英語嫌い

 私は自慢ではないが英語がイマイチである。そもそも、日本の英語教育に問題があるのだ。(と大上段に振りかざして責任転嫁)
 姉の最初の英語の教科書、表紙の写真は「マッターホルン」だった。スイスは多言語国家だが英語は公用語になっていない(はず)。要するに外国だったらどこでもいいのか?そういえば、高校の時の某教師、生徒の間違いを指摘するとき「外国人だったらそんなこといわんよ」というのが口癖だった。外国人はみな英語を話しているのが前提なのだろうか。

 そんな私であるが、生涯にただ2日だけ、英語ペラペラになったときがある。合衆国のディズニーワールドに旅行に行ったときだ。おっかなびっくりでとりあえずいろいろなアトラクションを回っていたのだが、エプコットで困った。食事をするところは全て「予約」しなければならないそうだ。予約というのは当然語学力が必要である。困った。このままでは何も食えない。ニョーボはクスクスが食べたいといっている。
 仕方なくモロッコ館の前に行き、とりあえず食わせろとお願いすることとした。しかし何て言えばいいんだ。うろうろしていると、予約係と別のお客が話しているのが聞こえた。
 "Right Now?"。ああ、そうか予約にこだわらずright nowと言えばいいんだ。この表現なら知っている。この瞬間、私は開き直り食事に不自由しなくて済むようになった。翌日にはタクシーの運転手と話し込んでいた。
 なるほど、実用性を求めるならなんとかなるのね。そういえば、私程度の英語力でもWeb上でコンピュータ関連のニュースを読むにはそんなに不自由しない。そーかそーか。
 もっとも帰国するとすぐに元に戻ったが。
 しかし、きっかけとなったright now。感謝すべき言い回しでしょう。

 ディズニーワールド、リピーターがやたら多いようで現地であった日本人は2組ともリピーターであった。いきなり「何回目ですか?」と聞かれたのはちょっと違和感(自慢しとんのか)。正直に「初めてです」と答えると鼻で笑われた。もっと正直に「ヨーロッパ、アジアは結構回ったんですが、合衆国は北回りでアンカレッジに寄ったくらいで」と答えそうになったが、気配で気づいたニョーボに押しとどめられた。しかし、言いたい。日本人コミュニティだけで群れるな。

 かくして実用英語に目覚めた私であるが本質的には英語で遊ぶほうである。日本語の表現を英語に無理やり翻訳するのが好きだったりする。今までの最高傑作は、森進一の「襟裳岬」を英語に訳して歌ったこと。

 In the north town, I hear they have began buring sudness with stoves.
 滅茶苦茶であるが、決めのフレーズは感心された。
Erimo's spring, there is nothing but spring.
 「襟裳の春は、何もない春です」。これにそんなことはないと書き送ってきた現地の人がいるそうだが、この一節はそういうことを示しているのではない。藤原定家の「見渡せど 花ももみじもなかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(だったかな)に通ずる感覚なのだ。だから英語に訳すと「襟裳の春には、何もありませんが、春だけがあります」となるわけだ。この辺のニュアンスは逆に英語に訳すと分かってくれる人が多い。英語(に限らず外国語)にはこんな使い方もある。ハイデッガーも日本語が分かれば、あんなに混乱しなかっただろう。

 さて、おもいっきり襟裳岬の歌詞を引用していますが、私、本質的に歌詞の引用はありだと思っています。
  1. 歌曲は詩と曲が結びついて初めて成立するものであること。
  2. 散文、韻文は出展を明記する限り引用が認められていること。
  3. 襟裳岬自身、他の詩の表現を借用していること。
 3つめの理由は重要です。「悲しみを暖炉で燃やす」という表現は、この詩を作った津田沼の喫茶店で見た詩からとったそうです。しかし、出典を明確にしていない。もし、歌詞の引用をうるさく言うのであれば、森進一はあの声で「著作権協会承認第○○○号〜」と襟裳岬の中で歌わなければならないのです。たとえどんなに曲が滅茶苦茶になろうとも。
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