blowing wind Daily Essay
* [Vol.11] 2001年2月〜5月のエッセイ

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* 0506:競争の本質#1「果て無き競争」
* 0505:出口のない迷路
* 0429:myReligion#1「内なる信仰」
* 0420:Voluntary Duty
* 0218:流れる時の記憶#5「時の加速」


0506:競争の本質#1「果て無き競争」

 今の世の中ほど「競争」という言葉を耳にする時代はない。というと少し言い過ぎかもしれないが、しかし毎日を生きていれば、僕らは必ず「競争」という言葉を耳にする。新聞にしろ、テレビにしろ、あるいは授業にしろ、書籍にしろ、「競争」という言葉は僕らの至るところにあふれている。そしてそれが象徴するかのように、僕らは実にたくさんの「競争」に、意識的にであれ無意識のうちにであれ、意図的にであれ強制的にであれ巻き込まれる。受験戦争、出世競争、生存競争、国際競争などなど、もはや「競争」は僕らにとって不可避な存在となっている。

 「競争」という言葉が出てくるとき、そこに抱く思いは人それぞれであろう。ある人は競争など無くしてしまう方が、住み良い社会を作ることにつながると言うであろう。ある人は人間が手を抜き堕落してしまわないためにも、競争というものは必要であるというであろう。「競争」というものが、一方ではその社会に、組織に、そして個人に生きる「目標」「生きがい」を与え、社会の英知を、組織の資源を、そして個人の能力を最大限引き出し活用する原動力となっているのは、確かであると僕は思う。しかしその一方で、「競争」というものが社会を、組織を、そして個人を勝者と敗者とに分け、社会の安らぎを、組織の余裕を、そして個人のゆとりを奪ってしまうのもまた確かであると思う。競争は現代社会の隅々まで浸透し、あるときは活力を生み、あるときはゆとりを奪う。そしてそうであるならばこそ、僕らはこの「競争」というものの本質を、的確に見極めなければならない。

 競争の本質を考えたとき、まず競争には「ルール」があることを押さえなければならない。競争とは「優劣を競い合う」ことである。そして「優劣」をつけるには、何らかの基準となるルールがなければならない。そして競争を実現するためには、それらのルールを守らせる、あるいは個人が競い合うための環境がなければならない。どんな競争であれ、そこには必ず何らかの基準と環境がある。例えば生存競争なら、この競争を行う場は「地球」という環境であり、基準とは「生き残る」「死滅する」かである。そして地球上で競争する以上、そこには重力なり、天候なりの様々な条件が、言うならば大自然という審判が存在している。そこで競い合う生物は、それらのルールに従わざるを得ない。

 競争には「ルール」がある。そして競争に参加するということは、暗にこの「ルール」に支配されることである。市場競争に参加すれば、必ず「市場」のルールに支配される。自分にとって都合の良いルールであれば別に構わないが、そうではない場合は、競争に参加する前に十分な注意をしなければならない。競争の前にはすでにルールを巡る競争が存在している。どんな主体も、自分にとって都合の良いルールを敷き、そこに他の多くの主体を参加させようとする。グローバルマーケットという言葉も、一面では全世界を競争に巻き込もうという目論見があり、そしてそこで適応されるルールは、いわゆる「大国」にとって有利なルール、すなわち「市場」というルールなのであろう。

 競争にはルールがあり、そしてその「ルール」を敷くこと自体、競争に他者を参加させること自体にすでに競争がある。すなわち競争の前には競争があり、そして競争の後にも競争がある。この果て無き競争の中で、一体僕らは何を目指すのか。そして何故、僕らは競争をするのか、しなければならないのか。競争が不可避であるのならば、その競争の本質を捉えることもまた不可欠である。そしてそのためには、競争にまとわりつく様々な問いかけに、僕らは答えていかなければならないのであろう。

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0505:出口のない迷路

 僕らは日常の生活の中で、あるいは自らの仕事の中で、解決しなければならない様々な「問題」にぶち当たる。例えば日常の生活では、今日の夕飯は何にしたら良いのかや、病気の時にどの病院に行けば良いのかなどの問いに迷わされる。また自らの仕事に関しては、新しい顧客を獲得するにはどうすればよいのかや、新しい提案をどのように実現させていけばよいのかといった問題に直面する。場合によっては、不法入国しようとした某国の重要人物をどのように対処したら良いのかといった、政治的にも困難な問題を自らが対処しなければならないことがあるかもしれない。そしてこれらの問題に対処していくために、僕らはある時は情報を集め、ある時は他人に意見を求め、そしてある時は自らで思索を重ねながら、何とかして「正しい解」を得ようと試みる。

 しかし「問題」には、そもそも「正しい解」が存在する問題と、存在しない問題とがある。もし「正しい解」がどこかに必ず存在するのであれば、その問題に直面した時、情報を集め、意見を求め、思考を重ねながら「正しい解」を解き明かすことは、意味がある行為であろう。しかしもし「正しい解」が存在しないのであれば、そのような行為は全て無駄となる。そんなことをするよりも、むしろ「何をするか」はさいころの目などにまかせ、その後にある「どうそれを実行に移すか」に力を注いだほうが、有意義になる。

 そしてもっとも困難なことは、僕らが直面する、そしてその対処に苦労するたいていの問題というのは、その「正しい解」が存在するかどうかが、一目では分からないことだ。そのため僕らは、とりあえず情報を集め、意見を求め、思考を重ねることで、「正しい解」があるかどうかを探ってみる。それらの行為により、ある一定までは「正しい解」に近づくことができるかもしれない。しかしそこからは、どうやっても「正しい解」に近づくことはできない。むしろ情報を集めれば集めるほど、意見を求めれば求めるほど、思考を重ねれば重ねるほど、何が「正しい解」かが分からなくなり、そして終いには泥沼にはまり、ただただ苦しむだけとなってしまうのだ。

 そもそも僕らが直面する問題には、完全に「正しい解」などはめったに存在しない。どんな解にたどり着いたところで、必ず正しい「かもしれない」というように、不確実性がその解にはまとわりつく。そしてこの不確実性は、どんなに頑張っても払拭することはできない。どんなに調べたって、人に聞いたって、考えたって、分からないものは分からない。しかしそんな「不確実」な解に、そして「不可能」な問題に挑むことで、人は自分を泥沼へと落とし込んでしまう。言うならば自らを「出口のない迷路」にはめ込んでしまう。そして決して見つけることのない「出口」を探しながら、果てのない迷路でただ苦しむのだ。

 そんな「出口のない迷路」に陥らないためには、そもそも出口など探さなければ良い。目の前にある交差点が右、左に分かれていたとして、そのどちらが正解かなどに悩まずに、さっさとどちらかを決めて進んでしまえば良い。何百何千もある可能性に悩んだところで、実際僕らができることは右と左のどちらかを選択し、そして進むだけである。不確実性がまとわりつく「問題」では、そもそも「解」とは探し当てるものではなく、決意し、創り上げるものである。自らで右、左を判断し、その判断を信じて進んでいけば、そしてそれに運良く「結果」が伴えば、その判断は「正解」となるし、運が悪ければ「誤り」となる。人為の届かぬ天の定めるところをいちいち気にしていたのではやっていけない。思考の袋小路に陥らぬためには、出口のない迷路に陥らないためには、そんな開き直りも重要なのだろうと、僕は思うのだ。

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0429:myReligion#1「内なる信仰」

 日本人は「無宗教」であるとよく言われるが、しかし本当の意味で「宗教」「無い」人はほとんどいない。「宗教」をキリスト教や仏教のような、ある程度広範囲に普及している特定の教えのことを指すとするのであれば、確かに僕は「無宗教」であり、特に信仰している教えはない。けれどもし「宗教」を、この世を生きていく上でその人が心に持つ何かしらの信念や信条、そして信仰と捉えるのであれば、それはどんな人であっても、必ず存在するものであろう。「宗教とは何か」というと話が広がりすぎるが、少なくとも「個人」にとって「宗教」とは、この世を生き抜くための力を、この世を生きることの意義を、そして根底にあるべき価値観やルールをその個人に与え教えてくれるものである。それがキリスト教なりの特定の信仰に結びつく必要はないかもしれないが、けれどどんな人であっても、そんな「内なる信仰」、my religion は確かに存在する。

 そんな自分の「内なる信仰」は、自分が育った環境により、周囲の人々との何気ない触れ合いにより、無意識のうちに形成されていくものである。そしてその一方で「内なる信仰」は、自らの「意志」により選択され、融合され、そして創造されていくものである。おそらく人は「宗教」という言葉に出会った時から、「宗教」という概念に気付いた時から、自らの「内なる信仰」を選択し形成する「権利」「責任」を手にするのだろう。それは以前「成長の転換点」で触れた、「教育」という言葉と概念との出会いが、「受動的な教育」から「能動的な成長」へとその身を転換させることにつながることと、もしかしたら同じことなのかも知れない。

 僕の心の内にも、そんな「内なる信仰」は確かに存在する。けれどいざそれを言葉にしようとすると、なかなか言い表す言葉が見つからない。中には気付きもされていない信念もあるのだろう。ただそんな僕の「内なる信仰」は、ある時は意識的に、ある時は無意識のうちに、僕の行動や文章の中に、確かに表れているし、埋め込まれている。そして今日書いたこの文章の中から、そんな自分の信念を発掘するとするのならば、それはきっと「自らのことは自らで考えて自らで決定する」というものであろう。今まで書き連ねてきた様々な文章の中から、そんな自分の内なる信仰を発掘していくのも、またおもしろいかも知れない。

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0420:Voluntary Duty

 誰かに何かを「させる」ことは思うよりも難しい。まして相手がそれを「やりたくない」と思っている時、そんな相手にそれを「させる」には、説得するなり、対価を与えるなり、あるいは罰則を与えるなりの様々な工夫が必要になる。そしてその際には説得力や財力、あるいは強制力といった、何らかの「力」が求められる。しかしそのような「力」を持つことは、並大抵のことではない。

 けれども一方で、僕達は特に誰かから頼まれなくても、説得されなくても、対価をもらわなくても、あるいは怒られるわけではなくても、自分がそれほどやりたいとは思わない、あるいは全くやりたいとも思わないことがらを、やらなくてはならないはめになることがある。ある時は周囲の見えない視線から、ある時は心の内の良心の呵責から、ある時は幾重にも張り巡らされた深い策略から、僕達はさほどやりたくないその事柄を、「自発的」に、自らの意志でやらなくてはならないことがある。

 そんなとき、たいてい僕らは何らかの「義務感」にとらわれている。明確な「義務」があるわけではないのに、何故かそれを「やらなくてはならない」という義務「感」にとらわれている。言うならば自発的に、自分自身に「義務」を課している。そんな「自発的な義務 〜Voluntary Duty」は、いったい何故生じるのか。

 このVoluntary Dutyは、別に悪いものであるとは限らない。自分がそれを「やらなければ」と思うのは、好き嫌いに関わらず自分が従うべき「理念」というものが、自分の心の中に存在するからに他ならない。しかし「義務感」「使命感」とは違う。「義務」「使命」ほどに自分の中で肯定されていないし、悪く言えば正当化されていない。やらなければという心の一方で、それをやることへのためらいが、「義務」という言葉にはまとわりついている。そしてそのためらいを「義務だから」という説明によって、半ばあきらめることによって、自分自身を納得させている。つまりVoluntary Dutyでは、その従うべき「理念」に対して、一定の「違和感」「ためらい」を抱いている自分がいることも、また確かなのである。

 自発的に自分自身に課す義務。もし自分がそんなVoluntary Dutyにとらわれているのなら、その「義務感」がどこから生じたものであるのかを、一度は考えてみる必要があるだろう。それにより自分自身が暗に信じている「理念」というものが見つかるかもしれない。そしてあるいは、自分自身の中にその「義務感」を生じさせた他人の「策略」というものに気付くかもしれない。自発的な義務は「善良な人」、悪く言えば「お人良し」であればあるほど生じやすいし、とらわれやすい。「善人が損をする社会」には、そんな「善人」が自分自身に自発的に「義務」を課す仕組みが、社会のどこかに存在している。そんな仕組みに気付いて、無用な「義務感」を抱かないように生きていくのも、このような社会では必要なスキルなのだろうと、僕は思う。

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0218:流れる時の記憶#5「時の加速」

 新しく何かを始めることは、それを続けることよりも難しい。新しく何かを生み出すことは、それを批判することよりも難しい。しかし既存の何かを変化させることは、新しく何かを始めることよりも、新しい何かを生み出すことよりも、難しいのである。

 全ての現実、全ての物事は「速度」を持つ。すなわちある決まった方向へ、ある決まった速さでもって進んでいる。そんな速度を持った物事を、違う方向に変化させたいと思うならば、その向きを変化させるだけの「力」を加えなければならない。もし「逆方向」へと変化させる必要があるのならば、今の速度を打ち消すだけの「力」を加えなくてはならない。ゆえに「速度」 を持った物事を「変化」させることは、新しいものごとを作り上げ、それに「方向」「速さ」を与えるよりも、難しいのである。

 そして「時」は全てを「加速」させる。すなわち全ての現実、全ての物事は「加速度」を持つ。一日たてば一日だけ、一年たてば一年だけ、時は全ての現実、全ての物事の速さを加速させる。すなわちその方向へ進んでいる時間が長ければ長いほど、その物事が持つ速度は加速され、それを変化させることはさらに難しくなる。伝統、慣習、あるいは既得権。世の中には時の加速を長い年月受けることにより、その身を絶対的な地位まで押し上げてきた物事がいくつも存在している。

 「今日できることを明日するな」という言葉がある。この言葉は、いつまでも問題を先送りにしているといつまでたっても解決しないという教訓を意味しているが、しかし「時の加速」も考えるのならば、さらに奥深い教訓を秘めている。それはすなわち、同じ物事であっても今日それを変化させるのと、明日それを変化させるのとでは、それにかかる「力」が違うということだ。例えば部屋の掃除でも、今日やれば5分で終わることでも、1か月分たまれば何時間もかかる。それは部屋の汚さ、散らかり具合が時の加速によりさらにすごいものとなるのと同時に、「掃除をしなかった」という事実も、自分の中でさらに加速されていくからだ。そして加速していけば行くほど、「掃除をしよう!」と決心することは、さらに難しくなる。 

 既存の何かを変化させることは、新しく何かを始めることよりも、新しい何かを生み出すことよりも難しい。それでもその何かを「変化」させなくてはいけないのならば、それを「改革」しなければならないのであれば、それを「時」がさらに加速させるその前に、自らも行動を起こしていくことなのであろう。その一つ一つの行動は小さなものかもしれないが、けれどその行動もまた時の加速を受ける。いつか「行動してきた」という事実は、時の加速を受けて、より大きな力へと、育っていくのではないのかと、僕は思うのだ。

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