blowing wind Daily Essay
* [Vol.10] 2001年1月のエッセイ

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* 0128:One Call Sign
* 0126:過去への執着
* 0120:ただでは起きない
* 0115:社会とのキャッチボール
* 0111:知のからくり#2「類推」
* 0108:儀式という転換点
* 0106:属するもの


0128:One Call Sign

 真夜中の電話というものは妙に気になるもので、しかも出る前に切れてしまった時などは、気が気で眠れもしなくなる。僕は寝る場所と電話が結構遠い位置にあり、電話に出るまでに10秒+(布団から出るのに決心する秒数)だけかかるので、出る前に切れてしまうことが結構ある。そんな時は誰からだろうか、どんな用事だろうかと、つい色々と考えてしまうものだ。

 けれど電話に出なくても、あるいは「One Call」しか電話がならなかっただけでも、それで全てが理解できる時がある。例えば寝坊して約束の時間に遅れてしまったときのOne Call、または原稿の締め切りをとうに過ぎている時のOne Call、または合否の結果待ちの際のOne Call、あるいは友達との飲み会の後のOne Call。たとえOne Callでも、それが誰からのものですらわからなくても、その相手を、そしてその相手が伝えたい内容を、僕らはつかむことができる。それは僕らが周囲の状況や自分の置かれた状況によって、そのOne Callを解釈し推理することができるからだ。つまりOne Callという「Sign」さえあれば、僕らはその意味を様々な形に展開することで、そのSignを解釈することができるのだ。

 以前「言葉の色」という文章の中で、「言葉」だけでは多くの意味を伝えることができないと書いた。けれど逆に、「誰かが自分に何かを伝えたがっている」というサインだけで、僕らは何らかの意味をつかむことができる。ましてその相手が分かるのならば、つまり「あいつが俺に何かを伝えようとしている」というサインにさえ気づいたのならば、そこから実に多くの意味を僕らは発掘することができるだろう。

 サッカーなどでよく使われる「アイコンタクト」。けれどもアイコンタクトは、実に多くの場面で使われている。例えば客が並び始めたときに、コンビニの店員がちらっと他の店員の方を見やる。または予想外の質問で四苦八苦している講演者が、ちらっと先生の方を見る。そんな何気ないアイコンタクトを、僕らはごく日常的に行っている。もちろんそこには「表情」などのほかの多くの情報も含まれているけれども、単に「目が合った」という事実からだけでも、その瞬間に多くの意味を拾い上げることができるのだ。

 真夜中に突然鳴り、出る前に切れた電話。誰からだろうとは思うけれども、こんな時間にかけてきて、しかも数秒で切れたということで、ある程度の予想はつく。自分の心に余裕があるときならば、このような電話もまた楽しいのかもしれない。

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0126:過去への執着

 過去から未来へと続く長い旅路を歩む中では、時に過去を過去として決別することが求められる。しかし過去と決別することは、そう口でいうほど簡単なものではない。それはその過去の出来事に、長い時間と膨大な努力を積み重ねてきたのならなおのこと、自分の中で多くの部分を占めてきたそんな出来事を、過去として決別することなど容易にはできない…

 上の文章は、以前僕が「過去の余韻」の中で書いたものである。人は過去を積み上げながら生きており、そしてその積み上げられた過去は、その人に思い出や誇りを与えてくれる。しかし果てしない未来を見据えるのならば、その自分が積み上げてきた過去というものと、決別する勇気が時に求められる。もちろんそれは簡単なことではない。しかしただ過去に固執し、その過去の思い出や誇りにとらわれているだけでは、「過去の余韻」に浸っているだけでは、決して未来へと足を進めることはできないのだ。

 そしてそんな「過去への執着」とは、僕らが知らぬ間にふと陥ってしまうことである。例えば自分が関わった仕事や、自分が成し遂げた作品などは、ただ自分がそれに苦労したというだけで、ついひいき目に見てしまう。あるいはそれらの仕事や作品が批判されると、つい感情を荒立ててしまう。それはその人が「過去」に執着しているからに他ならない。

 そんな「過去への執着」は、大事なことでもあるが、しかし判断を鈍らせるものでもある。経営学で「サンクコスト」(sunk cost = 沈んだコスト、過去のコスト)という言葉があるが、過去にどんなコストを払っていたとしても、その事は現在の意志決定とは無関係である。たとえある事業に10億や20億の投資を過去にしていたとしても、今判断するべき事は、その事業が将来にわたりどれだけの利益を生み出せるかであって、それは過去の投資と関係ない。しかし多くの人は、過去の投資を「もったいない」と感じてしまい、その過去の投資に執着することで、理性的な判断を下すことができなくなる。

 また経営だけでなく、例えば論文を書くときなども同じである。自分が苦労して書いた論文を、例えば先生などにチェックしてもらうと、色々と訂正されて返ってくる。または苦労して何らかのイベントを実行したとしても、それを見る来場客の中には、批判的な感想を述べる人もいる。自分がそのことに苦労していればいた程、そのような訂正や感想は心に強く突き刺さるものであり、時には反感さえ覚えてしまう。

 しかし先生や来場客は、たいていは善意から、その論文やイベントをより良いものにするために、あえて問題点や欠点を指摘しているに過ぎない。そして論文やイベントをより良くすることは、自分がそれにどれだけ苦労したかとは関係ない。どんなに苦労していたからといって、間違いは間違いであり、欠点は欠点である。良い論文を書き上げるためには、面白いイベントを完成させるには、批判は批判として受け止め、それに精一杯対応していく必要がある。けれども「過去への執着」は、なかなかその真摯な態度をとらせてはくれない。

 自分が過去にした苦労は、やはり報われて欲しいと思うし、それを誰かにねぎらって欲しいとも思う。けれどもそれだけを願っては、論文そのもの、作品そのもの、イベントそのものの完成度を上げることはできない。自分の最終目的が良い論文を書き上げること、良い仕事を為すことであるのならば、自分の中に存在する「過去への執着」を捨て、わだかまりを捨てる必要がある。それはとても大変なことだが、しかしそれは、最終的には自分にプラスとなって返ってくるものだと、僕は思うのだ。

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0120:ただでは起きない

 僕が高校生だったある冬のこと、自転車で学校に通うのが流行った時期があった。そんなの当たり前じゃないかと思う人もいるかも知れないが、実家の山形は冬に雪が降るので、雪道を自転車で通うのは結構難しい。また地面が凍って滑りやすくなったりもするので、そこを無理していくとすてんと転んでしまう。そんな困難に満ちた雪道や氷道を、あえて自転車で通うのが、一時期仲間うちで流行った時があったのだ。

 僕もその中のひとりだったので、よく駅から学校までの雪道や氷道を無謀にも自転車で通ったりした。それで当然のごとく、何回かは自転車ごとすべって転んだ。大方登下校の時というのは回りにたくさんの人がいるもので、そんな中一人自転車でこけるというのは結構恥ずかしい。一度は女子高生の大群のまん前で転んだときもあった。そういう時は、内心とても恥ずかしいのだけれども、周囲の笑い声をまるで気にもしていないようにすくっと立ち上がって、何事もなかったように立ち去ったりしたものだった。

 けれど今にして思うと、その立ち去り方は悪かったのではないかと思う。人間転んだりした時は、恥ずかしさのあまりすぐに立ち上がって、逃げるように去っていくか、あるいは子供の場合だったら、恥ずかしさや痛さが限界に達して、その場でうずくまって泣いてしまうかなどするが、どちらの場合も、自分が「転んだ」という「事実」から遠ざかろうとすることに変わりはない。ある人はその場から立ち去ることでその「事実」から逃げ、ある人は感情を爆発させることで、心の中でその「事実」から逃げる。しかしその「事実」から逃げようとしたところで、自分が転んだというその事実は変わりようがない。

 「転んでもただでは起きない」という言葉があるが、それはまさにその通りで、転んだ時は自分が転んだというその事実から逃げてはだめなのだ。すぐには起きないで、注意深く周囲を観察して、例えば自分が転んだ原因を考えてみる。何かにひっかかったのか、それともスピードが出すぎていたのか、ハンドルを切ったときに滑ったのか、そんな色々な原因を考えてみる。または自分が転んだときの周囲の環境を、つぶさに観察してみる。ある女子高生は友達と大声で笑ったが、くすっとだけ笑って去っていた人もいるし、または気にしていないようなふりをしている人もいる。自分が転んだその場所は、あるいは自分が転んだというその事実の中には、多くの観察し考えるべきものごとが含まれている。言うならば一つの「フィールド」であり、そこから逃げてしまうのはあまりにももったいない。「ただでは起きない」ためには、恥ずかしさや痛さを通り越して、自分が転んだというその事実に真正面から向き合う勇気と度量が必要なのだろう。

 と、自分が転んだことに対してここまで言い訳をする人間も珍しいかもしれないが、もちろんこれは「転ぶ」ということだけに限らず、「失敗」というもの全てにいえることだと僕は思う。なんて、こんなことを考えてしまうのも、実は転んだ時の恥ずかしさから逃げるための、一つの方法でしかないのかもしれないが。

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0115:社会とのキャッチボール

 「僕らは成長するにつれて、ある日突然「社会」から一つのボールを受け取る。いきなり投げかけられたそのボールに、僕らは最初は戸惑うかもしれない。どうすれば良いかもわからず、その扱いに四苦八苦するかもしれない。けれどやがて僕らは、ある人は半信半疑で、またある人は確信をもって、そのボールを再び社会へと投げ返す――青春期とは、そんな「社会とのキャッチボール」を、僕ら自身の意志で始め出すときに他ならない」

 僕がまだ高校生だったとき、確か何かの記念で加藤先生という先生の講演を聞いた。その講演の中で先生が使った「社会とのキャッチボール」という言葉は、当時の僕にはかなり印象的な言葉であった。あれから5年近くたって、一生懸命その意味を思い起こしてみたが、もしかしたら少し思い違いがあるかもしれない。けれど「社会とのキャッチボール」という言葉は、今改めて思い直してみても、何か不思議で印象的な感覚を、僕に与えてくれる。

 ここでいう「社会」とは、そんなに大げさなものではないのかもしれない。例えば親や兄弟、あるいは友人、あるいは同僚、僕らはこの世界で、たくさんの人たちにボールを投げかけ、そしてたくさんの人たちからボールを受け取っている。テレビを見れば一方的にたくさんのボールが投げかけられるし、電子メールや携帯を使えば、遠くにいる色々な人にもボールを投げかけることができる。人はこの世の中で、他者とのコミュニケーションなくして生活することはできない。

 そして僕らはこの世を生きていくことで、自らの体を、自らの意志を、自らの存在そのものを、「社会」という大きな存在に向かって投げかけている。あるいは「現実」と言った方が良いのかもしれない。僕らはこの巨大なる現実という壁に向かって、「生きる」という行為を通して、精一杯のボールを投げかける。そしてその結果が、またボールとなって投げかけられる。僕らはそれを投げては受け取り、投げては受け取る。その繰り返しはやがて、「未来」という時をつむいでいく。

 「この世界で僕らはいったい何をしてるのか」という問いかけは、あまりに唐突で漠然としすぎていて、それに答えを出すことは難しいかもしれない。けれど「僕らは社会との果てしないキャッチボールを続けている」、とそれに答えることは、それほど間違っているとも思えない。たくさんの人たちとの、社会との、そして現実との絶え間ないキャッチボール。それこそがまさしく「生きる」ということなのではないだろうかと、ふと、考えたりもしてしまう。

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0111:知のからくり#2「類推」

 僕らが生きているこの世界に比べて、僕らが覚えられる知識というのは限りなく小さい。例えば歴史や文化にしても、せいぜい僕が知っているのは日本と、あとは伝え聞くアメリカやヨーロッパの文化(これも本当に正しいとは限らないが)だけで、後は知らない。また学問の分野や、あるいは産業界の業種にしても、コンピュータとか環境関連の一部は多少知っているが、それ以外のところはあまり知らない。

 僕らが生きている世界は、僕らの持つ知識よりもとてつもなく広い。それは以前僕が「小さな社会」の中で書いたことでもあるが、この広大な「世界」において、人間一人が直接関われる「社会」というのは、限りなく小さい。けれど僕らは、僕らが直接関わりはできないその広大な「世界」について、まったく理解できないという訳ではない。人間には、自らが持つ知識に関連付けることによって、新しい何かを理解する「類推(アナロジー)」という能力がある。この類推により、僕らは自分が直接知っているものばかりでなく、まったく見たことも触れたこともないものについても、それを「類推」して考えることで、間接的に理解することができるのだ。

 「一つの道を極めた人は全てに通ず」という言葉があるが、これができるのは、一つの道を極めたことによって得た知識を類推して、他の道を理解することができるからだと僕は思う。例えば学問の分野においても、ただ広く浅くものごとを学ぶよりも、何か一つの分野について深く勉強した方が良いとよく言われる。また様々な職業を渡り歩くよりも、一つの職業に専念したほうがよいとも言われる。「一つの道を極める」ということは、「専門家魂」とか「武士道」などを尊ぶ僕らの価値観と絡まって、何かかっこいいもののように思えてしまう。

 けれども「全てに通ず」ためには、何か一つの道を極めると同時に、僕らが持つ「類推」の能力をも極めなくてはいけない。そして「類推」の能力を極めるためには、多くの分野に常に触れながら、新しい事柄を一生懸命「類推」して理解しようと努力していくしかない。一つの道を極める努力をしながらも、そこで得た知識を常に他の新しい分野へ応用しようと試みる、その努力の積み重ねが、やがてはその人を「全てに通じ」させるのだろうと、僕は思うのだ。

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0108:儀式という転換点

 今日は成人の日。しかも雪。確か4年前も2年前も、成人の日には雪が降っていたような気がする。男ならスーツだからまだ良いが、振袖姿の女性はかなり大変だろう。もしかしたら成人の日は、2年ごとに大雪が降る定めなのかもしれない。

 ところで成人の日というと、成人式がまず思い浮かぶ。主席率の低さや態度の悪さなど、何かと話題に上ることの多い成人式だが、そもそもなぜ、成人の日にこのような「儀式」が行われるのだろうか。このような儀式は何も成人式だけに限らない。例えば入学式や卒業式、入社式や創立記念式、結婚式や葬式、僕らは何かにつけては「式」と名のつくものに出席する。果たしてこのような「儀式」には、どのような意味があるのだろうか。

 「儀式」の役割というと、ちょっと話が大きすぎて、そこには様々な立場からの様々な考えがあるだろう。例えばある人は、そのようなものは形骸化していて、単に伝統に固執しているに過ぎないと言うかもしれないし、ある人は「儀式」というものを行い繰り返していくことで、その社会やその組織が徐々に固定化していくのだと言うかもしない。それらを考えてみるのも実に面白いのだが、でも僕が興味があるのは「個人」にとって「儀式」とは何であるのかということだ。

 僕らは普段の生活の中で、無意識のうちに自分だけの「儀式」を行っている。例えば仕事に行く前に必ずコーヒーをブラックで飲むとか、試合の前は必ず神社にお参りに行くとか、あるいは思い沈んだ時に、鏡の自分に向かって「大丈夫!」と強く言い聞かせるとか、ジンクスやちょっとした習慣と言っても良い「儀式」を、僕らは普段何気なく行っている。

 ここで「儀式」というのは、自分をある状態からある状態に転換させるために行う、ある決まった動作のことを指している。例えば仕事にとりかかるとき、あるいは自らを奮い立たせるとき、そんな時にちょっとしたことを行ってみる。その行う内容にはあまり意味はないかもしれない。仕事に行く前にコーヒーをブラックで飲もうがミルクを入れようが、あるいは抹茶を飲もうがそれ自体はあまり意味がないかもしれない。しかしそんな自分にとっての「儀式」を行うことで、自分の中で何かが変わるのだ。

 自らを転換させる、「転換点」としての儀式。人生の節目節目に様々な儀式を行うのは、この転換点をより強く意識させ、自分の中の何かを変え、何かを決心させるために他ならない。別に僕らは意識しなくても年をとるし、意識しなくてもいつのまにか成人になる。しかしその成人になる直前に、成人式という扉を設けることで、僕らは「これまで」「ここから」が大きく違うことに気づかされ、そしてその扉を開ける決心を迫られる。そうして開けた扉の向こう側の景色は、ただ何気なく通過するだけでは見られない、別の輝きを放っているに違いないと、僕は思うのだ。

 今日は成人の日。今までの自分とこれからの自分とを強く意識し、何かを考え、何かを決意する日。そのために行う儀式が、必ずしも市や町の成人式に参加することではないかもしれない。けれども成人の日という節目の日に、自分の中で成人式という儀式を行い、昨日までの自分を明日からの自分に転換させることは、きっと大切なことなのだろうと、僕は思うのだ。

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0106:属するもの

 僕らは常に「属している」。学生なら学校に、サラリーマンならその会社に、市民ならばその町に、国民ならその国に、幼い子供ならその親になど、僕らは常に、必ず何らかのものに属している。

 そして僕らはその属するものから、多大なる影響を受けている。加熱する国際市場においては、僕らは自らが属する会社の生存競争に駆り出され、また国家間の争いにおいては、国の存亡を賭したその戦場へと徴兵される。また同じ国、同じ会社の中でも、さらに小さな市町村や部署に所属している僕らは、その部署同士の権力争いや既得権をめぐる争いなどにも駆り出される。そんなさまざま争いの中で、いつの間にか僕らの中には、その会社や部署の様々な文化や価値観が染み込みはじめる。そしれそれらのものは、自分の思考や行動を無意識のうちに支配する。

 人は「組織」に属している限り、決してその「組織」の呪縛から、いい意味でも悪い意味でも抜け出すことはできない。しかしこの世の中においては、人は何らかの組織に属さずに生活することはできない。国や町、会社や部署、業界や派閥、人は少なからず何らかの「組織」に属し、そして組織間の競争や抗争に、少なからず巻き込まれる。「組織」は僕らの身近にある切り離すことのできない存在であり、そしてその「組織」の生存競争は、僕らの思考や行動を縛るその一方で、この世を生きる喜びや動機を、少なからず僕らに与えている。

 しかし僕らには「組織」だけでなく、もうひとつの属すべきものがあるはずである。そしてその属すべきものとは「夢」であり「理想」である。何かを成し遂げたい、あるいは何かを実現したいという夢や理想、それらを強く心に抱き、その実現に生を傾けることは、その夢や理想に自らを属すことに他ならない。自らが属する夢や理想を持たない限り、人はただ自らが属す「組織」に支配され、やがてはその「組織」の生存競争の渦の中で、ただ翻弄されてしまうのではないだろうか。

 僕らが生を賭して挑むべき戦場とは、組織の生存競争ではなく、その背後に潜む、夢や理想の「実現競争」なのではないだろうか。夢や理想は人それぞれであり、時には対立するものもあるであろう。そしてそれらを実現させるためには、いくつもの夢や理想との、そしてそれに属する人々や組織との、幾重もの競争を勝ち抜いていかなくてはならない。この世の中において競争はもはや不可避である。そしてそうであるならば、その競争に翻弄されないためには、自らが属する夢や理想を自らがしっかりと定めていくことが、大切なのではないかと僕は思うのだ。

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