クレーメルの苦悩

 「パガニーニはヴァイオリンのジミー・ヘンドリクスだ!」というのを読んで、ならばジェフ=ベックをヴァイオリンに訳すとクレーメルだろう、と思い入れたっぷりのセリフを吐くくらい私は旧ソ連のバイオリニスト、クレーメルが好きである。
 パガニーニとジミヘンが、それぞれヴァイオリンとギターから出せる音をすべて出したアーチストであるとするならば、クレーメルとベックは、そぎ落とせる音をすべてそぎ落としたアーチストといえるかもしれない。しかし表現の深さは誰にも負けない。
 例えとしてはあまり一般的ではないが、もし筋金入りのジョン=レノンファンを自覚するなら、まず「Mother」を歌うことを思い浮かべてほしい。ジョンの魂には絶対にかなわないから自分の出せるありったけの声を出してなんとか勘弁してもらうことを考えるだろう。これがパガニーニでありジミヘンだ。これに対して「My Mummy's Dead」をどう歌うか。My Mummy's Deadの方が抑制されているが、表現内容で劣っているという人はおるまい(いたらジョンのファンから袋だたきに会う)。そういうことだ。
 考えようによってはジミヘン的な表現よりも、ベック的な表現の方が難しいかもしれない。(でもパガニーニよりもクレーメルの方が難しいとは言えない。言った瞬間、バイオリン音楽愛好家から総スカンを喰う。パガニーニは「別格」。)

 そのクレーメルが人類史上最高傑作(と私一人が主張する)シャコンヌニ短調を含むバッハ=無伴奏ソナタ/パルティータを20年ぶりに再録音したとなれば・・・ハイ買いました。というわけでその感想。ただしボク以外からほとんど出てきそうもない感想。

 楽譜に記載されている音符を、音符が弾いてほしい音色にバイオリンで翻訳する。バイオリンから出た音が、聴いてもらいたいような長さと強さを実現すべく弓をすべらせる。はっきりいってこれだけである。演奏に気迫や思い入れといったものはない。クレーメルの自我は消失している。クレーメルの技術をもって初めて可能になった演奏だろう。

 ヴァイオリンは機構としては無理がある楽器である。音程は自分で決めないといけないし、音を出すのも弓で強制的に出す。しかも和音は2音までだ。これで複数の旋律を同時に弾こうというのだから無茶な話だ。バッハの時代は弓の構造が現代とは違い、4音同時に弾けたそうだし、奏法の発達によって現代の弓でも短時間なら3音、4音は出せるそうだが、これでフーガを弾くというのは発想からしておかしい。
 が、楽譜はフーガを出したがっている。音もフーガとしてつながりたがっている。クレーメルはそれに応えて一番際だつ旋律を強調してつなげて弾いている。
 したがってテンポは細かく揺らいでいる。

 ものすごい解釈だと思うのだが、逆にクレーメルの限界が見えてしまう。どうしても3音の和音、4音の和音が、バイオリンの機構に無理があるために単調な音色になってしまい、フレーズ全体がそれに引っ張られて「音色としては単調」になってしまうのだ。これはヴァイオリン全般に共通する限界かもしれない。もちろん楽譜に記載された音符としては不満はないだろうレベルの限界なんだが。

 レーピンが昨秋来日したときにおもしろいことを言っていた(10月18日読売新聞)。自分が重要だと思っているのは「語彙」だ、というのだ。インタビューアーがいまいちなので訳語を変えて「修辞技法」と言った方がよかろう。つまり、作曲家の意図を表現するのに使える技巧の量のことを言っているようだ。(レーピンは作曲家の意図という言い方をし、作曲家も及ばない「音楽」の絶対性には言及していないようなので、私の用語法とはずれるんだが、極力一致させるとこんな言い方になる。)
 この観点から言うと、クレーメルはヴァイオリンの機構的限界により、この曲においては使える「語彙」が限られてしまっている、と評することができよう。

 じゃあ、どうやってこの限界を突破すればよいのか。一つの答えはギトリスが出していたと思う。無伴奏バイオリンソナタ3番のフーガは腰を抜かすほど驚いた。ギトリスの頭の中にものすごく強い音楽のイメージがあって、それを直接こちらの脳に押し込んでくるような印象。細かいメカニズムは不明だが、録音で分かるんだからテレパシーを使っているのではないことは確かだ。(といいながら、私はギトリスのシャコンヌニ短調は好きじゃなんだが。)
 ちなみにレーピンはどう弾くだろうか。アンコールピースのパルティータ2番、サラバンドを聴く限り期待は十分持てる。
 もっともパガニーニなら、バッハの音楽ですら完全にコントロールして、各声部ごとに一音一音音色を変えて弾いたのかもしれない。ちょうどジミ=ヘンドリックスが音程が恒常的に狂うギターで1音毎に弦の押さえ方、引っ張り方を変えて、正しい音程に合わせて弾いていたように。


 技術評論社の「空想プロジェクトマネジメント読本」。
 今ひとつ原作への愛が感じられない。
 なので若干修正。
 ヤマトの航行計画の把握が不十分。
 合計は270日で合っているが、内訳が違う。
 30年前の記憶によると
 太陽系を出るのに10日、
 銀河系を出るのに10日、
 バラン星までに45日、
 マゼラン星雲までに45日、
 イスカンダルまでに10日、
 受け渡しに30日

 クラッシングの手段がワープとしているが、これは間違い。
 一年で14万4千光年往復するのだから、ワープは日常的手段。
 当初の予定になかった「大ワープ」がクラッシングである。


(2006.1.29加筆)
 よく考えると(よく考えなくても)、パガニーニとジミヘンの共通点にこういうのもあった。「出せる音を全部出すときのモチーフに、よく知られた曲を持ってくる」という奴である。パガニーニはベニスの謝肉祭とか、魔女たちの踊り(スズキの教本では「妖精の踊り」になってますが、普通は「魔女たちの踊り」というタイトルです)というよく知られた曲を主題にして、超絶技巧で拡張した変奏を聴かせる。「ラ・カンパネラ」すら既存の曲とは先日まで知らなかった。一方ジミヘンは、というと「国歌」をモチーフにあらん限りの音を詰め込む。国歌という誰でも知っている曲だから、アレンジしまくっても聴衆はついてきてくれる。だから、あそこまで弾きまくれたのだろう。

 ついでに。以前悩んだ「希望の曲」みつかりました。チャイコフスキーの「ワルツ・スケルツォ(作品34)」です。毎日をそれなりに楽しく過ごしている。浮き立つような思いも経験する。ところがある日、これでいいのかという不安にとらわれる。悩む。漠然としたままうろうろする。何かヒントがないかと人生論を読んだりする。しかし疎外感はつのる。焦りにとらわれる。やがて気がつく。自分は自分だ。今の自分から始めてみよう(主題が再現するところね)。しゃかりきになる。逆風が吹く。でも自分はやっていけるはずだ。精一杯努力する。壁が割れた。見えた!

 こんな解釈が可能なはずだ。うちの子がそのうち弾いてくれるだろうか。なになに「ワルツ・スケルツォは飽きた」。あっ、そーなの。TVで木嶋真優(と竹澤恭子)の演奏を聴かせたのがまずかった。反面教師としてはいいんだがなあ。楽譜通り正確に弾いているのに、その意味では誰よりも上手なのに、なんでこんなに退屈なのか考えてごらん。
 まあいい。18才くらいになれば父親の解釈を理解してくれるだろう。弾けるほど上達するかは分からない。でも火曜日、弓で音を飛ばし始めた。

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