blowing wind Daily Essay
* [Vol.13] 2001年10月〜のエッセイ

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* 0129:スペル
* 1230:我が子を想う気持ち
* 1015:あがく力


0129:スペル

 「短い言葉で多くのことを言い表すなんて、本当にできるのだろうか?」 ある企画の打ち合わせで40字程度の紹介文を考えていた時、ふとこんな疑問が頭に浮かんだ。短い言葉で多くの意味を言い表す、そんな一見矛盾しているようなことは、本当に可能なのだろうか。もしかして僕は、あまりにも無謀なことに挑戦しているんじゃないか。なかなか文章がまとまらず思い悩んでいた僕は、自分の文章がまとまらない言い訳に、そんなことを考えたりしていた。

 でもそれは多分可能なのだ。短い言葉で多くのことを言い表す。それが不可能に思えてしまうのは、言葉を「意味を伝えるもの」と考えてしまうからだ。そもそも意味なんて、どうあがいても伝えることはできない。自分が考えているとおりの意味を、そっくりそのまま相手が再現できるなんてとうてい不可能なことだ。言葉がしているのは「意味を伝えること」ではなく、相手の心の中にすでにある意味を引き出し、思い起こさせること、それが言葉が本当にしていることなのだ。

 たった数文字の言葉でも多くの意味を引き出すことは可能だ。なぜなら引き出すべき意味は、すでに相手の心の中にあるのだから。後はちょっとしたきっかけを与えて、その意味を思い起こさせてやればいい。言葉とはいわば、相手に何かを想起させるきっかけを与える、魔法の呪文(スペル)のようなものなのだ。

 言葉とはスペルである。同じ言葉でもそれを聞く人が思い浮かべる意味は、その人その人によって全く違う。スペルとしての言葉の美しさは、意味を忠実に伝え再現させることではなく、むしろその人の心の中にある意味を最大限に引き出すことにあるのかもしれない。短いコピーが心に響くのも、短い俳句が多くの人に愛されるのも、心の中の様々な意味、思い、感情を、その言葉がゆるやかに引き出してくれるからなのかもしれない。

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1230:我が子を想う気持ち

 僕が「研究の世界」に飛び込んてから三年が経とうとしている。この三年間で僕は、卒論に挑み、学会に挑み、そして今なお、修論という大きな山に挑みつつある。ほんの三年の「研究生活」だけで、何かを「得た」というのはおこがましいかもしれない。しかし「研究者」として過ごしたこの三年間は、確かに僕に一つの「哲学」を与えてくれた。それは、自分が生み出した「アイデア」、自分で考え抜いた「構想」、自分で書き上げた「論文」、自分が成し遂げた「研究」に対する、接し方の哲学である。「我が子のように自らの研究に接せ」。それが僕がこの三年間で得た、一つの哲学である。

 一つ、自分の研究を決して見捨ててはいけない。どんな研究でも、最初は一つの小さな種でしかない。ちょっとの雨や多少の風に、その身震えさせるか弱き草花でしかない。もし自分が見捨てしまえば、か弱き草花はそこで枯れる。他人に多くを期待してはならない。自分の研究を成し遂げるのは、最終的には自分でしかない。どんな批判を受けても、どんな問題を抱えていても、その批判一つ一つに答え、その問題一つ一つに解法を見つけていけば、やがてその研究は大地へとその身を根ざし、大きな花を咲かせるに至る。誇りと自負を持て。その研究を生み出したのは紛れもなく自分である。責任と畏怖を抱け。その研究を生かし殺すのは紛れもなく自分である。自分の研究を決して投げ捨てず最後まで関わり続けること、それが自分が生み出した研究に対する、一つの責任であると僕は思う。

 一つ、自分の研究を決して甘やかしてはいけない。自分の研究だからといって、それに自分がどれだけ苦労したからといって、それだけでその研究を甘やかしてはいけない。自分が苦労してきたことと、研究としての完成度はまったく別である。自分の目的が、より完成度の高い研究をなすことであるのならば、より本質的な研究をなすことであるのならば、自分の研究を甘やかすことなく、常に厳しい批判の目にさらさなくてはいけない。そしてその批判から、常に研究を改良する努力を、時にはまっさらに解体する勇気を、見失ってはならない。真の目的を見失わずに、自分の研究に常に厳しく接すること、それが自分が生み出した研究に対する、一つの愛情であると僕は思う。

 一つ、自分の研究を決して独占してはいけない。研究とは、自ら広がり行くものである。そして多くの研究者に刺激を与え、新たな研究を生み出すものである。その広がりを妨げてはいけない。広がり行くことで、その研究はより強固なものに、より新しいものへと成長する。広がり行くことで、その研究は様々な研究者の中に宿り、そして新たな研究を生み出していく。そんな研究の成長を妨げてはいけない。自分の手を放れ自分の力なしに生きていこうとするその姿を、嘆いてはいけない。自分の研究を独占せず、むしろ積極的に研究を広め、新たな種を生み出し続けること、それが自分が生み出した研究に対する、一つの親心であると僕は思う。

 以上の3つの心構えは、何も研究に限ったことではなく、例えば僕がこうして書いている文章などにもいえることである。決して見捨てぬ責任と、決して甘やかさぬ愛情と、決して独占せぬ親心を持ち続けることは、どんなものに対してであっても、大切なことなのかもしれない。

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1015:あがく力

 最近の僕は、どうやら「待ち」に徹しすぎていたように思う。しなければならないことがあるときでも、自分の興味がわくのを待つ。このエッセイを書くときも、良い書き始めを思いつくのを待つ。難しい問題を解くときも、良い解法を思いつくのを待つ。誰かにコンタクトをとるときも、何かしらの「きっかけ」が生まれるのを待つ。逆に言うならば、興味がわかないと、書き始めが思いつかないと、いい解法が思い浮かばないと、何のきっかけもないと、僕は何もしないのだ。ただただ「それ」を待つばかりで、そうこうしているうちに締め切りが迫ってきて、仕方なくそれに手をつけ始める。そしていつも締め切りぎりぎりに(あるいは少しオーバーして)仕事を終わらす。いつもその繰り返し。

 でも最近こう思うのだ。世の中には待つことで生まれるアイデアもあるけれど、あがき続けることで生まれるアイデアもあるのだと。気がのらなくても、良い解法が思い浮かばなくても、いいきっかけがなくても、それでも挑み続けなければならないことが世の中にはある。無駄だと分かっていても、あがいてあがいてあがき続けるしかないときが世の中にある。けれどそんなあがきの中から生まれるアイデアが、あがいてこそ成し遂げられることが、確かに存在するのだ。

 困難に直面してもあきらめずに、真正面から挑み続けるための、あがく力。どうやら最近の僕は、近道ばかり追い求めて、真正面の道を歩むのを忘れていたようだ。待つよりも、まずはあがこう。そんな小さな決心をした、今日一日でした。

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