Match Maker(MM)の歴史(コンプティークBBS限定)



1988/08?? メディアミックス雑誌COMPTIQ7月号に連動して、「角川コンプティークネット」というBBSが開設される(from WIKI)

メモ書き:BBSというのに興味があって、見たくて見たくてしょうがなくて、というところで友達のカプラ貸したげるよの一声に飛びついて、当時はカプラでROMってた気がする。カプラ…知ってる? 音響カプラというそうですが昔懐かしい形状の電話の受話器をがぽっとはめてピロピロする古典的な通信装置の一種(確か300bps笑)。知らないよね。電話代がすごいことになって真っ青になって、でもモデムが高くてすぐには買えず、でもそんだけ電話代払うなら、その分だけで買えるじゃんという位の電話代だったので、お金ためてモデムを買いましたが・・・(でもこの頃のモデムでも。300/1200/2400bpsだった気が・・・今とは雲泥の差ですね、逆に低速で効果的な通信ということでテキストベースのBBSという独自文化が育っていったのかもしれませんが・・・画像なんか送れませんよ、BINARYデータ送るのに。ISHというテキストコード変換ツールかけて、BBSに書き込んだりメールの本文につけて送ってましたね。

1988/10/01 コンプティークBBSに「ロボクラッシュ&トップをねらえ!」というボードができる。
1989/01/01 (A)さんがボードで行うゲーム企画を提案。
1989/01/08 (B)さんからフルオリジナルで作ってはどうかという意見がでる。
1989/01/08 砂美様が、じぶんとこのネット用に開発してたものだが、1対1のさいころでできる超簡易システムのイメージがありますと書き込む。
1989/01/12 砂美様が、ネット用GAMEルール草案提示
1989/07/23 砂美様より、KM.COM(Knight Maker:参加者が機体データを作るためのプログラム)が参加者向けに開示。マッチメーカー(大会を主催する興行者)立候補者にMM.BAS(Match Maker:機体データを読み込ませて戦闘処理を行うプログラム)を送付。(BAS(BASICソース)の実行はPC98用Microsoft製QUICK-BASIC)
1989/07/25 (C)さんより、公式に大会告知、参加者募集開始
1989/07/26 MM.COMが一般に開示。
1989/08/05 第一回大会(トーナメント形式)のトーナメント表公開
1989/08/08 記念すべき第一回大会第一試合開催
メモ書き:最初の試合結果書き込みから、単なる結果テキストだけではなく、解説者コメントなど、修飾して書き込まれてますね。

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メモ書き:その後約9年間に渡り、マッチメーカー達の創意による各種形式の試合や大会(トーナメント戦や首試合と呼ばれる1vs1の試合など)が開催される。

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1998/06/30 コンプティークBBS閉局のお知らせが書き込まれる。
1998/09/30 24:00をもって、コンプティークBBSが閉局
1998/10/23 MM46用 女性アナ メッセージ 1.21をVECTORで公開
1998/11/01 このホームページの公開開始。

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2017/02/01 Match Maker(MM)の歴史(コンプティークBBS限定)(このページ)公開。


※お断り:さすがに怒られないとは思いましたが、誰がという部分は意図的に書き込んでいません(公的に作者であることがオープンになっている砂美様は除く)。本当は誰がどう発言したのでこうなった的ななものまで書くと、より歴史っぽいのですが、ご勘弁を。
※お断り2:一応ある程度確認はしていますが、記憶に頼っている部分もあるので、ひょっとしたら間違いがあるかもしれません、つーかMMが始まったのは、もうほとんど30年前の話なのか…絶句…というかこのホームページすらほぼ20年前からずっと古臭い感じのページで維持されてる!!
※お断り3:これはコンプティークBBSにおける歴史です、MMはNIFTYなど各BBSで開催され、いろいろな歴史が作られてきましたが、あいにくと私はコンプティークBBSでしか活動していなかったので、他BBSの情報は有しておりません、あしからず。ただ最初はコンプティークBBSであったのは間違いないでしょう、ね、砂美さん?


またANAメッセージの登録公開およびホームページ開設することになったきっかけは、オフ会の席で砂美様から、VECTORにデータ登録すれば無料でホームページ作れるよ(当時は・・・ちなみに2016/12/01以降は新規受付はしなくなったそうです)、と言われ、じゃあ、ということで作成した覚えがあります。時期的にはCOMP閉局が決まった後ですからその後の情報提供の場を複数にするという意味もあったかと思いますが、さすがに当時何を考えていたかは覚えてないや。ただまさかこんな、今や記念碑的な場所になってしまったここがずっと同じURLであり続けられることはVECTORさまに感謝です。