コム対戦   
(大工事中!!!)    


 “コム対戦”などと銘打ちましたが、内容は少々印象と異なります。 このページの目的をまず明らかにしておきます。 読み取っていただきたいのは、 「どんなに素晴らしい考えや分野でも、それが個人、あるいは閉鎖的なのであれば、力不足に陥る可能性が高い。よって、広い見識をお互いが交換できないだろうか?」 と、言う事です。 これらは決して勝ち負けを競っているものでも無く、「協働への呼びかけ」程度にご理解下さい。
 よって、扱う内容の大半は、一般的にも「素晴らしい!」との評価を得ている、いわば“まともなもの”を中心とするつもりです。 但し、(このような構成を利用して、)コム対が「社会の害毒になりかねない。」と評価するものも、故意に、随所に、紛れ込ませておく事もあります。 気の小さいコム対です。が、これが実質上の“コム対戦”です。
 また、トレーニングにフォーカスして、あえて“重箱の隅をつつく”あるいは、“揚げ足とり”的な引用も取り扱います。 但しこの場合には、対象となっている方の名誉のためにも、“明記した上”での引用とします。 もし、それでも“誤解を受けやすい表現”と見うけられるようであれば、遠慮無くご指摘下さい。適切なものに差し替えさせて頂きます。
 ...まぁ正直なところ、真の目的は“3つとも全て”ですネ。 (^_^;)

 また、以下のような“コム対の一方的な主張”よりも、“公開討論的な表現の方が双方の考え方を理解しやすい”のではないか?と考えております。よって、コム対の主張に反する、しかも、より良いものを模索している方々。広く 公開討論相手を募集! 致します。ご連絡下さい。 それまでの間は、リンクより、そういった会議室にでも参加してみてください。予想以上に色々な場所で活発な議論がなされています。 お勧めは、ニフティーサーブの会議室、如水庵さん、JapanSkepticsさん、Yahoo掲示板、といったところでしょうか? この他にもお勧めがあればご紹介下さい。
 ※ 文中の紺字はコム対のコメントです。




◆◇◆ ビジネス書 編 ◆◇◆

★ ★ ★ 「論理思考と発想の技術」 後 正武 プレジデント社 ★ ★ ★

コム対評 ...   まず、下図をご覧下さい。 ケーススタディーとして“割箸論争”を正確に分析しています。題名の「論理思考」に嘘は無く、最近のビジネス書の中ではピカイチの評価です。(偉そうに聞こえるでしょうが、本当に正確に主張をまとめあげているビジネス書には、なかなかめぐり合えません。「無責任この上ない!」ものは結構紹介できるんですが...。)
 流石に著者略歴も物凄く、(勿論、コム対員にはこんな猛者はおりません。)「経験したことのない知識を頂ける。」という意味で、大変勉強になりました。 題名から類似と考えられる「クリティカルシンキング(北大路書房)」と比較して読むと、心理学と経営という“全く違ったアプローチがことさら印象的で、大変興味深い!”という感想を持つこと請け合いです。 是非とも2冊まとめて読んでみてください。 新入社員でも理解できるようにとの著者の配慮で、大変解かり易く、というよりは、“簡単な内容で、全員が理解できる”実用書の王道的構成になっています。

取り上げた理由と目的 ...   前述の、「2冊まとめて...」にあるように、“異なる分野が同じ事を言い出すとどうなるか?” が、目的の一つです。 “協働”の必要性が伝わるかもしれません。 2つ目は、具体的に本文を引用しながら後述しますが、“懐疑主義者”との比較です。「なんと、経営知識も無い懐疑主義者が、専門化でも困難で、且つ重大な論争を一刀両断してしまいます。」 具体的には、後先生は、信条、価値観などについて、相対的に容認する色が濃く、コム対のような懐疑主義者の“絶対主義に近い”考え方ではありません。(先生の文面から、もっとはっきり言いたそうな感は読み取れるのですが...。) 懐疑主義者達は、「相対的に、どちらも正しそうだ。もっと解かり合えるはずだ。」という事象は、「我々が思った以上に、現実的には殆ど出会えないほどに少ないはずだ。」と考えています。 「調べてみれば解かる事が殆どでしょう。安易に諦めずにもっと掘り下げてみましょうョ。」と言ったスタンスです。つまり懐疑主義とは、決して絶対主義では無く、むしろ真の相対主義なのです。 ...このあたりに素直に驚いていただければ良いのですが、いかがでしょうか?
 (ウ〜ム乱筆乱文。おいおい校正します。それまでは、こちらを参考にしてください。  なお、下図と、以下の文章は関連ありません。ちなみに、「論理思考」では、下図が“本論”、文章は“まとめ”的に、巻末で語られています。)



対戦! ...
「6−5 価値からの自由と発想の自由について」
(副題) マツクス・ウェーバーの唱えた「価値からの自由」は、単に学問の姿勢や論理的な思考のルールとして重要なだけでなく、「自由な発想」を助ける重要な考え方である。

 論理的な考え方を主張すると、どうしても価値観の課題につきあたることがある。宗教的信条・道徳的信条・あるべき社会や体制についての主義主張の間題である。
 ...出ました。NK爆弾との戦いですネ。「何を信じようと(N)勝手だろう!(K)」
 我々も経験しています。察するところ余りあります!

 「世の中はかくあるべきだ」「私の信ずるところを述べれば…」「神の目からみれば……」これらは第一章の5で述べた「五つの正しさ」以外の「価値観に基づく主観の世界の正しさ」である。この正しさは、社会集団で共有されるときは、集団の中では「カによる正しさ」を伴なう。したがって、異なる価値観を有する他の集団との間では、カによる争いや対決に向いがちになる。図6−1にもどれば第二象限の思想・宗教等における主張・信条の争いである。自分が正しいと信じるゆえに、他の正しくないものに対しては許容性が低くなる。
 ...同感です。

 マックス・ウェーバーは、(自身は社会主義者であったらしいが)学問をするものとして「価値からの自由」と、「知的廉直」を提唱した。つまり、自分の主義・信条はどうであれ(それはそれで守ってよいが)学問をする立場では、少なくともそれらの制約をとり払って「心の自由」「制度や前提にしばられない自由」「知性に対して謙虚で正直である自由」を重んじた。「価値からの自由」は、論理的にものごとを考えるうえで、重要であるばかりでなく、実は「自由に発想する」ためには、「価値による制約」をとり払う主体的努力が必要だという積極的側面を持つものである。価値観とか信条は大切にしたいが、しかし、それに制約されると、発想の領域で、オフ・リミットができる。自分の思想や信条や宗教の教義にもとるものは、論理的に正しいことでも認めたくないという感情のエネルギーが働いたり、あるいは検討以前に最初から受けつけようとしない、という現象が起こる。
 ...同感です。が、もっとはっきり言っても良いのではありませんか?

 かつて、私が授業を受けた教授のうち、マルクス経済学者で、「価値からの自由を唱えることも価値観である。そういう価値観を持っている人が「価値からの自由」を唱えることは論理の自己矛盾である。そういう人の唱える論理は、必ず自己の価値観をサポートする論理の体系であって、真の客観的な論理体系とはならない。純粋な、価値から自由な論理はあり得ない。だからむしろ自己の価値観を表面に押し出して、その価値観の体系を主張することが、客観的に見て正しい」と主張された先生がおられた(ちなみに、この先生の主張を論理のピラミッド構造に展開してみてください)。
 これは正しくないと思う。たとえば数学はそういう価値からの自由な、ひとつの価値を持つ「数理の体系」であるが、その数理というものは、どのような価値観にも適用できるし役に立つ。仮に、数理に価値を感じている数学者が研究した成果だとしても、それ自体は価値観から独立したひとつの体系だと見て支障あるまい。論理も、そのような「価値からの自由」な論理であると認めてよいと思う。
 ...このあたりはノーコメントとさせていただいて...。

 かつて、ローマ教皇を中心とする価値観に支配された中世の暗黒時代には、ギリシアであれほどのびのびと発達した科学や諸学問を、神学やスコラ学派の形式論理学の中にとじ込めてしまった。この宗教的信条の体系は、地動説を唱えたガリレオ・ガリレイの自由な発想を否定して裁判にかけ幽閉してしまった。過度な価値観は、「発想の自由」と「論理の正しさの主張」を奪うものである。
 ...ガリレオのくだりの真偽は難しいようです。“地動説などという、当時としては突飛な事を主張しておいて、天動説支持者達を説得できずに、馬鹿呼ばわりした。”との研究や、“幽閉”自体も疑わしいような説もあります。 つまり、“過度な価値観が自由と正義を閉じ込めた。”というよりは、“むしろ、お互いの科学者としての態度にこそ問題があったと見るべきだ。”との主張があるのです。

 ルネッサンスは、古代ギリシア・ローマへの精神の回帰であり、キリスト教中心の教条の世界から自由な発想への再生を目指す運動であった。そこではダビンチをはじめとして科学者は同時に芸術家であり、文学も美術も音楽も共に花開いた。美と空想と科学が互いに影響し、プラスの干渉効果が生まれた。発想の自由が、すべての発展を促した。
 先に述べたが、ギリシアでは論理や科学と物語とが等価値におかれていたように思う。だからこそ、ギリシア人は太陽が熱い球体であることを知ってはいたが、同時にそれを四頭立ての輝く馬車に乗った、凛々しく勇ましい若い神として語り、そのアポロの神殿の前に額づいて祈りを捧げた。人が論理に使われていなかったからである。論理は論理でそのモジュールの境界を知りつつ、己の正しさとその根拠を常に堂々と主張するがよい。また発想は発想で、自由にその羽根をのばし、論理の枝や物語のことばに止まって、その内容をゆたかにすればよいと考える。
 ...素晴らしいです。概ね賛成です。 が、“芸術的素養を持たない科学者”が否定されてしまうように感じるのは私だけでしょうか? 昔は、タダ単に、「確信して人生を送れるような研究成果が無かったので、空想と科学がソリューションとしてバランスできたダケ」のように感じますが。「太陽が熱いのを知っていたというよりは、多分そうだろうと考えていた。」というのが本当のところでしょう。 また、「科学と物語とが等価値」、「人が論理に使われて」などと、妙に覇気が失せて感じられる発言は変です。先生の論旨は、「(現実では、)論理こそが道を開く!」と理解していたものですから。 ...確かに、人生全般を扱う著作なら、こういった結びも結構ですが、ビジネス書の形態をずっと守りながら、ここへ来て突然、“心の豊かさと、ビジネスソリューション”を同時に論じられて混乱してしまいます。

 (まあ、本題からそれるのを避けまして、)それでは先生! このへんで、ハッキリ言ってやってください! 「我々が直面する現実的な問題の殆ど全ては、信条論から排除される。 開けてみれば、無知や思い込みが原因でとんでもない主張をしている自分に気が付けるはずだ。」と。  信条や価値観を容認できるのは、せいぜい「赤色が好きだからこの洋服を買う。」とか、「音楽はアップテンポの方が耳あたりが良い。」とかの、“少なくとも他人に迷惑をかけない、または、問題にならない程度のものダケ。”でしょう。 先生が本論で扱ってきた“何かを解決しなけばならないような、決断、議論”においては、信条論など決して持ち出していません。 本章(まとめ)でもバシッと行きましょう! 「宗教戦争は認めるべきだ!」なんて言い出す輩もいるんですから。

    ...ウ〜ム。このあたりの議論は“幽霊論争、UFO論争、超能力論争”に慣れているコム対の方が勝っているかも...。(^_^;)  ちなみにコム対は“信条論を容認するべきか?否か?”を決定する際に、分子生物学、進化生物学、認知心理学などの、科学的根拠を必ず提示します。(補足すると、)但しこの根拠自体も、完全な成果と認められるものと、研究中であると考えなければならないものが混在しているという意味で、断ずる程のものでない場合もあります。 しかしながら、「より良いと考えるべきだ。」という表現が可能になった事実は、近代科学の大きな成果として評価されなければなりません!

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◆◇◆ ?? 編  ◆◇◆

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◆◇◆ その他 ◆◇◆

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 ....つづく



 
※ 戦闘は宇宙規模。  
勝ち負けの問題ではないんですが...。  
“StarWars”