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0729:成長の転換点
0725:契約の機先
0718:ひとり
0717:経絡秘孔
0709:5つのギャップ
0626:逆手の不信
0625:マルチプロジェクト
0611:出会いの履歴
0606:存在の密度
人生においては、いくつかの重要な節目があると言われている。よく言われるのは卒業や就職、または結婚などだが、この他にも様々な節目はある。例えばあかちゃんが初めて言葉をしゃべった時、「鏡に映る自分」を自覚した時(これは「鏡像段階」と呼ばれている)、または悩める学生が、自らの天職を確信した時、師と仰げる人に出会った時。挙げたらきりがないが、おそらく人の人生においては、色々な意味での節目、つまりはそれ以前の人生とそれ以降の人生とを大きく転換させるような「転換点」がある。そしてそんな転換点の一つに、「成長の転換点」が存在する。
「成長の転換点」とは何だろうか。人は生まれた当初は、自分の意志で成長することはできない。身体的には、周りから様々な食料を与えられて育ち、そして精神的には、周りから様々な教育を受けて育つ。
この教育は様々だ。学校の授業に限らず、立ち方歩き方箸の持ち方、そして道徳的な倫理観に至るまで、子供は様々な「教え」を受けて「育つ」。しかしその「教え育てる」教育は、子供の立場からすれば受け身的なものである。けれどその子供はいつの頃からか、その「教え育てる」受け身的な教育から脱却し、自らの意志で自らを「成長」させるようになる。自らの意志で自らの体を鍛え、自らが学びたいと思うことを学び、自らが欲する様々な技術や能力を身につけようとする。ではその「受動的な教育」から「能動的な成長」へと変わる転換点は、一体いつなのだろうか。
制度的に言うのならば、それは義務教育を終えた時といえるのかもしれない。けれど自らの精神の中での転換点はいつなのだろうか。それは人にも依るのだろうが、僕はそれを、「教育という概念に気付いた時」ではないかと考える。
幼い子供は、最初は自分が「教育」を受けていることには気付かない。けれどその子供は、いつかは「教育」という言葉を知り、その意味を知り、そして自らがその「教育」を受け続けてきたことを知り、そしてその受け続けてきたことの意味を考える。
そこでは様々な感情が生まれるかも知れない。怒り、とまどい、喜び、感謝…それは人それぞれなのだろうが、けれどその様々な感情の中で、人は「成長の転換点」を迎えるのではないだろうか。そしてその瞬間から、自らを成長させる様々な機会や権利と、そしてそれに付随する責任とを、人は手にするのではないかと思うのだ。
僕に関して言えば、僕が「教育」という概念と出会って芽生えた感情は「不思議さ」だった。僕は中学の「保育」の授業でこの「教育」という概念に出会って以来、この「教育」なるものがずっと不思議でたまらなかった。そしてその不思議さの理由をずっと説明できないでいた。今思うとその不思議さが、今に至るまでこのようなことを考え続けるきっかけを僕に与えてくれたのだろうと思う。僕にとって「教育」という概念との出会いは、確かに僕の中で「成長の転換点」へとつながっていったのだと、僕は思うのだ。
「機先を制する」という言葉がある。相手よりも先んじて行動を起こすことが、自らの優位につながるという意味の言葉だ。この「機先」をめぐる争いは日常の至る所で見受けられる。そしてその中に「契約」や「勧誘」の争いがある。
僕は昔、新入生のオリエンテーションを担当する委員会に入っていたことがある。オリエンテーションというと、新入生のための様々な歓迎行事をさすが、その中でも規模が大きいのはやはりサークルの勧誘である。新入生が入学してくる3月、4月の時期は、どこのサークルもこぞって勧誘活動を行い、また新入生も自ら進んで、多くのサークルを見学したりする。サークルは自由に入ったり辞めたりできるとはいえ、やはり一番最初に選んだサークルに定着するケースが多いから、勧誘する側も熱が入るし、勧誘される側も熱心になる。
そんなサークル勧誘だから、そこにはいろいろと問題が出てくる。例えば大学のサークルは、全てが健全なサークルであるとは限らなく、中には妖しいところもあったりする。そして入学したばかりの新入生が、そのようなところにひっかかってしまうことが実際ある。また普通のサークルであっても、その勧誘方法が強引であったり嘘であったりする場合もあり、僕も何件かそのような苦情を受け取ったことがある。
このような勧誘の問題は様々あるが、その大きな原因の一つに、勧誘の「機先」をサークル側が握っていることがあげられる。例えば最初に話しかけるのはサークル側であることが多いし、サークル内容の説明も、サークル側が一方的に話すという感じで行われることが多い。このような流れの中では、新入生側は全て「後攻め」となってしまう。そしてそんな「後攻め」の立場では、サークル側の「攻撃」に対し「防戦一方」となってしまい、そしてその結果、気の優しい人などはつい「折れて」しまうのだ。
もっともサークルの勧誘の場合は、折れてしまったからといって不利益が必ずしも生じるとは限らないのだが、世の中には折れてしまったらもう終わりという怖い世界もある。それはいわゆる「悪徳商法」の世界である。例えば訪問販売、または電話勧誘などの突然の相手側の攻撃に対し、防戦を続けるもつい折れて契約してしまった結果、何十万というもの金銭的被害を被ってしまうなどのケースが生じてしまうのだ。
このような被害を被らないためにはどうすればいいのだろうか。その対策の一つに、常に自分が契約や勧誘の「機先」を制することが挙げられる。つまりは、自分から相手に働きかけて初めて契約、入会できるような状況を常に保っておくことが、このような被害を防ぐ手だてとなるのだ。
これは何も難しいことではない。例えば突然の電話が来たら、「興味が出たらこちらから電話するので、電話番号だけ教えていただけますか。」といって後の話は聞かないようにする。そしてまた実際の契約の時も、調べられることはできるだけ調べて、話の主導権をこちらが握るようにする。そしてまた不意の攻撃にあった時は、戦おうとはせずに逃げの一手でかわす。常に契約の機先を制しておくことが、自分が被害に遭わないためには必要なのだ。
自分からの働きかけがまず最初にできるような状況を保つこと、契約や勧誘の機先を制することは、いつ騙されるとも知れないこの世界を生き抜いていく上で、必要最小限の自己防衛であるように僕には思える。
毎日の日常の中で、ふとこう思う時がある。僕は本当に「ひとり」なのだろうか。僕という一つの存在は、本当に「ひとり」の人間なのだろうか。
僕は、自らの体を自由に動かし、物事を自由に考えているように見える僕という「存在」は、身体と精神を持った僕という「人間」の、一つの「代表者」に過ぎない。人間の身体は、実に多くの器官から成っている。そしてそれぞれが、それぞれの役割を果たしている。それはあたかも、一つの意志を持った生命の様である。心臓、肺、手足、胃、などなど、突き詰めれば一つ一つの細胞に至るまで、それら複数の独立した生命の複合体として、僕という「人間」は成り立っている。
人間に宿る精神だって複数存在している。それは何も多重人格であると言っているわけではない。例えば恐怖を感じる本能、閃きを生み出す直感、感情を生み出す心、ものごとを考える理性。そんな多くのものが、一個の人間の中に存在している。そしてそれらたくさんの「もの」たちの共同作業によって、僕という一個の「人間」は毎日を生きている。
とするのならば、今この文章を書いている僕、すなわち僕という「存在」は、複数生命体の集合である僕という「人間」の、ひとつの「代表者」であるに過ぎない。この代表者は司令塔でもあり、また外交を担当するスポークスマンでもあり、わき起こる様々な感情を受容する者でもあり、様々な苦痛や恐怖の矢面に立つ者でもある。
代表者としての僕は、僕という「人間」の中に存在し、様々な面でサポートしてくれるたくさんの「もの」たちに対して、何らかの「責任」を持っている。そしてその責任とは、「生きる」ということであるように僕には思える。私たちに「生を全うする」という使命が科せられるのは、私たちのこの代表者としての性質故なのかもしれない。
「全ての論文には経絡秘孔がある」とは、僕が大学三年の時に受けた「組織論」の先生の言葉である。漫画「北斗の拳」に出てくる「経絡秘孔」とは、人体に708ある一撃必殺の「つぼ」で、そこに衝撃を加えることで人体を内部から破壊することができる。論文にも708とは行かないまでも幾つかの経絡秘孔があり、そのつぼを突かれるとその「論理」は全て解体する。そしてその経絡秘孔は、例えどんな良い論文であっても必ず存在するというのだ。
論文に限らず、「論理性」が求められるあらゆるもの、それは発言であったり、文章であったり、思考であったりするのだが、そこには「経絡秘孔」が存在する。解体とまでは行かなくても、「論理」の大黒柱となる何らかの「つぼ」が、そこには確かに存在する。そしてその「つぼ」を見極め、その「つぼ」を的確に突いていくことは、日常のあらゆる面で「論理的」なことが求められる現在において、必要なスキルであると言えるだろう。
僕はこのスキル修得のために、最近とある場所で修行をしている。といっても、別に何らかの道場に通っている訳ではない。僕がいくその場所はとあるホームページの「掲示板」である。
掲示板では、良くある問題について激しい議論(専門用語でフレームという)が起こることがある。その激しさは口頭での議論にはないものであって、また議論の傾向として物別れに終わるケースが多い。
掲示板での議論は、一人が一度に大量の書き込みをするというのが常である。そしてそのような形式では、議論の論点が次第にずれてゆくことがままある。このような議論においては、相手の書き込みが最も言わんとしているところ―経絡秘孔を見極めて、それに反論する必要がある。幸いそれを考えるだけの時間は、掲示板での議論には確保されているのだから。
だから僕は、相手からの書き込みがあった場合、それに対してすぐ反論したくなる気持ちを抑えて、まず相手の経絡秘孔を見極めようとする。そしてそれに対して、最もそれを効果的に突くような形で文章を書く。もちろん秘孔がずれてしまい、いらぬ効果が引き起こされてしまう時もあるが、しかし修行開始をした当初に比べると、いくつかコツがつかめてきたように思う。
論理に潜む経絡秘孔。そしてその経絡秘孔を見極め、的確に突いていくスキル。僕も修行を積み重ね、いつかは「論理の北斗神拳」を修得していこう。
自分、組織、あるいは社会に存在する何らかの「問題」を解決しようとした場合、そこには常に「5つのギャップ」がつきまとう。
何らかの問題があったとしても、その原因を把握できるとは限らない。
問題の原因を把握できたとしても、そこから対策を構築できるとは限らない。
問題の対策を構築できたとしても、その対策を実施できるとは限らない。
問題の対策を実施できたとしても、その対策で問題が解決されるとは限らない。
原因も分からず十分な対策も立てられなかったとしても、何もしないでいることは許されない。
問題解決に際しては、このギャップを埋めていくことが必要となる。しかしそれは果てなく難しい。けれどもおそらく僕は、ある「問題」を解決するために、一生を通してこの「ギャップ」と格闘し続けるのだろう。そしてそれこそが、僕が定めた「旅の目的」なのだ。
相手から「不信感」を抱かれるということは、普通に考えればあまり良くないことである。その人の言動、その人の人格が信用に足らない、そんな烙印を押されてしまえば、政治家だったら選挙で勝てない。また組織のリーダーであれば、メンバーが付き従ってくれない。相手に「不信感」を抱かれるということは、通常であるならば、それはその人の不利につながる。
しかしその「不信」が有利に働くことがある。そしてその有利に働く場というのは、「心理戦」という戦場においてである。例えば戦争における軍師同士の策の読みあい、麻雀などのゲームにおける騙し合い、そのような心理戦が繰り広げられる戦場においては、自分への不信を逆手にとって、それを有利な方向へと導くことができる。
そもそも心理戦というものは、出口の見えない迷路のようなものである。相手の言動や周囲の状況から、相手が採ろうとしている相手の策を読む。しかしもちろんそれは、不十分な情報から判断する「推測」に過ぎない。そこにはもちろん不安が生まれる。「本当は違うのじゃないのか。」「もしかしたらあの言葉は嘘じゃないのか。」「本当は違う手を隠しているのではないか。」そんな不安におそわれたら、それはもう泥沼にはまったようなもので、なかなかその不安から抜け出すことはできない。それは心理戦における敗北を意味する。
対抗相手への「不信」は、自らの「推測」に対する不安を増幅させる危険がある。逆に言えば、相手から「不信」を持たれるということは、それだけで相手に対して有利に働く場合がある。沈黙の艦隊で、海江田艦長のこのようなセリフがある。「核兵器の持つ本質的な脅威とは、核兵器を持つものの不信感に比例して高まるのです。」相手が信用できないという不信感が、そのまま核兵器を使用されるのではないかという恐怖につながり、結果として相手に対して攻撃をすることへの躊躇につながる。そんな「不信」を逆手に取った抑止力というのは、核兵器以外にも存在する。
そもそも心理戦とは、出口の見えない、あるいは出口そのものがない迷路である。私たちは心理戦において、相手がどのような策にでるかを読み合うが、そもそも相手がその策を採ったとして、その策が相手にとって望む通りの結果をもたらすとは限らない。けれども相手に対する「不信」が強い場合は、相手の為す行動が、全て計算詰めで行われているかのような錯覚をもたらす。けれど本来そのようなことは多くはなく、採った策が望む結果につながるとは限らないし、望む結果が出たとしても、それが単なる偶然であることもままある。そのような状況においては、自分の読みへの不安などあって当然といえる。その不安を気にし始めた時点で、もはや心理戦は「敗北」なのである。
今の世の中、相手から「信頼」を勝ち得ることは容易ではない。そういうときは、むしろ相手の「不信」を逆手にとって、相手を泥沼の心理戦におとしめるということも、ある意味有効な手段であるのかも知れない。ただしその場合、相手は「敵」であることが条件となるだろうが。
いつの頃からだろうか、僕の生活は「シングルタスク」から「マルチタスク」に切り替わってしまった。何か一つのことだけに熱中して毎日を過ごすのではなく、常に複数の事柄を抱え、複数の活動に関わりながら、毎日を過ごすようになった。しかしよくよく考えてみると、それは当たり前のことなのかもしれない。部活と勉学、サークルとバイト、仕事と家族、少なからず多くの人は二つ以上のものごとを抱えて毎日を生きている。真の意味で、ただ一つのものだけに生活の全てを捧げるという生活は、かなり珍しいものであるに違いない。
けれども、いくら「マルチタスク」の生活が一般的であったとしても、そこには「程度」というものがある。例えば、一人で3種類以上の仕事をしている人はそう多くない。また一人で10を越える趣味を持っている人も多くはいない。けれども僕は、どうやら昨年あたりから、5から6の事柄に常に関わり続けるようになってしまい、今もその状況から抜け出していない。
最初は、単なる偶然の積み重ねだったかもしれない。卒論や院試といった、勉学的なことでも忙しかった大学四年の時期に、僕は何を思ったか、大学四年間で成し遂げられたかった様々な事柄を実施してみたくなった。そしてまた大学四年間で構築された人間関係のしがらみもあった。結果僕は、卒論などがありつつも、常に並行して様々な活動に関わるはめになってしまった。
でも、そんな激動の一年が終わった今でさえも、僕はまだ6つくらいの活動を抱えている。そして最近では、これが僕の生き方なのではないかとさえ思えてきた。最初はやらなければならないことがたくさんあって、結果たくさんの活動、というよりも仕事―タスクを抱え込んでいただけかもしれない。しかし今では、むしろたくさんのやりたいこと―僕はそれをプロジェクトといっているが、その複数のプロジェクトがあって、それを同時並行的に実行している。
やりたいことが複数あった時、それを無理に一つに絞る必要はない。それが必要な時もあるけれども、けどそれらを一緒に行うことだって可能なのだ。そのような生き方、複数の仕事を抱え込む「マルチタスク」ではなく、複数の夢を実現する「マルチプロジェクト」という生き方、それはそれで一つの理想的な生き方であるかもしれない。そしてそんな生き方は、移り気な僕の性格に、妙にマッチしているように思えてならない。
しかしそのような「マルチプロジェクト」な生き方をするには、自分の時間や意欲のマネジメントだけでなく、自分のタスクやプロジェクトのマネジメントも含めたSelf-Managementが重要となる。とりあえず僕は、自分の中のOSをマルチタスク対応のものへとアップデートしていくことに、大学院生活の二年間をあててみようかと思う。
人生には様々な出会いがある。人との出会い、本との出会い、音楽との出会い、映画との出会い。人は生まれてから死ぬまでの間、常に様々なものに出会い続け、そして様々なものと別れ続ける。そしてそんな「出会い」と「別れ」は、僕たちが使う「言葉」とも存在する。
世の中にはたくさんの言葉がある。そしてそんな言葉たちと僕たちは出会い続け、そして別れ続けてきた。そこには100人居れば100通りの「出会いの履歴」がある。人がどのような順番でどのような言葉とどのような方法で出会い、そして別れてきたのか。そんな言葉との出会いの履歴を考えてみることは、実に興味深いことである。
そしてそんな言葉の出会いの中には、「比喩」との出会いも存在する。「光」「絵画」「立ち止まる」「狼」、僕は文章の中にたくさんの「比喩」を盛り込むけれども、それらの「比喩」との出会いは、僕に何とも言えない喜びを与えてくれる。そしてそんな喜びを更に増幅させるために、僕はその比喩を使って文章を書いてみる。そしてそれを公開してみる。僕が書いている心の旅路の中には、一つの比喩だけでもっているテーマも少なくない。
言葉や比喩とのたくさんの出会い。そしてその出会いの履歴。人は一生をかけたそんな出会いと別れの中で、自分だけが好む独特の言い回しや独特の表現手法を修得していく。自分がよく使う言葉や言い回しと、自分がいつどのようにして出会ったかを考えてみるのも、また面白いかも知れない。
僕は自分を不安にするためのある「呪文」を知っている。日常の世界に隠された、しかし必ず存在する未知の恐怖を引き起こす「呪文」を知っている。その呪文は西洋思想史の講義中にふと思い浮かび、その後何度も僕の思考をかき回している。その呪文とは「何もない」というその言葉である。
箱の中には何もない。電車の中には誰もいない。夜の町には音もない。地下のその部屋は光もない。「何もない」というその言葉は、普段の会話の中でもごく普通に使われるが、しかし「真」の意味で「何もない」ということはまずあり得ない。例えば何もないように見える空間であっても、そこには目に見えない空気が存在している。またその空気を抜いて真空の状態を創り上げたとしても、そこには光や電磁気のようなエネルギーの波が存在している。こう考えると、「真」の意味で「何もない」という状況は滅多にあり得ない。
しかしこの広い宇宙のどこかには、「真」の意味で「何もない」空間というものが存在する。分子も原子も光も波も何も存在しない、そんな「存在の密度」が0である空間が存在する。そしてそのような「無」の空間は、僕に「存在とは何か」という問いを投げかける。
むしろ広い宇宙においては、このような存在の密度が0である「無」の空間の方が多いのかも知れない。そしてその中に、例えばこの地球のような、存在の密度が高い空間がまるで大海の浮き島のように存在するのかもしれない。そう考えれば考えるほど、「存在」というものがとても不思議に思えてくる。そしてそう思えば思う程、僕は不安な気持ちに駆られてしまう。
僕という「存在」もまた、存在の密度でしか言い表せないのかもしれない。今を生きている僕は、五十何キロという重さを持ち、たくさんの分子や細胞からなり、存在の密度は高い。しかし僕が死ぬと同時に、それらの分子や細胞はつながりを失い、やがては風化し、あるいは火葬され、存在の密度は低下する。「生命」とは何か。「存在」とは何か。それは最も単純で最も核心に迫った問いでありながら、誰も答えることのできない最も困難な問いでもある。そして最も核心にあるものを掴むことのできないその頼りなさが、僕を今日も不安にさせるのだ。