立春、立秋が実際の季節感とずれているのはほとんどの日本人が感じていることだろう。 なので「秋というのは暦の上だけで」と残暑見舞いの書き出しがとても書きやすくなっている。広告ネタ、目次へ
しかしながら電子メール全盛の今、この「季節感がずれている」ことによるメリットは急速に失われつつあるといってもよかろう。一説によるとこの季節感のずれ、明治政府の陰謀らしい。太陽暦から太陰暦に切り替える際、月の日数を少なくして一か月分の給与をバックれたことが原因といわれている。この反省のためか、1日どころが数時間(当確が月内に出れば)国会議員に限りひと月分の手当を支給するということになっている。反省の方向が違うと思うのは私だけではあるまい。しかし、立春と立秋はともかく、立冬、立夏については「冬というのは暦の上だけで/夏というのは暦の上だけで、過ごしやすい日々が続いています」という挨拶が使われないことから考えて、季節感がずれているわけではない、ような気がするのは私だけでしょうか。(私だけだろうなあ。<=ソコソコ長く生きていると、誰でも考え付きそうなのに自分しか気づきそうもないことかどうかわかるようになった。)
さて、二十四の季節のある国、大署である。「大暑というのは名ばかりで」こんなこと誰も言わない。身の危険を感じるほどの暑さである。また「大寒というのは名ばかりで」これもいう人はいない。季節感は完全に一致している。つまり、おかしいのは「立秋は秋の始まり」と思っている我々の認識の方なのだ。二十四節季、大暑の次が立秋である。つまり初めから「立秋」は酷暑の折り返し点。すなわち「夏たけなわ」を指していたので ある。うん。すっきりした・・・はずだが気になることが一つ。
「夏の季語」と「秋の季語」は立秋を境に区別される。夏たけなわなのに「秋暑し」と言わねばならないのだ。
おい、正岡子規、どうしてくれる。秋分位までは夏の季語で通そうよ。そういうルールにしないかい?その方が絶対うたはよみやすい。なんかおいしいスイカでもてなされたような気がする。
そういえば西瓜は秋の季語だった。
いやあ、仕方ないなあ、そういうことにしようかい。
でも柿がたわわに実るのはもう少し先だぞ。
ノボル君はそれを早く味わいたくて待ちきれなかったのか。
季節感を媒介とした共感、俳句の本質、確かに伝わったよ。