YOUR EYES

 気だるい空気を、プロペラがさらに気だるそうに撹拌している。
 ビバップ号のリビングにあるソファーに、やや長過ぎる足と、まとまりのつかない髪を投げ出してスパイクが寝転がっていた。ソファーに顔を付けると、シリンダーが回転する振動が伝わってくる気がして眠りを誘った。
 もう一寝入り、眠りに落ちようとした時、人の気配に引き戻されて、スパイクは目を開けた。その気配は階段を上がってくるだけでなく、憤然と言葉を吐き散らしながらやってきた。歩きながら、しかも怒りながらこれほど喋ることができるのは、ビバップ号においては一人しかいない。バスローブに身を包んだフェイはスパイクを見付けると、獲物を捕らえた肉食獣を思わせる素早さで八つ当たり始めた。それはスパイクとはかなり因果関係の薄い、シャワー室の故障についての苦情だったが、そんなことはお構い無しで文句は続く。
 げんなりとした表情を浮かべながらもスパイクは身を起こした。これに完全に無視を決め込むと、3倍くらいは時間が引き延ばされてしまうからだ。
 時間が経ち、ようやくフェイの激情も下火になってきた。スパイクは自分もシャワーを使うか、それともまた寝直すかと考えていたが、ふとフェイの妙な素振りに気付いた。髪を拭くタオルの間から、探るような視線でこちらを見ている。
「…何だよ」
 一瞬ためらうように視線を外したフェイだったが、視線を戻すと思いきったように口を開いた。
「前から思ってたんだけど……アンタの眼、何か変わってんの?」
 スパイクの右目は義眼だ。精巧にできた一級品なので一見ではそうと分からない。しかし虹彩の色を左右完全に合わせることは現在の技術でも難しく、また光の加減で不自然に照り返すことがあるらしい。義眼の事はジェットしか知らないはずだが、何日も顔を突き合わせていると、さすがにフェイも気付いたようだった。
「まあな…」
 説明するのも面倒なので、曖昧な返事で答えを濁した。しかしフェイは疑問が肯定された事だけで満足したのか、フウン、とか呟いただけでそれ以上聞くことはなかった。もとより明確な答えを期待していた訳ではなかったらしい。
 スパイクは再びソファーに横になった。仰向くと天井のプロペラが視界に入る。我知らず昔の出来事が思い出されて、一瞬だけ、遠い彼方を見つめてスパイクは眼を閉じた。
 次に何気なく眼を開けた時------スパイクは硬直した。
 スパイクの顔の上、30cmほどの所にエドの顔があった。ソファーの横に立ってスパイクの顔を覗き込んでいた。エドの大きくてネコのような瞳が、スパイクの瞳を真上から捕らえている。予想もしていなかったエドの出現に、スパイクは内心大いにうろたえた。
「アンタ達、何やってんのよ?」
 フェイが呆れたように声をかけてもエドは動かない。眉根を寄せ、あまり見た事のない真剣な表情でただ見つめている。スパイクはエドの顔が徐々に下がってきているのに気がついた。何か考え込むような唸り声と共に、トパーズ色の瞳が段々と近付いてくる。
「おい、エド…」
 なんだか知らんが止せ、と言おうとした言葉は喉に凍り付いて出てこなかった。何を考えているのか分からない、人知を越えたエドの行動がスパイクに恐怖を与える。ソファーに身体がめり込むかと思う程の緊張感に背骨が軋んだ。
 逃げる事も、眼をそらす事も何故かできなかった。
 スパイクの恐怖が最高潮に達した時-------。
「わかった〜〜」
 脳天気なエドの声がリビングに響いた。
 つと、スパイクの右目を指差すと、
「こっちはー、マシュマロをいっぱい入れたココアのいろ〜」
 次に左目を指差して、
「それでこっちがー、チョコレートケーキ〜」
 そして自分自身の言葉に胃袋をいたく刺激されたのか、「食べたい!」と叫ぶと、
「食べたい。食べたい。食べたい。食べたい。……」
 歌うように繰り返しながら、ぺたぺたと足音を鳴らしてリビングの中を回りだした。
 フェイが、付き合うんじゃなかった、と言うように鼻を鳴らし、濡れた髪を乱暴にこすった。
 極度の緊張から解放されたスパイクは、ぐったりとソファーに沈み込んだ。声にならない声で、これだからガキは嫌なんだ、と呟いていた。
 やがてフェイは立ち上がり、部屋へ戻ろうと歩き出した。足を数歩踏み出したところへエドがやってきて、ぶつかりそうになる手前でぺたりと止まった。
 フェイを見上げてひとこと言った。
「フェイはあ〜、あおじる〜」
 トノサマガエルを踏みつぶしたような音がリビングに放たれた。
 スパイクがくしゃみをしたように顔を押さえていた。しかしただのくしゃみではなかった証明に、身体が横隔膜痙攣に震え、押さえた手の下から漏れる含み笑いはやがて爆笑にとって変わった。
 フェイは無言で立ち尽くしていた。怒りが増すにつれ眉がつり上がり、握った拳が頬を上気させてゆく。フェイが口を開く前に、エドは空気を察したものか、部屋の外へするりと姿を消していた。
「エド!待ちなさい、コラ!!」
 怒鳴るフェイと目が合ってしまい、 スパイクはなおさら笑った。フェイの瞳は、それは鮮やかなフォレストグリーンの色をしていた。
 フェイは手に持ったタオルをスパイクに投げ付けると、エドの後を追ってリビングを飛び出していった。
 一人取り残されたスパイクはそれでもまだ笑っていた。気のすむまで笑った後で再びソファーに沈み込んだ。今度はかなり心地よい疲れに。
 とても久しぶりな気がした。
 こんな風に笑わなくなったのは、いつからだったろうかとスパイクは思った。


 
 ブリッジのモニターを通して、ジェットの声がスピーカーから流れた。
「お前ら準備はいいな?出すぞ」
 ソードフィッシュ「とレッドテイルの姿が、開いてゆくシャッターの間から射す光に浮き上がる。
 買い物から返ったハンマーヘッドと入れ違いに、2機は飛び立とうとしていた。ジェットが買い出しの際に仕入れてきた情報で、とある賞金首を捕まえる計画が今スタートしたのだ。いつものようにスパイクとフェイが前線を張り、ジェットはビバップ号からバックアップを謀る。成功率の高いと思われる計画だったが、両者とも功を焦ってしくじる時もあり、ジェットのストレスを増やしていた。
 言って聞くような人間ではないと知りながらも、ジェットは2人に小言を言わずにいられない。フェイがうるさそうに手を振って遮った。
「ハイハイ、分かりました…ってことだから、足引っ張んないでね、ココア・ボーイ」
「お前もな、青汁女」
 この勝負、どう見てもフェイの方が分が悪い。
 それぞれの余韻を残して2機は空へ飛び立った。
「何だあ?」
 事情を知らないジェットが怪訝な顔で呟いた。
「えへへ〜」
 ブリッジに遊びに来たエドが笑って、ジェットの顔を覗き込んだ。
「ジェットはねー……」
 薄いアイスブルーの瞳が不思議そうにエドを見返している。
 どこかでアインが短く吠えた。


コンセプト「スパイクのバカ笑い」

作/ちゃくしい

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