blowing wind Daily Essay
* [Vol.12] 2001年6月〜9月のエッセイ

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* 0921:不確実な世界
* 0907:自由への挑戦#1「デフォルト」
* 0819:内なる矛盾
* 0810:表現への挑戦者
* 0701:myReligion#3「旅の目的」
* 0613:myReligion#2「代表者」


0921:不確実な世界

 ある陸上選手が100Mを5秒で走れなかったからといって、その選手を責める人は誰もいない。なぜなら100Mを5秒で走ることは、少なくとも現在の人間の能力では、到底不可能であるからだ。不可能であることができなかったからと言って、その人を責めることはできない。

 では100Mの自己ベストが10秒である選手が、ある大会の決勝で10秒で走れなかった場合、その選手を責めることはできるだろうか。シビアな世界ならば、結果を出さねばならない場面で最善の結果が出せなかったのならば、たとえどんな理由があったとしても、「走れなかった」という事実は重く受け止められることであろう。けれども一方で僕らは、自己ベストというものがいついかなる時にでも出せるものでないことを知っている。そのため心の一方では、ある意味「仕方がない」とか「運が悪かった」とも思い、完全にその人を責めることはしないであろう。

 最後に100Mの自己ベストが10秒である選手が、100Mを走るのに20秒もかかった場合はどうだろうか。途中で怪我をしたとかを別とすれば、たいていの人は真面目に走ったのかを疑うだろう。何故なら100Mを20秒というのは、小学生でも普通に走れる早さだからだ。頑張れば確実にできたのに、ただその努力をしなかっただけという場合、その選手はきっと責められることになるに違いない。

 以上は100Mの例だが、現実はもう少し複雑である。例えば総理が景気対策に失敗した時、サッカーチームがフランスに勝てなかった時、火山の噴火を予知できなかった時、あるいは災害対策への遅れで死者を出してしまった時。これらのことは、先の例の5秒と10秒と20秒のように、そのこと自体が可能であるのか不可能であるのかを、簡単に区別することはできない。もしかしたら景気を回復することは、もはや人の手には負えないことなのかもしれない。また可能であったとしてもも、もの凄く困難なことであるのかもしれない。しかしその「困難さ」を、僕らははかり知ることはできない。「可能」であるか「不可能」であるかをも、知ることはできないのだ。

 けれど、可能であるか不可能であるかが分からなくても、またそれがたとえどんなに困難であったとしても、それに挑戦し、そしてそれに責任を負わなければならない人たちがいる。普通に考えれば、誰だってこんな損な役回りはしたくはないだろう。けれどそれでも、それに立ち向かう強い意志を持った人たちが、あるいはそれに巻き込まれる強い凶運を持った人たちが、世の中にはいる。そのような立場で奮闘している人たちを、どちらかといえば凶運な僕は、心から応援していきたい。

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0907:自由への挑戦#1「デフォルト」

 「自由」という言葉、あるいは思想がある。それはとてつもない甘い魅力に満ちてはいるが、反面とてつもなく恐ろしく冷酷な思想である。「自分の判断に基づいて自分の思うがままに行動すること」、言葉にするとたったこれだけの「自由」を実践するのに、僕たちは様々な困難に立ち向かわなくてはならない。そしてその困難とは、自分の「自由」を周囲に認めさせることであったり、自分で判断できるだけの「判断力」を養うことであったり、自分の「自由」と他人との「自由」とを共存させることであったりする。

 自由とは、ただそれだけでは不完全な思想である。「自分の判断に基づいて自分の思うがままに行動する」ためには、それをサポートする、あるいはそれを制限する、いくつかの概念がなくてはならない。そうしたものがあって初めて、自由は完全な思想、つまり社会的に存在できる思想となる。ではその、自由という思想をサポートする、あるいは制限する他の概念とは何であろうか。何があれば、自由は完全な思想になれるのだろうか。そこには「責任」をはじめとする様々な概念があるだろうが、僕がここで注目したいのは、「デフォルト」という概念である。

 デフォルトは一種のコンピュータ用語で、パソコンやソフトウェアなどであらかじめ決められている初期設定値のことを意味している。例えばパソコンを起動した時の起動音や背景の色、あるいはWEBページ上の文字の大きさは、自分で自由に変更することもできるが、最初はとりあえず何らかの音、色、大きさに決まっている。このとりあえず決まっている値がデフォルトである。最近のパソコンやソフトはいろいろな部分で自分流にカスタマイズ、すなわち自分の好みに合わせて自由に設定を変えることができるようになっているけれども、そうはいっても全部を自分で設定するのは面倒であるし、時には専門的知識も必要になるので、とりあえずのデフォルトの値は決まっていけないといけない。

 そしてそれは、パソコン以外のものでも同様である。自由とは「自分の判断に基づいて自分の思うがままに行動すること」であるが、では逆に僕らは、全ての行動を自分で判断して行っているだろうか。例えば今日の朝食を何にするのか、大学でどの授業をとればよいのか、旅行先でどこに泊まれば良いのか、などなど。日々の生活の中の一つ一つの行動全てを、僕らは自分自身で判断しているわけではない。出てきた朝食をそのまま食べる場合もあれば、学科の必修授業を採る場合もあるし、旅行会社のお勧めに従う場合もある。日常の生活を送っていれば、僕らは自分では判断できないことがらにたくさん出くわす。あるいは判断できても、判断する時間がない場合などもよくある。けれどもそんな時でも何かに決めなくてはいけない。朝食は取らなければならないし、何かの授業にはでなくてはいけない。宿泊先もなければならない。そんな場合に決められているとりあえずの初期値となるもの、そんな「デフォルト」がなければ、僕らは「自由」という重みには耐えられない。

 「自由」が存在する世の中には、暗にであれ明確にであれ、様々な「デフォルト」がすでに用意されている。ではこの「デフォルト」は誰が用意するのだろうか。あるときは政府が用意するかもしれない、あるときは世間が決めているのかもしれない。どちらにせよこのデフォルトを決めているモノが、「自由な社会」において重要な力を持つ存在であることは間違いない。

 全てが「自由」なのであるならば、「自由な判断をしない自由」も存在する。デフォルトとはそんな「判断しない自由」を支えるものであり、「自由」という思想のセーフティネットなのかもしれない。

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0819:内なる矛盾

 人はその心の内にたくさんの矛盾を抱えながら、日々の生活を送らなければならない。ホントは自分がしたくないことなのに、業務上それをしなければならなかったり、または自分が今やっている事柄が、過去自分がこれだけはするもんかと思っていたことだったり...つまりはこうありたい、こうでなきゃいけないと思う「理想的」な自分と、現実に日々の生活を送っている自分との間に、大きな不一致があり、大きな矛盾があり、そしてそれはたくさんの悩みとなって、たくさんの辛さとなって、その人に重くのしかかるのだ。

 そしてそんな矛盾はまた、「組織」に属している「組織人」としての自分と、自由に行動する「一個人」としての自分との間にも生じる。人は「組織」に属して行動している限りは、他人の過失によって生じた問題に対してでも、自分が責任をとらないといけないことがある。また自分の意見と違う決定に対しても、それに従わなければならないことがある。例えばカスタマーサービスの係りの人が、お宅の製品はなっていないとお客さんから苦情が来たところで、「そんなこと言われたって私が作ったわけではないですから」などとは言えるはずもない。自分が作ったわけではないにしても、きちんと事情を説明し、場合によっては謝罪をしなければならない。そんな時人は、心の奥底では様々な矛盾を感じることであろう。

 日々の生活を送る上でその個人に重くのしかかる、様々な矛盾。ならば人はそれを、どのように解決していけば良いのか。矛盾を解消するために、「理想」「現実」に合わせるだろうか。「現実」「理想」に近づけるだろうか。

 僕たちは矛盾を感じたからと言って、それを解消するまで立ち止まり続ける訳にはいかない。時は刻一刻と冷酷に流れ続け、その時の流れの中で、人は常に行動をし続けなければならない。悩み続け、それでもなお行動し続けなければならない状況の中で、やがて人は、矛盾を矛盾と感じなくなるのではないだろうか。ある意味「現実」「理想」は違うものだと割り切りを付けることで、矛盾を問題として取り上げることを、やめてしまうのではないだろうか。

 現実の世界にいれば必ず矛盾を感じるだろう。そして現実のより深いところに飛び込めば飛び込むほど、その矛盾は更に深くなるだろう。けれど僕は、そんな状況の中ででも、決してその「内なる矛盾」から逃げてはいけないのだと思う。自分の心に確かにある「矛盾」を、見捨ててはいけないのだと思う。「矛盾」を常に「問題」として捉え続け、そして行動をし続けながらも、常にその矛盾の本質を見抜くべく考え続け、そしてその矛盾の解決策を探し続ける。ある意味それは一番辛い行為だが、しかしそんな辛い行為をやり抜くための「矛盾への耐性」が、必要なのではないだろうか。

 より高い理想を抱けば、当然内なる矛盾は深くなる。現実のより深くへと飛び込めば、当然内なる矛盾も深くなる。まばゆい光と深い闇、その両方に接しながらも常に行動を積み重ねていくための、その光と闇の狭間で常に戦い抜くための「矛盾への耐性」を、僕は是非身につけたい。

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0810:表現への挑戦者

 たったひとつの物事でも、それを表現する方法は実にたくさんある。例えば「命の儚さ」を伝えたいと思ったとき、「命というのは儚いものだなあ」とそのまま口にする方法もあれば、それをもとにした詩を書く方法だってあるし、それをテーマにした小説を書く方法だってある。また何も言葉に頼らずとも、その「命の儚さ」を音楽で、アニメで、漫画で、または映画で、あるいはジェスチャーで表現する方法だってあるだろう。たった一つの同じ物事を表現するのにでも、その表現の手法は計り知れない。そしてそんな新しい表現手法を発見することは、新しい物事を発見することと同様に、すばらしく面白いことではないだろうか。

 僕がエッセイと称して様々な文章を書くようになってからもう6年近く経つが、時々僕はいったい何を書いているのだろうと思うことがある。つまりは、この文章を書くという作業を通じて、いったい僕は何に挑戦しているのだろうと、思うことがあるのだ。最初は自分にとっての新しい発見、例えば世情の理(ことわり)や社会の仕組み、あるいは自分の価値観などに対する新しい発見を書きとどめているのかなとも思ったが、自分の文章をいろいろと読み返してみると、別に毎回の文章に新しい発見が含まれているわけではない。むしろ同じテーマに対して何回も違う文章を書いていることだってある。けれどももう一度読み返してみると、毎回の文章で確かに新しい「何か」が埋め込まれていることに気づく。毎回の文章で僕は、確かに新しい「何か」に挑戦している。そしてその「何か」こそが「表現」なのだ。

 今まで書き連ねた100近い文章は、すべて異なる文章であり、ひとつとして同じものはない。共通したテーマを扱っていたとしても、それをどう表現するかは、すなわちそれを表現する言葉は、毎回の文章で必ず異なっている。例えばあるときは、比喩を多用することでより感覚的にテーマを表現しようとするし、またあるときは感覚的というよりはむしろ論理的に、説明文らしいスタイルでそれを表現しようとする。新しい主題を発見することも、もちろん面白く重要なものだが、それを表現する方法を見つけることも、面白く重要なものなのだ。

 新しく発見したテーマを、新しい表現手法で持って表現する。テーマを表現するにあたって、僕は言葉に頼らざるを得ないが、しかし言葉だけでも、実にたくさんの表現方法がある。そんな新しい表現手法を求めて、これからも僕は、文章を書くという行為を通して、その広大な海原へと挑戦していきたい。

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0701:myReligion#3「旅の目的」

 「人生は旅である」。昔よく聞いた中島みゆきの歌詞の影響だろうか、僕はよく文章の中で「人生」「旅」に喩える。では一体何故、僕は「人生」「旅」と同じものだと考えるのだろうか。「人生」「旅」という異なる概念の中で、僕は一体どこに「共通点」を見いだしているのだろうか。

 おそらく僕は、何かを探し求め追い求めるというその過程そのものに、「旅」「人生」の共通点を見いだしている。「旅」とは何かを探し求めるために、あるいは何かを掴み取るために、あるいは何かを成し遂げるために、様々な場所を歩き回り、様々な人と語り合い、様々な困難を戦い抜く。そして「人生」もまた、「何か」を捜し求めるために、掴み取るために、毎日という時の中を、精一杯生き抜くものである。そう僕は思うのだ。

 そして僕が、人生という「旅」の中で見いだそうとしているものは、「言葉」であり、「夢」であり、「自分」である。「言葉」とは、ものごとを考える上で、それを他者に伝える上で、なくてはならない重要なものである。自分の「言葉」を持つことは、広大な世界を歩き回るための足をもつことに他ならず、自分の「言葉」がなくては、「夢」も何も追い求めることはできない。誰かの模倣ではない、自分の内面から発し自分の内面へと訴えかける自分だけの「言葉」を持つことが、僕の一つの旅の目的である。

 そして僕は「夢」を求める。「夢」とは、この広大な世界で行動し、判断し、決定するための基盤であり、この困難な世界を生きるための活力である。「夢」はその人に信念を与え、その人の価値観を形成する。そんな「夢」を見つけ出し、そしてその実現に生を傾けることが、僕の二つ目の旅の目的である。

 そして僕は「自分」を追い求める。「自分」とは、自分の「言葉」で、自分の「夢」で歩いてきた、人生という旅路そのものである。すなわち自分が生きてきた道筋そのものが「自分」であり、長い旅路を終えた瞬間に、初めて理解できるものである。何を想い何を考え、何に悩み何にぶつかり、何に恐れ何に怒り、何を成し遂げ何を見いだしてきたのか、その集合である「人生」そのものが、「自分」という存在を指し示す唯一の指標となる。生を全うし「自分」を見いだすことが、僕の三つ目の旅の目的なのだ。

 「人生」とは長く困難な旅路であろうけれども、僕は僕の「言葉」を、僕の「夢」を、そして僕自身を見いだすために、この旅路へ挑みつづけよう。

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0613:myReligion#2「代表者」

 疲れ果てて、絶望して、悩みやつれて、落胆して...そんな、生きていくことに何の価値も感じられなくなったとき。それでも僕は、生き続けなければならない。どんなに苦しいときでも、悲しいときでも、辛いときでも、それでも僕は、生き続けなければならない。

 なぜならば、僕の体は、どんな状況においても、懸命に僕を生かそうとしている。僕の心臓は、どんなときでもその鼓動を止めようとはしない。僕の血液は、どんなときでもその循環をとどめることはない。そんな僕という人間の中にある、僕の身体を構成するたくさんの「もの」たちが、懸命に僕を生かそうとしている限り、僕は決して生きることをあきらめてはいけないのだと、そう思うのだ。

 僕は、一人の代表者に過ぎない。僕という人間を構成し、僕という人間を内から支える様々な仲間達の、一人の代表者に過ぎない。そして僕は、その代表者としての努めを、責任を果たさなければならない。そしてその責任とは、「生を全うする」ことに他ならないと、僕は思うのだ。

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