乗換えキャンペーン   
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 例えば、「人は何故自然を愛すべきなのか?」を考えるとき、擬似宗教的、擬似哲学的、果ては「テレビで見たから。」、「お父さんが言っていたから。」などなど、様々な根拠に基づいて我々は自然を愛します。 どれをとっても美しく素晴らしい考えです。恐らく「科学的に愛さなければならないのだ。」という表現が最も冷たい印象を受けるものと思います。 しかしながらコム対が、ここで是非とも再考していただきたいのは次の2点です。“一般的に素晴らしいと思われる思想は、科学的アプローチでも同じ結論を持っています。”、と、“客観的な根拠を明確に提示できる科学的なアプローチの方が、同じ思想でも説得力がある。”ということです。
 つまり、 ☆ 同じ結論を根拠に人生を歩んでいくのなら、説得力に長けた“科学的思考様式”に乗り換えてみてはいかがですか? ...という主張(冗談)です。 偉い人が言っていたからお金を稼ぐのか?、それとも、経済、社会科学...などを根拠にお金を稼ぐのか? 明確な理論上で行動することが、確信行動、応用行動に繋がりますから、ひいては、「辛いけどいつまで頑張るべきなのか?」「自分にはいくらのお金が必要なのか?」が自ずと解かってくるようになります。 「人と争う?」 「慈愛の心?」 「無常観?」 「地球外生命体を探す?」 「イルカとの会話を試みる?」 「個性を伸ばす教育?」 「瞑想?」...これらを説明するとき、他分野のそれとは違った、生半可なことでは覆せない科学的根拠をそこに見い出すことが出来るのです。




◆◇◆ 「許しなさい!」 ◆◇◆

 「何であの時言ってくれなかったの?」 「心は既に君から離れていたんだ。」はたまた「君が傷つくと思ったからさ。」
 「何で遅刻したんだ!」 「くだらないからだヨ。」はたまた「あなたの為に念入りな準備をしていたら...。」
 「お前、挨拶しなかっただろ!」 「お前なんぞに挨拶の必要はないネ。」はたまた「すいません。酷い腹痛で気が付きませんでした。」
 実生活で経験する不快な状況の数々。 上記のように、ハッキリと相手に確かめた上でなら、勿論問題になりません。仲直りするにも、喧嘩するにも、充分な根拠がありますから、ガンガンやってください。 が、実際のところ、聞くのが怖かったり、意外に疎遠だったりして、「ヤツは俺の事を嫌っているに違いない!」などと、“勝手な推測を押し付け、”更には、“勝手に怒ったり、傷ついたり”してはいませんでしたか? 分析してみると、これらは殆どが“どうとでも取れる(良い方にも悪い方にも取れる)”ような曖昧なことではありませんでしか? もしそうだったら喜んでください。「これからは、苦しんだり、苦しめられたりすることはありません。」 “曖昧な事象では、評価、判定はできない。”のでしたネ。 従って、“悪い事だ!、腹が立つ事だ!”と判断し、苦しんだり怒ったりすることも、実のところは“変だった”のではありませんか? 「相手が明らかに間違っている!」事をあなたは証明できますか? ひょっとして一時的な、動物的な感情でそのような事態に陥ったのではありませんか?

 ...状況を分析しているうちに“怒り”が消えていく...。 (余計腹が立つようなら裁判でも起こしてください。)

 宗教的にも、「他人を許す」などの博愛を謳っているものも多く見受けられますが...、ほら! 科学的にも“許さなければ、変!”でしょう。 同じ事を言っているんですネ。 更に、何も考えずに「いきなり許す」よりは、“禍根を残さない”、“解決策が見え易い”など、有利な点もあるんですヨ。 (ウ〜ム。実践は難しそう...。 でも、擬似宗教的にも、擬似哲学的にも“実践が困難”なのは同様ではありませんか? 納得した上で許した方が“だいぶ楽”ですヨ。)

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 ....つづく (作成中! 早く充実させます。スイマセン。)



 
※ 既成概念の破壊だ! 終焉なのだぁ〜!  
...乗り換えだぁ〜!  
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