blowing wind Daily Essay
* [Vol.5] 2000年5月のエッセイ

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* 0531:根を張るもの
* 0523:羊と狼
* 0518:理解と行動
* 0514:敵なる感情、内なる相棒
* 0510:見えない読み手
* 0509:一対多の関係
* 0505:self-management
* 0501:リフレイン


0531:根を張るもの

 最初の「それ」は、一つの小さな種であったかもしれない。ちょっとの雨や多少の風に、その身震えさせるか弱き草花であったかもしれない。しかし「それ」は、その根を大地に張り巡らせ、懸命に大地へしがみつこうと試みる。やがてその努力は、その根を深く広く大地へ浸透させ、そして「それ」は大地と同化する。

 世の中には「根を張る」能力というものがある。それは環境に適応する能力であり、社会へ深く広く浸透していく能力であり、そして社会を自らに合わせて変化させる能力である。そしてそれは、植物だけが持つものではない。組織におけるリーダー、社会における自動車やコンピュータ――その「根を張る」能力は、動物や人間も、そして「科学」「技術」も持ちうるものである。

 一つの技術は、例えば「コンピュータ」という技術は、生まれた時はか弱き草花でしかないかもしれない。流行が過ぎたら、廃れていく運命でしかないかもしれない。しかしこの「コンピュータ」という技術は、社会の至るところにその根を張り広げ、社会の隅々まで浸透していく。コミュニケーションの手段として、ビジネスの手段として、新しいメディアとして、そんな様々な形態をとりながら、様々な分野へと、その根を張り巡らせていく。そして気が付けば、「コンピュータ」という技術はこの社会と同化して、分離不可能なまでに成長を遂げている。同化したその技術を引き離すことは難しく、無理に引き離そうとすれば「痛み」を伴わずにはいられない。

 僕たちは皆「根を張る」能力を持っている。それは自分という存在を社会に保つための能力であり、社会に同化するための能力であり、そして自らを周囲に「必要」とさせるための能力である。その創られた必要性は、それが大きければ大きいほど、社会における自らの地位は確立したものとなる。しかしその必要性が大きければ大きいほど、組織や社会はその「消失」に大きなリスクと痛みを伴わなければならない。

 自らの生命をかけてその根を張りゆくもの。そしてそれにむしばまれ、それを「頼り」とし、そしてその消失に不安や恐れを抱える社会。そのバランスは何とも難しい。

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0523:羊と狼

 世の中には様々な関係があるが、その中に「捕食関係」というものがある。つまりは「食う」「食われる」かの関係である。そしてこの「捕食関係」は、別に生物間にのみ見られるものではなく、人間関係の中にも多く観察される。例えば「お人好し」とそれを食い物にする「詐欺」、決められた法を守る「善人」とそれらの法を無視し彼らを攻撃する「悪人」。か弱き「羊」とそれを食う「狼」―その羊と狼の捕食関係は、私たちの想像以上にこの社会にはびこっている。

 「羊」「狼」に勝つこともたまにはあるかもしれないが、ほとんどの「羊」「狼」に食べられる。それは言うならば「相性」の問題であり、ある意味仕方がない。グーがパーに勝てないように、相性上どうしても苦手な相手というものはいるものである。そしてそんな「相性」の悪い相手に勝つには、自らの属性を変えるしかない。時には「羊」をやめ相手と同じ「狼」へと変身する必要さえも、自分の身を守るためには生じてしまう。

 もし世の中が全て「善人」だけだったら、世界は全てうまく行くのかも知れない。しかしそこに一人でも「悪人」がいる場合、「羊」を食い物にする「狼」がいる場合、か弱き「羊」である「善人」を貫くことは難しくなる。そしてこの「狼」と対峙するのならば、自らもまた「狼」となるしかない。

 人間の善なるものに依拠する社会は、人間の悪なるものに無惨なほどに弱い。「私は人間の悪意というものを確信している。人間の善なるものを信じてはならない。善なるものを守る権力とは、善なるものの力を頼りにしてはいけないのだ。」「沈黙の艦隊」でベネット大統領が確信したその言葉は、この社会における一つの真理であると僕は思う。

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0518:理解と行動

 人には様々な欲求があるけれども、その中には「理解」「行動」という二つの欲求がある。「理解」とはこの世界の様々なことを理解したいという欲求であり、「行動」とはこの世界の様々なことに働きかけたいという欲求である。そしてこれら二つの欲求は、おそらく他の動物に比べて人間がより強く抱いているものであると、僕は考えている。

 「理解」の欲求には更に様々なものがある。例えば近所の噂や他人の行動などの、様々な「情報」を知りたいという欲求。そしてまた、例えば物理の法則や犯罪の動機・理由など、表面的な情報の裏に潜む「真理」を発見したいという欲求。そしてこれらの「情報」「真理」を、体系的に「整理」したいという欲求、などである。

 また「行動」の欲求にも、世にない何かを生み出したいという「創造」の欲求や、何かを実現させる道筋を考えたいという「計画」の欲求や、その自ら(あるいは他人の手によって)創造・計画されたものを、実際に実現してみたいという「実現」の欲求などがある。

 「情報収集」「真理発見」「体系的整理」「創造」「計画」「実現」、これらは人によってその欲求の度合いも、また得意不得意の度合いも大きく異なるだろうけれども、人が生きてく上での大きな原動力となっている。「理解」「行動」、その2つの欲求は人を動かし、そしてその結果世界は「変化」を遂げる。そしてその変化した世界は、また新たな「理解」「行動」の欲求を呼び起こし、そして世界は変わり続ける。

 僕もまたこれらの欲求、特に「体系的整理」「計画」の欲求が、今を生きるための大きな原動力となっている。しかしいつかは何かを「創造」し、そして何かを「実現」してみたい。けれどそのためには、自らに足りないその能力を精一杯高めていく必要があるようだ。

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0514:敵なる感情、内なる相棒

 人には喜怒哀楽で表されるような様々な「感情」がある。しかしその感情は時に「敵」として捉えられる。そして感情を敵と捉えるのは、自分の「理性」である。

 人は常に冷静な対応が求められる。そしてまた目先のことだけでなく、大きな目的の下で行動することが求められる。例えば「組織」の成功、「国」の安全、「家族」の幸せ。これら大きな目的を叶えるためには、自分の心にわき起こる様々な感情、それは怒りであったり、恐怖であったり、逆に喜びであったり、または哀しみであったりするが、それらを克服して、「理性的」な判断、行動をしなくてはならない。そんな時様々な感情は、自分自身の「敵」となる。そしてそれに打ち勝てることが、「大人」であるための一つの条件であったりする。

 しかしそんな敵なる感情は、私たちが生きる原動力でもある。何故ならもし私たちが「感情」を持たないのであれば、単純に「論理的な思考」しか持ち合わせていないのであれば、きっとこの苦しく複雑な世界を生きていくのに、強い動機は生まれないだろう。私たちが時に悩み苦しみながらも、この世界で生きているのは、自分の心にわき起こる様々な感情があるからに他ならない。

 生きる動機としての感情は様々だ。ある時は死に対する「恐怖心」かも知れない。またはこの世界に対する「好奇心」かも知れない。何かを成し遂げたいという「達成感」かも知れない。自分が生まれ育った国を守りたいという「使命感」や、あるいは自分にとって大切な家族への「愛情」かも知れない。その感情は個人個人で異なるだろう。しかし人間にとって感情というものが、この世界を生き抜く上に必要であるのは間違いない。

 私たちは、時に敵であり、そして時に生きる力を与えてくれるこの相棒と、一生を共に旅して行かなくてはならない。けれどそんな旅路は、きっと苦しくも楽しいものであるに違いない。そう、僕にとって生きる動機となる感情は、おそらく「楽」であり、そして「哀」なのだと思う。

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0510:見えない読み手

 文章には当然「読み手」がいる。逆に読み手がいない文章は空しさしか残らない。どんな文章でも、そこには誰かに読んでもらいたいという期待があり、そしてたいていは、その読み手にあわせて文章の中身も考える。

 「日記」も文章である以上、そこには当然読み手がいる。そしてその読み手の多くは「自分自身」である。これは僕の文章も同じで、やけに説明口調のものが多かったりするが、基本的には自分の考えを自分自身がしっかりと理解できるように、または心にわき起こる様々な感情に自分自身が酔いしれるように、「自分自身」を対象として様々な文章を書き起こす。そのため自分にしか通じない独特な言い回し(例えば「絵」「光」など)を多用してしまい、時に他人の目から見ると訳のわからない文章になってしまったりもしてしまう。

 しかしこのWeb上で様々な文章を掲載するようになってから、電話線の先に存在する「見えない読み手」を意識するようになった。「インターネット」という世界では、理論上ではそこに参加している全ての人々が読み手となる。しかしその読み手の顔は見えない。そのためそこには期待と不安が入り交じる。もしかしたら読まれているかも知れない。もしかしたら誰も読んでいないかも知れない。そんな思いから、アクセス数に一喜一憂する日々が続いたりもしてしまう。

 そしてまた自分の書く文章の質が、以前ノートにだけ書き留めていた時から、少しずつ変化して来ていることを実感する。なるべく平易な例示を利用するようになり、ちょっと気取って、かっこつけて、悪く言えば当たり障りのない文章を書くようになったと感じる。きっとそれは、自分の様々な思いを、できるだけ多くの人に同じく感じて欲しいという渇望から来るものであろう。

 しかし文章の読み手の中に、依然として「自分自身」が大きく存在していることに変わりはない。僕は「見えない読み手」を意識ながらも、「自分自身」が理解できる内容を、「自分自身」が面白いと感じる表現手法でもって、この先も文章を書いては、こうしてWeb上に掲載していくのだろう。

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0509:一対多の関係

 世の中には様々な「比率の関係」がある。例えば夫婦や恋人などは「一対一」の関係である。スポーツもその比率は5:5にしろ9:9にしろ11:11にしろ全て「一対一」である。この「一対一」の関係は人間一人に対し人間一人があたる、または同数の人間に対し同数の人間があたる関係を意味し、人間関係の中でも基本的な関係であるといえる。

 そして現実社会では、この「一対一」という関係の他に「一対多」の関係も存在する。例えば先生と生徒の関係、一つの窓口と多くの利用者の関係、一人の担当者と多くの顧客の関係、これらは全て「一対多」である。

 しかしこの「一対多」の関係は、「一対一」の関係と比べると複雑で様々なトラブルを引き起こしやすい。その原因の多くは「一」の側の論理と「多」の側の論理との食い違いに由来する。例えば学校の先生は、何十人という生徒の面倒を一手に引き受けなければならない。単純に計算すれば生徒一人にかけられる手間は何十分の一だ。それに対して生徒側は先生一人だけを相手にすれば良く、全精神をその先生に傾けられる。これらの違いは、例えば同じ質問であってもそれをした生徒は覚えているのに、それに答えた先生は忘れているなどのトラブルとなって表れる。

 これは受付などでも同じで、例えば学園祭の委員会では、一人の担当者が300近くの参加企画を担当する場合があるので、言った言わないでトラブルが起こることがある。また全ての企画内容を把握する訳にもいかないので、担当者側は統一的な書類を用意して要望を聞くだけに留まるが、参加企画側にとってはそれがあまりに事務的すぎて、「官僚的な対応」と捉えられることがある。

 社会で良く見受けられる「一対多」の関係。しかし実際はこれらが更に複雑化した「多対多」の関係や「一対全」の関係も存在する。世の中の様々な関係をこのような比率で考えてみるのも、また面白いのかも知れない。

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0505:self-management

 今の世の中、様々なことを「うまく使う」ことが求められる。例えば人材、資金、知識、技術、あるいは自然環境、資源エネルギー、などなど、「様々な手法を駆使してその対象/能力を最大限活用/発揮させる」ための「マネジメント」という概念が、今では一つの流行となっている。

 そしてその流行の一つに、「自分」のマネジメントも存在する。自分自身をうまく使い、自分自身の能力を最大限発揮する、そんな自分のマネジメント―Self-Management、しかしそれは最も身近な対象でありながら、その実行はなかなかに難しい。

 「自分」のマネジメントというと、良く言われるのは自分の「時間」のマネジメントであろう。自分自身の時間をしっかり管理し有効に使うことの大切さは、昔から言われ続けてきたことである。そしてそのための道具として手帳をはじめとする様々なものがあり、その手法も研究されている。

 しかし「自分」のマネジメントを考えたときに、「時間」の他にもう一つ重要なものがある。それは「意欲」だ。いくら「時間」が与えられていたとしても、自分の気が乗らないならば有効にその時間を使うことはできない。そしてこの自分の「意欲」をマネジメントすることは、「時間」のマネジメント以上に難しい。

 学校の先生や上司は、よく生徒や部下のやる気を引き出すのに苦労している。しかしやる気を引き出すのに苦労するのは当の本人も同じである。勉強しなきゃいけないのにそんな気が起きない。仕事しなきゃいけないのにそんな気が起きない。自分でその必要性が分かっているだけに、意欲を駆り立てられないのはとても辛い。

 そして僕もまた、「意欲」のマネジメントに苦労している一人である。僕はかなり気分屋なので、気が乗れば全然OKなことでも、その気に乗らせるまでが難しい。そして結局締め切りぎりぎりになって焦ってやるはめになったりする。有能なSelf-Managerへの道は険しく遠いようだ。

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0501:リフレイン

 僕の書く文章は長かったり短かったりしているが、別に長い文章の方が中身が濃いという訳ではない。僕がDaily Essayで書いているほとんどの文章は、実は一つの主題しか存在しなかったりする。そしてその主題への導入と、主題の提示と、主題からの「落ち」がほとんどの構成要素で、残りの部分は、その主題を様々な表現で言い換えた繰り返し-リフレインでしかない。

 リフレインは、通常は歌の中でさびなどに使われる繰り返しのフレーズのことを指すが、文章においても、あるいは漫画においても全く同じで、伝えようとする主題をあの手この手で登場させることは良くあることである。作者側としては、せっかく思いついた主題をできるだけ長く使いたいという気持ちがあるから、一回提示するだけではもの足りなくて、何度も何度も使いたがる。けれど過度なリフレインは、読者側にとっては逆に飽き飽きする結果となったりする。そのバランスは何とも難しい。

 この文章の主題はもちろん「リフレイン」であり、「文章では同じ主題が表現を変えて何度も登場する」ということだけである。それだけのことなのに、ここまできてまだ文章が終わらないのは、僕がこの主題にまだ「未練」があるからに他ならない。けれど長すぎるとせっかくの主題が薄れてしまうので、ここで筆を止めることにしよう。そしてこれが「落ち」となる。

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