【 正字とは何か? 】  「正字とは何か?」という点をめぐって、いくらか混乱があるようなので、  ここで整理してみることとする。      ※ 【 修正履歴 】         第4章を加筆した。     [99. 7.17.]         第5章を加筆した。     [99. 8.01.]         第5章末に【 付記 】   [99. 8.12.]         第6章を加筆した。     [99.10.18〜19.]  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ● 第1章 康煕字典/いわゆる康煕字典体  (1) 康煕字典  康煕字典は、基本中の基本となる。その後、さまざまな字典や中国・日本の 木版書籍が出版されたが、それらは、字形の規範として、康煕字典を用いるこ とが多いからだ。  このように、康煕字典は基本中の基本となるが、絶対的なものではない。  ・ 康煕字典には、いくつかの版があり、版ごとの異同がある。  ・ 康煕字典では、文字の重複が見られる。  ・ 日本や台湾などで、康煕字典から離れた字形が国内的に主流となった場合    がある。  なお、「異体字の迷宮」のところでも述べたが、漢字の字形というものは、歴 史的に一定しているものではない。王羲之の文字や、智永の千字文の文字や、 宋の時代の文字などを見ると、現在普通に使われている文字とは、字形の差が 見られる。  これらの文字は、もちろん、由緒正しい文字であるが、「現在の日本」におい て「正統的なもの」「規範となるもの」とは見なされない。  康煕字典は、一つのよりどころであるが、絶対的なものではない。通常は、 現代の普通の漢和字典などを見ていれば足りるが、何か問題があったときに、 重要な参考資料となる、という程度であろう。  (2) いわゆる康煕字典体  俗に「正字」と呼ばれているものは、「いわゆる康煕字典体」である。これは、 明治以来の、(木版でなく)活版印刷の明朝体で使われてきた文字、と見なせる。  つまり、「近代の」かつ「日本の」文字である。  具体的にどんなものであるかを見るには、漢和字典を引くのが手っ取り早い。  漢和字典で「正字」と示されているものが正字である。  漢和字典では、その他、「俗字」以外のものとして、「本字」「古字」「同字」 などの用語も見られる。これらに該当するような文字もあるわけで、細かく見 ていけば、大変な作業となる。  このような差異ないしバラツキは、「揺れ・揺らぎ」として、後述する。  ※ ともあれ、「正字」とは、このような「いわゆる康煕字典体」であって、    近代・現代の日本で正統的とされるもののことを言う。    要するに、漢和字典などにあって、現代のわれわれが「規範」とすべき    ものである。(それは必ずしも昔の康煕字典体と同じではない。)  (3) 国語審議会の調査  国語審議会では、大手印刷会社の大量の文字用例の調査を利用した。  このような文字用例の調査は、「現代の」「日本の」文字の調査としては最も 好都合である。ただ、「どれが正字でどれが俗字か」といった価値判断までは示 せない。単に「多く使われている」ということが示されるだけだ。  通常、表外字については、略字や俗字はあまり使われず、正字が多く使われ る。ただし、次のような事実もわかった。    「餅」については、この文字の左半分だけが旧字体になった文字が使わ     れることが多く、「餠」という正字が使われることはほとんどない。  こうしたことが国語審議会の報告や会議録で示されている。  また、「兎」は正字よりも、この俗字が使われることが普通だが、その点は、 特に示されず、正字と俗字が両方とも「使ってよいもの」と示されるだけであ る。  国語審議会の調査は、このように、「何が正字か」を知るには十分なものでは ないが、なかなか役立つ資料である。例の報告の215字に示された文字のうち、 大部分は、「凸版印刷などをよりどころとした正字」として、一種の規範となる かもしれない。  ま、漢和字典とのかねあいもあるが、これはこれでひとつの規範となりそうだ。  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ● 第2章 揺れ・揺らぎ  (1) 揺れ・揺らぎの存在  漢和字典や国語辞典に見られる文字は、必ずしも一定しているわけではない。  たとえば、「荊」の見出しとなる文字は、83JIS字形と 78JIS字形があ る。(草かんむりが、前者は全幅で、後者は半幅。) このどちらが正統的であ るかは、日本における用例を見る限り、断定しがたい。漢和字典を見ても、両者 とも親字(見出し字)として採択されている。  このように、用例や字書におけるバラツキが見られることがある。このバラツキ を「揺れ・揺らぎ」と呼ぶことにしよう。  揺れ・揺らぎは、ないのが好ましい。しかし現実には存在する。そして、その どれが正しいかは、一概には言えない。「昔の康煕字典を見ればいい」というわ けには行かない。  (2) 揺れ・揺らぎを知るには  このような揺れ・揺らぎを知るには、次のような方法がある。  (a) 書籍の用例における揺れ・揺らぎを統計的に調べる。     (国語審議会の調査の方法。揺れ・揺らぎの程度を数量化できる。)  (b) 多くの漢和字典や国語辞典における見出しの字の揺れ・揺らぎを調べる。  この両者を対比してみると……  前者は、現実用例における揺れ・揺らぎ。後者は、字書類における揺れ・揺 らぎ。  前者は、統計的に多大な処理を必要とする。後者は、お手軽に調べられる。  前者は、7000字ぐらいまでは統計的に有意義だが、それより低頻度の文字に ついては (サンプルが少ないので) 統計的にあまり有意義でない。後者は、 1万字程度までは楽に調べられるが、それより珍しい字は掲載されていないの で調査不可能。  さて、そういうわけであるから、どちらの方法を使っても、せいぜい1万字 程度までしか、根拠については明白に示せない。それ以外の珍しい文字について は、わが国の用例が少ないので、中国の康煕字典そのものに戻って考えた方が よさそうだ。  (3) 揺れ・揺らぎの扱い方  「正字とは何か?」を考えれば、揺れ・揺らぎのない一覧表を示せることが 好ましい。つまり、「これが正字だ」「これが規範だ」「これを使え」と明示す ることができるのが好ましい。  しかしながら、現実の用例にも揺れ・揺らぎがあるし、(それを反映してだろ うが)字典にも揺れ・揺らぎがある。  このような現状がある以上、揺れ・揺らぎのない一覧表を示せることが好ま しいとはいえ、それは原理的に不可能であろう。(仮に「これが正しい」とした 一覧表ができたとしたら、現実を無視したものとなる。ま、「これだけを使え!」 「他を使うのは禁止!」と強権的に押しつけるのならば別だが。)  では、揺れ・揺らぎについては、漢字担当者としては、どう扱うべきか?   第一に、普通の小型の国語辞典や漢和字典では、スペースの分量もあるだろ うから、現状通りでいいだろう。自分たちが研究して調べた成果を世に出せば よい。  第二に、大型の字書では、それらの各種研究の成果を取り込むとよい。つま り、さまざまな揺れ・揺らぎがあれば、そうしたことを細かく記述すればよい。 (「古字」「本字」などと示すもその一例だが、もっと詳しく述べるのが好まし い。)  第三に、文字コードの分野では、特に深く考える必要はない。というのは、 ある文字が正字か俗字かは、文字コードのなかでは区別されないからである。 たとえば、「荊」の2字形は、字書では「どちらを見出し字とするか」で悩む ことになるだろうが、文字コードでは単純に両者をどちらも採択すればいい。 (どちらが正字であるかを示すことなく)……それだけのことだ。  厳密な字形をどうするか、については、康煕字典や宋体や王羲之などには よらずに、なるべく現代日本語の書籍の用例を見る。(凸版印刷など)  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ● 第3章 結語   そういうわけで、文字コードの分野では、特に大きな問題があるわけではな い。「正字かどうか疑わしいもの」があれば、とりあえず採択すればよいからだ。  悩むとしたら、「疑わしいかどうかがわからないもの」であろう。だが、そん なものは、どちらにしたって、たいした問題とはならない。たとえば、「珊」と いう字の「冊」の中央横線が、左右に突き抜けている文字と突き抜けていない 文字があるのだが、これらをどうするかといえば、まあ、どちらにしてもいい だろう。細かいことを言えば問題があるが、どちらにしたって結局は細かな難点 は残るのだから、どう処理しようと、「これが絶対的に正しい」という正答など はあるまい。    ※ これは異体字や包摂の問題である。細かいことは表紙ページの      「異体字の迷宮」のページを参照。  ただ、例の83JIS変更の約300字については、「正字とは何か」をいく らか深く考える必要がある。というのは、変な略字と区別する必要があるから である。  これら約300字における正字・略字については、表紙ページにある資料 「略字&正字」のところで、詳しく示した。そちらを見てほしい。  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ● 第4章 補足  以上のようにして「正字」を決めると、「康煕字典体ではないが、わが国で 正統的と見なされてきた字体」というのが見出される。たとえば、    氷 (その康煕字典体は「冰」)    冴 (その康煕字典体は「冱」)  などがそうである。  こうした康煕字典体の文字を「正字」と呼ぶか否かは、「正字」の定義しだ いとなる。(これはいわば、「解釈」または「定義」の揺れ・揺らぎである)  漢和字典を見ても、これらの扱いは、さまざまである。康煕字典体の方を 「正字」と呼んで、見出しに掲げることもある。一方、「本字」と呼んで、 見出し語にはしないで、本文中に付記するだけのものもある。   「氷」については、これは歴史的には「正字」と見なされずに「俗字」と されるが、実際には中国でも長らく正統的なものと見なされてきた。多くの 漢詩の例を見ても、伝統的に「氷」という字体の方が使われてきたようだ。 (大昔はともかくとして)  このような文字はたとえ中国では「俗字」と呼ばれるとしても、わが国で は正統的な文字として扱われてきたのだから、「正字」と呼ばれてもおかし くないし、(呼称は別として)そのような位置づけを与えられてもおかしく ない。  ま、結局、「正字」の定義しだいではある。  ただ、文字コードの分野では、先にも述べたとおり、どちらも正統的な文 字として、ともに採択すれば、それでよい。  「正字とは何かがはっきりとしていないから、正字なんてものは、すべて 排除してしまえ」というのは、論旨の通らない暴論である。   【 注記 】    ここでは、「冰」「冱」という文字を表示できたが、それは、たまたま、   これらの文字が現JISに収録されているからである。    ただし、他の場合には、そううまく行くとは限らない。現JISでは、   常用漢字に対応する正字については、半分以上は欠落しているから、それ   らについては、正字を表示できない。たとえば、「青」「黒」の正字は、   現JISでは表示できない。   (パソコンメーカは、業を煮やして、機種依存文字に収録した。)   (新JISではどうかというと、JCS案では、多少改善される程度。)   (南堂私案では、これらの正字は、完璧に漏れなく収録される。)  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ● 第5章 印刷術との関連  康煕字典そのものの字体と、いわゆる康煕字典体とでは、もうひとつ、差が 見られる。それは、印刷形態の違いによる書体差である。  この二つの字体は、前者と後者で、基本的には同じ書体をもつ。どちらも、 明朝体である。  ただし、印刷形態の違いによる書体差が見られる。前者は、木版印刷による ものであり、後者は、金属活字(鉛活字)によるものである。その結果、前者 は後者と比較して、次のような差が見出される。  ・ 字画における点は、金属活字の「、」のような細長いものではなくて、    柿の種子みたいな形(細長いというより円に近い形)である。  ・ 横線と縦線の太さの比は、金属活字のように明白な差はなく、横線にも    かなり太さがある。  ・ 全体の印象が相当異なる。(手書きふうの柔らかさ/機械的な冷たさ)  簡単に言えば、前者には、「明朝体」とはいえ、手書き文字のような雰囲気 が残っており、いかにも機械的にデザインされた書体(定規で線を引いたよう な書体)の明朝体とはやや異なる。  そういうわけで、両者はまったく同じものと見なすことはできない。(まっ たく別のものである、ということもないが。)   ※ 具体的なデザインは、康煕字典の頁の写真図版などを見るとよい。     原本に類するものは次に述べるとして、とりあえず簡単にサンプル     を見るとしたら、次のものが入手しやすい。      ・ 朝日新聞(1999-7-10)の文字コード記事に付いている写真。      ・ 「JIS漢字字典」区点位置詳説の「柿」の項目。      ・ 各種百科事典など。   ※ 康煕字典そのものは、テキストがいくつかある。復刻本は、中華     書局や講談社のものがあり、図書館で閲覧することも可能。      なお、康煕字典の「本来の」漢字のデザインを見るには、内府     本(殿版)によるのがよい、とされている。とはいえ、内府本を     所蔵する図書館は少なく、閲覧は簡単ではない。普通は、上記の     記事や一般書籍に掲載されてある図版を参照するしかないようだ。     《 この項、JCSの関係者から、ご教示を得た。文責は南堂。》  さて、われわれが今日、印刷字体の「標準字形」と見なすべきもの、つまり、 「いわゆる康煕字典体」とは、もちろん、中国の木版印刷の書体ではなくて、 わが国における金属活字における書体である。  では、わが国の金属活字印刷術には、どのような歴史があるか?   これについては、手元の百科事典で調べたところ、1870年の本木昌造をもっ て、わが国における金属活字印刷の開始と見なされているようだ。この年代は 明治元年(1868年)にほぼ等しい。  というわけで、わが国の「いわゆる康煕字典体」(正字)の歴史は、「明治 以降、今日まで」と言ってよいわけだ。  なお、1870年の開始時には、あくまで試行的なものであっただろうから、そ れが一般化して普及するには、まだいくらかの期間が必要だったと思える。  とはいっても、普及に何十年もかかるということもあるまい。広く普及した のがいつかは、はっきりとした史料は持ち合わせていないのだが、手元の学研 「Supar 日本語大辞典」にある初版本画像によると、1885-7-20 の「女学雑誌」 第壹號は、金属活字の文字を使っているのが見て取れる。 遅くとも、このころ には普及したようだ。    ※ ついでだが、「女学雑誌」は「女學雜誌」ではない。  【 付記 】  金属活字と康煕字典との関係  金属活字と康煕字典との関係は、どうか?   これについて、私の考えを言うと、次の通り。   ・ 金属活字では、康煕字典体を模範にして、独自のデザイン基準で新たに    字形を作成した。   ・ 印刷字体の標準としては、金属活字だけをモデルにすればよい。    (少なくとも「印刷用の標準字体」を考えるのであれば、金属活字だけで     十分。昔の木版の方は、念のための参考にするだけでよく、直接の根拠     とはならない。)  (例)  Q 「邊」の異体字はたくさんある。どれを正字と考えるか?   A ・ とりあえず、金属活字の異体字サンプルをたくさん集める。    ・ 歴史的に包摂などを考え、いくつかの異体字グループにまとめる。    ・ それらのうち、康煕字典体に合致するものを「正字」と見なす。    ・ ここで「正字」と見なされたものは、康煕字典体そのものではなく、      それに合致するところの日本の金属活字字体である。      これが「いわゆる康煕字典体」となる。  なお、昔(江戸時代など)の木版印刷については、どう扱うか?   私としては、これらについては、「やむなく」除外するのが適当だと考える。 もちろん、これらも参考にできるのであれば、それに越したことはない。だが、 実際には、無理である。木版本は、今日では散逸したものも多いし、擦り切れ やすいので版ごとの差もあるし、明朝体とは違う書体を用いたものもあるし、 今日とは字体(字形)が異なるものもあるし、いろいろと問題が多い。  私としては、国語審議会同様、今はとりあえず、金属活字だけをサンプルと して、現代の印刷用( or コンピュータ用)の字体を定めるべきだ、と考えて いる。木版の分は、否定はしないが、とりあえず、調査の対象からはずすのが 妥当だと考える。  (もう少しわかりやすく言えば、智永の千字文の一部の文字のような、現代   の字体とは異なるものは、調査対象にしても仕方ないので、調査しない。)  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ● 第6章 正字の文字集合  表紙ページに掲げた「JCSの最終案の核心」の「補足」( codemail.txt ) において、「対案」を掲げた。  ここでは、「正字」+「その他」という形で文字集合を示したが、そのうち、 後者については個別に指定できたが、前者については個別に指定されなかった。  このことについて、一部から批判が来た。「具体的に正字の文字集合を示さ ないのはけしからん」というのである。「いちばん問題の多いところを放置し て、平気でいるのは、お気軽だ」というわけだ。  なるほど、たしかに、「正字の文字集合」を決めることは大事だろう。ただ、 私としては、この点はさほど重視していなかった。あくまで方法論的な話にす ぎないと考えていたからである。  正字の文字集合を具体的に決定するのは難しい。それは、技術的に難しいと いうのではなくて、人々の意見がいろいろあって、集約するのが難しい、とい う意味である。諸説紛々で、まとまりがたいのである。  だから、このような国語学的な問題は、JISの立場で決定することではな い、というのが、私の立場だった。JISよりも、国語審議会かどこかに決め てもらう方がよい。  また、私の個人的な立場でいえば、どの立場に決まろうと、それはどうでも いいと感じられた。正字について、甲論と乙論があって、対立している場合、 どちらの一方に決まろうと、私としては別に異を立てないつもりであった。そ の程度の差は許容範囲であると感じられた。  ただ、「それでは無責任だ、どうやって文字コードの文字集合を決めるんだ」 という批判も来るだろう。それももっともである。そういうわけで、ここでは、 あえて旗幟を鮮明にすることにした。  ただ、以下で述べることは、あくまで私の一案にすぎない。これが国語学的 に正しい案だ、などと主張するわけではない。あくまで、JISに入れる文字 集合の一案にすぎない旨、お断りしておく。(もちろん、変更を妨げない。)  私の出す「正字の文字集合」とは、以下のようにして定義される。    「大漢語林において、常用漢字・人名漢字の文字全体を調査し、     そこにおいて『旧字体』として示されている文字」  つまりは、大漢語林に従う、というわけだ。  これによって、個々の文字について、正字であるか否かは一意的に決定され る。(あとは労力をかけるだけ)  さて、このようにして定義された文字集合は、他の漢和字典によって定義さ れた「正字」の文字集合と同じではない。微妙に差がある。そして、その差ゆ えに、私としては、大漢語林の文字集合の方が適切であると判断したわけであ る。  その理由を、以下ではおおざっぱに述べよう。  たとえば「┴」のような字画の箇所があるとする。この箇所で、中央の短い 縦線が、縦線であるか、あるいは、「二」のようになっているか、という差が 見出される場合がある。たとえば、「龍」「意」の1画目の縦線がそうであり、 「食」の3画目の縦線がそうである。これらについて調べてみると、次のよう な差がある。  「龍」では、1画目が縦線になっているものと横線になっているもので、こ の両者をともに別の文字(別の正字)と見なす立場がある。一方、それらをデ ザイン差と見なして包摂する立場もある。  「意」では、1画目が縦線になっているものと横線になっているもので、こ の両者をともに別の文字(新字と正字)と見なす立場がある。一方、それらを デザイン差と見なして包摂する立場もある。  「食」では、3画目が縦線になっているものと横線になっているもので、こ の両者をともに別の文字(新字と正字)と見なす立場がある。一方、それらを デザイン差と見なして包摂する立場もある。  実際に字書を調査してみると、大修館の字書では「龍」「意」については両 者を包摂し、角川の字書では両者を包摂しない(別々の字とする)、という傾 向がある。「食」については、どちらにおいても包摂しないようだが、「喰」 などの「食」を部分字形としてもつ文字については、別々にすることはなく、 その部分が横線となっている文字だけを掲げていることが多い。(その部分が 縦線となっているものは包摂と見なすか、あるいは略字体として無視する。)  私の個人的な考えでは、これらはすべてデザイン差と見なして包摂してもい い気がする(「言」の1画目が縦線か横線かは、普通、デザイン差と見なせる ので)。だが、「食」では、字体の差を明示するために区別した方がいいかも しれない、という気もする。  そこで、あれこれ勘案した末、字書としての信頼性の高さなども考慮した末、 「大漢語林に全面的に従う」という結論を出したわけである。(私のような素 人の判断より、大漢語林の判断の方が信頼が置けるのは当然である。私は別に 誰かのように「自分の考えだけが正しい」と言い張るつもりはない。)  以上が、私が先の結論を出した理由となる。   ※ なお、この結論を取った場合、先の「正字の数の調査」から推定した     正字の総数(500〜600字)は、1〜2割ほど減ることになりそうだ。     同時に、「JCSの最終案の核心」で示した「200字強」という推定値     も、1〜2割ほど減ることになりそうだ。その旨、お断りしておく。   【 付記 】  以上は私の考えだが、別途、鳥飼浩二氏の論考を読む機会を得た。氏もまた、 私と同じようなことを考えているとわかったので、以上の私論が私独自のもの だと言い張るつもりはないということを示す意味もあって、以下に、氏の論考 の一部を抜粋する。     ───── 以下、鳥飼浩二氏の論考 (抜粋) ────────  同じ異体字(定義は、字体は異なるが、意味・発音を同じくし、字体が異なる分だけそ の価値も異なるもの、としておきます)でも、「竜・龍」「亀・龜」のように随分と形が 違ったものは誰もが「別字」と認めますから、ここでは「同一性」の議論は起こりません が、「文・〓」「八・〓」「主・〓」「戸・〓」「羽・秩v「者・〓」「毎・〓」「内・ 〓」などは、「同一性」をめぐってしばしば議論の対象となります。常用漢字表とJIS 漢字表とで異なるだけでなく、それらと漢和辞典とでも異なり、漢和辞典同士で意見が食 い違い、また漢和辞典と康煕字典とで異なると言った具合です。具体的に見てみます。  ・常用漢字表は、「者・〓」「毎・〓」を同一ではない(字体が異なる)と見るが、他   は同一とは主張していないが、常用漢字表にはその康煕体を掲げていない。「内」の   新字体と旧字体は見た目には同じように見えるが、よくみると「人」と「入」ほどに   異なる。「〓」は設計ミスの例で、最近こうした文字を見かける機会が増えました。  ・JIS漢字表は、第3版までは上の全てを同一(同値である)としていましたが、   第4版(素案)では、「戸・〓」「羽・秩v「者・〓」「毎・〓」「内・〓」を字体   が異なると見る。3版より4版の認識が優れる。  ・角川新字源は、上の全てを同一ではない(字体が異なる)と見る。いささか行き過ぎ   があるようだ。  ・学研漢字源・大修館漢語林・小学館現代漢語例解は「主・〓」「戸・〓」「羽・秩v   「者・〓」「毎・〓」「内・〓」を同一ではない(字体が異なる)と見る。  ・全ての漢和辞典が「主」を「〓」の新字体と認定しているようだが、康煕字典には   「主」の形で掲げてあって、これでは康煕字典体が新字体という矛盾した事態が起こ   る。  そのほか、「旅・〓」「派・〓」などは、漢和辞典を始めJISの4版もこれを同一で はない(字体が異なる)としていますが、果たしてこれでいいのか。そうすると、常用漢 字表の「猿」は旧字を掲げたことにならないか、などの議論が起こります。この辺につい ては、国語審議会の説明をきちんと聞きたい人が多かろうかと思います。  「戸・雇・編・偏・扁・篇」などに見る「戸・〓」について付言しておきますと、これ も大方の漢和辞典は1画目を「ノ」の平たい形に作るものを旧字体、ヨコ一線に作るもの を新字体と認定していますが、肝心の康煕字典では、両者入り乱れて出現するという事情 があります。「戸」部は全て「ノ」の設計ですが、「扁」は「扁・編・褊」のみ「ノ」、 「偏・遍・騙・諞・蝙」などは新字体風の「一」の設計になっております。これなどは、 現代の視点で再考を要する問題ではないかと思われます。再考に際しては、ただ組になる 文字だけを比べるのではなく、関連する文字群の全体を体系的に見なければならないでし ょう。総じて、漢和辞典にはこの視点が欠如しているようです。  「亥・〓」「該・〓」「劾・〓」などについては、角川新字源・小学館現代例解は「亥」 の1画目をタテに作るものを新字体、ヨコに作るものを旧字体と認定しますが、学研漢字 源・大修館漢語林では、これらに字体の差異はないと考えます。康煕字典では、「亥・該」 はタテ、「劾」はヨコになっていて統一性を欠いています。ちなみに、JIS4版では、 これらを字体の差ではなくデザインの差だと見ています。  「龍」の1画目も康煕字典ではヨコ設計になっています。学研・大修館はタテヨコの差 は字体の差ではないと考えて「龍(タテ)」を旧字として掲げています。JIS第4版も 同様に考えますが、角川・小学館はヨコ設計のものを旧字と認定しています。私見では、 学研・大修館・JISの考え方でいいのではないかと考えています。  このように、漢字の字形をめぐる「同一性」の問題は諸説紛々といったところでなかな か決着を見そうにありませんが、同一かどうかを判断するための方法・手段がないわけで はありません。それは、相似た形をもつ複数の漢字があるとき、その形の差を「字体の差」 と見るとき「別字」(すなわち、異体字の関係にある)と判断され、その形の差を「漢字 設計上のデザインの差にすぎない」と見るとき「同字」と判断されるということです。こ の考え方は、常用漢字表が「前書き」の「(付)字体についての解説」で明らかにして以 来、「同一性」認定の手続きとして一般に認められてきつつあると言うことができます。     ───── 以上、鳥飼浩二氏の論考 (抜粋) ────────   ※ この鳥飼浩二氏の論考は、WWW上では公開されていない。私が最近、     個人的に与えられたものである。その旨、お断りしておく。鳥飼浩二     氏にむやみやたらと連絡して氏にご迷惑をおかけしないよう、お願い     します。  【 付記 】  私が先の案で示した文字集合は、あくまで、文字コードの場における「正字 の文字集合」にすぎない。国語学・漢字学的に「これらこそが正字だ」と言い 張るものではない。  1画目が「┴」か「二」かを、区別するべきだ、という立場もあるだろう。 その場合には、そのようなフォントを用意した上で、フォント切り替えで対応 してもらうしかない。  「そんなやり方では不足だ」という立場もあるだろうが、JISのコードポ イントの総数は限られているのだから、やたらと何でもかんでも入れるわけに はいかないのだ。ある程度は我慢してもらうしかない。(また、区別すること 自体における不便さもあるのだから、これはこれで仕方ない。)  なお、「┴」か「二」を区別する方法として、「タグ字を併用する」という 方法もある。そのためにはタグ字を2種類用意しておけばよい。(……ただ、 JCS案では、タグ字そのものを否定しているのが難だが。)  【 参考 】 常用漢字 一覧 (1945字)  参考のため、常用漢字の一覧を示す。これらは Unicode順 (康煕字典順)に 並べてある。おおむね、大漢語林の順序と同じである。(若干の差はあるかもし れない。)……この順で、大漢語林を調べていけば、正字の集合を得られる。 一丁七万丈三上下不与且世丘丙両並中丸丹主久乏乗乙九乱乳乾了予争事二互五井亜亡交享 京亭人仁今介仏仕他付仙代令以仮仰仲件任企伏伐休会伝伯伴伸伺似但位低住佐体何余作佳 併使例侍供依価侮侯侵便係促俊俗保信修俳俵俸倉個倍倒候借倣値倫倹偉偏停健側偵偶偽傍 傑傘備催債傷傾働像僕僚僧儀億儒償優元兄充兆先光克免児党入全八公六共兵具典兼内円冊 再冒冗写冠冬冷准凍凝凡処凶凸凹出刀刃分切刈刊刑列初判別利到制刷券刺刻則削前剖剛剣 剤副剰割創劇力功加劣助努励労効劾勅勇勉動勘務勝募勢勤勧勲勺匁包化北匠匹区医匿十千 升午半卑卒卓協南単博占印危即却卵卸厄厘厚原厳去参又及友双反収叔取受叙口古句叫召可 台史右号司各合吉同名后吏吐向君吟否含吸吹呈呉告周味呼命和咲哀品員哲唆唇唐唯唱商問 啓善喚喜喝喪喫営嗣嘆嘱器噴嚇囚四回因団困囲図固国圏園土圧在地坂均坊坑坪垂型垣埋城 域執培基堀堂堅堕堤堪報場塀塁塊塑塔塗塚塩塾境墓増墜墨墳墾壁壇壊壌士壮声壱売変夏夕 外多夜夢大天太夫央失奇奉奏契奔奥奨奪奮女奴好如妃妄妊妙妥妨妹妻姉始姓委姫姻姿威娘 娠娯婆婚婦婿媒嫁嫌嫡嬢子孔字存孝季孤学孫宅宇守安完宗官宙定宜宝実客宣室宮宰害宴宵 家容宿寂寄密富寒寛寝察寡寧審寮寸寺対寿封専射将尉尊尋導小少尚就尺尼尽尾尿局居屈届 屋展属層履屯山岐岩岬岳岸峠峡峰島崇崎崩川州巡巣工左巧巨差己巻市布帆希帝帥師席帯帰 帳常帽幅幕幣干平年幸幹幻幼幽幾庁広床序底店府度座庫庭庶康庸廃廉廊延廷建弁弊式弐弓 弔引弟弦弧弱張強弾当形彩彫彰影役彼往征径待律後徐徒従得御復循微徳徴徹心必忌忍志忘 忙応忠快念怒怖思怠急性怪恋恐恒恥恨恩恭息恵悔悟悠患悦悩悪悲悼情惑惜惨惰想愁愉意愚 愛感慈態慌慎慕慢慣慨慮慰慶憂憎憤憩憲憶憾懇懐懲懸成我戒戦戯戸戻房所扇扉手才打払扱 扶批承技抄把抑投抗折抜択披抱抵抹押抽担拍拐拒拓拘拙招拝拠拡括拷拾持指挑挙挟振挿捕 捜捨据掃授掌排掘掛採探接控推措掲描提揚換握揮援揺損搬搭携搾摂摘摩撃撤撮撲擁操擦擬 支改攻放政故敏救敗教敢散敬数整敵敷文斉斎斗料斜斤斥断新方施旅旋族旗既日旧旨早旬昆 昇明易昔星映春昨昭是昼時晩普景晴晶暁暇暑暖暗暦暫暮暴曇曜曲更書曹替最月有服朕朗望 朝期木未末本札朱朴机朽杉材村束条来杯東松板析林枚果枝枠枢枯架柄某染柔柱柳査栄栓校 株核根格栽桃案桑桜桟梅械棄棋棒棚棟森棺植検業極楼楽概構様槽標模権横樹橋機欄欠次欧 欲欺款歌歓止正武歩歯歳歴死殉殊残殖殴段殺殻殿母毎毒比毛氏民気水氷永汁求汗汚江池決 汽沈沖没沢河沸油治沼沿況泉泊泌法泡波泣泥注泰泳洋洗洞津洪活派流浄浅浜浦浪浮浴海浸 消涙涯液涼淑淡深混添清渇済渉渋渓減渡渦温測港湖湯湾湿満源準溝溶滅滋滑滝滞滴漁漂漆 漏演漠漢漫漬漸潔潜潟潤潮澄激濁濃濫濯瀬火灯灰災炉炊炎炭点為烈無焦然焼煙照煩煮熟熱 燃燥爆爵父片版牛牧物牲特犠犬犯状狂狩独狭猛猟猫献猶猿獄獣獲玄率玉王珍珠班現球理琴 環璽瓶甘甚生産用田由甲申男町画界畑畔留畜畝略番異畳疎疑疫疲疾病症痘痛痢痴療癒癖発 登白百的皆皇皮皿盆益盗盛盟監盤目盲直相盾省看県真眠眺眼着睡督瞬矛矢知短矯石砂研砕 砲破硝硫硬碁碑確磁磨礁礎示礼社祈祉祖祝神祥票祭禁禅禍福秀私秋科秒秘租秩称移程税稚 種稲稼稿穀穂積穏穫穴究空突窃窒窓窮窯立竜章童端競竹笑笛符第筆等筋筒答策箇算管箱節 範築篤簡簿籍米粉粋粒粗粘粛粧精糖糧糸系糾紀約紅紋納純紙級紛素紡索紫累細紳紹紺終組 経結絞絡給統絵絶絹継続維綱網綿緊総緑緒線締編緩緯練縁縄縛縦縫縮績繁繊織繕繭繰缶罪 置罰署罷羅羊美群義羽翁翌習翻翼老考者耐耕耗耳聖聞聴職肉肌肖肝肢肥肩肪肯育肺胃胆背 胎胞胴胸能脂脅脈脚脱脳脹腐腕腰腸腹膚膜膨臓臣臨自臭至致興舌舎舗舞舟航般舶船艇艦良 色芋芝花芳芸芽苗若苦英茂茎茶草荒荘荷菊菌菓菜華落葉著葬蒸蓄蔵薄薦薪薫薬藩藻虐虚虜 虞虫蚊蚕蛇蛍蛮融血衆行術街衛衝衡衣表衰衷袋被裁裂装裏裕補裸製複褐褒襟襲西要覆覇見 規視覚覧親観角解触言訂計討訓託記訟訪設許訳訴診証詐詔評詞詠試詩詰話該詳誇誉誌認誓 誕誘語誠誤説読課調談請論諭諮諸諾謀謁謄謙講謝謡謹識譜警議譲護谷豆豊豚象豪貝貞負財 貢貧貨販貫責貯貴買貸費貿賀賃賄資賊賓賛賜賞賠賢賦質購贈赤赦走赴起超越趣足距跡路跳 践踊踏躍身車軌軍軒軟転軸軽較載輝輩輪輸轄辛辞辱農辺込迅迎近返迫迭述迷追退送逃逆透 逐逓途通逝速造連逮週進逸遂遅遇遊運遍過道達違遠遣適遭遮遵遷選遺避還邦邪邸郊郎郡部 郭郵郷都酌配酒酔酢酪酬酵酷酸醜醸釈里重野量金針釣鈍鈴鉄鉛鉢鉱銀銃銅銑銘銭鋭鋳鋼錘 錠錬錯録鍛鎖鎮鏡鐘鑑長門閉開閑間関閣閥閲闘防阻附降限陛院陣除陥陪陰陳陵陶陸険陽隅 隆隊階随隔際障隠隣隷隻雄雅集雇雌雑離難雨雪雰雲零雷電需震霊霜霧露青静非面革靴音韻 響頂項順預頑頒領頭頻頼題額顔顕願類顧風飛食飢飯飲飼飽飾養餓館首香馬駄駅駆駐騎騒験 騰驚骨髄高髪鬼魂魅魔魚鮮鯨鳥鳴鶏麗麦麻黄黒黙鼓鼻齢  ※ 人名漢字の一覧は、ここでは示さない。    下記に資料がある。      http://buran.u-gakugei.ac.jp/~kawakami/text/index.html  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  ●  著者名の表示      氏 名  南堂久史      メール  nando@js2.so-net.ne.jp      URL  http://hp.vector.co.jp/authors/VA011700/moji/code00.htm           文字コードをめぐって (文字講堂)