わたしたちの家はとても狭い。
パン屋と仕立て屋の裏のわずか五十センチ幅の路地。
それがわたしと妹の家だった。
ごみ捨て場だった。
人通りへと通じている路地の入り口は、ゴミ捨て場所だった。
トイレは仕立て屋のトイレの裏。
近所の家の雨どいから流れ落ちる雨や、キッチンの排水を処理するために地面に穴がうがってあった。下水に通じている。
だからそこで用を足す。
ご飯はゴミからあさった。
パン屋のゴミや、近くのレストランのゴミはご馳走だ。
湯気が立っていることだってある。
ここがわたしたちの家。
たった幅五十センチ、長さ十メートルの家。
そしてわたしは食事とトイレのとき以外は、路地から空を見上げる。
朝はパン屋側から日が昇る。
お昼時に、一瞬だけ日差しがわたしたちの路地へと差し込む。
そのときわたしは目を閉じる。
まぶしいから。
そして、家が汚くなるから……。
お日様は嫌い。
すべてを映し出してしまうから。
わたしの家が路地裏であること。
わたしの家の壁はパン屋が流す排水が滴っていること。
わたしの家の床には穴があいていて、下水に通じていること。
すべてさらけだしてしまう。
だからわたしは目を閉じる。
太陽は鮮明にわたしの家の真実を映し出してしまうから。
わたしの家が汚くなるから。
本当のことなんてどうでもいい。
ある日、妹が外出した。
わたしはもう何年も家を出ていない。
妹は好奇心が旺盛だった。
そしてわたしの目を盗むように時々、家を出て行くのだ。
最近はわたしは何も言わない。
そう、何年も口を開いていない。
しゃべる必要はないから。
その日、妹の帰りは遅かった。
夜まで帰ってこなかった。
そしてようやく帰ってきたと思うと、妹はわたしににっこりと微笑んだ。
いつも着ているぼろきれではなかった。
真っ赤なウールのワンピースを着ていた。
妹はとてもうれしそうな笑顔で、わたしの前でくるりと回った。
赤いワンピースがふわりとゆれた。
そして妹は言った。
親切にしてくれるおじさんに出会ったと。
そのおじさんが、ちゃんとした服くれて、そのおじさんの家に住んでもいいと言っていると。
妹はおおはしゃぎだった。
狭いわたしたちの家の中で、くるくると踊った。
赤いワンピースがゆれる。
とてもかわいい服だった。
そして妹はわたしに向き直ると言った。
いっしょに行こう。
妹は本当に、心底うれしそうだった。
幸せをようやくつかんだ。
妹の笑顔はそう語っていた。
もう、こんな汚い場所にいなくてもいいんだよ。
毎日、素敵な服を着られるんだよ。
おいしくて温かいご飯を食べられるんだよ。
妹がわたしの手を取った。
とても温かかった。
だがわたしの手は、その手を握り返すことすらしなかった。
だらりと垂れたまま微動だとしなかった。
わたしは首を横に振った。
なぜかはわからない。
だけど、わたしは首を横に振ったのだ。
はしゃぐ妹が、一瞬、止まった。
どうして?
そして困惑の表情を浮かべると、妹は言った。
下水から漂う汚物の臭い。
黒いビニール袋の中の食事。
一瞬しか差し込まない日差し。
なにがいいの?
あたしたちはこのままここでおばあちゃんになるの?
ぼろきれを着て。
人の食べたあとのゴミを食べて。
くさい穴ぼこにおしっこやうんちをして。
ずっと日陰にこもって。
そしておばあちゃんになるまで、なにもしゃべらずに生きていくの?
妹はまくし立てた。
妹の胸元のウールのボンボンが、ふわふわゆれる。
行こうよ。
いっしょに毎日おいしいご飯を食べて。
ふかふかのベッドに寝て。
お日様を浴びながら日向ぼっこ。
ここから出れば、そんな生活ができるんだよ?
妹は涙目だった。
声が震えていた。
ふと、妹はこんな声だったっけ、そう思った。
もう、何年も声を聞いていなかったから、無理もない。
どうでもいい。
わたしは無気力だった。
気力なんてものはとうの昔になかった。
だからわたしは妹の手を握り返すこともしなかったし、あまつさえ妹のわたしを見つめるきらきら輝いた真摯な目から目をそらして妹が帰ってくる前のように再びうつむいた。
妹は何も言わずにわたしの手を離した。
そしておもむろに立ち上がった。
いくじなし。
言った。
声が震えていた。
この狭い家と家の隙間の世界がお姉ちゃんのすべてなんだ。
けど、あたしは嫌!!
妹は叫んだ。
汚いところに隠れて暮らして、そのままずっと何もしないまま歳をとっていくのは絶対に嫌!
お姉ちゃんが行かないなら、あたしは一人でも行くから!
行っちゃうから!
一人で!
妹は駆け出した。
路地の出入り口で一瞬、立ち止まった気配がした。
だが、わたしは顔すらも上げることはしなかった。
しばらくすると、そのまま妹は行ってしまった。
一人になった。
妹が去ったときのままの格好で眠った。
朝がやってきた。
朝日が路地に差し込む。
今日の空は曇り。雲が空全体を覆っている。
人がごみを捨てていった。
もう少しで収集車がやってくる。
わたしはおもむろに立ち上がると、ごみをあさった。
先っぽの欠けたエビフライが今朝のご馳走だった。
食事を済ませると、わたしは元の位置に戻った。
空を見上げる。
灰色の空。
びっちりと雲が覆ってる。
何もない空。
ただただ灰色なだけ。
つまらない空。
どうでもいい空。
今日はずっと日が差さないだろう。
どうでもいい。
日が差したってわたしが目を閉じるか閉じないか、それだけの違いだった。
そして夕方が来て、夜になった。
路地から見える表通りはネオンがきらきら輝いていた。
わたしはお腹がすいたので、再び立ち上がると、ごみをあさった。
野菜くずばかりだった。
わたしはとりあえずキャベツの芯をかじる。
そして再び路地の奥へと戻った。
キャベツの芯はとても苦かった。
妹がいたら、きっとわがままなことをのべつまくなしにわめきたてていただろう。
妹……。
家族……。
ずっと一緒だった。
昔はこの路地で、お母さんとお父さんとわたしと妹、四人が暮らしていた。
ごみから魔法のようにご馳走を作り出すお母さん。
どこからともなくご馳走を運んできたお父さん。
死んでしまった。
この路地から見える表通りで、車に轢かれたのだった。
一瞬だった。
車のブレーキ音が木霊した。
妹が絶叫した。
その中でわたしは聞いた。
お父さんとお母さんの最期の言葉。
わたしたちの子に、いつか安らぎが訪れますように。
ガリッ!
わたしは強くキャベツの芯をかじってしまった。
口の中に苦い味が広がった。
安らぎ……。
妹は手にしたのだろうか?
お父さんとお母さんの最期のお願いのとおりに、安らぎを手にしたのだろうか?
ネコの最期のお願いは神様に届くってお父さんが言っていた。
安らぎ……。
わたしは手にしているのだろうか。
何もないわたしの生活。
ご飯を食べるときと、トイレのとき以外は空を見上げるだけの生活。
これが安らぎ。
わたしの安らぎ。
悲しむことも楽しむことも怒ることも焦ることも、何もなく、ただただ時間を送る生活。
心が動くことのない安らぎ。
………。
妹はこの安らぎが嫌だったのだろうか。
お父さんとお母さんのお願いを無視して、この生活を捨ててしまった。
わたしは……。
未来永劫……。
こんな生活を……。
続けて……。
………。
わたしは……。
一生……。
ずっと……。
変わらずに……。
老いて……。
そして……。
そして……。
死んでゆく……。
………。
これが……。
安寧……。
………。
なにがいいの?
妹の言葉が脳裏をよぎった。
なにがいいの?
あたしたちはこのままここでおばあちゃんになるの?
ぼろきれを着て。
人の食べたあとのゴミを食べて。
くさい穴ぼこにおしっこやうんちをして。
ずっと日陰にこもって。
そしておばあちゃんになるまで、なにもしゃべらずに生きていくの?
わからない。
わからない……。
ここにいれば、心が動かずにすむ。
ここにいれば、何もないから、だから悲しみも恐怖も怒りも、そういう汚い心もなくて……。
だから……。
何もない……。
安らぎ……。
………。
君は死んでいるのと同じだ。
わたしは突然の声に目をあけた。
君はもう、心が死んでいる。
路地の入り口に男の人が立っていた。
見たことのない人だった。
かわいそうに……。
男の人が言った。
かわいそう?
……わたしのこと?
安寧の泥沼に足を取られてしまったんだね。
考えることをやめてしまったんだね。
生きることはつらいかい?
つらい?
わたしが?
何もない生活がつらいって?
つらいんだろう?
つらくない。
戦いたくはない?
……戦いって何?
幸せを求めることさ。
幸せ?
安らぎのことだよ。
違う。
違わないよ。
だって、ここにじっとしていれば、心が動くとことはないもの。
そして死んでしまったのだね。
死んだ?
わたしが?
そう、君は死んでしまった。心が。
死んでない。
死んでいる。君はお父さんとお母さんが死んでから、考えるのをやめてしまったから、戦うことをやめてしまったから。
考えるのをやめた?
そう、君は考えない。
妹の気持ちも、自分自身の気持ちも。
わたしの気持ち。
そうだ。君自身の気持ちだ。
それは……ここにいたいだけ。
違う、母親と父親に逢いたいだけだ。
逢いたい?
君は両親の死を、その死を目撃した瞬間からずっと、受け入れていない。
君は、両親を待っているだけだ!
………。
お父さん、お母さん。
わたしは……。
わたしはずっと……。
……もういちどだけ……。
逢いたかった……。
わたしの頬を涙が伝った。
わたしは涙していた。
わたしは泣いていた。
逢いたい。
逢いたい。
逢いたいよ。
お父さん。
お母さん。
なぜ、死んじゃったの。
なぜ、わたしを追いてっちゃったの?
どうして、わたしを連れてってくれなかったの?
どうして……?
………。
立つんだ!
男の人が怒鳴った。
君自身は君だけが幸せにできる。
君しか、君自身を幸せにすることができないんだ。
君が君自身を見捨てたら、だれが君を幸せにするんだ?
男の人はわたしの前まで歩んできた。
ほら、涙を拭くといい。
わたしにハンカチを差し出した。
真っ白いきれいなハンカチだった。
幸せは……立って……そして、自分でつかむものだよ。
わたしは……。
わたしは……。
わたしは……。
わたしは、そっとそのハンカチに手をかけた。
わたしは、再び歩き出す。
お父さんと、お母さんが望んだ、安らぎを手に入れるため。
わたしは、歩こうと思う。
歩いていこうと思う。
君、名前は?
男の人が訊いた。
「あ……つ……うぁ……」
しゃべれないのかい?
わたしは首を横に振る。
声が、何年ぶりかの声が、喉をうまくとおらない。
「あ……うあ……つぁ……」
苦しい。
しゃべることがこんなにつらいことだなんて。
「つぁ……つぉ……」
ぶるぶるとわたしの身体が震える。
つらいよ。
こんなにつらいなんて。
ただしゃべることが、こんなにつらいだなんて。
忘れていた。
わたしはずっと忘れていた。
つらいことからずっと逃げていた。
「うっ……つっ……」
男の人はやさしいとも厳しいとも言える顔でわたしをずっと見ていた。
涙が頬を伝わる。
しゃべることすらも、わたしはできないなんて。
「うぁ……ううう……」
涙があふれる。
わたしは……。
わたしは……。
もう……。
死んでいるのは、嫌……。
………。
がんばる……。
がんばれ!!!
「……つ……つみれ……」
ようやく、わたしは声を絞り出すことができた。
男の人がわたしをぎゅっと抱きしめた。
とても……温かかった……。