同時期、
当時この「漫画ブリッコ」と併せて美少女漫画誌の二大巨頭と呼ばれた「レモンピープル」(あまとりあ社刊) に、
「魔界に蠢く聖者たち」という蛭児神建氏によるコラムページの連載があり、
ここでも「おたく」と良く似た存在が紹介されている。
ここでは「ゴロ」とか「ピー」とかいう名称で呼ばれているのだが、
その性質は極めて悪質で、
例えば初対面の漫画家の自宅に押寄せ漫画同人誌の原稿依頼をしたり、
会ったこともない漫画家を友人に「知人」として紹介してまわったり、
といったストーカー的な行為が書かれている。
中でも、
漫画家の吾妻ひでお氏につきまとったソレの迷惑さは著しく、
そのお陰で氏は精神的に参ってしまい一時漫画家廃業状態にあったという。
「おたくの研究」で描かれている「おたく」像も正にこういった迷惑な存在で、 そもそも「おたく」というカテゴライズは、 このような迷惑者を蔑む目的で作られたと言って良いだろう。
当時、
有名アニメの最終回や皇族ゴシップに関する都市伝説が流布しており、
口コミによる情報伝達が異常な伝搬力を見せていたという背景がある。
土壌として、
草の根的な普及運動が浸透するだけの材料は整えられていたのが幸いした。
翌 1988 年、
日和見倶楽部は「オタクの考察」と称する小冊子「えいやっ」を発行する。
ここでは「おたく」の普及を最早当たり前の既成事実として捉えることで、
このカテゴライズの普及を決定的なものにしようと画された。
「オタッキー」なる形容詞を創作し、
「○○オタク」といった用法の考案により適用範囲を拡大し、
そして拡大解釈版「おたく」像が完成した。
ここで作られた「おたく」像は、 「迷惑」というキーワードはまだ持っていたものの、 中森明夫氏の解釈と比べるとより前向きな存在で、 少なくとも蔑まれる存在ではなかった。
この辺りから「おたく」の定義がぐらついて来る。
中森明夫氏、
日和見倶楽部、
そしてマスコミと、
それぞれ違った解釈を持った者たちがカテゴライズを行なったため、
この呼称を知った時期の違いにより全く別の解釈を持つことになる。
そして更に第四の解釈が追加される。
「オタキング」こと岡田斗司夫氏による「オタク文化論」の登場である。
氏によれば、
「おたく」とは既に人格や性癖のカテゴライズではなく、
「文化」そのものを指し示す言葉となっている。
この「文化」を紐解くため、
数々の講演や出版を繰返し大学での講義まで行なってしまっている。
歴史的にこれまでとは 180 度異なるアプローチなのである。
「おたく」というカテゴライズから、 最早「迷惑」というキーワードは完全に消え去り、 ともすればサブカルチャーそのものが「おたく」となるのだった。
中森説に準ずるならば、
「おたく」とカテゴライズされる人々はこの「お宅」なる二人称代名詞を好んで使うため、
そこから命名したとされている。
彼らが何故「お宅」と呼び合うかを考えてみると、
そこには前述の中途半端な人間関係、
即ち「お前」「君」ほど親密ではなく「貴方」「貴殿」ほど他人でもない、
そんな「上辺だけの仲間意識」みたいなものが根底に潜んでいる。
「おたくの研究」で「おたく」の換言として用いられている説明に、
「現実意識の不自由な人」というのがある。
世間一般の人間が一個の大人として成熟して社会生活を営むに至るようになる一方で、
彼らはその成長を拒み、
モラトリアム期を謳歌せんと現実逃避しているのである。
正に、
最近開発の進むバーチャル世界を何のハードウェアも介さずに体現している訳で、
その辺り、
現実感覚の乏しさから、
周囲との摩擦やすれ違いを生むのである。
「おたく」とは、 現実感覚の麻痺した未成熟者である。
「おたく」は一見社交性がないと思われがちだが決してそうではない。
飽くまでも特定の社会に対してのみであるが、
その閉じた世界の中では相当の社交性や行動力を持ち、
非常にアクティブに活動を行なう。
人見知りで尻込みするような人間が初対面の漫画家に原稿依頼なんぞする訳がないのだ。
その「未成熟」という性格から興味の対象が非常に限られ、
「迷惑」という体質から社会適応力に劣ってはいるが、
同じく現実逃避に生きている仲間の中にあってはすこぶる自己を発揮する。
その原動力は、
むしろ常人のそれを遥かに上回ることすらあり、
これを商売に結び付けられないかと考えたのが「一億総オタク化計画」なのであった。
人は他人と同じであることに安堵感を覚えることが多く、
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というのは非常にツボを突いた風刺であろう。
「おたく」の存在を一般に認め、
そういった性癖や特質が自分だけでないことを知らしめることにより、
「おたく」であることに自信を持たせれば、
潜在的「おたく」を掘り起こすことが可能なのではないだろうか。
そして、
掘り起こされた「おたく」は市場を形成する規模となり、
優柔不断な一般消費者に比べれば圧倒的に購買力のある上客となり得るのではなかろうか。
「おたく」を拡大解釈し、
僅かでもそういう傾向のある人間は全て「おたく」であるように啓蒙することで、
現実に「おたく」人口は爆発的に増大した。
その数は、
確かに現在は「市場」として十分通用する規模となっている。
「おたく」とは、 自己の興味の対象には決して金に糸目をつけない、 おいしい金づるである。
「一億総オタク化計画」では、
「おたく」の守備範囲は飽くまでも「未成熟」な者の趣向するところ、
即ち子供じみたジャンルに限っていた。
漫画、
アニメ、
特撮ヒーロー等、
どれも子供向けから発展していったサブカルチャーである。
しかし、
商売として考えるならば、
ジャンルの絞り込みは市場の縮小に他ならない。
「おたく」を「文化」として捉え、
メインカルチャーに対するサブカルチャー全般にまで対象を広げるアプローチも、
正にコマーシャリズムに起因している。
「オタク文化論」は、
こうして「おたく」像を 180 度違うものに転身させてしまった。
その一方で、
異端を排除することに正義と快楽を覚えるマスコミにとっては、
この「おたく」像は面白くない。
人は怒りや侮蔑の対象を認識して初めて自己の立場を確立するという一面もあり、
「おたく」という異端なカテゴライズはそのためにも絶妙な標的であるのだ。
そのため、
「おたく」を「文化」とする観点に真っ向から反対し、
本来の「迷惑」を前面に出した持論を展開するマスコミも多い。
ここに対立が生まれ、
両極端な解釈同士がぶつかり合いながら広まっていくこととなる。
しかし、
その実どちらの解釈も拡大解釈であることに変わりは無い。
「おたく」を文化として語るのはコマーシャリズムによるすり替えであり、 「おたく」を異端視し排除せんとするのはジャーナリズムによる独善である。
「おたく」など、
所詮一部のサブカルチャーの末端に巣食う虫に過ぎないし、
そんなものの考察を真面目に考える必要性は全く無い。
「おたく」を文化と見なして研究したとしても、
飯の種にはなるかも知れないが何の勉強にもならないし、
社会的にはむしろ無かったことにしてしまった方が賢明かも知れない。
そんな存在に対し、
正しい解釈だの真相の究明だの言ったところで笑止ものではあるのだが、
まぁ話の種にだけはなるかも知れない。
本文献の位置付けとしてはそんなところが相応であろう。