが「無限小」と同じなので、幅は伸び縮みする。そこで、無限小の幅を引き延ばして、幅を無限大にすることもできる。つまり、直線を幅方向に引き延ばして、平面にすることができる。とすれば、直線と平面は、(位相幾何学ふうに)同等の図形だ、ということになる。
 さて、直線を平面に引き延ばせるのならば、逆に、平面を直線に縮めることも可能であるはずだ。とすれば、無限小の幅のなかに、無限大のものが閉じ込められている、と考えることもできそうだ。
 となると、ここでは、次元というものは、あまり意味をもたないかもしれない。単に「目に見える次元」「現れている次元」があるだけであって、その奥には隠された次元(のようなもの)がひそんでいるのかもしれない。
 ……このような考え方は、実は、量子力学の「超弦理論」(超ひも理論)の考え方に似ている。いくらか参考になるだろう。

 ともあれ、区体論によって無限小を導入すると、幾何学的には、これまでの数学とは違う種類のものができる。たとえ「超弦理論」と無関係だとしても、「点の存在しない世界」というものを考えるのは興味深い。いろいろと研究の課題となりそうだ。

   【 注 】 なお、「幅を引き延ばす」というのを、実際に実行するには、無限桁の
        小数のうち、通常の可算を越えた桁数のところから、さらに各桁の数
        を取って、それをうまく対応させる、という特殊な操作が必要となりそう
        だ。これは集合論の超限数の ω + ω というのに似ている。


           |←  ω桁  →|←  ω桁  →|
          0.31415926535..... ......  ....... 


   【 注 】 なお、ここに述べた「無限小を引き延ばす」ことは、公理9が成立
        し、公理8が成立しない世界[点の存在しない世界]のことである。
        公理9と公理8がともに成立する世界[点の存在する世界]では、
        こうなる保証はない。


 
 [16] 無限桁を厳密にいうと
 
 2分割を無限回行なうと無限小ができる、と先に述べた。
 しかしこれには、疑問を感じることもあるだろう。それは数学的には厳密ではなくて、かなり直感的な方法だと思えるからだ。具体的に言えば、次のような疑問であるだろう。
   ・ 「分割を無限回行なう」というが、それは厳密には、どういうことか?
   ・ 「(無限回行なったあとで)無限小になる」という保証はあるのか?

 こういう疑問ももっともである。実際、先に述べた記述は、直感的であって、数学的に厳密だとは言えない。
 ただ、それはたしかにそうなのだが、だからといって、先に述べたことが間違いだ、ということにはならない。
 先に述べたことは、話をまず直感的に理解してもらうことを目的としており、数学的に詳しく述べることは、はしょっておいたのだ。
 とはいえ、はしょったままでは、読者が不満になるかもしれない。そこで、やや高度になるが、以下では、いくらか詳しい説明を加えておく。

 【1】 自然数の導入     * * * * * * * * *

 「2分割を無限回行なう」
 これが問題となるわけだ。
 さて、「無限回」ではなくて「有限回」行なうにしても、それにはまず、その回数を自然数によって指定する必要がある。そこで、あらかじめ、自然数を導入しておく必要がある。
 すでに述べたように、実数の空間というもの自体には、公理8は必要ない。しかし、実数の空間を定める際には、その手続きにおいて、公理8によって、自然数をあらかじめ導入しておく必要がある。
 まずは、このことに留意してほしい。


 【2】 超限順序数 ω     * * * * * * * * *

 上で述べたようにして、自然数がすでに導入されているものとする。そこで導入された自然数は、アトムとしての自然数である。このあと、無限公理を用いることで、可算無限を導入することができる。
 さて、区体論においては、「序数としての自然数」と「基数としての自然数」が、別々のものとして区別される。(4章の付記)
 序数としての自然数は、アトムである。「n番目のアトム」というふうに理解してよい。
 基数としての自然数は、アトムの集まりである。「n個のアトムたち」というふうに理解してよい。
 後者、つまり、基数の方の自然数を考えてみよう。ここでは、話を有限から無限に拡張して、「無限個のアトム」というものを考えることができる。(可算濃度の存在。)
 前者、つまり、序数の方の自然数を考えてみよう。ここでは、話を有限から無限に拡張することはできない。つまり、「無限番目」というアトムが存在することはない。なぜか? 仮に、このような「無限番目」というアトムが存在するとしたとする。その無限を、集合論の記法にならって ω というふうに記すことにしよう。この ω は、超限順序数であり、自然数ではない。この ω は、「直前の数」(ω−1)をもたず、自然数としての性質を満たさないので、普通の自然数のように「無限番目」というものは生じない。つまり、「 ω 番目のアトム」というものは存在しないのだ。
 この ω は、順序としては、決して到達できないところにある。
 だから、「 ω回実行した場合」というのは、「到達できないところに到達した場合」となる。それはあくまでも仮想的な場合となる。そうした仮想的な場合を、考えることもできるが、特に考えなくても問題ない。

 【3】 実際の無限回     * * * * * * * * *

 上に述べたように、可算無限というものは、基数としては存在するが、序数としては仮想的なものにすぎない。
 では、そのような条件の下で、「無限回行なう」というのは、どのようなことを意味するか?
 それは、無限 ∞ というものを、次のように定義すればよい。
   「任意の自然数 m に対して ∞ > m 」
 そして、このやり方にならえば、
   「無限回行なう」
 というのは、
   「m回行なえるということが、任意の自然数 m に対して成立する」
 と理解すればよい。
 2分割 に戻って話をしよう。 2分割 が「無限回可能である」とは、
    1, 2, 3, 4, …… ,m ,……
 という自然数に対応して、
    2,2,2,2,…… ,2,……
 というふうに、2分割を1対1で対応づけするとして、このような分割が「任意の自然数 m について成立する」ことを言う。
 かくて、「どのような大きな自然数 m についても、2分割が m回可能である」(つまり 2分割ができる)ということが言えるわけで、このことをもって、「無限回の分割がなされる」と見なしてよい。
 これではまだ不十分だと思えるかもしれない。しかし、このようなやり方だけでも、解析学を築くことはできる。( 「ε−δ」論法を使えるからだ。 cf. 前述の「桁による方法」。)
 というわけで、この方法だけでも、とりあえずは十分である。

     実数の連続性(デデキントふう)は、上の方法とコーシー列により、
      定理として導き出されるだろう、と予想される。集合論と同様。


 【4】 ω回の実行     * * * * * * * * *

 以上に述べたことだけで、話は一応足りている。だが、それだけでは、読者が欲求不満になりそうだ。次のような疑問が思い浮かぶだろう。
 「解析学ではともかく、それ以外ではどうなんだ?」
 「2分割を ω回実行した場合には、どうなるんだ?」

 と。そういう疑問も、もっともである。そこで、話がやや高度になるが、ついでにもう少し、述べておく。

 すでに述べたように、 ω という序数は、届きえないところにある。
 だから、「2分割を ω回実行したら」というのは、「届きえないところに届いたら」ということであり、つまり、「ありえないことがあったら」ということである。
 ここでは、仮定が想定外のことであるのであるから、話は想定外の世界のことであって、そこにおける結論はどのように決めても構わない。勝手に結論を定義しても差し支えない。(矛盾のない範囲で。)

    「勝手に結論を定義する」というのは、「公理を与えて空間を定める」
    というのに、事実上、等しい。つまり、新たな性質を与えて、その空間を
    新たに規定するわけだ。どういう性質を与えるかによって、どういう空間
    が規定されるかが決まるわけだ。


 さて、そこで、いったいどうなるかを、考えてみよう。
 通常は、「2分割で n=ω の場合」の状態としては、次の (i) 〜 (iv) のような結論が想定される。

 (i)  すべて無限小になる
 (ii)  すべてアトムになる
 (iii)  すべて φ  になる
 (iv) 一部だけが アトム または φ になる
 【5】 必要性と十分性     * * * * * * * * *

 ω回の分割後にどうなるかについて、 (i) 〜 (iv) のそれぞれが、成立するか成立しないかが、問題となったわけだが、実は、必ずしもそれぞれを考える必要はない。
 話を「実数の構築」に絞るならば、少なくとも「実数が構築できること」さえ言えればよい。
 つまり、 (i) が成立するような区体を少なくともひとつ取ることができればいい。 (i) 以外のことが成立するか成立しないかは、特に考えなくてもよい。(どうでもよい。)
 仮に、 (i) が成立する区体  がひとつ取れたとする。あとは、この  のなかで、実数を定義すればよい。 以外の  という区体では (i) が成立しないかもしれないが、それはそれで構わない。
 そのような  が存在するか否かは、数学的には興味があるが、とりあえず、実数の構築のためだけには、そういうものについていちいち考察する必要はない。
 
 【6】 公理8が絶対不成立の場合     * * * * * * * * *

 以上の (i) 〜 (iv) では、公理9が成立することのみを前提として、話を進めた。その空間内において公理8が成立するか否かについては、あまり言及しなかった。(実際、どちらでもよいことも多かった。)
 ただ、(「公理8は成立するとは言えない」という単純な不成立ではなくて)「公理8の命題は絶対に成立しない」i.e.「アトムというものが絶対に存在しない(ひとつも存在しない)」ということを前提として話を進めると、有益な結論が出る。特に (ii) ,(iv) において、話が簡単になるのだ。
  (ii) で「すべてがアトムになる」とか、  (iv) で「一部がアトムになる」とか、そういうときには、そこにおいて公理8の命題が成立していることになる。これは「公理8の命題は絶対に成立しない」(アトムがひとつも存在しない)という前提に反する。
   (iv) で「一部が φ  になる」というときも、話は同様である。もしそうなるとしたら、(分割した一方が φ になるというのは分割不可能だということだから)、そのひとつ前のものがアトムになっているわけだ。だから、そのアトムの箇所で、公理8の命題が成立している(アトムが存在している)ことになる。

 結局、「公理8の命題が絶対に成立しない」i.e.「アトムというものが絶対に存在しない」ことが前提された空間では、「分割後、一部にアトムや φ が生じる」ということはありえないわけで、 (ii) ,(iv) の場合はありえないわけだ。つまり、  (i) ,(iii) の場合だけが可能となるわけだ。さらに、  (iii) は不自然ないし無意味だとして排除すれば、  (i) だけが可能となるわけだ。つまり、「すべて無限小」という結論になるわけだ。

 本文中(6〜7章)では、「公理8が成立しない」ような空間(液体状の空間)を取って、そこで実数を定義し、「実数は無限小である」と述べた。そのことは、詳しくは、上述のように説明されるわけだ。
 ただ、本文中では、「公理8が成立しない空間」と述べたが、これは不正確ないし舌足らずであった。「公理8が成立するとは言えない空間」と誤解されかねないからだ。正確に言えば、上述のように、「公理8の命題が絶対に成立しない空間」i.e.「アトムというものが絶対に存在しない空間」のことである。そういう空間では、「すべて無限小」という結論になるわけだ。

 【7】 付記     * * * * * * * * *

 話は以上で終わっている。
 ただ、ついでに少々、誤解されやすい点を、次の (1) (2) (3) として付記しておこう。
 
 [17] 直感論理との関係
 
 排中律の成立しない論理(直感論理など)については、区体論はどう示すだろうか?
 これは、話は簡単である。「排中律の不成立」に相当するものとして、区体論で「公理7の不成立」を言えばよい。ただし、命題論理における排中律は、不成立とせず、そのまま用いる。
 公理8が不成立の場合は、点が存在せず、液体状になった。公理7が不成立の場合には、次の二つの場合が考えられる。
  (1) 元の区体と補区体(にあたるもの)のほかに、第三のものができる。
  (2) 元の区体と補区体(にあたるもの)境界がはっきりとしない。

 (1) は、たとえば、「好き/嫌い」のほかに「どちらでもない」があるようなもの。(世論調査などで、こういう3分類はしばしば用いられる。)
 (2) は、たとえば、「いくらか好きであり、いくらか嫌いであり、どちらも少しずつまじっている」があるようなもの。色で言えば、「白と黒のまじった灰色」があるようなもの。「ファジー論理」における「メンバーシップ値」に似ている。
 この両者のうち、本質的なのは、(2) の方である。(2) ではまさしく、「公理7不成立」となる。一方、(1) の方は、そうではない。「好き/嫌い/その他」というのは、いったん「好き/好きでない」に分けたあとで、「好きでない」をさらに「嫌い/その他」に分ける、というふうにすることもできる。この場合、公理7は、とりあえず成立することになる。 (排中律が不成立、と見えるのは、定義の仕方や手続き上の問題にすぎない。)
 とにかく、細かい話はさておいて、(2) の方が本質的だ、ということを理解しておいてほしい。
 
 これまでの論理学では、このような「白黒(正否)のはっきりしないもの」を扱うとき、論理値を2値から多値に拡張したりした。
 区体論では、そうではない。論理自体は、2値の命題論理をそのまま使う。それを述語論理に移す段階で、区体論で「公理7が成立しない世界」を導入することにより、区体を「白黒(正否)のはっきりしないもの」として扱う。
   これは、「メンバーシップ値」というものを導入するファジー論理に似て
    いる。ただし、ファジー論理は、通常の論理に何かを加えるが、区体論
    では、通常の区体論から何かを引く。その点、やり方が反対である。

 なお、上述のようなことをなす領域は、「区体論の述語論理」 or 「自由変項型の区体論」であって、話はそこにおいてのこととなる。上述のようなことをなすには、まず(普通の)「述語論理」を構成するのが先決となる。 cf.  前述の  [12] 「述語論理の構成」

  ※ 区体論のやり方と、従来のやり方
     「公理7の成立 ・不成立を考える、というようなことは、しなくたっていい
    じゃないか。直感論理やファジー論理を使えば、それで足りる。」
     と思う人もいるだろう。そこで、付言しておく。
     上記のような「公理7不成立」というのは、集合論では、考えられないこ
    とである。だから、集合論に染まった人だと、上記のようなことをやりたが
    らないわけだ。人は、「絶対にできない」ときには、「できない」ことを認め
    たがらず、「もともと欲しくないのさ」と思い込みたがる。(イソップ物語 :
    「すっぱいブドウの話」)
     公理7をもつ区体論では、公理7を不成立とすることで、話を直感論理や
    ファジー論理ふうに拡張できる。そのことを理解しておけばよい。

 
 



 あとがき
 ずいぶん長々と書いてきたが、理解していただけただろうか? 
 「十分に理解できた」という人は、あまりいないだろう、と思える。せいぜい「半信半疑」というところではなかろうか? 
 読者などから、いくらか意見が寄せられた。私としては、「ここが間違っている」というふうに、具体的に説明して批判する意見が来るかもしれない、とびくびくしていた。しかし、実際には、そういう厳密な批判は来なかった。これまで来た批判は、大別、次の三つである。

 (1) 「半信半疑。正しいかもしれないが、自分にはわからない。」
 (2) 「区体論は無意味である! なぜなら、既存の数学理論と同じだから」
 (3) 「区体論は間違っている! なぜなら、既存の数学理論とは異なるから」

 (1) の「半信半疑」という感想には、言うべきことはない。ま、そんなものであろう。東大数学科卒程度の人でも、よくわからないで半信半疑の人が多いようだ。
 (2) の「既存の数学理論と同じだから無意味」というのは、明らかに誤読だろう。これまでに述べてきたとおり、区体論は集合論などとは根本的に異なる。細かな点で異なるところはいくつもあるが、特に、公理8が決定的に異なる。私がそう指摘すると、たいていの批判者は黙ってしまうようだ。
 (3) の「既存の数学理論と異なるから間違いだ」というのは、明らかに誤読だろう。これまでに述べてきたとおり、区体論は集合論とは異なるのだ。批判者は、「区体論と集合論は異なる。そして集合論は正しい。ゆえに区体論は間違いである」という三段論法を用いている。しかし、Part1 を読んでほしいものだ。「集合論は正しい理論ではないから、新たに別の理論を出す」ということが、区体論を出した理由なのである。そこで私が批判者に、「あなた、Part1 を読んだのですか?」と尋ねると、「いや、読んでいない」と答えることが多い。読みもしないで、勝手に勘違いして批判するのだから、呆れてしまう。

 ま、東大数学科卒レベルの人でも、たいていは、この程度の批判しか出せないものだ。どうせ批判するなら、次のように批判してもらいたいものだが。
 「区体論の公理系には矛盾がある。例はこの通り」
 「区体論の公理系からは素朴集合論の定理が導き出せない。例はこれ」
 というふうに。
 しかしながら、そのように言った人は、一人もいない。

 とにかく、世間にいる数学者の大部分は、上のように勘違いをするのが関の山である。だから、あなたがもし、区体論の核心を理解できたとしたら、それはあなたが非常に数学的センスをもっている、ということになるだろう。
 ただ、そのように正しく理解できる人は、日本にはごくわずかしかいないと思える。理解できずに半信半疑のままでいるとしても、仕方あるまい。それが当たり前のことだし、別に恥じることはないはずだ。

 ともあれ、ここまで長々と読んでくださったことに、お礼申し上げます。


 
 [ 付録 ]
  インターネットで使える記号表

 
     区体論や数学について、インターネットで伝達する際、文字化けが問題となります。
     そこで、文字化けしない記号を、以下に示します。これらは、JISの記号なので、あらゆるコンピュータで使えます。つまり、いちいち画像にする必要はありません。 (使いたいときは、以下をコピーすればよい。)  

    区点    0 1 2 3 4 5 6 7 8 9

    00100      、 。 , . ・ : ; ?
    00110   ! ゛ ゜ ´ ` ¨ ^  ̄ _ ヽ
    00120   ヾ ゝ ゞ 〃 仝 々 〆 〇 ー ―
    00130   ‐ / \ 〜 ‖ | … ‥ ‘ ’
    00140   “ ” ( ) 〔 〕 [ ] { }
    00150   〈 〉 《 》 「 」 『 』 【 】
    00160   + − ± × ÷ = ≠ < > ≦
    00170   ≧ ∞ ∴ ♂ ♀ ° ′ ″ ℃ ¥
    00180   $ ¢ £ % # & * @ § ☆
    00190   ★ ○ ● ◎ ◇
    00200     ◆ □ ■ △ ▲ ▽ ▼ ※ 〒
    00210   → ← ↑ ↓ 〓 ・ ・ ・ ・ ・
    00220   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ∈ ∋ ⊆ ⊇
    00230   ⊂ ⊃ ∪ ∩ ・ ・ ・ ・ ・ ・
    00240   ・ ・ ∧ ∨ ¬ ⇒ ⇔ ∀ ∃ ・
    00250   ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
    00260   ∠ ⊥ ⌒ ∂ ∇ ≡ ≒ ≪ ≫ √
    00270   ∽ ∝ ∵ ∫ ∬ ・ ・ ・ ・ ・
    00280   ・ ・ Å ‰ ♯ ♭ ♪ † ‡ ¶
    00290   ・ ・ ・ ・ ◯
     
    00600     Α Β Γ Δ Ε Ζ Η Θ Ι
    00610   Κ Λ Μ Ν Ξ Ο Π Ρ Σ Τ
    00620   Υ Φ Χ Ψ Ω ・ ・ ・ ・ ・
    00630   ・ ・ ・ α β γ δ ε ζ η
    00640   θ ι κ λ μ ν ξ ο π ρ
    00650   σ τ υ φ χ ψ ω ・ ・ ・
     
     
     なお、そっくりな形でも、次の文字は、Windows でしか正しく見えません。他のコンピュータでは、文字化けします。(特に、数学記号は、形が上の記号とそっくりだが、文字コード番号が異なるので、当然、文字化けします。)……というわけで、以下は使用禁止です。注意のこと。
     
    01300     @ A B C D E F G H
    01310   I J K L M N O P Q R
    01320   S T U V W X Y Z [ \
    01330   ] ・ _ ` a b c d e f
    01340   g h i j k l m n o p
    01350   q r s t u ・ ・ ・ ・ ・
    01360   ・ ・ ・ ~
    01370   
    01380   ≒ ≡ ∫ √ ⊥ ∠
    01390   ∵ ∩ ∪ ・ ・

    09280    
    09290   
 


このホームページの作者

    氏 名    南堂久史
    メール    nando@js2.so-net.ne.jp
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[End.]