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0430:自分の専門家
0425:自縛の鎖〜self-binding chane
0423:玉虫色の世界
0422:Logic Magic
0130:言葉の色
1209:意味憑き
1206:当事者の視点
人は自分のことを知っているようでいて、意外とその最も身近なものを知らない。自分の何気ない癖、いつの間にかしている思考、染みついてしまっている先入観、心の奥底に潜む感情。そういうものは自分で気が付くのは難しく、むしろ他人から見た方がよくわかる場合もある。けれどどんなに難しくて、時に他人の方が分かる場合があったとしても、自分のことを一番に理解できるのが、自分自身であることに変わりはない。
いわば自分は、世界でただ一人の「自分」の専門家なのだ。自分が何を欲しているか、自分が何を考えているか、自分は将来どうしたいのか、自分は今どうしたいのか―それを考えるのは難しいが、しかしテレパシーでもない限り、他人が理解するのはもっと難しい。他人は自分のさまざまな言葉や様子を見て、こうじゃないかというアドバイスをくれるが、しかしそのアドバイスをもとに自分自身を理解するのは、自分以外には難しく、また自分以外には意味も薄い。
僕らは世界でただ一人の「自分」の専門家である。僕らは一生を通して「自分」を理解する旅を続ける。いつ終わるとも知れないその旅は、時に様々な辛さを僕らに感じさせるだろう。けれど「自分」の中にある様々な「真理」が、そしてそれを発見する過程が、僕らに様々な喜びを生みだしてくれるのも、また事実なのだろうと僕は思う。
最近「悪徳商法」に興味がある。というのは今年の1月に実際引っかかってしまったからだ。その時はクーリングオフ制度を利用して何とか事なきを得たのだが、それ以来悪徳商法について色々興味が沸いてきて、関連のサイトなどを覗いて勉強している。
実際に興味があることは、「悪徳商法」で使われている「だましの手口」だ。この「だまし」については、よく「注意していれば大丈夫」と言われるが、でも今回実際に「だまされて」みて思ったことは、「だまし」というのは一つの技術であって、しかも人間心理を巧妙に利用した技術である、ということだ。そのためいくら「注意」したところで相手のその技術を知らなければ、だまされることは往々にしてある。
「攻撃は最大の防御なり」という言葉があるが、僕はこの言葉を二通りの意味で解釈している。一つは防御に徹するだけでなく、相手に先んじて「攻撃」することが結果としては最大の「防御」につながるということ。そしてもう一つは、「攻撃」の様々な手法、手口を学ぶことが、自らの「防御」を高める結果となるということだ。「防御能力」は「防御」の術を学ぶだけでは高まらない。それを最大限に高めるには、「攻撃」の術を学ぶ必要がある。
「だまし」の技術も同じで、「だまし」という相手からの論理攻撃を防御するためには、先んじて相手を「だます」か、あるいは相手のその「だまし」の技術を学んで、自らの「防御能力」を高めるしかない。そしてそのためには、「だまし」の技術を論理的に解体し、整理する必要があるだろう。
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ではそんな「だまし」の技術の基本は何だろうか。僕はこれを「相手によく考えさせない」こと、あるいは「自分はよく考えていると相手に思わせること」であると考える。
悪徳商法については、「よく考えればそんな手口にはひっかからない」ということがよく言われる。ある意味この言葉は正しくて、実際僕が今回引っかかったものも、よくよく考えていればだまされることはなかった。今回はクーリングオフ期間中に「よく考えること」ができたから、そのおかしさに気づき何とか解約することができた。何であの時よく考えることをしなかったのかとかなり後悔したものだ。
しかしここで、悪徳商法にひっかかった原因を「よく考えなかっただけ」とするのは早計である。確かに「考えなかった」のが原因であるが、しかしそれは「考えさせられなかった」結果でしかない場合が多い。悪徳商法で使われるだましの手口の基本は、まずこの「考える」ことをさせないこと、そして自分は「考えている」と相手に思わせることなのである。そしてそのために利用されるのが、人間なら誰でも持つ様々な感情だ。孤独感、恐怖感、罪悪感、あるいは自尊心、親近感、義務感、正義感などの感情。これら自分の心の中の様々な感情が、自らの論理的思考を縛る鎖となる。
悪徳業者は巧みな話術でこれらの感情を呼び起こす。そしてそれが巧みであればあるほど、その人はその感情が自分の中から自然にわき上がったものだと勘違いしてしまう。怒鳴り口調で相手に恐怖感を持たせることなどはまだ初歩の技術でしかない。巧みな悪徳業者が行うのは、ただ相手の心の中に様々な感情を呼び起こすだけ。そしてその感情の鎖で自らの論理思考を縛るのは、その本人に他ならない。この「自縛の鎖〜emotional chane」をどのように生み出すのか、そしてどのようにすればこの鎖をはずせるのか、その問いに応えるだけの十分な答えを僕はまだまとめていない。しかしいつかこの「だまし」の技術について、その全体を解き明かしてみたい。
何らかの目的や目標を掲ようという時、普通は明確で具体化された表現が好まれる。例えば「世界に平和を!」という目的を掲げたとしても、何を持って「平和」というかがはっきりしていないため、それを実現するのは難しい。しかしこれが「核兵器の全廃を!」となると、先ほどよりもなすべきことが明確になり、実現への道筋も見通しができる。また「2005年までに自国の核兵器の50%削減を!」のように「数値目標」や「期限」が明記されると、更に実現への見通しが分かりやすくなる。
目的と目標というと、目的は多少曖昧だが意図している中身が感覚的につかめるものであるのに対し、目標はそれが具体化明確化、時に数値化され実現への見通しがはっきりしているものであることが求められる。しかし目的に多少の曖昧さが許されていても、あまりに曖昧(vague)で多義的(ambiguity)なものは、それを具体化し目標を導き出すことが不可能となるので許されない。目標はなおのことそのような表現は許されない。
しかしこのような明確さは、掲げられた目的、目標の下実現に向けて努力する人の立場から言えば当然必要であるものなのだが、この目的、目標を設定する立場の人から見ると実に困難なものである。特にこの目的、目標が自分、自社、自国だけでなく、複数人数、特に多人数の間で設定しなければいけないような場合、例えば国際条約を批准する場合などがそうだ。
多人数で目的・目標を設定する場合、「明確な」ものを目指すには、それだけそのメンバー間で価値基準を一致させなければならない。例えば「世界に平和を!」から「核兵器の全廃を!」という目標を導き出すとしたら、「核兵器の全廃が世界平和につながる」という合意を全メンバーでなさなければならない。
しかしこの「合意」というものはそうたやすく実現することではない。「世界に平和を!」という点では皆が一致していたとしても、それが「核兵器の全廃を!」となると意見が別れはじめ、更に「2005年までに自国の核兵器の50%削減を!」とまで来ると意見がばらばらになるのは、国際交渉などの場面でもよくあることである。
国際交渉では、もちろん多国間の合意によりなんらかの条約が批准されることが一番望ましい。しかし参加者が自らの国を背負っている以上、そう簡単に一つの合意が実現できるわけではない。しかし実現しないのであれば、国際交渉そのものが無意味になってしまう。そしてそのような状況の時に「玉虫色」の表現が有用に働く。
「玉虫色」の表現は、例え多少の価値観の差異があったとしても、その差異を上手に吸収してくれる。例えば「世界平和」や「持続可能な発展」「共有するが差異のある責任」などはそうであろう。これらは確かに曖昧さや多義性を含んではいるが、しかし一つの表現とは成りうる。この表現から具体的な目標を導き出すのは難しいかもしれないが、しかし一つの表現を皆が共有することで、少なくとも何らかの方向に対して皆を動き出させることができる。
最初から明確化、具体化された目的、目標を掲げるのは困難である。だから最初は、例え玉虫色になったとしても、合意できる内容をうまくもりこんだ表現を作り、徐々に外枠を埋めていく。そして次なる交渉でその「玉虫色」の部分を話し合い、徐々に明確化、具体化を進めていく。もし世の中に「玉虫色」の言葉がなかったら、世の中で国際条約なるものは存在しなかったかもしれない。それはある意味「嘘」のない世界を生きるのに似ている。この世に合意や条約なるものが存在するのは、少なくともこの世界が「玉虫色の世界」であるからに他ならないだろう。
子供の頃魔法使いになりたいと思ったことがある。ある決まった呪文を唱えることで、炎を出したり空を飛んだりといった、普通の人間には到底できないことがら(魔法)を軽々とやって見せる魔法使い。漫画やゲームに登場するそんな魔法使いにあこがれて、将来魔法使いになれないかと本気で思い悩んだこともあった。
では果たして人間は「魔法使い」になれるのだろうか。それは不可能だと多くの人は言うであろうが、ある意味では可能であると僕は考える。その「可能」である理由はひとえに魔法使いの「定義」にかかっている。「魔法使い」という言葉を「論理的には到底不可能な事柄(魔法)を実行する人」と定義するのなら、そんな「魔法使い」に人間がなることは不可能であろう。しかし「魔法使い」を「ある決まった呪文を唱えることにより何らかの事柄を実行する人」とすれば、つまりは「呪文詠唱人」と「魔法使い」を定義すれば、それは普通の人間でも十分なることができる。
そもそも魔法使いにとって「呪文」とは何だろうか。漫画やゲームの中には呪文を唱えることなく様々なことを実行する魔法使いもいるが、大抵の魔法使いは何らかの「呪文」を唱えている。それは例えば「メラ」や「ホイミ」であったり、あるいは「ケアル」や「アルテマ」であったり、あるいは「天にまします我らが神よ...」であったりする。これらの呪文は、人間界とは違う精霊界から力を借りる時に交わす「契約の言葉」であったり、あるいはそれ自体に言霊の力が宿っている「超越言語」であったりと色々の解釈があるが、ここではちょっと違う解釈をしてみる。つまり「呪文」を「自分への合図」と考えるのだ。
「自分への合図」とは何だろうか。ここで魔法使いは、別に精霊界や言霊の力を借りなくても様々なことを実行できると考える。しかしそんな魔法使いが魔法を実行するときにもそれなりの準備がいる。その準備とは自らの意識を集中したり、自らの心の中で何らかの「手続き」をすることである。そしてそんな準備に取りかかる合図として「呪文」を唱える。呪文はそれ自体に意味があるわけではなく、自分の状態を魔法を使う状態へと引き上げる合図として働くのである。
この「自分への合図」としての「呪文」は、コンピュータのプログラムでいうところの関数やサブルーチン、あるいはプロシージャーというものに近い。プログラムではメインプログラムから、ある決められた名前を使うことによって、他の働きをする関数やサブルーチンを呼び出すことができる。この関数名などの名前が「呪文」の働きをする。
自分への合図として「呪文」が必要となるのは何故だろうか。魔法使いは実に色々な魔法を使える。炎を出したり、空を飛んだり、何も使わずにものを動かしたり、姿を消したり、そんな様々な事柄(魔法)ができる。しかし果たして魔法使いはいついかなる時でもこれらの「魔法」を使いこなすことができるだろうか。答えは否である。人は自分ができることでも、それをやろうとしない限り実現することができない。そして緊迫した状況の中では、人は自分のできることを整理する暇などない。場合によっては自分ができるということすら忘れてしまうことさえある。そんな時に「呪文」が役に立つ。自分のできる魔法一つずつに併せて合い言葉となる「呪文」を設け、そしてその「呪文」を覚える。そして魔法を使いたいときは、自らで決めたその「呪文」を唱えることで、自らの意識を集中させ、実行する。もちろん呪文そのものを忘れてしまってはしょうがないが、呪文のあるなしでは一つの魔法を使うにしてもその使い勝手が違うだろう。
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さて、以上「魔法使い」にとっての「呪文」を考えてきたが、魔法使いならずとも、自らへの合図としての「呪文」が必要になるときは往々にしてある。特にここでは、自らの「思考」における「呪文」の必要性を考えてみよう。人は自らの思考空間の中で、実に様々なことができる。何かを分析したり、それを自らの価値観に照らし合わせてみたり、あるいは無いものを発想したり、思考を一時中断したり、全てのものを疑って考えたり、そんな様々なことができる。しかし果たして人間はいついかなる時でもこれらの「思考」を使いこなすことができるだろうか。答えは否である。人は自分ができることでも、それをやろうとしない限り実現することができない。よく考えれば気づくことがらでも、そもそも「よく考える」ことをしなければ気づくことはできない。そして緊迫した状況の中では、あるいは普段の状況の中でも、その「思考」を常日頃からの習慣にしていない限り、必要なときに必要な「思考」を行うことはできない。
先に挙げた様々な思考全てを、分析や発想、疑惑や中断といった思考全てを、いついかなる時でも実現できる習慣を持った人は少ない。そしてそうだからこそ自らの合図としての「呪文」が必要となる。「思考」と「呪文」を対応させ、そしてその「呪文」をある「思考」をする際の合図とする。そしてその「呪文」により自らの思考回路を120%使い切る。このような「思考」を「論理空間」上の「魔法」、言うならば論理魔法─Logic Magicと考えれば、これらへの合図となる「呪文」を生み出すことにより、人は誰でもLogic Magicianになれる。そしてこれが、人間が魔法使いになれる一つの可能性であり、先の問いへの答えなのである。
みずからの思考回路を120%つかいこなすLogic Magicianを目指して、僕も日々修行を続けよう。とりあえず僕が今覚えたい論理魔法は以下の通りだ。各論理魔法の詳細については、そのうち紹介しようと思う。
abstract -> 状況を簡潔に整理せよ
find-act -> 取りうる行動を列挙せよ
simulate -> 起こりうる事態を想定せよ
doubt -> 全てを疑って考えよ
suspend -> 即断をさけ、判断を保留せよ
sleep -> 思考を停止せよ
言葉には色がある。全く同じ言葉でも、色が違えば違う意味がそこには生まれる。そして言葉に色を塗るのは「話し手」であり、その言葉の色を見分けるのは「聞き手」である。
全く同じ言葉でも、それが「誰の」言葉かによって回りの人の受け止め方は違う。先生が言う。親が言う。友達が言う。自分で言う。そんな話し手の違いは色の違いとして言葉に現れ、その色は聞き手に違う意味を感じさせる。
そしてそんな言葉の色は、デジタル化され標準化されたパソコン上の文字にも色濃く表れる。ホームページ上の文字、掲示板で書かれる文字、メールで送られてくる文字、そこには音も、トーンも、抑留も、癖字も何も入ってはいないけれど、全く同じ内容であるにも関わらず、その受け取り方が大きく異なる場合がある。それは文字を受け取る「受信者」が、その文字に付いた「発言者」の色に敏感に反応しているからであり、しかもその色は「発言者」と「受信者」の間柄が深ければ深いほど色濃く映る。
言葉の「色」を完全に消え去ることは、言葉の「色」を完全に廃して「無色透明」なその意味だけを探り出すことは、思いの外難しい行為なのかもしれない。また逆に、「無色透明」な言葉が運ぶ意味というのは、思いの外小さいのかもしれない。僕たちはむしろ言葉の「色」や「におい」、「味」や「てざわり」などからこそ多くの意味を引き出しているのかもしれない。
「人間は意味に取り憑かれた生き物である」とは、二年前に僕が学んだ「記号論」の先生の言葉である。当時の僕はこの言葉に妙に惹かれて、同じようにこの言葉に惹かれた友達と一緒に初めて「記号論」なる授業を取ってみた。そして今でもその言葉は、僕を妙に引きつけるのだ。
人間はあらゆるものに「意味」を見出そうとする。働く「意味」、学ぶ「意味」、生きる「意味」。そしてその「意味」が与えられないと、人はひどくおびえ恐怖する。「無意味」な暗闇の世界に耐えられる強い心を人は持ち得ず、その中で一生懸命に「意味」という光を探し求めるのだ。
しかし「神」が作った実在の世界とは違い、「意味」の世界は人間が無から築き上げなければならない世界であり、しかもその存在を保証してくれるものは何もない。毎日の生活の中で私たちが一生懸命に追い求めている「意味」なるものは、もしかしたら決して見つからないものなのかもしれない。
けれども人は、そして僕は、それでも「意味」を追い求める。働く「意味」、学ぶ「意味」、そして生きる「意味」を、おそらく一生かけて追い求める。何故なら僕は既に「意味」にとりつかれた、「意味憑き」だからだ。そして「意味憑き」である自分が、僕は妙に気に入っているからだ。無限に広がり複雑に絡み合った「意味」の世界が、僕は何故か好きだからだ。
だから僕は、今日も、そしてこれからも、こんな文章を書き続けるのだろう。
ものごとの考え方は人によって様々に違うけれども、その違いはその人本来の性格の他に、「立場」による違いというものがある。そしてそんな「立場」による考え方というものは、意外な程にその人の思考を支配しているものである。そしてそんな立場に囚われない多面的な思考を目指すのであれば、意識的に自分でその立場を切り替える努力をするしかない。
しかし切り替えるとしてもどのような視点に切り替えればいいのだろうか。僕は人が多面的な思考を目指す上で、必ず持っておかなければならない視点がいくつかあると思う。そしてその内の一つが「当事者の視点」である。
「当事者の視点」とは一言で言うならば問題を自分の問題として捉えるための視点であり、それは人任せな傍観者ではなく自らが主体的にものごとに関わろうとした時に必ず必要になる視点である。例えば日本の政治について、だめだだめだと言っているのならばそれは傍観者あるいは享受者の視点でしかない。そうではなく、だめならばどこがだめなのか、そしてそれを替えるにはどうすれば良いのか、そして自分はそのために何をすればいいのかを考えなければ、物事は何も変わらない。当事者の視点は正にそのような時に求められるのである。
あらゆる問題について常に当事者の視点を持ち続けることは困難を極めるが、しかしその視点を持ち続ける努力をすることは大事なことだろう。僕も常にその視点を心に持ち続けたい。