blowing wind Daily Essay
* [Vol.1] 1999年9月のエッセイ

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* 0930:有意水準90%
* 0928:酔うための文章
* 0926:情報錯綜の理論
* 0925:「本当」の自分と「嘘」の自分
* 0924:Safty Point
* 0923:「なる」夢と「する」夢
* 0921:話し口調の文章
* 0917:子供の質問#1「白と黒」
* 0914:Word Master
* 0913:「武器」としての正義
* 0911:言語に隠れた不確実性
* 0910:木を隠すなら森を作れ


0930:有意水準90%

世の中100%完全なんてありえない。科学の世界ですら

「有意水準90%で採択される」

ということがあるではないか。

つまり10%の割合では間違いかもしれなくても、90%位あたってるならまあ「妥当」だろうと判断しているのだ。

厳密さを求める「科学」よりも、実際の社会の方が100%という厳密さを追い求めている気がする。

完全な保証、完全な安全。Yes か No かの二者択一。しかしそれを実現するのは果てしなく難しい。

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0928:酔うための文章

 僕は何故文章を書くのだろうか。自分の考えをまとめるためなど、様々な理由があるのだろうが、「酔うため」という理由がその中に存在する。

 では「何に」酔うために書くのか。自分の文章に酔うため?いや僕は文章の中に隠された別のものに酔う。それは自分の感情、自分の気持ち。僕は自分の中の「感情」に酔うために文章を書いているのだ。

 心の中に何らかの漠然とした感情がある時、郷愁の思いや、一抹の寂しさや、ほのかな喜びがある時、僕はその思いを文章に表す。文章を書いて、その感情を更に増幅させ、そしてその文章を読むことで、その感情に身を任せる。心の中をその感情で埋め尽くすのだ。

 感情の起伏が穏やかな(むしろない)僕だから、自分の感情にあまり気付かない僕だから、自分を一つの感情で埋め尽くしてみるのはとても新鮮だ。特に「哀」の感情に浸るのが僕は好きだ。一人の哀しさ、郷愁の哀しさ、過ぎゆくことの哀しさ、雨の日の哀しさ…僕はこれからも、自分の感情に酔うために、様々な文章を書いていくのだろう。

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0926:情報錯綜の理論

さいころの目を当てる場面を想定しよう。当たる確率は1/6だ

そこに誰かがこういった

「3だよ」

また別の人がこういった

「偶数だよ」

また違う人がこういった

「6だよ、絶対」

 ふつう情報というのは、その人の不確実性を減らすものとして考えられる。例えば上の場面で、「3だよ」という情報だけが与えられれたのならば、そこで確率は1/6から1へと一気に上がるわけだ。

 しかし多くの情報が与えられると、それは賽の目を当てる人にとって何も有用な情報にはなっていない。それどころか今度は、「誰が正しいのか」「この情報は本当に正しいのか」などを考え始めてしまう。

 そうするとその人の頭の中では、最初はただの1/6であったはずの確率が、「この情報が正しいと偶数で、こちらの情報が正しいと4だけども、でももし間違っていると…」などと考えてしまうことによって、1/12,1/24と更に複雑になっていく。

 これは情報に惑わされている結果だ。最初の確率は1/6、当てるものはさいころの目、これは絶対変わらないはずなのに、情報を入手して、それが正しいかを考え出すことで、さいころの目ではなく、情報源の正しさに目移りしてしまうことで、ものごとを更に複雑にしているのだ。これが情報錯綜の理論なのだろう。

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0925:「本当」の自分と「嘘」の自分

 多くの人に囲まれている中、自分の本当の気持ちを表に出すことができず、自分の本当の意見を言うことができず、「本当の自分」であることができず、「嘘の自分」を自らで演じる。そんな辛い状況の中で人は、「自分が自分でいられる場所」に戻りたいと時に感じるかもしれない。

 けれどもそんな「自分が自分でいられる場所」にいる時でも、辛さはある。むしろ「本当の自分」でいることによって、また違う辛さを味わうことが時にある。

 僕は一人でいると、時に泥沼にはまり込んでいくことがある。色々なことを考えているうちに、論理の落とし穴にはまり、感情の渦に巻き込まれ、どうしようもない状況に陥っていく。そしてその状況を自分でどうすることもできない。そんな時はむしろ人が恋しくなる。「自分が自分でいなくて良い場所」に逃げ込みたくなる。

 そんなことを考えていると、結局自分には嘘も本当もなく、みんなといる時の自分も一人でいる時の自分も同じありのままの自分なのだということに気付く。多重人格なんて仰々しいものではないけれど、少なからずひとりの人格には色々な面があって、それが時と場合によって違って表れているに過ぎない。自分に嘘も本当もなく、むしろ「本当の自分」などと考えることによって、ホントは自分の一部である自分を切り捨てようとして、いらぬ痛みを感じているのではないかと思ってしまうのだ。

 僕は僕であるけれども、僕が何であるかは結局僕自身もよく分からない。そんな中自分をああだこうだと決めつけてしまうのは、自分の思い上がりなのかもしれない。

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0924:Safty Point

 友達がシューティングゲームをやっていた。画面を埋め尽くすほどの敵のミサイルを、彼はいとも簡単によけていく。聞くとまず死ぬことはないSafety Pointがあって、場面場面でそのPointを見極めているのだそうだ。

そんな安全な場所というのは会話の中にも存在する。

例えば野球選手のヒーローインタビューでこういう。

「ファンのみなさんのために頑張りました。」

あるいは取り組みに負けた力士の言葉。

「今回の取り組みを次に生かしていきたいです。」

当選した政治家の言葉。

「有権者のみなさまの一票一票に答えるべく、誠意一杯活動していく所存であります。」

不祥事を報告する取締役の言葉。

「全く持って遺憾なことであり、今後このようなことが起こらないよう鋭意努力していく所存であります。株主の皆様にはこれからも変わらぬご指導ご鞭撻の程をどうぞよろしくお願いします。」

 会話の中で発言が求められたとき、とりあえず荒波も何も立たない「安全な発言」をすること、Safety Pointを見極めてその場所に逃げ込むこと。それは処世術の第一のポイントなのだろう。

 ちなみに僕のSafety Pointは「整理と分析」。物事を深く整理し分析するが、それに対する可否は言わない。それが僕のSafety Ponint

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0923:「なる」夢と「する」夢

将来の夢は?と聞くと、

「消防官になりたい」

「歌手になりたい」

などの答えが返ってくる。つまり将来の夢は?という質問を、将来何に成りたいかと解釈して答えているわけだ。

けれど何かに成ることだけが夢ではない。

「環境問題を解決したい」

「新しい事業を興したい」

将来何をしたいかだって十分に夢であり、そしてそれは「なる」夢よりも時に難しい。

「なる」夢と同時に「する」夢を持つことも、人生においては大事なのだろうと僕は思う。

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0921:話し口調の文章

学園祭回顧録の方が今日は間に合いそうにないので、違う文章でお茶を濁させてもらいます。

回顧録を書いていて気づいたのですが、僕が文章を書くようになったきっかけは、中学三年の時に生徒会関係で、色々な挨拶を書いていたことだと思います。ただ基本的にその文章は「挨拶」なので、声に出して読む「話し口調」の文章が多かったです。

その影響は今にも残っているようで、僕の文章で読点(、)が多めになるのも、声に出して読む時の息継ぎ箇所ごとに読点を打っているからなのでしょう。普通の文章としては読みにくいですね。

ちなみに詩的表現を使うようになったのは、高校1年から聞き出したSing Like Talking の影響でしょうね。

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0917:子供の質問#1「白と黒」

Question:

ある法廷ものの映画を見ていた時の子供の質問

「黒を白にするって、何でそんなことができるの?」

Answer:

白いものは、どこから見ても白いわけじゃないんだよ。あるところからは白く見えても、他のところから見ると黒く見えることだってあるんだ。

反対に黒いものも、どこからみても真っ黒けというわけじゃなくて、他のところから見れば白く見えることだってあるんだ。

黒を白にするというのは、そんな黒が白く見えるような場所を見つけてあげて、みんなにこの場所から黒を眺めてみようと誘ってみることなんだ。みんながそこから黒を見れば、それは白になっちゃうからね。

…少し苦しいかな。

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0914:Word Master

将来就きたい職業はと聞かれると答えに詰まるけれども、将来成りたいものはと聞かれたら幾つか答えることができる

その一つが「WORD MASTER」だ。説明上手、翻訳上手、説得上手、交渉上手、表現上手、質問上手、などなど、言葉を自由自在に駆使し、生活の様々な場面に応用していく「WORD MASTER」。いうならば「言葉の達人」

いつかその道を極めてみたい。

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0913:「武器」としての正義

正義とは何か。それに対する一つの答えとして「武器」としての正義がある。自分の心に留め置くものでも、信念の上に掲げるものでもなく、敵を滅ぼすための「武器」としての「正義」

例えば戦争で掲げられる「正義」は、自国を連結させ相手を滅ぼすための、巨大な武器となるのだ。

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0911:言語に隠れた不確実性

 世の中は不確実なことだらけだ。僕たちは未来のことは何も分からない。過去に起きたことでさえ、それが確かに起きたことかを調べることはできない。隣にいる人が本当は何を考えているかも、分からない。こんな世の中では、確かなことなど何も言えない。何も言えないのだが、けれども人間の使う言語というのは、そうはできていない。

 言語は全て「AはBである」という断定を基本とする。現実の世界ではそうありえないことなのに、通常の会話はほとんどがこの断定口調で語られる。その口調は時に私たちに、世の中が不確実であることを忘れさせる。けれどもそれはただ、その口調の響きに酔わされているだけなのだ。私たちは常に世の中が不確実であることを、忘れてはならないのだ。

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0910:木を隠すなら森を作れ

「真実」を隠す最適な方法は何か。それは嘘の情報をたくさん流すことである。そうすることで「真実」は大量の「情報」の中に埋もれ、それを探し出すことも困難になり、それが「真実」であることも定かでなくなる。悲しいかなこれは現実の至る所で使われている手法である。

ではそんな「森」の中から真実である「木」を探すには、いったいどうしたらいいだろうか。

それは結局自分の頭で考えるしかない。様々な情報を集め、自分自身で知識を身につけ、それらを論理的に考えて自らで木を探すしかない。

たくさんの情報にありふれた現在、そんな森の中を生きて行くには、自分で「木」を探し出す方向感覚を身につけるしかないのだろう。

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