第二次産業革命への懸念

 かなり前ですが世界最初の商用コンピュータ、ユニバック生誕50周年を記念して開発元のユニシス社が懺悔していた。
 ユニバックを創り出したことによる言語道断な罪として、いくつか言っている中で最も印象的なのは次のものであった。(ちなみにこれの全文、どこにあるのでしょうか。知っていたら教えてください。)
『マルチタスク』という、同時に複数の仕事をこなせるという概念が生まれた。
 これがいかに重要な問題かということは、産業革命がどういうものかを思い起こすと分かる。  産業革命とは何かと問われると非常に面倒だが、まあ第一次産業から第二次産業への移行であろう。ではなぜ第二次産業への移行が生じたかというと、同時発生的に様々な要因がからみあっている。
  1. 蒸気機関が発明されて、強力な動力の使用が可能となった。
  2. 農村で牧畜がなされるようになり、農民が追い出されて都市に進出した。これが賃労働を生んだ。
  3. 交易の発達により市場が拡大し、大量生産のメリットが優勢になった。
 社会科の時間このように習った覚えがあるが、一番強烈に覚えているのは「分業」のメリットである。「分業」によって生産性が飛躍的に高まったそうだ。一人がピンを作ると1日に20本しか作れないが、針金を切る、伸ばす、先をとがらせる、頭を付ける等に分けると、数百本の生産が可能となるそうな。
 ただし、この「分業」が労働者を部品化することによってヒューマニズムを否定し、モダンタイムズでチャップリンに批判され、やがては「自動車絶望工場」という言葉にまで至った。メリットばかりではない
 そんなわけで、人間性回復のために労働者にモノを作る喜びを感じさせようとして分業を否定するような生産形態も生じたそうな。チームを組んで一台の自動車を作る全行程に一人の労働者を参画させるといったふうに。つまりは労働者は分業に従事していたときはシングルタスクを担うモノであったが、これをマルチタスクを行う人に移行させたというイメージである。(今、思いついたが、ハイデッガーのDas Manを訳すときは「ヒト」とかな表記したほうが似つかわしいんでないかな。)
 そういう意味では、ユニシスが《『マルチタスク』という、同時に複数の仕事をこなせるという概念が生まれた。》という罪を懺悔することはない。産業革命に逆行して、生産性が下がったかもしれないが、人間性を取り戻すのに一役かったと誉められてもしかるべきだ。

 しかし、コンピュータの行うマルチタスクは大きな特徴がある。たしかにコンピュータは与えられたタスクを自ら(主体的に)スケジューリングする。この意味では自動車絶望工場からは離れている。しかしながら、そのスケジュールは割り込みによって簡単に変更されてしまう。それこそ、マウスをクリックしただけで割り込みが生じ、スケジュールが変更される。そして、これが最悪の特徴だが、コンピュータの場合、割り込みによって目に見えるほどのオーバーヘッドは生じない。更には、割り込みがその前後の仕事の結果に影響を与えない。(与えることもあるが、その場合は「バグ」と名付けられコンピュータの責任となる。)
 ところが人間はそんなに器用ではない。なのに、マルチタスクという概念をコンピュータからそのまま移入してしまったがゆえに、人間もまた割り込み処理が可能である(得意である)というイメージが定着してしまった。これこそが問題なのだ。
 かくして、上記のユニシスの懺悔は《『マルチタスク』という、仕事に割り込みを入れても仕事の正確性、と生産性には影響を与えないという観念が生まれた。》と修正した方がより罪状としては正確であろう。

 人間はタスクの切替が得意ではない。そもそも分業が生産性の向上に劇的な効果をもたらすのはタスク切替を抑制するからなのだ。産業革命の時には述べられなかったがこれによる生産性向上はホワイトカラーの仕事についてより顕著であろう。
 試しにプログラマの机から電話を全廃してごらんなさい。生産性は確実に向上する。込み入ったデバッグの途中に、忘れたくらい昔のプログラムについて質問の電話を入れるということは、バグを新しく作り込んでくれ、と言っているに等しい。で、だいたいそういうときって「トラブルだから最優先」という命令が来る。本当のリアルタイム処理はコンピュータさえ得意とはいえない。
 ぶっちゃけた話、人間の場合、割り込みの度にスケジューリングをするとそれだけで一日が終わってしまう。

 産業革命以来、ブルーカラーにシングルタスクを与えることのメリットについては随分と議論されてきたのだろうが、ホワイトカラーの生産性向上策としての分業は、さあ、考えられているのでしょうか。私はデマルコの主張くらいしか聞いたことがない。
 更にいうと今流行なのは、逆に分業という制度を取りやめれば生産性の向上が図れるという議論である。リエンジニアリングも結局は、中間管理職の撤廃=ライン&スタッフの否定によって分業を取りやめようという主張であった。(まあ、ラインが長すぎることによる弊害も大きいですが、それはまた別の話。いや、ラインが長いということは、その分割り込みイベントを起こす人が多いということだなあ。。。)
 小泉内閣の構造改革が、結局役所の分業制(官僚制ともいうが)を否定して、更なる生産性の低下をもたらさないことをひたすら祈る。(投票所には行っているが、開票直後に当選者は決まってしまった。とりあえず祈るしかない。)
 生産性向上策として、消防署は火事でないときは暇だから(決して暇ではないのだろうが)で住民票を発行させるようにするという無茶をやらないように。ついでにその人自身に構造改革について企画を下請けさせないように。
 そういう方法ではうまく回らないことは、ソフトウェア業界を見るとよくわかります。

 まだね、タスクのスケジューリングを自分で行えればよいのですわ。先ほどの一台の車の生産の全行程に係わる労働者のイメージです。しかし、割り込みで仕事が規定されると、これは人間にとってキツイ。住民票を出しながら火事に対処するようなものです。

 まあ、ぼやいていても仕方がないので、上の話をたとえにして訓示を作ってみました。
 「仕事に追いまくられるというのは、仕事が割り込みで構成されるということだ。仕事を追いかけるということは自分のスケジューリングで仕事を続けるということだ。みんな仕事に追いかけられず、逆に仕事を追いかけることができるよう、スケジュールをしっかり立てて、主体的に取り組んでゆこう」。
 実際に訓示を行う際に引用してくださってももちろん結構です。むしろそうしてほしい。なぜならば、そう言う人たちは、同時に、部下の仕事に割り込みを入れないためにはどうすればよいかを真剣に考えてくれているはずだからです。

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