blowing wind Daily Essay
* [Vol.2] 1999年10月のエッセイ

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* 1025:役割分担の社会
* 1017:思考の結晶
* 1014:一糸乱れぬ組織
* 1013:休みと遊び
* 1009:自覚の難しさ
* 1008:変わりゆく自分
* 1007:隠れた感情
* 1006:SCOPE
* 1004:感情除去フィルター
* 1003:犯罪者の素質


1025:役割分担の社会

 この世は「役割分担」の社会である。家庭内にだって、育児、掃除、炊事などの役割分担があり、会社内にだって営業、経理、事務、人事などの分担部署がある。そして社会全体でも、「衣」を担う産業、「食」を担う産業、「住」を担う産業、「安全」を担う産業・行政、「福祉」を担う産業・行政と、はっきりとは見えないながらも役割の分担が行われている。

 役割分担がなされる際には、自分が動かせる範囲、自分が決められる範囲がまず定められる。そして私たちは相手とのその境界を意識しながら、自分の境界の中で行動を起こす。まるで他国との国境のように、境界をはみ出さないように、そして境界内に余分なものを入れさせないように、細心の注意を払う。

 しかしその境界は、常に明確に見えるものではない。暗黙の内に決まっているものや、慣例や伝統によって決まっているものもあれば、建前上は、境界などないとされているものもある。もちろん本当に境界なんかないものもあるが。

 そのためこの世では、意識するしないに関わらず越境行為が度々起こる。そして越境行為が起こる度に、様々な争いが起こる。それは自分の領土を守るための戦いと解され、または奪われた領土(=本当は自分が治める領土)を取り戻す戦いと解される。どちらに正義があるかは誰にも分からず、不毛な戦いが繰り広げられる。

 人間の生活を便利にするための、あるいは効率よく業務を行うための役割分担が、いつの間にかなわばり意識、領土意識へと転化し、領土間のいらぬ戦いを引き起こす。その戦いが何故起こるのか、そしてどう解消するのかを考えてみるのも、面白いかもしれない。

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1017:思考の結晶

 言葉は生きている。時代と共に新しい言葉が生まれては、古い言葉は忘れ去られ、または違う意味が付加されては、古い意味は廃れていく。

 そんな言葉の変化は、人間の思考の変化でもある。言葉は人間の思考の結晶であり、ある意味一番に人間を言い表しているのが、言葉というものなのだ。

 世の中には至る所に言葉がある。辞書には何万ともいう言葉が収録され、そして地方により、時代により、使われる言葉は違う。あるグループの中でしか使われないLOCALな言葉もある。

 しかしそれらの言葉の意味を探るという作業は、思いのほか難しい。世の中たくさんの言葉があるが、たくさんの意味を全て理解することは困難である。言葉は便利なものだが、その便利さ故に、意味を探る困難さが隠れてしまっている面があるのは否めない。

 言葉、そしてそこに込められた意味。そんな思考の結晶を探る旅は、思いのほか困難であるが、思いのほか楽しいのも、また事実であろう。

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1014:一糸乱れぬ組織

 価値観と感情は違う。感情はいわゆる喜怒哀楽で言い表されるものであるのに対し、価値観とは「何々が良い(悪い)」という優劣の基準を集めたものである。そして感情のない人間はいるかもしれないが、価値観を持たない人間というのは存在しない(と僕は思っている。)

 僕は漫画を良く読むのだが、その中でも「寄生獣」という漫画は特にお気に入りだ。その漫画には人間に寄生して人間を食い殺す「寄生生物」が出てくるのだが、その寄生生物の一人である「田宮良子」が発した台詞に、僕はずっと疑問を抱いていた。

「合理的判断を得意とする我々なら、一糸乱れぬ組織を作り上げることもたやすいと思っていたが、どうやらそれは誤りだったようだ。」

 「寄生生物」は冷淡で冷静な思考を持つ生物で、仲間が殺されても怒ることはなく、死の危険に瀕しても恐怖することはない。何事にも悲しむこともない。そしてどんなときでも感情に流されることなく、合理的にものごとを考えようとする。

 しかしそんな「寄生生物」が集まって組織を作っても、感情に左右されない合理的なモノたちが集まった組織でも、一糸乱れぬものとはならない。それはなぜだろうか。そこに僕はずっと引っかかっていた。そしてそれに対する答えを見つけた。それは感情を持たなくても、価値観を彼らが持っていたからである。

 価値観なくして人はものごとを判断できない。「判断」とは、複数の選択肢からある一つのものを選ぶ行為である。さいころの目にでも頼らない限り、複数から一つを選んだということは、自分がその一つを「ひいき」しているからに他ならない。

 漫画の中で、寄生生物達はいくつかの「判断」をしている。「邪魔者は殺す」「自分の命を危険にさらす馬鹿はしない」「身を守るためなら他の人間を殺してもかまわない」。それらは人間の「価値観」とはかなり異なる利己的な「価値観」かもしれないが、しかし彼らの内部にはものごとの優劣の基準が確かに存在し、そしてそれに基づいて物事を判断していたのである。

 そしてこの「価値観」は、寄生生物によって微妙にずれていた。そしてそのため組織内に意見の不一致が起こり、そして仲たがいを起こした。

 「田宮良子」の発言の背景には、「皆が合理的判断を行えば結論はただ一つに定まる」という誤解があった。「合理的判断」をいくらしたところで、その裏に在る「価値観」がずれていたのなら、決して結論は一つにたどり着くことはない。「合理的」とはあくまで自分の価値観から見て「合理的」であり、それゆえ「合理的判断」なるものには自分の価値観が色濃く反映されているのである。

 一糸乱れぬ組織とは、皆が合理的判断をする組織ではない。皆が同じ「価値観」を持つ組織、それが一糸乱れぬ組織なのである。

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1013:休みと遊び

 仕事をしていると、あるいは授業に出ていると、ついいろいろなことを考えてしまう。「今度の休みは旅行にいきたいな」とか「土日は映画でも見に行くかな」とか「夏休みは実家にかえるかな」とか、やりたいことや遊びたいことを、とりとめもなく考えてしまうのだ。しかしいざ休みの日になると、ただ寝たり食ったり、あるいはおもむろにテレビをつけたりして無為な時間を過ごしてしまう。そしていつのまにか休みも終わって、また仕事や授業が始まってしまうのだ。

 「休み」「遊び」は本来別のものなのだが、僕はついこれを混同して考えてしまうようだ。すなわち仕事をしているときは「休み」「遊び」と考えているのに、いざ休みの日になると「休み」=無為な時間を過ごすだけになってしまうのだ。

 「遊ぶ」なら本当は計画的に行わないといけないのに、「休み」のイメージからつい無計画のまま休みの日を迎えてしまう。そして無計画のまま無為な時間を過ごして終わってしまい、結果として「遊ぶ」ことは叶わない。同じ失敗を繰り返さないように、今度からは「休みの日」「遊びの日」をしっかりと区別しておくようにしよう。

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1009:自覚の難しさ

酔っぱらった人がいかにも危なそうに歩いている。心配になってしばらく座ってたらと言うと、

「だーいじょーぶだよー。」

と酔った口調で叫ぶ。

周りから見れば危ないことは一目瞭然なのに、本人はそれを自覚していない。

むしろ言われた本人は、そんな心配をする周りの人間を疎ましくさえ感じるかもしれない。

酔っていなくても、似たような状況はこの世の中に往々にしてあるのだろう。自らの意識による自覚というものは、難しいことであり続ける。

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1008:変わりゆく自分

 時の流れはとても緩やかなものなので、普段僕らはそれを意識することはあまりない。しかし時は確実に流れ、そして確実にものごとを変えていく。

 見慣れた風景はいつの間にかその姿を変え、隣にいたはずの友もいつの間にかその姿を消す。僕らは意識せぬままにたくさんのものと別れ、そして意識せぬ間にたくさんのものと出逢い、そしてそれをずっと繰り返していく。

 そしてまた、自分自身も変わっていく。連続した時の流れの中では、その中に身をおく自分自身にとっては、自らの身や心に起こる微少な変化など気がつきもしないかもしれないが、しかし自分もまた一日一日に確かに変わっていき、そしてその変化は積み重なり、いつの間にか大きな変化を自分にもたらしている。

 3年前の自分、1年前の自分、そして昨日の自分。変わらぬと思っていた自分も、気がつけば大きく変化している。そして今存在する自分も、未来の自分とはまた違う自分となるのだろう。

 時に昔を振り返り、自分が歩んできた道のりを眺め、自分の変化の道筋をたどっていくことも、大切なことなのだろうと思う今日この頃でした。

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1007:隠れた感情

全ての行動を意識して行っている人はいない

全ての会話を意識して行っている人はいない

そのため自分の行動、自分の言葉には、

自分でも気付かない隠れた感情が含まれていることがある

そしてふとしたことで人は

その感情に後から気が付く

あの時自分はこう思っていたのだなと

後になってから自分の隠れた感情に気付くことがある

しかし決して気付かれない感情もまた存在する

また他人からしか気付かれない感情もまた存在する

自分の感情に気付かない「鈍い」人にならないためには

自分の行動や会話を時に見直していくことも必要なのだろう

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1006:SCOPE

 今の世の中、僕たちは色々なことに関心を持たなければならない。例えば国会議員の選挙に際しては、

「一人一人がこれからの日本を考えなくてはいけない」

と言われ、環境問題が叫ばれれば、

「一人一人がしっかりとゴミを出さなければならない」

と言われ、省エネが求められれば、

「一人一人が電気の節約に努めなければならない」

と言われ、2000年問題が近づけば

「一人一人が身近な機器を調べておかなければならない」

と言われ、地震などの大災害が起これば、

「一人一人が食料の備蓄をしなければならない」

と言われ、役所の不正が公になれば、

「一人一人が身近な行政に目を光らせなければならない」

と言われる。

 けれども人間一人が関心を持てる範囲、ものごとを十分理解できる範囲、積極的に関わっていける範囲は、そう広くはない。まずは自分の生活、そして自分の仕事でその範囲-SCOPEの多くは埋まってしまい、残りは自分の趣味などに当てられる。「知っている」程度のSCOPEなら多くのことを求められても済むかもしれないが、更に「理解する」「行動する」まで求められ始めると、人一人のSCOPEは手一杯である。けれども今の世の中では、多くのことが、そしてこれからも多くのことが、様々な問題が明らかになるにつれて、求められていくのだろう。

 どんなものでも、最終的には「一人一人」という個人の責任、個人の行動に落ち着いてしまう。それは民主主義である以上当然かつ必至のことなのかもしれないが、しかし何でも「一人一人」にと責任を帰着させるのはある意味無責任のような気がしてしまう。「一人一人」に行き着く前にすべきことを、ホントはしていくべきなのかもしれない。

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1004:感情除去フィルター

 普通人間が発する言葉には、「感情」「意味」の2つの要素が含まれている。例えば

「おい、やったよ!俺達優勝したよ!」

という言葉には、「優勝した」という意味と「優勝の喜び」という感情が含まれている。これに対して、

「明日は晴れでしょう。」

という言葉には「明日は晴れる」という意味しか含まれず、

「うぉー!やったー!」

という言葉には「感動」「感激」という感情しか含まれない。

 普段の会話においては、相手が言わんとする意味と相手の感情の2つの要素をしっかりつかんでおかなれればならないのだが、時に感情を無視した方が都合のいい時がある。こんな時は感情部分だけを除去してくれるフィルターを掛けてやるといい。

 例えば上司からこんな小言を言われた時、

「君ねえ、こんな報告書が通ると思っているの。一体どんな教育受けてきたんだね。全く。やり直しだよ、やり直し!ホントいい加減にしろよな!ああ!俺の立場も少しは考えろよ!全く!」

 これを感情除去フィルターに掛けると、

「この報告書はまだ不十分だ。もう一度やってくれ。」と上司は怒り口調でいった。

 となる。また、

「おい!お前、この馬鹿野郎!」

だったら、

彼は私を罵倒した。

 となる。こういう言葉は、逐一とりあげて意味を考え出すと精神的に自分がまいってしまう。良い意味での「図太さ」を身につけるには、こんな工夫も必要なのだろう。これもSafety Pointに続く、処世術の一つだ。

 ただほどほどにしないと、かえって相手の感情を逆撫でる結果になるし、自分自身何も反省しないことになるので、そこらへんの見極めは慎重に行わなければならないだろう。

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1003:犯罪者の素質

 今の世の中、誰でも犯罪者になることは可能である。家にある包丁やナイフでも簡単に人が殺せる。PHS1つで延々と悪戯電話を掛けられる。線路に石を置くだけで電車を遅らせられる。石を投げて他人の家の窓ガラスを割ることだってできる。会社のパソコンのデータを人知れず消去することだってできる。つまり身近にあるものをちょっと悪用するだけで、誰でも犯罪を犯すことは可能なのだ。しかもその犯罪は、決して軽いものばかりとは限らない。多くの人々に影響が及ぶ大犯罪を、いとも簡単に行うことだって可能なのだ。

 このような世の中では、犯罪を犯すのには特殊な技術など必要ない。ただ一つ、「犯罪を犯してやろう」という意志さえあれば、それで立派な犯罪者となることができるのだ。

 そんな犯罪を防ぐには、「犯罪をやろう」という意志を起こさせないようにするしか方法はない。そしてその方法の一つに「教育」というものも含まれているのだろう。学校などで行われる様々な教育は、自分の生きる道を学んでいくという側面の他に、社会がつぶれないための自己防衛の手段という、泥臭い側面も担っているのだろう。

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