blowing wind Daily Essay
* [Vol.7] 2000年8月のエッセイ

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* 0827:達人の条件
* 0823:Lv99
* 0816:Imaginary Power
* 0809:言葉の底
* 0806:流れる時の記憶#3「過去の旅」
* 0805:流れる時の記憶#2「流れる時」
* 0804:流れる時の記憶#1「心の旅路」


0827:達人の条件

 世の中には様々な「専門家」がいる。「スペシャリスト」と呼んだ方が良いかも知れない。医者や弁護士、または鍛冶屋や料理人など、一つの分野に秀で、一つのスキルを極めたスペシャリスト。現在の世界はそんな多くの「専門職」が存在しており、そしてそんな専門職に就いた人たちは、その道の「達人」を目指して日々努力を重ねる。

 ところである道を「極める」ということは、一体どういうことなのだろうか。「達人」の達人たる「条件」とは一体何なのだろうか。それには多くのことを知っているだとか、特定の技術(奥義)を身につけているだとか、色々な答えがあるだろうが、けれど僕が一番必要だと思う「達人の条件」は、その道の「限界」を正確に知っていることであると思う。

 例えば「医者」の達人に求められることは、医学というものの限界を的確に知っていることである。そしてまた「弁護士」の達人に求められることは、法律の限界を的確に知っていることである。自分ができないこと、できたとしても不十分なことを的確に認識し、そしてそのことがらは他のスペシャリストに任せる。「できること」「できる」と言い切る以上に、「できないこと」「できない」と言い切ることには、それ相当の知識と経験が必須である。そしてそれができて始めて、その人は「達人」と呼ばれるにふさわしいと、僕は思うのだ。

 ところで、「スペシャリスト」と対立する言葉に「ジェネラリスト」という言葉がある。一つの分野に秀で一つのスキルを極めたスペシャリストに対し、多くの分野に通じ多くのスキルを修めたジェネラリスト。しかし「ジェネラリスト」もまた、一つの分野に秀で一つのスキルを極めた「スペシャリスト」であると僕は考える。そしてジェネラリストが極めるのは、「分担」「決定」の道である。

 ジェネラリストは、複雑に絡みあう様々な現状を的確に分解し、そしてその部分部分を的確にスペシャリストに分担する。そして場合によっては、そのスペシャリストが成し遂げた結果を的確に判断し、調整し、統合し、そして何らかの決定を下す。このような行為が求められるのは課長や部長などの管理職であったり、社長や専務などの経営陣であったり、または国民の多様な要望を取り扱う行政官や政治家であったりする。

 「分担」の達人としてのジェネラリスト。その達人となる条件は、自らができないことを的確に知るとともに、そのことを「的確な」スペシャリストへと割り振ることである。そしてそのためには、多くの分野への知識や経験が必須となる。そのためジェネラリストとしてのレベルを上げ達人を目指すには、多くの経験値が必要となる。

 「決定」の達人としてのジェネラリスト。「決定」という行為は、この現実に生きている以上、どの人間にも避けて通れない行為である。そしてその「決定」が自分だけでなく、多くの人たちの生活や生命に影響を与えるものであればあるほど、その「決定」をこなすジェネラリストにはそれ相応の知識とスキルが求められる。

 真のジェネラリストへの道は果てなく遠いが、世の中に様々な問題があり、そしてそれが複雑になればなるほど、それを的確に分解して分担し、そしてその結果を判断して決定を下すジェネラリストは、強く求められる。そんな世の中では、誰かがその茨の道を、壮絶なる勇気と覚悟とを持って、歩み続けなくてはならないのだろう。

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0823:Lv99

 人が何かを成し遂げるには二つのものが必要である。一つはそれを成し遂げようと強く思う「意志(will)」であり、そしてもう一つは、それを成し遂げるための様々な知識や技術、そして強靱な体力や筋力などの「能力(ability)」である。

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 僕はゲームが好きで、特にRPG(ロールプレイングゲーム)をよくやったりする。この前ニュースステーションで、ファイナルファンタジーとドラゴンクエストというRPGのメジャータイトルの特集が組まれていたが、その中で「努力が報われない現実だから努力が報われるRPGが流行するのだ」という解説があった。この解説には最初同感もしたのだが、けれどちょっと違うのではないかと今は思っている。

 RPGの世界では、プレーヤーには何らかの「最終目的」が与えられている。最初はその目的ははっきりとしていないが、ストーリーの様々な展開がドラマチックに主人公を最終目的へと導いてくれる。「空想の世界」において波乱に満ちた「シナリオ」を自らが主人公となって体験する、そんな本や映画の「追体験」とは違う「仮想体験」は、RPGの醍醐味の一つと言えるだろう。

 そしてまたRPGでは、「レベル(Lv)」を上げることで自らの「能力」を高めることができる。そしてこのレベルは、時間をかければ確実に上げることができ、そしてレベルが上がれば目に見えて自分は強くなる。戦闘が強くなったり、魔法が使えるようになったり、様々な特殊技能を覚えたり、その効果は様々だが、この「自分のレベルを上げる」という楽しさは、ゲームのストーリー展開とは直接の関係はないにしても、多くのプレーヤを惹きつける要素の一つである。

 RPGは確かに「報われる」ものであるのかもしれない。努力をすればレベルは上がるし、自分が為すべき目的は最初から与えられ、しかもその目的達成までのドラマチックなシナリオが用意されている。それを思えば、自分が何を為せば良いのかもつかめない、能力を鍛えることもままならない現実の世界は、確かに「報われない」ものなのかもしれない。

 けれど僕がRPGをやるのは、別に報われない現実から逃げたいからではない。ゲームの方が現実を生きるより「簡単」だからゲームをするわけではない。僕がRPGが好きなのは、そこで「必ず」目的が叶えられ、また努力に応じて「確実」に能力がアップするからではなく、目的を「達成」するということ、そしてそのために自らの能力を「鍛え」ていくということそのこと自体に心惹かれるから、僕はRPGが好きなのだ。

 現実を易しくすることがRPGの目的なのではない。むしろ現実を真似ることがRPGの目的なのである。現実の「生きる」というゲームシステムをそのままに、そこに違う舞台設定や違う物理法則をアレンジすることで、RPGの醍醐味は引き出される。

 「現実」という究極のRPG。その中で今の僕は、まずは自分のレベル上げに精を出している。どうやらレベルを上げてから行動するのが僕のRPGの楽しみ方らしい。裏を返せば、それは僕に何かを成し遂げたいという強い「意志(will)」が欠けているからとも言える。いつか僕が不完全な意志から抜け出せるその時のために、「Lv99」の最大レベルまで自らの能力を高めていくことが、今の僕の「目的」なのだ。

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0816:Imaginary Power

 自分がして欲しいと願うことを、実際に他人がしてくれるとは限らない。「窓を開けてくれ」だとか「ペンを貸してくれ」程度なら、それを頼むのにさしたる苦労はないかもしれない。しかしそれが相手の利益、相手の感情と密接に絡み合えばあうほど、相手に何かを頼むのは果てしなく難しくなる。例えば親が子供に勉強して欲しいと願ったとしても、妻が夫に禁煙して欲しいと願ったとしても、そう言ったところで実際にそうしてくれるとは限らない。

 相手に何かをしてもらいたい場合、そして相手がそれを素直にやってもらえそうにない場合、そんな時私たちはどうするだろうか。一番簡単な手としては諦めるという方法があるが、しかし現実の様々な状況は、私たちになかなかこの方法を取らせてくれない。そうすると私たちは、ある時は説得して、またある時は交渉して、そしてある時は何かしらの強制力でもって、何とかして相手にそれをやらせなければならなくなる。しかしどの手段を執るにせよ、それにはそれ相当の困難が生じる。

 しかし私たちは、そんな他人に何かをさせる場合の苦労を、時に忘れてしまう場合がある。そしてついたやすく、そのようなことを口にしてしまう。その最たる例は「規則」などを作る時だ。「規則」を作るいうことは、多くの人にその規則を「守らせる」ことになる。しかし「規則」が制定されたからといって、自動的に皆がそれを守る訳ではない。例えば「人を殺してはいけない」という刑法があるからといって、それだけで国民全員がそれを守るとは限らない。法律にしろ何にしろ、何かしらの「規則」を制定した場合には、それを皆に「守らせるための力」が必要になる。

 その力とは様々だ。ある時は特に何をせずとも、人々の「倫理観」「正義感」などが、自発的にそれを守らせてくれるかもしれない。また長い間存在していた慣習や習慣なら、「時間の力」が無意識のうちにそれを守らせてくれるかもしれない。しかしそうでない場合は、違反者を見つける「取り締まり能力」や、違反者に罰を与える「物理的な力」も必要になる。けれどこのような力はそうたやすく持てるものではないし、持てたからと言っても、それが規則を守らせるに十分な力であるとは限らない。

 守らせなければならない「規則」があって、かといってそれを守らせるだけの「力」がない時。しかしそれでも何とかそれを守らせようという場合、そんな時有効に働くのは、実際の力を何倍にも見せかける「幻の力」なのだろう。よく用いられる「権威」「権力」という力も、実際の「財力」「軍力」などをただ何倍にも見せかけている「幻の力」であって、以外にその「実体」は儚いものなのかもしれない。国家権力、法の強制力、警察の捜査力、などなど、世の中に存在する様々の「力」が、果たして実際のものなのか、それとも「幻」のものなのかを考えることは、面白くもあるが、反面とても恐ろしいものであるように、僕には思える。

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0809:言葉の底

 人にはその人だけの様々な「癖」があるが、その「癖」は言葉の使い方や、そしてものごとの考え方にも当然存在する。この自分自身の思考の癖について考えてみると、確かに僕の思考には、ある「傾向」があるように思える。僕は何かを考えるとき、決まってまずその「定義」から考える。例えば「時」について考えるときには、「時とは何か」という問いを立てる。「自分」について考える時には、「自分とは何か」という問いを立てる。そしてその問いに沿って、まずはその物事の「定義」を考えるのだ。

 ある物事を考えるとき、そこには色々な切り口があるだろう。僕の切り口は、先ほどの「定義」であり、そして「定義」「定義」を言えば、それはその物事を、「より本質的で簡潔な語句で表現すること」となる。これは辞書に近いものがあるが、辞書の説明よりも更に「簡潔」に、そして何より「本質的」に表現することが、つまりはその言葉の深くに眠る「底」を突き止めていくことが、「定義」を考える上で重要なことであり、そしてその醍醐味でもある。

 この「定義」の他にも、色々な切り口がある。「構造」「関係」「役割」「存在意義」などなどだ。そしてそのそれぞれの切り口に対して、それに対応した「問いかけ」を作る。例えば「構造」ならば、「どういう仕組みで存在しているのか」「関係」なら、「外部とどのような関係を構築しているのか」「役割」なら「社会においてどのような役割を果たしているのか」「存在意義」なら「そもそも何故存在するのか、何のために存在するのか」などだ。

 どの切り口もそれなりに面白い要素を含むのだが、どうやら僕はまず「定義」がはっきりしないと不安になってしまう質らしい。けれども「定義」というのはそう簡単に答えが出るものではなく、他の「構造」「役割」などから帰納的に導き出されるものでもある。そんなジレンマに悩みつつも、僕はより「簡潔」でより「本質的」「言葉の底」を求めて、この先もずっと思考を重ねていくのだろう。

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0806:流れる時の記憶#3「過去の旅」

 「過去」「記憶」の中だけに存在する。「過去」という概念が存在するには、少なくとも「過去」「現在」の2つの時が同じ時空上に存在しなければならない。果たしてその2つの時を存在するだけの容量を、この「宇宙」は持つのだろうか。否、この「宇宙」においては、2つの時を同時に存在させるだけのキャパシティはないと、僕は考える。そしてもしそうであるのならば、時というものは、積み重なることはなく、常に直前の時を消去しながら、変わりゆく流れ行くものであると言えるだろう。時が積み重なるのは、2つ以上の時の存在を許してくれるのは、ただ「記憶」の中においてのみである。それ故「過去」「記憶」の中においてのみ存在し、現実の時空上には存在しない。

 もしそうであるのならば、現在から過去へと旅する「タイムマシーン」という機械は、存在しないことになる。何故ならば「現在」という時空上では、既に「過去」は消去されているからだ。存在しない空間に行き来することは、もはや不可能であると言える。

 ただし、もしタイムマシーンの定義が、現在から「記憶の中の過去」へと旅するものであるのならばどうだろうか。その機械は、タイムマシーンというよりも「ドリームマシン」というに近いかも知れない。そしてその機械は、実際に会った過去ではないにしても、記憶の中で再現された過去へと、旅することを可能にしてくれる。

 ドリームマシンであるタイムマシンにおいては、いわゆる「タイムクライシス」は存在しない。タイムクライシスとは、過去が変化することによって現在に予想できない変化が訪れると危険性のことを指す。それはもしかしたら現在という時空の消滅につながるのかもしれないし、あるいは異なるもう1つの時空を生むことになるのかもしれない。けれどどちらにせよ、そのような「タイムクライシス」が存在している以上、仮に本当の過去へと旅する「タイムマシン」があったとしても、それをそう簡単に使うわけにはいかなくなる。

 けれども「記憶」の中の過去ならばどうだろうか。もしその過去が変化しても、それはその「記憶」の中だけのことであり、現在の世界に影響はない。そこでは「タイムクライシス」に怯えることなく、気兼ねなく「記憶の中の過去」の世界を旅することができる。ただしもちろん、その「記憶」の所有者にはそれなりの影響は生まれるだろうが。

 「過去」という「記憶」の所有者。それは別に誰だって構わない。誰だって構わないが、もしそれが人であるのならば、その人が持つ過去の記憶はほんの何十年のものであり、そしてまたごく一部分の記憶に限られている。でももし、もしその「記憶」の所有者が、地球であったのならどうだろうか。もし地球が、生まれてから今に至るまでの「過去の記憶」を保持しているのなら、そしてその記憶の中を自由に旅できる「タイムマシン」があったのなら、そこでは擬似的な時間移動が可能になるだろう。

 「地球」が持つ「流れる時の記憶」。そしてその中を自由に移動するタイムマシン。そんな世界を舞台とする物語があったら、面白いかも知れない。

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0805:流れる時の記憶#2「流れる時」

 「時」について考えたとき、まず頭に浮かぶ最初の疑問は、それは「積み重なるもの」なのか、「流れ変わりゆくもの」なのかということだ。「積み重なる時」「流れる時」、その2つの時は似ているようで違う。その違いはどこにあるのか。

 「積み重なる時」というのは、言うならば高くそびえる塔のようなものであり、現在という瞬間は、その塔の頂上に積み重ねられ、そしてまた次なる現在が、またその上に積み重ねられていく。つまり「積み重なる時」では、現在という時間の下に、過去という時間が確かに存在しており、そして未来へ向かえば向かうほど、その時の塔は高さを増していく。

 私たちが日常使っている月日、時間という概念は、全てこの「積み重なる時」を前提としている。2000年8月5日という今日の日付は、それ以前に何千年もの月日が存在していることを暗に示している。

 けれども時が「積み重なる」ものである必要は必ずしもない。例えば一日ごとに日付が増えていく方式だけでなく、一日ごとに日付がリセットしていく方式だってある。そこでは年や月という概念は存在せず、8月5日が過ぎればまた同じ8月5日が回ってくる。それはよく漫画であるような、学生が永遠に同じ学年を繰り返す現象とよく似ている。

 確かに人間にとっては、時は「積み重なる」ものとして捉えた方が、都合が良いのだろう。一日一日をしっかりと識別するためには、一日一日に決して重なることのない通し番号―日付をつける必要がある。そして一日一日がしっかりと識別されれば、数日にまたがる予定も立てやすくなる。言うならば人は、「日付」という概念を持ち込むことによって、一日という時の縛りを克服しているのかもしれない。

 けれどもこの「積み重なる時」という概念は、当然膨大な時の蓄積を生む。それは例えば歴史などとなって現れる。また前例や慣習といったものがあるように、「積み重なる時」という概念のもとで人は、「過去」「現在」に生かそうと試みる。

 しかし蓄積する時には、その時の蓄積を蓄えるだけの「容量」が必要になる。もしこの「容量」がパンクすれば、そこに溢れた時は消滅する。それは本が多くなればそれに対応して書棚も大きくなる必要があるのと同じことであり、書棚の容量を超えて本を収納することはできない。

 「積み重なる時」「流れる時」の本質的な違いは、この時を蓄える「容量」の違いに他ならない。この時を蓄える「容量」が無限に近いならば、そこにたくさんの時を積み重ねることができるだろう。しかし「容量」が0に近いならば、例えば一秒で一杯となるのならば、宇宙は瞬間瞬間に過去の時空を消去して行くしかない。

 そしてまたこの世界を作った「神」の立場から考えると、過去の時を「どこかに」保管していくのは、ものすごく大変なことだろう。容量を最低限に抑えておく方が、無駄のない効率的な「宇宙形成」ができそなものである。

 そういう意味で言うのならば、純粋な時というものはむしろ流れ行くものなのかもしない。つまりは確たる「過去」というものが、「現在」の瞬間に、宇宙のどこか、あるいは違う次元にでも、存在している訳ではない。純粋な時は、蓄積することはなく流れ続ける。つまりは過去という世界を保管することはなしに、それらを消去しながら流れ続ける。そのような世界では、例えばタイムマシーンなどを発明することはできない。何故なら過去という時間は時空上のどこにも存在しないのだから、存在しない場所へ行くことはできないのだ。

 人が時を「積み重なるもの」として捉えるのは、人に時を記憶するだけの「容量」があるからに他ならない。それはすなわち記憶であり、言うならば時は記憶の中に存在すると言えるだろう。時が積み重なるのは、二つの時を比較して、そこに距離や変化などを見いだせるのは、ひとえに人がその二つの時を記憶しているからに他ならない。時に対して人が様々な感情を持つのは、その記憶故なのだろう。

 

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0804:流れる時の記憶#1「心の旅路」

 時の流れは速いもので、僕がこの「心の旅路」を書き始めた高校3年の4月から、もうすでに5年の月日が流れてしまった。そしてその5年間で僕は、およそ200に近い文章を書き綴ってきた。ただしそのペースは一定とは言えなく、ほぼ毎日書いていた時もあれば、一年近く書かない時もあるので、もしかすると5年間で200というその数は、思うよりも少ないのかも知れない。けれどその200の文章には、確かに5年間の思索の跡が刻まれていて、自分の関心や考えの移りゆく様が、確かにそこには現れている。

 5年間の時の中で、確かに僕の書く文章は変わっていった。例えば最初は日記のような文体で書いていたのが、途中から「他人」の目を意識して文章を書くようになった。それはよく言えば分かり安い客観的な文章を書くようになったと言えるが、悪く言えば自分の感情を文章に込めなくなったとも言えるのかも知れない。

 また扱うテーマも、その時その時の自分の興味関心に呼応して、確かに変わっていった。最初は受験や教育のテーマもあったが、最近ではそういうものは減り、人生や社会、あるいは思考といったテーマが増えている。けれどもそんな移りゆくテーマの中には、どんな時期にも登場するテーマというものがいくつかある。それは「心」であったり、「言葉」であったり、または「自分」であったりするのだが、そんな変わらずに存在するテーマというものは、興味関心が常に発散する傾向にある僕にとって、真に関心があるテーマであると言えるのだろう。

 そしてそんな「変わらない」テーマの中に、「時」というテーマが存在する。時というのは不思議なもので、僕らは純粋な時の流れを認識することはできない。僕らは時を認識するのに、時計の針の動きや、変わりゆく町の景色や、毎日を書き留める日記といったものを通してしか、時の流れを感じることはできない。そしてそれらを通して感じた時の流れというものに、何故か人は様々な感情を抱いてしまう。

 果たして「時」とは何なのか。何故人は「時」という概念を生みだし、そしてそこに様々な想いを寄せるのだろうか。「時」という存在は、過去も現在も僕を魅了し続けてきた。そしてそれは未来においても変わらない。「時」が僕を魅了する限り、その「流れる時の記憶」を、僕はずっと文章に書き綴けていくのだろう。この「心の旅路」は、時という概念への僕なりの挑戦であり、そしてその挑戦の記憶なのだ。

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