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[ 豊かな人生のための四つの法則 ]

夢空間への招待状

あなたの子ヤギを守ってほしい
− Password −

結城 浩


初めて鍵を手にした時を、私は決して忘れない。

大学に入学し、そこの寮に入った私は、初めて「自分の部屋の鍵」を手に入れた。 その寮はずいぶん古ぼけていて、ドアの鍵もガタガタになっていたから、 寮生は自分で錠前を買ってきて取り付けなくてはならなかった。 4ケタの番号を合わせるタイプの錠前である。 なんにせよ、それは私が初めて手にした「自分の部屋の鍵」だった。

朝、鍵をかけて部屋を出る。授業に出る。授業が終わり、友達と騒いだ後、私は部屋へもどって来る。 番号を合わせる。ドアが開く。私は部屋へ入る。

当り前のこの手続き、毎日繰り返されるこの手順を、私は不思議な気持ちで思い出す。

「この部屋は、私が鍵をあけるまで、誰も入らなかったんだ」

自分以外に誰も入らない一つの部屋を持っているのはとても愉快なことであった。 たった4ケタの数字が自分の部屋を守っていてくれるのは不思議に楽しい気分であった。

田舎から上京し、初めて東京で一人暮しをはじめた頃の私の初々しい気持ちである。


目の前のコンピュータの画面には、たった一行が表示されている。

 login:

私はキーボードをたたいて自分の名前を入力する。カタカタ。

 login: hyuki

リターンキーを入力すると、新しいプロンプトが表示される。

 Password:

私は自分だけが知っているある文字列を入力する。これがパスワードだ。カタカタ。

 Password:

このキー入力は画面に表示されない。他人に後ろからのぞき込まれても大丈夫なようになっているのだ。

コンピュータによって名前とパスワードの照合が行なわれる。 無事承認されると、私はこのコンピュータを使用する権限を得たことになる。 メッセージとプロンプトが表示される。おや、私あての手紙が来ているらしい。

 Good morning.
 You have new mail.
 %

以上が私の朝の日課である。 仕事を始める前の儀式のようなものだ。 いや、もっと直接的だ。私は「自分の部屋の鍵」をあけているのである。

UNIXマシンはパソコンと違い、誰でも使うわけにはいかない。 システム管理者からユーザ名をもらい、その名前とパスワードを入力して初めて使用することができる。

このパスワードはユーザ一人一人が自分で設定する。 UNIXを使い始めた人がいちばん最初に行なうべき重要な作業である。 いうならば、自分で自分の部屋に錠前を取り付けているようなものだ。

私はもうUNIXを使い出してから何年も経ってしまったから、 パスワードを初めて設定したときの感動をつい忘れてしまいがちだ。 けれど、それは一人暮しを始めたときの感動に似ている。 初めて自分の部屋を持ったときの感動に似ているような気がする。


ドアの向こうにいる生き物がオオカミなのかお母さんヤギなのかを知るために、 7匹の子ヤギはドアの隙間から相手に手の先を入れさせた。

黒い手ならばオオカミ。絶対ドアを開けてはダメ。 白い手ならばお母さんヤギ。お帰りなさいとドアを開けなくちゃ。

パスワードを照合するコンピュータはこの子ヤギたちに似ている。 ドアを開ける前に注意深くドアの向こうの相手がオオカミではないことを確認しなければならないのだ。

何しろパスワードの照合が終わり、コマンドの入力が許されたユーザは、 コンピュータ内のそのユーザのファイルは自由に読んだり、修正したり、削除したりできてしまうのだから。

例えば誰かが私のパスワードを入手して hyuki というユーザ名でログインしたとしよう。 その人間はコンピュータ内の私のファイルを思うままに処理できるのである。 私の書いた原稿のファイルを全部削除することだってできるし、手紙を読むことだってできる。 しかもコンピュータの作業記録には hyuki というユーザ、つまり私本人がそうしたとしか残らないのである。

お母さんヤギだといったん判断してドアを開けてしまった子ヤギは、 オオカミが入ってきたことにあわてふためく。 けれどコンピュータはあわてることさえしない。 いったんドアを開けてしまったらずっとオオカミではないと思っているのである。 悪いオオカミが入ってきたとしても子ヤギは黙って食べられてしまうのだ。


錠前の番号も、UNIXのパスワードも、ほんの数ケタの数字や文字の列でしかない。 錠前の番号なら、目に見える錠前が開いたりするからわかりやすい。 パスワードはコンピュータの上にしかない、いわば仮想的な錠前を開けるものであるから、 比較的わかりにくい。

銀行のキャッシュコーナーが普及したおかげで暗証番号という概念は一般にも広まった。 しかも銀行の暗証番号は直接お金に絡んでいるからその重要性も理解しやすい。

コンピュータのパスワードはどうだろう。 安易に自分のパスワードを他人に教えたり、 ユーザ名と同じパスワードに設定していたり、まったくパスワードをかけていなかったりしないだろうか。

たった4ケタの数字列が自分の部屋を守ってくれる。 4ケタの数字列が自分の預金を守ってくれる。 それと同じようにパスワードはコンピュータ上のあなたのファイルを守っているのだ。 その重要性を理解することがセキュリティの第一歩なのである。


春である。新しい季節である。 家で、学校で、職場で「自分だけの鍵」を手にいれた読者も多いだろう。 現実の部屋の鍵、銀行の暗証番号、そしてコンピュータのパスワード。 どうか自分のかわいい子ヤギたちをオオカミから守ってほしい。

「白い手」というパスワードをオオカミが知らなかったなら、子ヤギたちは食べられずにすんだのだから。

(Oh!PC、1990年4月15日)


[結城浩]

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