blowing wind Daily Essay
* [Vol.3] 1999年11月のエッセイ

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* 1110:段階的なギアチェンジ
* 1109:忘れるための文章
* 1108:恐怖の幻想
* 1106:対話型説明法
* 1105:思い出の入れもの
* 1104:旅人の詩


1110:段階的なギアチェンジ

 摩擦力に「静止摩擦力」「動摩擦力」があることは、中学校の物理で習うことだ。静止摩擦力は止まっている物体を動かすときにかかる摩擦力で、動摩擦力は動いている物体にかかる摩擦力である。そして普通は(最大)静止摩擦力の方が動摩擦力よりも大きい。そのため止まっている物体を動かすのには、それを動かしし続けるよりもより大きな力が必要になる。

 このことは物理の世界のみ成らず、現実の様々な場面で成り立つことである。例えば何かを始める際の努力は、それを行い続けることよりも大変であったり、何かを作り出す際の苦労は、その作ったものを維持していくことよりも大変だったりする。

 僕はそれを日常の生活でもよく体験する。例えば朝眠っている状態から起きようとした時、また何かしらの仕事に取りかかろうとする時、そんな初動を起こす決心をするのに、僕は大変な苦労をしてしまう。起きてしまえばそんなに辛くないのに、一度作業に入ってしまえばそんなにイヤでないのに、それらに移るための初動がなかなか起こせないのだ。

 こんな時僕は、段階的にギアを入れていくようにする。例えば仕事に取りかかる時は、すぐ仕事にとりかかるのではなく、まずパソコンを立ち上げて、音楽CDをかける。そしてしばらくしてから、音楽を聴きながら仕事に入る。つまり休み→仕事といくのではなく、休み→音楽→仕事と段階的にギアを入れていくのである。

 また朝起きて学校に行くときもそうだ。起きる→学校に行くとするのではなく、起きる→電車に乗り雑誌を読む/音楽を聴く→学校に行くと間に電車に乗るという行為を入れ、この中で徐々にギアを入れていく。

 実は今書いているこの文章も、卒論の執筆に取り組むためのギアチェンジである。最近更新を毎日行っているのは、実はそんな理由からだったりする。

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1109:忘れるための文章

 僕は何故文章を書くのだろうか。以前は「酔うため」という理由を挙げたが、その他にも色々な理由が僕の中にはある。そしてそんな理由の中に、「忘れるため」というものが存在する。

 僕は一つのことを考え出すと切りがないようで、なかなかそれから頭を切り替えることができない。楽しいことならまだ良いが、辛いことや苦しいことなどを考え出すと最悪で、考えても胃が痛くなるだけなのに、そのことから離れることができない。頭では分かっているのに、気がつけばいつもそのことを考えてしまい、しかも同じことをぐるぐると思い悩むだけで、なかなか前に進めない。

 そんなときはそれを文章に表してみる。そうすることで僕はそれを文章の中に埋め込む。そしてようやく僕はそれから解放される。僕が毎日こんなことを書いているのも、そうしないと他のことになかなか移れないからだ。いわば頭の中にあるいらぬものを外部にエキスポートして、頭の中をすっきりさせるために僕は文章を書いている。そして暇ができたときに、エキスポートした文章を再び自分の中にインポートして、今度はその苦しさや哀しさに「酔う」のだろう。

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1108:恐怖の幻想

 人が暗闇を怖がるのは、暗闇自体が怖いのではなく、その暗闇に何かが潜んでいるという不安があるからだという話を聞いたことがある。そしてその恐怖は暗闇以外でも同様である。普段僕らが恐れているものは、別にそれ自体が怖いのではなく、それを怖いと思うから怖いのであり、すなわち恐怖は自己の外にあるのではなく、自己の内にこそ存在するのである。

 例えば怖そうな上司がいる場合、その怖さも多くは「こういったらきっと怒られるだろう。」といった自分の勝手な思いこみから来る場合が多い。

 また自分が何か大胆な行動に出ようとしたとき、そこに恐怖を覚え躊躇を感じるのは、その行動自身に原因があるのではなく、「周りから(あるいは上から)きっと非難されるだろう」などと心の中で思ってしまうからなのだ。

 本当はその行動に対してだれも非難などしないかもしれない。本当は暗闇の中には何もないのかもしれない。本当は上司から怒られることもないのかもしれない。しかしそんな真実とは裏腹に、人間の心は勝手に外の対象に恐怖を感じ、勝手に自らの行動や自分自身を抑制してしまう。そしてその勝手な抑制を、勝手に外の対象のせいにしてしまう。

 そんな恐怖の幻想に囚われない強い精神を持ちたいが、そんな強い精神への道は未だに遠い。

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1106:対話型説明法

 何かを説明する場合、それを文章で行うのならば普通は「一人称」で文章を書く。実際この文章を見ても、文章上に登場する書き手は僕ただ一人であり、他の人物は登場しない。これは他の文章もそうだし、また僕以外の人の多くの文章もそうである。

 しかし例えばある参考書などは、対話型でものごとを説明していることがある。

「先生。これはどういう意味なの?」

「ああこれは○○で××なんだよ。」

「○○って具体的にはどういうことを指すの?」

 また文章でなくても、例えば漫才をやりながらものごとを説明する例もあるし、会議などでの理解を深めるために、敢えて質問して答えさせるなどのケースもある。

 一人で説明する場合は、どうしてもその人独自のものの見方に偏る場合がある。それは一定しょうがないことであるが、しかし敢えて「対話型」でものごとを説明することで、一人称の説明文よりもより詳しい説明をすることも可能になるのではないだろうか。それをするための具体的方法はまだ思いつかないが、いつか深く考えてみたいと思う。

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1105:思い出の入れもの

 普通思い出といえば、写真と共に語られることが多い。ドラマとかでもよくアルバムが登場しては、写真と共に過去の思い出や事件が語られるケースが多いし、僕の友達もことあるごとに写真を撮っては、それをアルバムに飾って大事に保管している。

 写真というのは「思い出」という形のないものを保存する一つの入れもので、しかもメジャーな入れものである。机の上に置かれている写真立てはいかにも「思い出」という雰囲気を醸し出している。

 けれども僕はあまり写真とかは撮らない方で、アルバムにも小学校2、3年生の頃までしか写真が入っていない。その後も写真を撮ったことはあるが、あまり大事に保管したりはしていない。

 僕が思い出を入れるものは、写真ではなくむしろ音楽だ。昔を思い出したいとき、僕はその当時よく聞いていた曲を聞く。僕は音楽をよく聞く方なので、大抵その当時はまっていた曲があり、しかも繰り返しずっと聞いたりするので、いつの間にかその曲に当時の思い出が染みついている。だからその曲を聞いていると、その当時の苦労や喜びが心の中にじわじわとよみがえってきて、何ともしみじみとした心持ちになることができる。

 ただこの場合は写真と違って、あまり他の人と思い出を共有できないのが欠点だ。みんなでよく聞いた曲(例えば学園祭のフォークダンスの曲)などは大丈夫だが、こういった例は珍しい方で、あまり他の人と共有した曲というのは少ない。

 やっぱり写真も大事に保管しておこうかな

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1104:旅人の詩

遙か彼方の異国の地 私は今日も旅をする

旅の終わりに待つものを 今日も信じて旅をする

立ち止まっては未来を夢見 立ち止まっては故郷を想う

夢を追っては夢に生き 夢を追っては夢に死す

たとえ途中で果てるとも 私は今日も旅行かん

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