引用各種   
(大工事中!!!)    


 他のページで概略程度に引用している有名な方々の主張を更に詳しく掲載します。 特にジェームス・トレフィルの“地球温暖化問題”。カール・セーガンの“ガレージの竜”のくだりは、「科学者の思考様式」が実に解かり易く、勉強になります。 コム対のスタンスそのものと言っても過言ではありません。  ☆“注目!”です。 (頭の良い人は、この二つを読んだだけでもコム対を理解できてしまうような気もします。)  繰り返しますが、何か目新しい主張に出遭ったときには、必ず“異論、反論本”を一冊でも探して下さい。 KOMMがあなたを誘っています。  あ、追伸ですが、“悪い例”も“引用”という意味でここに掲載していく方針になりました。(“悪い例”は特に明示しないつもりです。練習用!)

 ※ 文中の紺字はコム対のコメントです。 また、どれもとても良い著作なので、是非とも購入し、ご自分の目で確かめてみることをお勧めします。




◆◇◆ 「確証バイアス」 菊地 聡 ◆◇◆

 (問題2) 正の3つの整数でできてた数列2、4,6、があります。このような数列を仮に「三つ組数」と呼びます。 この三つ組数は、数字の並びに関するあるルールに従って作られています。あなたは、できるだけ早くそのルールを見つけ出してください。 そのためにあなたは、正の整数三つからなる三つ組数を自由に作り、それがルールに従っているかどうか、出題者に質問することができます。質問した三つ組数がルール通りなら「イエス」、ルールに合っていなければ「ノー」と答えが返ってきます。 あなたは、このイエス・ノーを手懸りにルールを推定していきます。 2,4,6、はこのルールにあっています(イエスです)。 あなたは次にどんな三つ組数を作って質問しますか?
 ...どんな三つ組数を試してみましたか? おそらく殆どの人は6,8,10とか、8,10,12、あるいは10,12,14といった数列で質問したのではないでしょうか? 答えは「イエス」です。ルールに合っています。 ちなみにその場合、あなたが考えたルールは何でしょう。「増加する偶数列」ですか、それとも「等間隔で増加する数列」でしょうか? 後者を考えたのなら1、3、5や10、20、30、あるいは3,5,7と質問しているかもしれません。 いずれにせよ、ここであげたいずれの三つ組数に対しても答えは「イエス」です。あなたも身近な人で試してみてください。殆どの人がこのいずれかのタイプの数列を挙げるはずです。 さて問題はその次です。
 こうした三つ組数はいずれも問題のルールにあっていますが、肝心の、あなたの考えたルールは正解かというと「増加する偶数列」でも「等間隔で増加する数列」でもありません。正解のルールはもっと単純で、単に「増えていく数列」なのです。 この問題はロンドン大学の認知心理学者のウェイソンが思考の研究のために用いたもので、この問題に取り組んだ殆どの人が、少なくとも一回は間違えたルールを答えてしまったと報告しています。 しかし、この問題が心理学的に興味深いのは、答えが間違えてしまうからではありません。ルールを推論しようとするとき「どんな質問を考えたか(どんな数列を試してみたか)」というところに、人の思考の傾向がよく表れているからです。 殆どの人は、まず自分なりにルールを考え(仮説を立て)て、それを検証するために質問します。この仮説検証のパターンには「自分の仮説が合っていればこうなるはずだ」というように、仮説に合っている事例(正事例)を質問して仮説を確認しようとする傾向が強く出ます。逆に、仮説が正しければこうはならない事例(反証例)を出して確かめようとする人は殆どいません。このためにたいていの人は最初に誤ったルールを答えてしまうのです。 具体的に言えば、「増えていく偶数」という仮説を持った人は、そのような数列、例えば8,10,12を試して仮説を確認しようとしたでしょう。また「等間隔に増加する数」と考えた人は8,10,12や1,3,5、あるいは10,20,30といった数列を出した思います。つまり自分の仮説に一致する証拠を試してみて仮説の正しさを確認しようとしたはずです。 これに対して、自分の仮説を否定する数列、すなわち等間隔ではない数列や、減少する数列を挙げた人はごく少ないはずです。 この問題では、自分の仮説に否定的な質問ができないということが最大のポイントです。     (講談社「超常現象をなぜ信じるのか」より)

 ...菊地先生の著書には、以上のほかにも、私たちにとって勉強になる内容が満載です。
いつか先生の許可を得て、一つ一つ紹介できれば、などと考えています。

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◆◇◆ 「偶然の一致」 菊地 聡 ◆◇◆

 カリフ才ルニア大学の物理学者ルイス・アルバレスは、一九六五年の五月一六日に不思議な体験をしました。この日、彼はエジプト考古学関連の新間記事を読んでいました。そこに出てくる考古学者と同じ名前であることから、学生時代に知っていたカールトン・クーンというバンドマンのことをふと思い出しました。ざらに、そのバンドマンの相棒だったジョ−・サンダースのことも三十年ぶりに思い出し、なつかしい学生時代に思いをはせました。その直後、新間のぺ−ジをめくった彼は愕然としました。まさにそのサンダース本人の死亡記事が載っていたのです。このできごとはシンクロニシティとも、テレパシーとも、心霊体験とも解釈することができます。しかしアルバレスは冷静に、偶然でこのような体験がどのくらい起こるのかを考えてみることにしました。
 そのために、まずふつうの人には三十年間で何人くらいの知り合いがいるのか、という推定からはじめて、数多くの要素の計算をしなくてはなりません。アルバレスはこれらをかなり控えめに見積もって最終的な推定値を出しました。彼によると、ある特定の人のことを考えた五分以内にその人が死亡したことを初めて知る、ということが一年間に起こる確率は、わずか十万分の三にしかすぎません。あなたが十万年生きていたとしても、三回くらいしか出くわさないほどにまれなできごとです。
 先にも指摘したとおり、このようにほとんどありえないことが起こったとすれば、それは偶然ではなく、別の要因が働いていると考えること自体には問題はありません。しかし、この確率がごく低いこととは別に、もう一つ考慮しなければならない点があります。たしかに、あなたが一年間にそんな体験をする確率はわずか十万分の三にしか過ぎません。しかし、日本の人口を考えれば、毎年三千件以上もこんなできごとがおこっていることになるのです。その偶然が的中した人にとっては、それは不思議現象と解釈され、さまざまな形で人々の間で話題になったり、マスコミで取り上げられることになるでしょう。
 このような偶然が起こる確率はたしかに低いのですが、実際にそれがどれくらい観察されるかは、その集団の大きさによって異なってくるのです。私たちは偶然の一致の確率がとても低いことには気がついても、その確率を適用できる人々が自分以外にも膨大な数にのぼり、実際には数多く観察されることには気がつきにくいのです。     (講談社「超常現象をなぜ信じるのか」より)

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◆◇◆ 「偽のトラウマ」 菊地 聡 ◆◇◆

 超常現象よりも深刻な間題として、現在欧米で社会問題となっている「幼児期の性的虐待の記憶の回復」があります。これは「偽記憶症候群」とも呼ばれ、典型的なケースでは、催眠や誘導イメージ法などの暗示性の強い心理療法を受けた相談者が、幼児期に家族から性的な虐待を受けていたことを思い出し、その結果、父親を裁判に訴えるなどして家族関係を崩壊させてしまうものです。 アメリカではこうした「回復された記憶」をもとに訴訟の対象になった人を救済する組織もあり、九二年からの二年間だけで一万三○○○件もの相談が寄せられているそうです。
 幼児期に精神的な外傷(トラウマ)をうけ、その記憶が後に心理療法によって回復した場合、その記憶は本当に信用できるのでしょうか? そうした虐待事件には、当人の証言以外に証拠がない場合が多く、人権に配慮した慎重な扱いが必要なことは言うまでもありません。それでもなお、実在しない事件の記憶が、なんらかの誘導によって思い出されることも、また事実なのです。現状では、心理療法で回復された記憶が偽りの記憶なのか真実の記憶なのか、区別することは非常にむずかしいのです。 手がかりになりそうなのは、その記憶を回復させた心理療法がどのようなもので、偽りの記憶を生み出す要因はなかったかどうかを考えることでしょう。 とくにフロイト派をはじめとする深層心理を重視する学派は、現在の心理的な間題の原因を幼少期のトラウマに求める理論体系をもっています。そうした理論体系にそって治療を進める場合は、とくに偽りの記憶の間題が発生しやすいことに注意すべきです。
 また、性的虐待の記憶について研究している聖心女子大の高橋雅延助教授は、偽りの記憶を生みやすい心理療法の問題点として、催眠による暗示の他に次の二つを挙げています。 一つは、心理療法の場では、自分の心に浮かんだものであれば、どんな些細な思いつきやイメージでも、それを重要視する点です。心埋療法では、客観的な事実より相談者本人のイメージを大切にする志向が強く、このため事実とイメージの混乱が生じやすくなります。また、こうした場合にも、そのイメージが偽りであるという可能性ははとんど追究されません。 もう1つは、心理療法は一回かぎりでは終わらず、長期間継続して何度も行われる点です。記憶の再生に時間をかけると、想起量が増えるのと同時に偽りの記憶の量も増大してしまいます。 さらに、たとえ実在しないできごとでも、何度もその情報に触れているうちに親近性が高まって、それが子ども時代の記憶に結びついてしまう可能性があることは、ロフタスも指摘しているところです。      (講談社「超常現象をなぜ信じるのか」より)

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◆◇◆ 「気候は本当に温暖化しているのだろうか?」 ジェームス・トレフィル ◆◇◆

 私達は「地球の温暖化」ということを、既に確定した事実のように語ることが多い。しかし、私達の持っているデータから判断する限り、温暖化が普通の気候変動の範囲を超えているとは断言できないという、批判的な意見も多い。私自身も、この問題に対していささか懐疑的である。むしろ反対であると言っても良い。従ってここでは、私の語り方も辛口になってしまうことを承知していただきたい。
 ...報道の偏りと、専門的異論。

 地球の気候や平均気温について、まず第一に念頭に置かなければならないことは、それが常に変動するものであるということである。数百年ないし数千年にわたっての数度程度の変化は、ごく普通のことであった。第二に、人間は長いあいだ温度計を持っていなかったということがある。最初の温度計が作られたのは1602年のことであり、水銀温度計が一般に使われるようになったのは1670年以降のことであった。
 ...専門的、批判的評価。

 このことからわかることは、地球の気候変動について調べたいと考えている科学者にとって最も難しい問題の一つは、温度測定の長期記録が無いということである。非常に長い期間にわたる温度の記録が無いので、温暖化とか、寒冷化というときに、比較対象とすべきベースラインをとることが非常に難しいのである。
 例えば、北米大陸で最も良い温度記録の一つは、ヴァージニア州の中心部にあるトーマス・ジェファーソンの自宅で行われた温度測定である。その記録は1800年代初頭にまで遡ることができる。また、ヨーロッパでも幾つかの都市で300年前にまで遡ることができる記録がある。
 それを超える過去の温度記録については、科学者たちは、様々な手段を用いて温度の近似値を求めることになる。例えば、中世フランスにおけるブドウの収穫高を調べることによって夏の気温と雨量を推定したり、スイスの土地の利用状況から氷河の消長を跡付けたり、アイスランドの氷山を観測することによって北半球における気候変動を評価したりしてきた。
 ...報道されにくい科学的成果の紹介。

 温度計の登場は勿論役に立ったが、それによる問題というものも発生してきた。その一つは、どんなところの温度を測れば良いかという問題である。気温は、地球上の限られた場所だけで測られている。また、水温は普通大洋の海面で測られるが、今では人工衛星を使えば簡単にそれを測れるようになっている。しかし、いずれの温度測定においても、その変化の原因を説明することはなかなか難しい。
 例えば、空港は普通田園地域の土地をコンクリートで覆う形で造られている。そして、空港が建設された20年後に気温の上昇が見られたとしたら、それは気候の一般的な変化を示したものだろうか? それとも、舗装してしまったための局所的な効果として説明すべきなのだろうか?
 同じように、海面の温度測定にも問題がある。昔は海面の水温を測定するのに、船の縁から汲み上げたバケツの水の温度を測っていた。しかし1946年からは、船の機関室に取り込まれた水の温度を測るようになった。1946年度以降水温が上昇したとすると、あなたはこれが気候のせいだと判断するだろうか? それとも機関室の温かい環境のためだと考えるだろうか?
 ここ数年、この種の議論が非常に盛んになってきた。というのは、地球全体の温暖化の問題が、学会での議論から大衆の論争へと移っていったからである。実際、大衆の論争では、本来は異なる二つの問題がしばしば混同されている。1実際に地球全体の温暖化を観測事実から実証できるのか? 2温暖化は人間の活動のせいだろうか?
 ...根拠の弱点の指摘。

 最も良い温度記録として、過去140年間の海水面における水温のデータがあるが、それによれば、0.5度から少し欠けるくらいの温度変化が起こっていることがわかる。一つは1920年、もう一つは1977年である。これらの中間の時期には海水温はほぼ一定であったし、1940年に始まる10年間は、実際のところ温度は下がっている。
 この二つの時期のうち最初のものは、大気中の二酸化炭素の増加による温室効果が起こって地球温暖化が見られたとは考えられない時期である。また、二つめの時期は、運の悪いことに、衛星による温度測定が始まる直前にあたっている。
 衛星による温度記録が始まった1979年以来、目立った地球規模の温暖化は無い。コンピュータモデルによれば、10年で0.25度くらいの速度で温暖化が起こるという予測があったにもかかわらず、殆どその兆候は無いのである。実際のデータは、ほんの少し寒冷化を示しているくらいである。
 ...反する研究成果。

 しかし、気候に対する人間の活動の影響をはっきりさせる必要があり、気候変動に対するアメリカ政府の委員会は、1996年に新しい方針を打ち出した。地球全体の温暖化だけに注目するのではなく、温度変化のパターンや、世界の様々な地域における温度変化・寒冷化のパターンの関係などを明らかにすることが、問題をハッキリさせるためには必要であるという判断を下した。
 ...現状。

 勿論最も大きな疑問は、次に何が始まるかということである。1996年から2000年までのあいだに、もし地球規模の気温変動が普通の揺らぎの範囲におさまっているとすれば、私達のコンピュータモデルの信憑性を疑ってかからねばならない。これにたいして、もし急速な温度の上昇が見られたとすれば、私のような懐疑主義者でも、地球規模の温暖化の問題をもっと真剣に考えなければならなくなるだろう。  (講談社「科学101の未解決問題」より)

 ...勿論、コム対は“温暖化の正否”を紹介しているわけではありません。 全体を通して、科学的な思考、科学者の目というものを読み取ってください。 根拠の確度は? 論理構築に錯誤はないか? ます懐疑的に事にあたる!

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◆◇◆ 「マルサスは正しかったのだろうか?」 ジェームス・トレフィル  ◆◇◆

 イギリスの経済学者トーマス・マルサス(1766〜1834)は、近代政治経済学の創始者として有名である。しかし私達が記憶しているのは、むしろ、マルサス・ジレンマという憂鬱になるような問題の予言者としてである。以下は、彼の「人口論」から、問題の部分を抜粋したものである。
 「人口は統制しなければ幾何級数的に増大する。それに対して、生存に必要な物資は直線的な伸びを示すだけである。後者と比べて前者がいかに巨大な数字になるかは、少し考えてみるだけでも解かるだろう。」
 現代的な解釈では、マルサス・ジレンマというのは次のようになる。
 「人口は幾何級数的に増える傾向があるが、生態系において、利用できる資源には限界がある。だから人口は資源の限界を超え。その結果飢餓が広がってしまうだろう。」
 ...問題の提示。

 マルサスの時代から、彼の主張に対しては、二つの反応があった。一つは、技術的楽観主義者からの反応で、人口が増えたとしてもそれを支えるだけの科学技術が発展し、次第に利用できる資源を増やしていくはずだと言う主張である。
 もう一つは、マルサス的悲観主義者の主張で、彼らは飢餓を差し迫ったものと捉えている。1968年度版の「人口爆発」という本で、生態学者のポール・エーリックは、以下のように述べている。
 「人類の食物闘争の時代は終わった。1970年代、世界規模で食物が欠乏する。現在、緊急対策計画が作成されている最中であるが、それにも関わらず、何億もの人が飢えに直面するだろう。時既に遅く、死亡率の大幅な増加は避けられない。」
 1970年代と1980年代に、局地的には飢餓が発生した。しかし、それらは、マルサスが述べるような人口に対する資源の限界によって起こったというよりは、むしろ、食料が政治的な武器として用いられたためであった。その良い例が、エチオピアのマルクス主義的独裁者が作為的に行なった政策である。
 一般的に見ると、1970年代には、科学技術の積極的な導入により、世界の食料清算高は飛躍的に伸びた。そのことから、1970年代には「緑の革命」と呼ばれるようになるだろう。実際、1965年から1990年にかけて、世界平均で一日一人あたりの平均カロリー摂取量は21%増加した。つまり、人口増加を上回る食料増産があり、1エーカーあたりの小麦生産高は2倍となり、米の生産高は52%も増加した。技術的楽観主義者に軍配が上がったのである。
 ...相反する議論の顛末。

 しかし、次の世紀はどうであろうか。このままいけば、2050年ごろには人口は80億にも達するが、この大きな人口を飢えから守る事は可能だろうか。現在、これが議論の中心問題となっている。
 悲観的なマルサス主義者たちの主張は、今は少しだけ現代風になってきており、最近は、土壌や栽培地の環境破壊によって過去数十年のような食料生産量は阻害されるだろうという論調になっている。とりわけ第三世界では、良質の土壌は既に耕され、今も開拓の勢いは衰えず、未開地の大方を破壊してしまいそうであると彼らは訴えている。1990年度版「人口爆発」で、ポール・エーリックとアン・エーリックは以下のように述べている。
 「人口がこのまま増え続ければ、大飢餓は避けられない。人類が行動を起こさなければ、自然が人類にかわって人口爆発を止めてくれるだろう。」
 これに対して、楽観主義者たちは、農業システムは限界に近づいてはいないと反駁している。彼らは詳細な研究をもとに、灌漑を利用すると、耕作面積を現在の4倍にも拡大する事ができるし、品種改良により生産高を増大できるということを示唆している。例えば、実際の世界の米生産高は理論的限界の僅か20%にすぎない。楽観主義者は、普段無視されている廃棄食糧の問題を解決することも重要な課題であるということを指摘している。また、現在の穀物価格の世界的下落は、必要以上の食料の生産が原因だとも述べている。
 温室効果は、現在問題になってきている地球規模の環境問題の一つであるが、おかしなことに、このことが食料生産には良い効果を及ぼす可能性がある。気候モデルに従って予測をやってみると、地球温暖化にともない世界的な降雨量が増える。この効果による淡水量の増加と、大気中の二酸化炭素の濃度の増加自体が相まって、植物の成長が飛躍的に伸びるはずである。
 それに加えて、温暖化によって温帯地域の夜間の温度が僅かに上昇すると、次世紀を通して緯度の高い地域での栽培期間が延長される。そうすると、カナダやロシアで農業のために大きな土地が開拓することができると考えられる。
 ...冷静な立場からの、異論の提示。

 この議論は勿論当分続いていくだろうが、今回もまた、技術的楽観主義者に軍配が上がりそうである。
 食糧問題が解決したところで、ようやく本来の問題に立ち戻ることができる。私達は本当に80億もの人々と共存することを望んでいるのだろうか?  (講談社「科学101の未解決問題」より)

 ...上記の“温暖化”と同様に、勿論、コム対は“食糧問題の正否”を紹介しているわけではありません。 ここでも、科学者としての“客観的観測に基づいた主張の展開”というものを読み取ってください。 反論はないのか? 別の見方は有り得ないのか? 多角的な分析が真実に近づく最良の手段です。

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◆◇◆ 「ガレージの竜」 カール・セーガン  ◆◇◆

 「うちのガレージには火を吐く竜がいるんだ。」
 私が大真面目にこう言ったとしよう。勿論あなたは自分の目で確かめたいと思うはずだ。竜の話は無数にあったが、証拠と言えるようなものは何一つない。願ってもない機会ではないか!
 「見せてもらおうじゃないか。」とあなたは言う。私はあなたをガレージに案内する。中を覗くと、梯子と、空っぽになったペンキの缶と、古い三輪車がある − だが竜はいない。
 「竜は何処だい?」あなたは尋ねる。
 「ここにいるよ。」曖昧に腕を広げながら私は言う。
 「言い忘れたんだが、うちの竜は目に見えないんだ。」そこであなたはこんな提案をする。ガレージの床に小麦粉を撒いて、竜の足跡を取ろうじゃないか。
 「それは良いアイデアだ。」と私。「だが、うちの竜は宙に浮いてるんでね。」
 それじゃあ、赤外線探知機で目に見えない炎をとらえよう、と、あなたは言う。
 「それも良いアイデアだが、目に見えない炎は熱くないんだ。」
 スプレー式の絵の具を吹きかけて、目に見えるようにしてはどうか、とあなた。
 「あいにくうちの竜は物質でできていないから、絵の具がつかないんだよ。」
 こうして、ああ言えばこう言うという具合に、私はあなたの提案する物理的検証方法を次々に無効にしていく。
 さて、目に見えず、物質でできておらず、宙に浮いた、熱くない炎を吐く竜がいるというのと、そもそも竜がいないのとは、いったい何処が違うのだろうか? 私の主張を論破するすべがなく、反証を挙げるような実験を考えつかないなら、竜は存在するという主張にはどんな意味があるのだろうか? 私の主張を論破できないのからといって、その正しさが証明された事にはならない。 この二つはまったく別の事なのだ。 検証できない主張、証明しようのない主張は、例えそれがどんなに我々の心を躍らせ、不思議を思う気持ちをかきたてたとしても、真実としての価値は無いのである。 私があなたに求めているのは、証拠はないが信じてくれ、という事なのだ。
 ガレージに竜がいると私が言い張った時、そこからわかる事が一つだけある。それは、私の頭の中で何かおかしな事が起こっているということだ。 物理的な検証は何一つできないというのに、なぜ私はそんな事を信じているのだろう。 夢か幻覚を見たのだろうか? しかし夢や幻覚ならば、これほど真剣になるだろうか? 私は医者にかかったほうが良いのかもしれない。少なくとも私は、人間の誤りやすさを、あまりにも小さく見積もっているのではないだろうか?  (新潮社「カール・セーガン科学と悪霊を語る」より)

 ...説明は要りませんネ。 有名なカール・セーガン博士の最後の出版です。 驚いた事に、宇宙人襲来などの超常現象的な事を信じるという人の割合が最も高いのは、科学立国アメリカだという調査があります。無責任な商業主義による報道、出版の弊害が大きなウェイトを占めていることは間違いないところでしょう。 こういった風潮に対する危機感が、博士の晩年の活動の理由だそうです。 甲斐あってか、反カルト的運動が最も盛んなのもアメリカです。 不思議な事を信じる人口(?)が2番目の我が日本は、この世紀末をどのように乗り切っていくのでしょうか? 日本は欧米諸国に比べて、議論の機会が本当に少ないですから...(これは賭けてもいい! コム対)

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◆◇◆ 「最強のディベート術」 著者は偉い方です  ◆◇◆

第4章-ディベート論争に勝つ技術 2-論点のすり替えを見破れ
事例研究(論題)「酒鬼薔薇聖斗を厳罰に処すべし」
正義派評論家 「酒鬼薔薇聖斗は二人の少年少女を殺し、三人を負傷させた凶悪な殺人鬼である。ゆえに、実名も写真も公開すべし。そして裁判においては重い懲役を科すべし。」
人権派弁護士 「とんでもない。彼は14歳の少年だ。ゆえに、少年法で人権は守られる。」
正義派評論家 「14歳の少年である前に、彼は凶悪な殺人犯であることを忘れては困る。」
人権派弁護士 「少年は少年法で守られるべきだ。」
正義派評論家 「少年法に論点をすり替えるな。14歳の判断能力のある人間が殺人を犯したのである。その罪を問うことが論点である。少年法を持ち出すのは論点のすり替えである。そんな世界的に見ても甘すぎる不備な法律は直ちに改正して、低年齢の凶悪犯に対処しないと、第二、第三の酒鬼薔薇聖斗事件が起きる。何よりも殺された人間の生命は回復しようがないではないか。少年法をもとに酒鬼薔薇聖斗を弁護するのは、本末転倒も甚だしい。君達は法匪だ、法律の奴隷だ。結果的に、殺人を擁護するといった人間にあるまじき行為を犯している。」   (ビジネスマンを対象とした、ある有名な出版社です)

 ...前置きも無く、驚いた事でしょう。 コム対も驚いています。 言うまでも無く、“論点のすり替えを見破れ”という表題から、この著者は“正義派評論家”の立場をとっています。「もともと“ディベート”という立場なのだから(賛成だろうと、反対だろうと、議論に勝つ練習)、問題ないだろう。」と理解されるかもしれませんが、著作内容全体から、決してそのような事ではありません。著者はあくまでも“正義派評論家”の立場です。というよりは、むしろ、そういった思想を持っています。是非ご自分で購入して確認してみてください。 本屋さんでは、立派な“ビジネス”という分類で扱われています。
 多くを語ることは避けさせてください。(ハッキリ言って怖いです。(^_^;)) ...という事で、この件は“皆さんへの宿題”ということで...。 m(_ _)m   まあ、冗談抜きで“良いテーマ”だと思います。色々な視点から、「どのように考えるべきか?」を考えておいてください。死刑の是非、教育問題、心理学的見地などにまで問題が波及していますネ。 (ヒントですが、)ただ言えることは、社会的議論にも関わらず未だに論争が続いているという意味で、「我々の知識レベルでは、“断ずる”とコムになる。」という事でしょう。 (論点がすり替わってるかなぁ...?)

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◆◇◆ 感謝の手紙を全国からいただいております  ◆◇◆

子宮筋腫などで20日間入院していたとき ... ○分子構造水
 アンケート結果と化粧水をお送り頂きありがとうございました。化粧水は製品化されましたこと、お喜び申し上げます。 とてもしっとり肌になじみはだが元気になって行くように気がいたします。1ヶ月以内に使い切るようご指示がありますので母とせっせと使っております。
 それ以外に報告することがあります。子宮筋腫などで20日間入院していたとき、食事以外の水分を○分子構造水に限って1日2リットル飲んでいました。プルーンも食べていましたが,とても便通が良くなり、便そのものも良くなった様に感じました。そしてなによりオナラがぜんぜん臭わなくなったのです。とても不思議でした。過ぎてしまったことですが、とても助けられました。感謝しております。

★ 感謝のお言葉ありがたく頂戴致します。皆様がいつまでも健康に過ごせますようにスタッフ一同頑張ります。

 ...“千葉県柏市34才女性”だそうです。 ...コメントはいりませんネ。 もう寝なくちゃ...  

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 ....つづく (作成中! 早く充実させます。スイマセン。)



 
※ やっぱり科学って凄い! 人間って素晴らしい!  
 ...ロボットにゃできないでしょ。  
“ Mr.Robot ”  BGM by Styx  
 
     

 

右脳ブーム
 「右脳を鍛えると超能力が身につく」。時折見かけるこのような主張をそのまま信じる人はほとんどいないでしょう。しかし、右脳を鍛えると創造性が高くなる、スポーツが上達する、子どものバランスのとれた発達によい、などと言われるとどうでしょうか。そこに左脳と右脳の働きを示す模式図でもあれば、いかにも科学的根拠がありそうで、つい納得してしまうかもしれません。このような左脳と右脳の働きの違いを根拠としたさまざまな主張は、超能力、宗教、気といった不思議現象がらみの分野から、経営管理、教育、芸術、スポーツ、性格判断などの多くの分野にわたってみられ、いわゆる右脳ブームをつくり上げています。
 先日筆者の家に届いた某音楽教室のチラシにも、左脳と右脳の模式図があり、幼児期・児童期の発達には「知的なものと情緒的なもの」のバランスが最も大切であると書かれていました。その模式図によると、右脳は音楽脳、左脳は言語脳であって、右脳は創造牲、イメージ、美的感覚、倫理性、一方左脳は論理性、理性、記号的思考に関係するのだそうです。左脳と右脳の間に働きの違いのあることは、もはや常識として目常生活に根づいたかのように感じられます。この模式図に対しても、「ああ、聞いたことがある」というのがおおかたの反応ではないでしょうか。左右の脳の働きに間する研究が盛んに行われた北米でも右脳ブームはすさまじい勢いで広がり続けているそうです。しかしこの「常識」はいったいどこまで信じられるのでしょうか。

左脳と右脳はどう違う
 確かに大脳は左半球と右半球、いわゆる左脳と右脳からなり、この二つの脳の間にはその働きに一定の相違があります。しかしその相違を全般に特徴づける用語として研究者の間で認められているのは、左半球が言語的、右半球が非言語釣、視空間的というものだけです。表8−2は、左脳と右脳の働きを特徴づける言葉が、科学的な根拠がどの程度あるかによっていくつかのグループに区別できることを示すものです。最上段は科学的な研究成果に基づく最も基本的な特徴づけ、二段めは、左右の脳の働き方の相違に開するモデルとして提起され、現在検討中のものです。そして三段め以降は、いまだ科学的裏づけのない推測、あるいは想像の産物ということになります。右脳ブームの中核にあって、「科学的根拠」を構成しているのは、実にこの種の科学的裏づけのない待徴づけなのです。
 右脳ブームの中で紹介される「科学的事実」も本来の「事実」が大きく歪曲されたものであることがしばしばあります。カナダの心理学者コレンは、科学的事実が次々に歪曲されていく姿を、次のような実例で紹介しています。ことの顛末は、カナダにあるロンドンという町の大学で研究を進めていたキムラが、シンポジウムの席上、ある特殊な方法を用いた実験結果に基づいて、メロディの記憶(再認)は右半球の方が優れているかもしれないと報告したことに始まります。
 キムラの用いた方法は、左右の耳に同時にそれぞれ違う音(言葉やメロディなど)を聞かせて、どちらの耳で聞いた方が成績がよいかを調べるものです。この方法は、現在健常者で左右の脳の働きの相違を研究するための基本的な方法の一つになっており、両耳分離聴法と呼ばれています。左の耳は左の半球よりも右の半球と結ぴつきが強く、右の耳は左の半球との方が結ぴつきが強いので、右耳で聞いた音の方が成績が臭ければ左半球、逆に左耳で聞いた音の方が成績が良ければ右半球の方が、その課題の達成により関係が強いと考えることができます。キムラはこの方法で大学生を被験者として実験を行い、左耳で聞いたメロディの方がよりよく記憶されるという結果を得、この実験結果はその後新聞などで報道されることとなりました。
 その報道によると、キムラは「音楽能力が脳の右側でコントロールされることを発見」、「音楽家は右脳利きであると主張」、「偉大な音楽家に左利きの多い理由を説明」したことになったそうです。音楽の要素の一つにすぎないメロディの記憶が音楽能力に、大学生が音楽家にすりかわったわけです。そして、右手は左半球、左手は右半球の神経支配を受けるというよく知られた事実が取り込まれて、音楽家の利き手までが説明されてしまいました。ロンドンという地名から、最後の記事ではキムラはイギリス人として紹介されたというおまけつきでした。  このような推測や歪曲によって、左右の大脳半球には、実にさまざまな、「わかりやすい」働きが与えられることになりました。図8−5は、右脳ブームの中でよく使用される言葉をコレンがまとめたものです。ここでは推測、歪曲の例として、「言語的」に対する「非言語的、視空間的」という図式からこの図の説明を試みることにします。まず左半球。「言葉は論理的な説明に使われる。論理と言えば数学、そして科学。論理は直線的に進む。左半球は直線的な思考をする」。次に右半球。「非言語的と言えば、芸術、音楽。言葉を使わないときはぼんやりイメージで考える...夢想。言葉、論理を使って細部を切り取るのではなく、あるものをそのまま見る...知覚、全体論的思考。言語、論理、知牲に対する感情、情動。多くの天才は言葉ではなく、イメージによる思考、直感によって偉大な発見をした」。この図からはずれてもう少し先に進むと、「左半球のコミュニケーションの手段は言葉である。では右半球は?言葉によらない伝達・テレパシー。言葉や論理は順序が重要である。左半球は物事を時間の順序に沿って直線的に処理していく。右半球は時間とは関係なく世界を全体的に丸ごと把握する。時間を超えて予知。右半球はもの言わぬ半球。言葉を便わず、意識されない世界、イメージだけの世界、無意識、瞑想、悟り」。
 もちろんこのような推測、歪曲は一例にすぎません。多くの科学的事実や用語がさまざまな形で歪曲の対象となり、推測の道具となっています。表8−3は左右大脳半球の働きの違いを表現するのによく使用される言葉の一覧、そして表8−4は科学的な裏づけをもつデータを簡潔にまとめたものです。両者の間に大きなギャップのあることに気づくでしょう。そして特に右半球の働きの特徴は左半球に比べてあいまいであるため、右脳は想像の産物の宝庫として、あらゆる神秘的な、不思議な現象を説明する万能の「科学的」キーワードとして、容易に利用することができます。このことが右脳ブームを生んだ要因の一つと言えるでしょう。さらに、基本的な特徴づけである「言語的」「非言語的、視空間的」という言葉も、左右の半球の絶対的、あるいは本質的な相違を表現したものではありません。確かに話す、間く、読む、書くという言語活動はいずれも主として左半球で担われています。そのため左半球に病変が生じると失語症と呼ばれる言語の障害がしばしば引き起こされます(図8−6)。失語症が右半球の病変で生じることは希です。しかし右半球にも、レベルは低いものの、言葉を理解する働きがあります。また隠喩やユーモアの理解などのように言語活動の一部にはむしろ右半球の方が重要な役割を果たしていると考えられるものもあります。一方、非言語的・視空間的な働きに関していえば、基本的に両半球で可能であり、非言語的、視空間的な課題の一部においてわずかに右半球の方が優れていることが示されるにすぎません(図8−7)。そして左半球と言語の関係ほどはっきりした、右半球の特徴的な役割はいまだに見いだされていません。つまり左半球は言語的なものだけを処理しているわけでもなく、逆に言語的なものがすべて左半球で担われているわけでもない。同じことが右半球と非言語的、視空間的なものとの間にもいえます。
 このように「言語的」「非言語的、視空間的」という言葉は、左右の脳の働きの特徴をごく大まかに表現したものにすぎず、左右の大脳半球の働きの違いもあくまでも相対的なものにすぎません。この相対的な差を表現するためによく優位という言葉が使われます。この言葉を使えば、左半球は言語機能に関してかなり優位を示し、右半球は非言語的、視空間的能力に関してわずかな優位を示す、というのが左右大脳半球の働きの相違に関する科学的に妥当な理解といえるでしょう。

二つの脳と二つの心
 左脳と右脳の違いを示す図を見ていてよく陥りやすい誤解は、左半球と右半球が別々に、独立して働くかのように思ってしまうことです。実際には、左右の半球の間には、脳梁などの交通繊維を通じて連絡があります。脳梁は最大の交通繊維で、二億から二億五千万の神経繊維によって左右の半球の対称な部位を連絡しています。図8−8は、言葉をしやべっている時の脳の血流量を左右の半球で比べたものです。血流量の違いは脳のどの部位がどの程度活発に働いているかを示しています。言葉をしやべっているので当然左半球の方が活発に働いているのですが、その差は、たとえば左脳=言語脳、右脳=音楽脳と表現されるほどはっきりしたものではないことがわかるでしょう。このように左右の大脳半球は、どのような心理活動を行っていようとも、絶えず緊密な連絡のもと、協調して働いているのです。
 ところでもしこの左右の大脳半球の連絡が断たれたらどのようなことがおこるのでしょうか。重度のてんかんをもつ患者で実際にこのような連絡を断つ手術が過去に行われていたことがあります。脳梁などの交通繊維を切断することで、てんかんが片側の脳からもう一つの脳へと広がるのを防ごうとしたのです。こうして左右の連絡を断たれた脳は分離脳と呼ばれています。この手術を受けた患者の左脳と右脳に、巧妙な方法を使うことで、別々に質間をすることができます。図8‐9のように、視野の中心の一点を注視している時、その点の左半分の視野の情報は、左目でも右目でもまず右半球に伝えられます。逆に右半分の視野の情報は最初に左半球に伝えられます。ふつうはそれから反対側の半球に情報の伝達が行われるのですが、分離脳患者の場合この情報交換は行われません。もちろん目をあちこち自由に動かせば同じ情報が左右の半球に伝わってしまいますので、患者が一点を注視している時に瞬間的に二秒の十分の一程度の間、文字や絵を見せるという手続きをとります。こうしてたとえば図8‐mのように、ある分離脳の患者の左半球にニワトリの爪、右半球に雪景色を見せて、最も関連のある絵を一連のカードの中から選ばせると、左半球の神経支配を受ける右手はニワトリ、右半球の神経支配を受ける左手はスコップを選びました。興味深いのは、その時「あなたは何を見ましたか」と尋ねると、「ぼくは爪をみて、ニワトリをとりあげた。あなたはスコップで、ニワトリ小屋をそうじしないといけないんだ」と答えたことです。言葉をしやべっているのは左半球であり、左半球は、しやべることのできない右半球が何を見たかを知らないため、左手のとった行動の理由を推測して答えたのです。またこの患者にどんな仕事をしたいか尋ねたところ、右半球は自動車レーサー、左半球は製図家と答えたそうです。
 このように左右の半球が別々に、それぞれ異なった情報の処理を行い、好みまで異なるとしたら、私たちの心は実は二つの心、二つの異なる意識からできているのかもしれません。しかしこれはあくまでも推測にすぎません。このような分離脳患者の研究は、左右の脳の働きの違いを説明する時には、ほとんどといってよいほど、しばしば紹介されます。このような「二つの心」の存在を強く印象づけられると、「二つの心」が、不幸にして人為的に左右の脳の連絡を断たれた息者で見られたものであることが往々にして忘れ去られてしまうようです。そしてこのことが、左右の大脳半球が別々に、独立して働いているという誤解を生む原因の一つになっているようです。

右脳を鍛える
 さて、右脳ブームの中で取り上げられるテーマでおそらくもっとも多いのは、ある目的のために「右脳を鍛える」ということでしょう。超能力は別にしても、たとえば右脳を鍛えることで高い創造性が得られるとすれば、非芸術家や科学者だけでなく、一般のサラリーマンや管理職の人たち、そして教育の専門家だけでなく、子どもの教育、発達を気づかうごくふつうの親たちなど、多くの人々の関心を呼ぶことでしょう。右脳を鍛えるとなにがしかの能力が身につくという考え方は、ある訓練が右脳を刺激し、その結果右脳の働きが活発になると、右脳のもつさまざまな能力が発揮される、という仮定に基づいていることが多いようです。そしてそこに、学校教育の中心は言語、論理、科学といった「左脳教育」に偏っていて、右脳の能力は末開発のままである、という考え方が加わると、右脳を鍛えると、右脳のもつ本来の能力が開花するとともに、左右の脳のバランスのよい発達が実現され脳全体が活性化して、今までにないすばらしい能力が獲得されると説かれることになります。
 このような考え方によれば、右脳を鍛える訓練は右脳だけ、あるいは主として右脳を働かせるような方法でなければなりません。しかし右半球が圧倒的に優位するような課題が見出されていない現在、そのような訓練法、少なくとも科学的な裏づけのある訓練法が、あるはずもありません。たとえば図形を使ったパズルのような課題やイメージを使うような訓練はしばしば右脳を鍛えていると説明されています。しかしただ図形を使ったというだけで右半球の方が強く関与していると短絡的に決めつけることはできません。課題の性質によってはむしろ左半球の方が強く関与している可能性も十分あります。またイメージは右半球の働きであるとされることがよくありますが、この点についても十分な科学的根拠はありません。イメージの意識的生成にはむしろ左半球の方が優位するという報告もあります。そしてただ右半球を刺激するだけでよいのであれば、左手を頻繁に使う練習の方があやしげな訓練よりも確実でしょう。いずれにせよ、現在右脳を鍛えると称する訓練法は単なる推測に基づいて構成されたものにすぎず、実際にはせいぜい両方の脳を同じくらいに使うような課題を用いているにすぎないと考えてよいでしょう。
 一方、ある訓練によって一定の効果が得られたとしても、効果の得られた理由が右半球を鍛えたためであるとは限りません。世界的なベストセラーとなったある書物では、絵を描く能力を高めるための訓練として、少々奇抜な方法(例えば、顔の絵を模写するのに、上下を逆さまにして、逆さまのまま描いていく)を勧めています。科学的な検討は行われていませんが、訓練前後の絵の変化をみると、確かに効果があったように見えます。そしてその本の著者は、そのような訓練法が右半球の働きを活発にするような方法であるからこそ、絵をうまく描くことができるようになるのだと説明しています。しかしその訓練法が左右の大脳半球の働きとどう関係するのかは科学的な方法で確かめられてはいません。著者の説明は、左右の大脳半球の働きに関するさまざまな特徴づけからの推測にすぎません。著者自身述べているように、絵の教育に携わる中でまず訓練法を考案し、後日その訓練法が有効であることの説明を、左右大脳半球の働きの違いに関する知識を得てから思いついたということです。訓練法に実際に効果があったとしても(絵を描く訓練である以上、一定の効果はあって当然ですが)、それが右半球を鍛えたためであるかどうかは確かめられていないのです。
 スポーツの世界で効果が認められ、よく利用されているイメージ・トレーニングでも同じような説明が可能です。イメージ・トレーニングが有効なのは、右半球を鍛えているからだといえば、いかにも科学的なトレーニングのように思えます。授業で言葉による説明だけでなく図やイラストなどを使うと理解しやすくなるのは右半球を使うからだ、という説明もできます。右半球の話を出すまでもなく、効果のあるものはそれはそれでいいと思うのですが、本の内容や主張に科学的な権威をもたせるために、適当な推測が都合良く利用されているというのが現状であるといってよいでしょう。右脳を鍛えると何かすばらしい能力が身につくという幻想は、現実に照らせば容易にその実体のなさが見えてきます。音楽を聴くことで右脳の働きを活発にし、それで創造力が養われるとしたら、ウォークマン世代の若者たちは天才ぞろいということになりますが、果たして読者のみなさんはどう評価するでしょうか。
 訓練による課題と脳の関わり方の変化という間題もあります。たとえば音楽を専攻している学生とそうでない学生の間で、メロディの記憶(再認)に対する左右半球の優位性を比較した研究があります。一般にメロディの記憶には右半球が優位であり、この研究でも音楽を専攻していない学生では同じ結果がみられました。ところが音楽を専攻している学生では逆の結果、つまり左半球が優位になるという結果がみられました。この矛盾は、音楽を専攻している学生が、メロディの個々の要素、または継時的側面に着目したため、つまり左半球の働きと結びつくような課題解決の方法をとったためであるとして説明されています。音楽の訓練が課題解決の方法を変え、それが結果的にメロディの記憶という課題における左右の半球の優位性に影響を及ぼしたというわけです。このように訓練を積むことで一定の課題と左右の半球との結ぴつきが変わるとすれば、右脳を鍛えるために始めた訓練でいつのまにか左脳を鍛えているということもあり得ます。「右脳を鍛える訓練」で身につくのは、訓練として与えられる課題を効率よく解決する能力だけ、と考えるのが無難なところでしょう。
 右脳ブームをつくり上げている「理論」は、科学的事実に基づいてはいるがまだ確かめられていない推測、さらにその推測に基づいた推測、そして科学的事実の極端な単純化、歪曲などから構成されています。この「理論」を、なんらかの主張や自説を裏づける「科学的根拠」として、いい換えれば科学的権威づけを目的として、取り上げるというパターンが、右脳ブームの中でよく見かけられます。筆者の家に届いたチラシのようなものであれば、左右の大脳半球の働きについての誤解を生み出すという点を除けば、実質的な害はほとんどないでしょう。しかし場合によっては大きな社会間題を引き起こすものもあるかもしれません。超能力を身につけるためといって、子どもたちが長い時間意味のない、あるいは害があるかもしれないような訓練に夢中になってしまったら、そしてその訓練を金儲けに使う人たちが現れたとしたら、どうでしょう(筆者なら勧誘があったら、「うちの子どもは毎日何時間もテレビゲームをして、音楽や映像でもう十分右脳を鍛えています」と答えるでしょう)。
 右脳ブームに限らず、科学的権威づけはいたる所で見かけられます。特に商品の広告などでは極端なものをよく目にします。私たちは「科学的根拠」を適切に評価できるような常識を身につけることが必要な時代に生きているといえるでしょう。     (講談社「超常現象をなぜ信じるのか」より)